伯爵さまと羊飼い

唯純 楽

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第五章

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「二人とも、もうちょっとだけ待っていてね? 公爵さまのおうちだから、きっと、ものすごく美味しいものがあるはずよ」

 二匹に言い聞かせ、彼らが中から見えないよう窓を背にして立っていたハリエットは、コツコツと窓を叩く音に振り返った。

「誰か呼びましょうか? 気分が悪いのではなくて?」

 深紅のドレスを纏ったパウエル伯爵夫人――ロレインだ。

 彼女が押し開けようとするのに先んじて、ハリエットは素早く中へ戻り、後ろ手でしっかり窓を閉めた。

「あ、あのっ……大丈夫です。ちょっと外の空気を吸いたかっただけで……」

「クリフはどこ? 一緒ではなかったの?」

「す、すぐに戻ると思います」

「本当に大丈夫? 顔色が悪いわよ?」

 窓の外を覗こうとするロレインの気を逸らすため、ハリエットは苦し紛れの言い訳を口にした。

「あの、私……化粧室に行きたいんですけれど、場所がわからなくて……。その、ご存知だったら教えていただけますか?」

「もちろんよ。私が案内してあげるわ。ボールドウィン公爵のお屋敷はとても広いから、迷子になっては大変だもの」

 心地よい音楽にざわめきや笑い声など音のあふれかえっていた舞踏室とは正反対に、広い廊下は静まり返っていた。壁に掲げられた無数の燭台が放つ光で明るく照らし出されていても、不気味なほどの静けさだ。

 ロレインは舞踏室を出て人の目も耳もなくなった途端に、尋ねてもいないことを自ら語り始めた。

「クリフと私が婚約していたことは、知っているかしら?」

「は、はい……クリフォードさまから聞きました」

「そう……きっと、私が彼に酷いことをしたと話したんでしょうね?」

「それは……」
 
 そうだと言うわけにもいかず、ハリエットは口ごもる。
 するとロレインは長い睫毛を伏せ、震える声で訴えた。

「私の気持ちをクリフは誤解しているの。私はクリフのことを嫌いになったから、パウエルと結婚したのではないわ」

 ハリエットは、ロレインの話に耳を傾けることにした。
 信じるかどうかは別として、クリフォードの話だけでロレインのことを決めつけるのは公平ではない。

「私とクリフは、五年ほど前、貴族たちがよく出入りする店で親しくなったの。はっきり言えば……恋に落ちた。私は、短い夢を見ているだけでもいいと思っていたのだけれど、あなたも知ってのとおり、クリフは真面目でしょう? すぐに婚約しようと言い出した。でも……」

 笑みを消したロレインは、憂いに満ちた表情になると溜息を吐いた。

「クリフと知り合う少し前に亡くなった私の父は、かなりの借金を残していたの。持参金どころか、家も土地も何もかも売り払って、それでもまだ返済しきれなくて……。私は、クリフに迷惑をかけたくなかった。だから、婚約はできないと断ったわ。でも、そんな私の事情を知ったクリフは、逆に婚約期間を短くして、すぐに結婚しようと言ってくれたの。私の父の借金を肩代わりするには、それが一番だと言って……。ところが、ちょうど婚約の報告をしようと思っていたところに、彼のご両親が突然亡くなってしまって、しかも莫大な借金をしていたことがわかったの」

 再び溜息を吐いたロレインは、苦しみを押さえるように胸元へ手を当てて嘆いた。

「だから、以前から私に言い寄っていたパウエルの愛人になると決めたのよ。クリフの重荷になりたくなかったから……。でも、パウエルの奥さまが馬車の事故で亡くなって、愛人ではなく後妻として迎えられることになって……クリフを裏切るような形で結婚することになってしまった。クリフにとって私は裏切り者。二度と会いたくないと思われて当然だわ。恨まれ、憎まれてもしかたない。でも、私が心から愛していたのはクリフだけ。せめて、そのことだけでも信じてもらえたらと思うけれど……贅沢な望みでしょうね……」

 ロレインの話は、納得できないものではなかった。

 けれど、自分のことを思って身を引いたロレインを憎むなんて、クリフォードらしくないのではないかとハリエットは心の中で首を傾げた。

 身元不明の怪しい羊飼いが宿なしになるのを心配するくらいなのだ。大事な人を助けられなかったと悔やむのではなく、裏切られたと恨みに思うなんて、彼らしくない。

「でも……」

 ハリエットが疑問を口にしようとした時、背後から呼び止める声がした。

「ロレイン!」

 振り返れば、五十代くらいと思われる恰幅のいい男性が険しい表情で二人を睨んでいた。

「どこへ行くつもりだ? 探したぞ」

「ごめんなさい、パウエル。お友だちを化粧室に案内するところだったの。ハリエットよ」

「ああ、それが……」

 冷たい氷を思わせる灰色の瞳で不躾に見つめられ、ハリエットはぞっとした。

 無遠慮な視線は、生きながらハリエットの皮を剥ぎ、流れる血を楽しむ残忍さを秘めているように感じられた。

「生贄の羊にしては、肉が足りないようだな。フィッツロイがどんな女を侍らせようが、どうでもいいことだが。おまえも、羊飼いに用はないだろう? ロレイン。すぐに戻れ。あと一押しでなんとかなりそうな相手がいるんだ」

「あら、それは……」

 ロレインがちらりとこちらを窺うのを見て、ハリエットは潮時だと思った。

「あの、私なら大丈夫です。化粧室はこの先にあるんですね?」

「ええ、そう。この先で左に曲がってすぐよ」

「ご親切に、ありがとうございます」

「もっとゆっくりお話ししたかったわ。でも、クリフはきっと私と会うことにいい顔はしないでしょうね」

 悲しげに目を伏せるロレインは、心の底からクリフォードとの破局を後悔しているように見えたが、同情する気にはなれなかった。

 なぜ同情できないのか、ハリエット自身はっきりとした理由はわからない。

 彼女が一度も婚約を祝う言葉を口にしなかったせいかもしれないし、自分の夫にハリエットを紹介しなかったせいかもしれない。

 もしくは……いまのクリフォードが幸せかどうか、一度も尋ねなかったせいかもしれない。

「きっと、時間が必要なだけだと思います」

 ハリエットの慰めに、ロレインは微笑んだ。

「私たち、お友だちになれるかしら?」

 なれる気がしなくても、頷かなければ不作法だ。


「はい」

「初めての舞踏会を楽しんで」

 ロレインはハリエットを軽く抱擁し、夫の腕に絡みつくようにして去って行った。

 すぐに舞踏室へ戻っては、嘘を吐いたのがバレてしまう。化粧室を覗いてから戻るつもりで廊下の角を曲がったハリエットは、いきなり誰かに腕を掴まれた。

「なっ」

 そのまま引き摺られるようにして部屋に放り込まれる。ドレスの裾に足が絡まって転んでしまい、立ち上がろうとした時、目の前に黒い物を突き付けられた。

 部屋に灯りはひとつもない。

 しかし、窓から差し込む月光は、部屋を照らすには不十分でも、輝く黒い鉄の塊が拳銃だと見分けるには十分だった。
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