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2章 王都にて
9話 童顔と我儘
しおりを挟むそろそろ陽が沈むだろうか、という時間帯の王都街を一人の青年が歩いている。
ツンツン跳ねた茶色い髪に同色の双眸。首元にはマフラー。青年というよりも少年と表した方がいいような童顔の持ち主である。左手に籐で編まれた籠、右手に小さく千切った紙片を持ち、何ともいえないしかめっ面で往来の間をすり抜けていく。
その彼に、背後から声をかける者がいた。
「リュウヤ君」
青年は呼ばれるままに振り向く。寄せていた眉を少し緩め、にへ、と力なく笑った。
「こんにちは、ナビキさん。仕事終わりっすか」
「ええ、そんなものです」
話しかけてきたのは、紺色の詰襟の制服を着た男性……ナビキ・オルタードだった。目にかからないよう前髪を流し、さっぱりと襟足を刈り上げている。目尻の吊り上がった紅い両目は、ややきついような印象だが、その実、手土産に焼き菓子を持ってきてくれるなど気遣いのできる人である。
ナビキはそのままリュウヤの横に並び、ゆったりと歩き出した。
「そちらは、買い出しで?」
「はいっす。でももう終わるんで」
「薬屋に戻るのですか」
ぴくりとリュウヤの肩が揺れた。ナビキの目は確かにそれを捉えたが、言及せず足を進める。
「今日は、シリウス……さん、一緒じゃないんですね」
「ええ、まあ」
緑髪紅眼の男性は少し言葉尻を濁らせ、ふぅと溜め息をついた。
「あの人にも困ったものです。五つも年下の女の子を追い回し、癒しを得るためだとか、お前だって一日の終わりに酒飲んで疲れ落としてるだろうだとか言い張って定時より二時間前に帰ろうとする。おかげで今夜も書類地獄です。あの人には徹夜くらいしてもらわないと。執務室に鍵をかけておきましたが、どうせ脱出するんでしょう。また後で逃げていないか確認しないといけない」
(ナビキさんがめっちゃ喋ってる!)
低く落ち着いた声音が、流れる水のごとくシリウスへの文句を零しつづける。よほど溜まっているのだろう。無表情のまま、声を荒げることも語調を強めることもしないままだが、言葉の端々に怒気を感じる。
リュウヤがナビキと会うのは、決まって、シリウスが薬屋を訪れるときだ。彼の付き添いなのか秘書的な立場なのか、単なる部下なのか、二人の関係はよく分からない。おそらくそんなところだろうとは思うのだが。
「何ですかねあれは。発情期の兎ですかね、あぁ兎は年がら年中ですよね。ぴったりですね」
ぼそぼそと呟きつづけるナビキに、リュウヤは目元を少し引きつらせた。怖い。どれだけ溜まってるんだ。
二人の男が、ざわざわと賑やかな往来の中を突っ切るように連れ立って歩く。
薬屋のある路地裏の近くまで来たが、リュウヤは足を緩めることなく足を動かす。ナビキが訝しげに眉を上げてみせた。
「……ナビキさん、頼みがあります」
無言のまま路地の前を通り過ぎたところで、リュウヤは足を止める。
「何でしょう」
ナビキは一瞬顔を顰めたが、すぐにいつもの表情に戻した。
童顔の青年が、ぎざぎざに結んでいた唇を押し開く。その隙間から漏れ出た息は白い靄と形を変えて、空中に溶けていった。籐籠の縁を掴んだリュウヤの短い指が、落ち着きなくツルツルとなめらかな取っ手を撫でる。
「おれに、魔法とか剣とか、戦える方法を教えてください」
ずっと、考えていた。
魔族がアリスを狙っているかもしれない、ということを。
カンパニュラの魔獣。先日の、第三修練場に現われた魔族の男たち。自分は最初からそれらに立ち向かえたわけではなく、一人だったら確実に命を落としていた。心臓をぎゅっと握られたような、全身の震えるような恐怖を感じながらも、太刀打ちできるものを何も持っていない。
「おれは無力です。空手とかやったことないから、素手で戦ったりもできない。剣も持ったことない。そんで……そんで、怪我するのが怖い。痛い思いするのが怖い」
でも、自分の前に立ってくれた人たちがいたから、自分は今こうして生きている。
彼ら側の人間になりたい。
守られるだけじゃなくて、守る側に。
「一から教えてほしいんです。おれは何も知らないから、ちゃんと知りたい」
ナビキの紅い目を一直線に見つめ、リュウヤは言った。声の端々が微かに震えている。少し鼻息の荒い、平常よりも乱れた心音が体内を打つ。恰好のつかない表情で、無知無力を曝け出した言葉で、そうして受け入れられるかも分からないお願いを口にする。頭を下げる。お願いします、と繰り返した。
怖かった。怖いと思った。
自分に向けられる爪も拳も、そして自分を通したその奥へ向けられた敵意も害意も。体の表面からすぅっと冷えていく。体温を奪われていく。ぞわりと背筋を指先で撫でられ、内臓を抉られ、喉笛を締め付けられる。リュウヤのちっぽけな命なんて、簡単に潰されてしまう。でも、死よりもっと怖いものがまだ待っている。
喪失。
体の熱を奪われていく感覚が、大切な人がいなくなってしまうということが、どうしようもなく怖いのをリュウヤは知っている。
半身を折り曲げて地面を見つめたままの青年の頭へ、ナビキの溜め息が降ってきた。
「……付いてきなさい。ちゃんとしたところで、話をしましょう」
また面倒事に首を突っこんでいる、というナビキの低い呟きは、リュウヤには聞き取れなかった。
***
一旦、薬屋に戻って買い物籠を置き、セレネに一声かけた。帰りが遅くなるかもしれないので、とナビキに言われたのだ。
家主の許可を得たのち、リュウヤはちょこちょことナビキの後をついて歩いていく。
やがて、どっしりとした風貌の建物の前に着いた。
「え……っと……?」
「騎士警備団ディラン軍の本拠地です」
緑髪紅眼の男性が淡々と言った。
「え。入って大丈夫なんすか」
見上げれば見上げるほど立派な建物である。三階、いや四階建てくらいだろうか。視界いっぱいに建物の外壁が広がる。ちょうどリュウヤの目の前にあるのはアーチ状の入り口で、その上には獣を象ったペディメントが付いている。
世界史の資料集で見た大聖堂のような華美さ、というよりは、どちらかというと単色でシンプルな印象が強い。
「ひとまず客人ということにしましょう。私から離れれば侵入者扱いになりますので、ご注意ください」
「侵入者……」
呼ばれた側なんだけど、とリュウヤは頬を膨らませた。ちょっと腑に落ちない。
ナビキの紺色の背中が建物内に入っていく。慌ててその後ろ姿にぴったりくっつき、埃一つ落ちていない床へ足を踏み入れた。
廊下の奥までまっすぐ進んで階段を上がり、いくつかの扉を通り過ぎたところで、ナビキがようやく立ち止まった。眼前のドアには、狼の紋様が彫られた真鍮製のプレートがかかっている。
ナビキは短い緑髪を指の腹で簡単に整え直し、ドアを叩いた。中からくぐもった声が返ってくる。扉を開けてくれるナビキに促され、リュウヤは部屋の中へ入った。
「し、失礼しまーす……」
室内は広く、深い藍色の絨毯が床を覆う。出入り口から見て手前側にローテーブルと長椅子が一対、その奥には木製のどっしりした執務机。書類や本が乱雑に積まれた机に向かって、一人の青年がひたすら紙と睨めっこしている。
「おう。やっと戻ってきたなナビキ……うん?」
ぼさぼさに乱れた銀糸のポニーテールを揺らし、彼は顔を上げた。黒い煙でも発していそうな不機嫌な表情である。緑玉のような片目の下に青黒い隈が浮き出ていた。
「シリウスじゃん」
見知った顔にリュウヤがほっと息をつくと、シリウスは柳眉を顰めた。
「呼び捨てにするな。何の用だ馬鹿」
「馬鹿ばか言うんじゃないやい」
「まだ一回しか言ってないだろうが」
リュウヤは唇を尖らせた。本当になんなんだこいつ。いけ好かないので、キッと歯を剥き出して威嚇してやった。シリウスは呆れたように目をぐるりと回して、手元の書類に向き直った。物凄い速度で羽根ペンを走らせ、ぺいっと紙を放っては、また別の紙を手に取る。
「おいナビキ、何の冗談だ。構ってられるほど暇じゃないんだが」
「暇じゃなくさせたのはご自分でしょう。それと、私が冗談を言う性格に思えますか」
扉を閉めたナビキが、仏頂面で執務机に歩み寄った。背筋に定規をぴしゃりと当てたようにまっすぐな姿勢だ。
「ただの息抜き……世間話とでもお思いなさい。あぁ、手は止めないでくださいね、それくらい貴方はできるでしょう?」
書類仕事を中断するな、と釘を刺されたシリウスの眉の角度が上がる。気にせず、ナビキはシリウスが放った紙を丁寧に拾い上げた。自身もちらりと確認してから机の上へ。ついでに執務机の周囲を回りながら、目の端でリュウヤを見やった。
「リュウヤ君、そちらの長椅子にどうぞ」
「え、あ、……うっす」
促されるままに、リュウヤは部屋の真ん中から扉寄りに置いてある長椅子へ腰を下ろした。やや年季の入った革製のカバーに尻が沈む感触に、思わず「おお」と声を上げる。彼を後目にナビキは床に落ちていた紙を拾い集め、まとめて机の端に置いた。それから、絨毯を踏みしめながらこちらにやってきて、リュウヤと向き合う位置に座った。
「戦う術を教えてほしい、という話でしたね」
「うす」
ナビキの淡々とした声音に、リュウヤは背筋を伸ばす。
「君は、どこまで知らない?」
眸の奥で鈍く灯りをともらせた紅が、じっと自分を見つめている。
「何も知らない、と言っていましたが、いくら異国から来たといっても君は知らなさすぎる。どこで生まれようが誰と育とうが、魔法の扱いをまったく知らない者はいません。発音の違和は別にしても、それだけ充分な言葉遣い、ある程度成り立った礼儀ができるなら、君は路地裏の孤児などの育ちではないはずです。尚更、『知らない』などとはありえないのです」
「……そんな、こと、」
知らない。
「ディランの生まれではないのでしょうね。東国の方ですか。それにしてはちょっと音の抑揚が違うようですが」
膝上の拳に力が入る。
「ああ、それから『王都災害事件』はご存知――」
「ナビキ」
部屋の反対方向から鋭い声が飛び、ナビキを遮った。灯りを受けて煌々と輝く碧眼が長椅子に座る二人を睨むように見ていた。
それ以上は口にするな、とでも言いたげに。
ナビキは小さく息を吐く。一旦腰を浮かせて、長椅子に浅く座り直した。
「失礼、余計な詮索でしたね。気を悪くしないでいただきたい」
「……いや」
リュウヤは力無く首を横に振った。握った拳を開き、じっとりと汗の滲んだ手のひらを空気に曝す。
「おれが何も知らないのは、ほんとのことで。ナビキさんたちから見たら、すっげぇ不審に思うだろうけど、上手く説明できなくて」
俯いた童顔に翳が色濃く落ちる。
「でも、ここに来て得たものは確実にあって。失くしたくないんです。傷つきたくないし、傷ついてほしくない。おれは、ちゃんと守れるようになりたい」
皮膚の堅い手のひらへ視線を落とす。決して小さくない手だが、目の前にあるもの全部を掬いとれるような大きさでもない。
救いたいとか、いちばん強い存在になりたいとか、そういうことは求めない。
望むのは、ちっぽけな我儘。
「守りたいと思ったものを守れる人間になりたいっす。だから、ナビキさんたちに教えてほしい。何でもします。肉体労働でも雑用でも、おれができることなら何でも」
唇の端を引き結び、リュウヤは勢いよく顔を上げた。
「だからッ、お願いしま――」
ちりっと左頬を何かが掠めた。続けて、硬いものが硬いものに当たって床に落ちる音。一瞬間ののちに熱と痛みを訴える頬を抑え、リュウヤは体を捻って後方を見やる。
扉近くの床に、先の鋭く尖った羽根ペンが落ちていた。
「えっ……?」
リュウヤは思わず腰を上げ、対面の人物から距離を取った。
部屋奥の机についている青年の手には、先ほどと同じ羽根ペンが握られている。リュウヤの頬に赤い線を描いた羽根ペンも似たようなものだが、こちらの方がよりペン先が長い。そして、紙にペンを走らせる音は、リュウヤが話しているときにも中断することなく続いていた。
長椅子に座ったまま、男が紅い双眸をリュウヤに向ける。
彼は自分の膝の上で指を組み直し、ふぅと溜め息をついた。
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