伯爵さまと羊飼い

唯純 楽

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第四章

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 驚きのあまり口もきけずにいるハリエットの代わりに、ドノヴァンが尋ねた。

「本気で羊飼いと結婚する気なのかっ!?」

 クリフォードは眉一つ動かさずに「そうだ」と答えた。

「なっ! おまえ、頭がどうかしたんじゃないのかっ!? フィッツロイはキルケイク建国当時から続く名門だ! 財産もない、身分もない羊飼いなんかと結婚しても、なんの利益にもならないだろうっ!? どうしてもというなら、結婚せずとも愛人にすれば……」

 ドノヴァンの言い草は酷いものだけれど、彼の言うとおりだ。伯爵さまが羊飼いと結婚するなんて、聞いたことがない。

 貴族には、平民にはない面倒な決まりごとがたくさんあって、結婚もその一つだったはず。貴族は貴族同士で結婚するものだとハリエットも思っていた。

「あの……私は、クリフォードさまに相談していることが解決したら、ヘザートンへ帰ります。いままでどおり羊飼いとして暮らすつもりです。だから、結婚はできません」

「……はあ?」

 ドノヴァンは、ぽかんと口を開けてハリエットを見つめた。

 昨夜、クリフォードとしたことは、結婚した夫婦がすることだ。

 でも、悪いことをしたとも、間違ったことをしたとも思わない。とても自然なことだった。

 結婚することはまったく考えていない。愛人になろうとも思ってもいない。ヘザートンの羊飼い以外にはなれないし、なりたくもないのだから。

 クリフォードと会えなくなると思うと、ちょっぴり辛いけれど……。

 しかし、クリフォードの考えはドノヴァンともハリエットとも違っていた。

「ハリエット。ヘザートンで羊飼いをしていても、私と結婚することはできる」

「え……?」

 今度は、ハリエットがぽかんと口を開けて固まった。

「ホワイト伯爵とバーンズ家の間で交わされた契約を確認した。メリンダの土地は所有者不在となった際には、ホワイト伯爵家に――伯爵亡き後はイザドラに権利が帰属することになっていた。つまり、バーンズ家にはなんの権利もない。私が改めてハリエットに土地の使用を認める権利書を用意するだけで、いままでと同じように暮らせる。もちろん、すぐに手配する」

 ハリエットは、嬉しい知らせを聞いて我に返った。

「あ、ありがとうございますっ!」

「さらに、ピーター・バーンズは、取り決めをほかにも破っていることがわかった。契約を破棄し、ヘザートンを直轄の伯爵領に戻す手筈を整える。必要な投資をし、ヘザートンの羊毛業の拡大を目指すつもりだ」

 クリフォードなら、村人たちのことを親身に考え、ヘザートンをいまよりもっと豊かで暮らしやすい土地にしてくれるだろう。やっぱり、伯爵さまは親切で、優しくて、寛大ないい人だ。
 ハリエットは心の底から感謝した。

「クリフォードさまが治めてくださるなら、ヘザートンのみんなも安心して暮らせます」

 しかし、クリフォードに微笑みかけようとして、ギクリとした。

 伯爵さまは、ジュエルがハリエットのデザートを狙っている時のような笑みを浮かべていた。

「そういうわけで、しばらくヘザートンに拠点を置く。ピーター・バーンズの悪行の後始末もあるし、領地のことをよく知る必要もある。フィッツロイからの距離は大したものではないし、王都の社交界にはいまでもほとんど顔を出していないから、問題はない。今回のように羊たちの面倒を見てくれる人間を確保できれば、ハリエットが短期間ヘザートンを離れることもできるだろう。つまり、私と結婚し、羊飼いとして暮らし続けることは可能だ。ただし」

 クリフォードは居住まいを正し、神妙な顔で「無理強いはしたくない」と言った。

「ハリエットの気持ち次第だ。君がノーと言えば、新聞に私が求婚を断られたという不名誉な、伯爵の威厳にかかわる記事が載ることになるが、屈辱的な同情や憐れみは甘んじて受け止めよう。君と結婚できないのなら、永遠に私のもとへ幸せは訪れないのだから。だが……もしも、ほんの少しでも望みがあるのなら、私との結婚を考えてみてはくれないだろうか? 結婚してくれるなら、仔羊のように従順な夫になると約束する」

 胸に手を当てて誓うクリフォードは、いかにも従順そうな顔をしているが、羊飼いの勘は、頷いてはいけないと訴えていた。

 新聞で伯爵さまが貶されるのはかわいそうだし、そんなことになってほしくない。

 けれど、それとこれとは別。昨夜のクリフォードは、どう見ても仔羊ではなかった。

「クリフ、おまえは仔羊じゃない。どう見ても狼だろうっ! それはともかく、正気に返れ」

 ドノヴァンも同感らしい。短く刈った黒髪をぐしゃぐしゃとかき回しながら指摘したが、クリフォードはむっとした様子で反論した。

「十分正気だ。私は、女性と親密な関係になったあとで、こうなるつもりではなかったなどと言い訳する卑怯者ではない。子どもではないのだから、結果を見越して行動を起こすのは当たり前だ。むしろ、最終的な目標もなく行動するなど、時間の無駄だ」

「ああ、そうだったよ。昔からおまえは何をするにも、確信犯だったよっ! だが、羊飼いと結婚はないだろう? 冗談にしては、性質が悪い」

「おまえは、冗談で女性をベッドに連れ込むのか? ドノヴァン?」

「いいや。だが、伯爵と羊飼いは結婚できない」

「キルケイクに、そんな法はない。もしもあるのなら、どこに書いてあるのか教えてくれないか?」

「貴族は、貴族同士で結婚するのが慣例だ!」

「慣例は、変えられる。誰と結婚するかは、私が決めることだ。私と結婚することに、異議はあるだろうか? ハリエット?」

「な……」

 思わず「ない」と言いそうになったハリエットは、なんとか踏みとどまった。

「あ、あの、少し考えさせてください。あまりにも急なお話で……」

「わかった。一時間もあれば十分だろう」

「い、一時間?」

「短すぎるだろっ!」

 ハリエットが延長を交渉するより先に、ドノヴァンが抗議した。

「では……日が暮れるまでにしよう」

 クリフォードはしぶしぶ譲歩したが、それでも短すぎるとドノヴァンが逆に提案した。

「せめて一晩にしろ、一晩に!」

「一晩も待てない。すでに答えは出ているはずだ。そうでなければ、私を受け入れてはくれなかったと思うんだが?」

 思わせぶりな視線を受けて、ハリエットは俯いた。

(まさか、そういう意味じゃないと思うけど、でも……)

 顔から火が出そうだ。気持ちの問題を言っているのだとわかっていても、どうしたって衝撃的だった昨夜の体験のほうを思い浮かべてしまう。

 それまで、クリフォードとドノヴァンの遣り取りを黙って聴いていたバーナードが、おもむろに口を開いた。

「旦那さま。ハリエットさまには、ゆっくり考える時間が必要かと存じます。ご両親の手がかりが見つかるまで返事は保留、仮の婚約にとどめてもよろしいのではないでしょうか?」

 救いのひと言に、ハリエットは老執事に抱きつきたいくらいだったが、クリフォードは口をへの字に引き結び、ドノヴァンはふんと鼻で笑った。

「両親の手がかりだって? 本当に、どこの馬の骨とも知れないというわけか」

「ドノヴァン、言葉に気をつけろ」

「そのことですが、旦那さま。ハリエットさまのご両親を探し出す件で、ドノヴァンさまにお手伝いをお願いしてはどうかと考えておりました」

 バーナードの発言に、ドノヴァンは椅子の背もたれに投げ出していた身を起した。

「は? 俺? もしかして、さっき言っていた人探しを頼みたいというのは……」

「はい。ハリエットさまのご両親のことでございます。公爵家のご子息という身分のドノヴァンさまなら、あらゆる場所へ――王宮ですら、出入りしても不自然ではございません。昔の武勇伝から、いかがわしい店で賭け事に熱中しようと、酔って喧嘩騒ぎを起こそうと、大勢の女性と戯れようと、いまさら誰も驚かないでしょう」

「どうやらおまえは難しい任務に俺を推薦してくれたらしいが、まったく褒めているように聞こえないのは気のせいか? バーナード」

 ドノヴァンは、紅茶を飲もうとして、すでに空だったことに気づいたらしく、音を立てて乱暴にカップを置いた。

 バーナードは優雅な仕草で紅茶を注ぎながら、微笑んだ。

「気のせいではございません。一切、褒めてはおりませんので」

「クリフっ!」

「おまえが言いたいことはわかる、ドノヴァン。だが、事実だろう?」

「昔の話だっ! 帰国してからは、まだ何もしていない!」

 クリフォードは文句を言うドノヴァンを無視し、バーナードから黒い箱を受け取った。

「ハリエット。ドノヴァンは無礼でいけすかないヤツだが、あらゆるところに伝手とコネがあるし、見てのとおり頑丈だ。危険の伴う人探しには、適任だ」

 どうして危険なのかまったくわからず首を傾げるハリエットに、クリフォードは黒い箱を開いて二本のネックレスを取り出して見せた。

「まず、こちらはハリエットのものだ」

 クリフォードは、二本のネックレスのうち一本をハリエットに差し出した。

「そして、こちらはスピネッリが作った模造品――贋物だ」

 続けてクリフォードが取り出したもう一本は、たったいま手渡されたものと驚くほど似通っていた。
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