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第四章
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いつもの起床時間より、少々遅く目が覚めたクリフォードは、柔らかな蜂蜜色の髪に頬ずりした。
背後から抱きしめたハリエットからは、ほのかにラベンダーの香りがする。アデラが、フィッツロイで生産されているラベンダーの香油か石鹸を用意したのだろう。
(ハリエットにはもっと違う香りが似合いそうだな。ペパーミントやユーカリもいい。カモミールも。しかし……とりあえず、まずは婚約だ。どうやって発表したものか……)
ロレインたちがスピネッリにしつこく問い質した以上、今日明日にでも噂が流れるだろう。
キルケイクの貴族社会では、貴族同士で結婚するのが普通であり、望ましいとされている。
伯爵と羊飼いの結婚は、発表した途端にうるさく騒ぎ立てられるはずだ。
理不尽な中傷や誹謗からハリエットを守るのに、一番有効な方法は二人の関係をはっきりさせることだった。
(一週間もあれば十分か。婚約指輪が必要だな。スピネッリを二、三日監禁するか……)
いまごろスピネッリは船の中だ。船を海賊に襲わせるのは少々大げさすぎる。下りたところで拉致するのがいいが、まずはヘザートンとハリエットの両親の件を片付けるのが先だ。
そう結論に至ったところで、ハリエットが身動ぎした。
「んぅ……?」
「おはよう、ハリエット」
「……え? く、クリフォードさま?」
クリフォードは、ハリエットがパニックを起こさないよう、彼女が目を丸くして振り返るなりくちづけた。
寝起きのハリエットは、ろくな抵抗もできないまま、うっとりした表情になる。
彼女が本格的に目覚める前に抱き起こし、寝間着を着せ、ガウンを羽織らせた。
「本当は、一日中何も着ずにベッドにいてほしいが、残念ながらそうもいかない」
思わず口からこぼれたクリフォードの本音を聞いて、目が覚めたらしい。じわじわとハリエットの顔が赤くなっていく。
「うっ……あ、あのっ……あっ!」
逃げるようにベッドから下りようとしたハリエットは、へなへなと座り込んでしまった。
「ご、ごめんなさい……」
「謝るべきは、私のほうだ。私のせいで、そうなったのだから」
「…………」
さらに顔を赤くしてうろたえるハリエットの姿は、いますぐベッドへ逆戻りしたくなるほどかわいらしい。
「時間が経てば歩けるようになる。早朝から働く必要などない。ゆっくりしていいんだ」
クリフォードは努めて冷静な表情を装ってハリエットを抱き上げた。
そのまま彼女の部屋まで運んでいこうかと思ったが、くしゃくしゃになっている蜂蜜色の髪を見て、ブラッシングしたいという欲求が湧き起こる。
「髪を梳いてから、部屋まで連れて行こう」
「あの、でも……」
「ぜひ、やらせてほしい」
クリフォードが熱意を込めて訴えると、ハリエットは戸惑いながらも頷いた。
ソファーにハリエットを下ろすなり、惰眠を貪っていた猫と犬がすぐさま駆け寄る。
「おはよう、レヴィ……ジュエル」
二匹は、ひとしきり彼女に撫で回されて満足すると、クリフォードが手にしているブラシを期待の眼差しで見つめた。
「まずは、ハリエットが先だ」
図々しい犬猫に言い聞かせると、ハリエットが疑わしげな視線を向けてきた。
「それは……人間用のブラシですか?」
「もちろんだ」
彼女を横向きに座らせて、ひどくもつれて絡まった箇所を丁寧に解いてから、少しずつ櫛けずる。その髪は、見た目どおり細くてふわふわしていた。
(傷みやすそうだから髪油を使ったほうがいいかもしれないな……)
そんなことを考えながら、指どおりがよくなったことを確かめているとノックの音がした。
従僕が朝の支度にやって来たのだろう。
しかし、返事をしようとしたところへ、いきなりドアが開いた。
「クリフっ! いったい、なんだって俺に黙ってこんな真似をしたんだ!」
クリフォードは、ドアの向こうに現れた人物を見て目を疑った。
「……ドノヴァン?」
そこにいたのは、長らく疎遠になっていた大伯母の孫――はとこのドノヴァン・フォーサイスだった。
五年前に陸軍へ入隊して外国を渡り歩いていると聞いていたが、帰国していたとは知らなかった。
艶やかな黒髪と鮮やかなエメラルド色の瞳、垂れ目がちなせいでどんなに怒っていてもそうは見えないところは変わっていないが、日に焼けて少し痩せたようだ。
童顔たらしめていた柔らかそうな頬は削げ、若干男くささが加わっている。
「自分の目で確かめるまではとても信じられないと思ってやって来たんだが……どうやら本当らしいな」
片手に新聞を握りしめ、ズカズカと部屋に入って来たドノヴァンは、ソファの前で仁王立ちになった。険しくは見えないが眉根を寄せ、不躾な視線をハリエットへ向ける。
「とにかく、別の場所で話を……」
クリフォードがハリエットの無防備な姿を隠すように立ち上がると、その旨へ手にしていた新聞を押し付けてきた。
「ああ、たっぷり話を聞かせてもらうぞ。だが、その前に……一応、祝いの言葉を述べておこう。婚約おめでとう」
「……婚約?」
何の話だと首を傾げながら新聞を受け取り、クリフォードは目を見開いた。
そこには、『フィッツロイ伯爵、ついに婚約!』という文字が躍っていた。
*****
食堂で、遅めの朝食と早めの昼食を兼ねた食事をひととおり食べ終えたハリエットは、現在デザートのブルーベリーパイをつついていた。二個目だ。
クリフォードの寝室で目覚め、新聞記事で自分が婚約したという驚愕の事実を知り、動揺していないわけではない。けれど、食欲は衰えていなかった。
先ほどから、クリフォードのはとこだというドノヴァンの視線をひしひしと感じていても、食欲に影響はない。
自然と動物は、時々予想もつかない状況を作り出す。食べられる時に食べ、眠れる時に眠ることは、羊飼いにとって大事な仕事のひとつだし、こんなに美味しいものを食べずにはいられない。
「で、そろそろ詳しい話を聞かせてもらえるんだろうな?」
ドノヴァンは、しきりに太い指でテーブルを叩いていた。
細身でいかにも貴族的なクリフォードは違って大柄ではあるが、垂れ目がちの童顔なため、あまり威圧感はない。口角が上がっているので、たぶん怒っているのだろうけれど、楽しそうに見える。
食堂へ入る前にこっそりバーナードが教えてくれた情報では、ドノヴァン・フォーサイスはボールドウィン公爵の三男。ドノヴァンの祖母とクリフォードの祖母が仲のよい姉妹で、クリフォードの一つ上と年齢も近かったことから、兄弟のようにして育ったらしい。
しかし、五年ほど前にドノヴァンが陸軍へ入隊して以来、疎遠になっていたとのことだ。
「話は、ハリエットがパイを食べ終わってからだ」
新聞を読みながらコーヒーを飲むクリフォードは、苛立つドノヴァンに悠然と答えた。
「永遠に食べ続けそうじゃないか! 二個目だぞっ!」
「デザートは、いつも二個食べることにしているんだ。そうだろう? ハリエット」
クリフォードの言葉に、「いつもではない」と抗議したかったけれど、これまでの食事では必ず二個食べていたので、頷くしかない。
「だったら、おまえと俺だけで、別室で話を始めればいいだろう?」
「女性が食事をしている最中に席を立つなどという、不作法な真似は許されない」
「だったら、いまここで話せ」
睨み合う二人の間に漂う険悪な空気に、ハリエットは急いでパイを平らげたほうがよさそうだと思った。
そうして大きめに切ったパイをまさに頬張ろうとした時、唖然とした表情でこちらを見つめるクリフォードと目が合った。
すぐに目を逸らしたが、クリフォードは咳払いして給仕に下がるよう言い付けた。
「ハリエット。ゆっくり食べてかまわない。無理をして喉を詰まらせては大変だ。ドノヴァンのことはまったく気にしなくていい」
「おい、少しは気にしろよっ!」
ドノヴァンは抗議したが、ハリエットはクリフォードに言われたとおり、パイを皿へ戻してもう半分に切った。
「……で、今度はどこの馬の骨を拾ったんだ?」
給仕が食堂から出て行くなり、ドノヴァンが口火を切った。
「言葉に気をつけろ、ドノヴァン。ハリエットは、私が後見している女性だ。羊飼いだった養母がホワイト伯爵未亡人の元侍女で、夫人が彼女の後見を引き受けていたんだが、先日亡くなった。そのため、彼女の遺産を受け継いだ私が、後見人として相談に乗っている」
「後見? はっ! 気の毒な境遇の作り話でも聞かされて、また騎士道精神でも発揮したのか? それとも羊飼いの手練手管に騙されて、まんまと罠に引っ掛かったのか?」
ハリエットは、まさに食べようとしていたパイを落としてしまった。
クリフォードの部屋にいるところを目撃されたのだから、ふしだらな関係にあると思われてもしかたない。
でも、まさか誘惑して罠にかけたと言われるなんて、考えてもみなかった。
(羊飼いが伯爵さまを誘惑する……? 羊でもないのに、どうやって?)
王都の美しい女性を見慣れたクリフォードをどうやったら誘惑できるのか、教えてほしいくらいだ。
「ドノヴァンっ! いますぐ、ハリエットに謝罪しろ」
新聞を放り投げたクリフォードが険しい声で要求した。
さすがにドノヴァンも言い過ぎたと思ったらしい。気まずそうな顔をしてぼそっと呟いた。
「……いささか言い過ぎたことは認める」
「私は、謝罪しろと言ったんだ。聞き取れないのなら、その耳に銃弾を撃ち込んで、よく聞こえるようにしてやる」
クリフォードは薄っすらと笑みを浮かべていたが、ダークブルーの瞳は凍り付きそうなほど冷たく輝いている。本気であることは、疑いようもない。
「ドノヴァン? 私は、同じことを何度も言わせる愚か者が死ぬほど嫌いだ」
ハリエットは、自分の命もそろそろ危ういと思い、ごくりと唾を飲み込んだ。
今度『でも』と口にしたら、二度と言えなくなるような目に遭うかもしれない。
ドノヴァンは、クリフォードの冷ややかな眼差しに負け、立ち上がって謝罪の言葉と言い訳を連ねた。
「どうか、無礼な発言をお許しください。クリフを心配するあまり、言葉が過ぎてしまいました。利用されているのではないかと思ったのです。似たようなことが以前にもあり……」
「私は謝罪しろと言ったんだ。余計なことを喋るな」
「理由を説明するのは余計なことじゃないだろう? クリフ。あの時と似たような状況でも疑うなというのか?」
「まったく似ていない。ハリエットは、悪徳地主からヘザートンを守るために、王都までやって来たんだ」
二人が何のことを言っているのかわからなかったけれど、親切で優しいクリフォードのことだ。これまでも困っている人たちに手を差し伸べていただろうことは、想像がつく。
「おまえはまだハリエットの許しを得ていない。ドノヴァン」
クリフォードに言われたドノヴァンは、エメラルドグリーンの瞳に反抗的な光をちらつかせながら、ハリエットに「お許しいただけますか」と丁寧に訊ねた。
許さないと言ったらどうなるのだろうと思ったけれど、朝からクリフォードが殺人を犯すところは見たくない。
「もちろんです」
「寛大な御心に感謝します」
表面上は和解が成立し、ドノヴァンが腰を下ろす。
満足そうに頷いたクリフォードは、ハリエットの空になった皿を見て「もう一個頼もう」と言い出した。
落としたパイは、ジュエルがちゃっかり掠め取っていた。
「あの、もういいです」
「本当に?」
「はい」
本音ではあともう半分くらい食べたかったけれど、ドノヴァンの滞在が長引けば長引くだけ、殺人事件が発生する可能性が高くなる。
「それで……おまえは、くだらない記事を見て、朝から押しかけたのか?」
クリフォードは、テーブルの上に放り投げられた新聞を顎で示した。
「いいや。昨夜、社交場でおまえが婚約したという噂を吹聴している人物を見かけたんだ」
「ロレインか? それともコールダー・メイソンか?」
クリフォードの指摘に、ドノヴァンは僅かに目を見開いた。
「ロレインだが……どうしてそれを?」
「昨日、ハリエットとスピネッリの店を訪ねた時、出くわした。挨拶を交わしただけだったが、私たちが店に来た目的を彼らにしつこく尋ねられて、スピネッリがそれらしきことを匂わせて追い払ったんだ」
「あの女なら、情報を売りかねないな。しかし、それなら明日の新聞に否定する内容の記事を載せればいいだろう。おまえがホワイト伯爵未亡人の遺産を相続して、後見人になったことも一緒に。完全に噂は消えなくとも、真実味はかなり薄まるはずだ」
ハリエットもドノヴァンの意見に賛成だった。
クリフォードが放り出した新聞を引き寄せて記事に目を通したが、来月には結婚するだとか、伯爵が夢中だとか、薔薇の咲き乱れる庭で求婚しただとか、ハリエットが実は大貴族の隠し子だとかいう大嘘が並べ立てられている。
こんな記事を本気で信じる人がいるとは思えないけれど、本当のことではないのだから否定したほうがいい。
ところが、クリフォードは首を横に振った。
「否定するつもりはない」
「は? クリフ、何を言って……」
「むしろ、好都合だ」
背後から抱きしめたハリエットからは、ほのかにラベンダーの香りがする。アデラが、フィッツロイで生産されているラベンダーの香油か石鹸を用意したのだろう。
(ハリエットにはもっと違う香りが似合いそうだな。ペパーミントやユーカリもいい。カモミールも。しかし……とりあえず、まずは婚約だ。どうやって発表したものか……)
ロレインたちがスピネッリにしつこく問い質した以上、今日明日にでも噂が流れるだろう。
キルケイクの貴族社会では、貴族同士で結婚するのが普通であり、望ましいとされている。
伯爵と羊飼いの結婚は、発表した途端にうるさく騒ぎ立てられるはずだ。
理不尽な中傷や誹謗からハリエットを守るのに、一番有効な方法は二人の関係をはっきりさせることだった。
(一週間もあれば十分か。婚約指輪が必要だな。スピネッリを二、三日監禁するか……)
いまごろスピネッリは船の中だ。船を海賊に襲わせるのは少々大げさすぎる。下りたところで拉致するのがいいが、まずはヘザートンとハリエットの両親の件を片付けるのが先だ。
そう結論に至ったところで、ハリエットが身動ぎした。
「んぅ……?」
「おはよう、ハリエット」
「……え? く、クリフォードさま?」
クリフォードは、ハリエットがパニックを起こさないよう、彼女が目を丸くして振り返るなりくちづけた。
寝起きのハリエットは、ろくな抵抗もできないまま、うっとりした表情になる。
彼女が本格的に目覚める前に抱き起こし、寝間着を着せ、ガウンを羽織らせた。
「本当は、一日中何も着ずにベッドにいてほしいが、残念ながらそうもいかない」
思わず口からこぼれたクリフォードの本音を聞いて、目が覚めたらしい。じわじわとハリエットの顔が赤くなっていく。
「うっ……あ、あのっ……あっ!」
逃げるようにベッドから下りようとしたハリエットは、へなへなと座り込んでしまった。
「ご、ごめんなさい……」
「謝るべきは、私のほうだ。私のせいで、そうなったのだから」
「…………」
さらに顔を赤くしてうろたえるハリエットの姿は、いますぐベッドへ逆戻りしたくなるほどかわいらしい。
「時間が経てば歩けるようになる。早朝から働く必要などない。ゆっくりしていいんだ」
クリフォードは努めて冷静な表情を装ってハリエットを抱き上げた。
そのまま彼女の部屋まで運んでいこうかと思ったが、くしゃくしゃになっている蜂蜜色の髪を見て、ブラッシングしたいという欲求が湧き起こる。
「髪を梳いてから、部屋まで連れて行こう」
「あの、でも……」
「ぜひ、やらせてほしい」
クリフォードが熱意を込めて訴えると、ハリエットは戸惑いながらも頷いた。
ソファーにハリエットを下ろすなり、惰眠を貪っていた猫と犬がすぐさま駆け寄る。
「おはよう、レヴィ……ジュエル」
二匹は、ひとしきり彼女に撫で回されて満足すると、クリフォードが手にしているブラシを期待の眼差しで見つめた。
「まずは、ハリエットが先だ」
図々しい犬猫に言い聞かせると、ハリエットが疑わしげな視線を向けてきた。
「それは……人間用のブラシですか?」
「もちろんだ」
彼女を横向きに座らせて、ひどくもつれて絡まった箇所を丁寧に解いてから、少しずつ櫛けずる。その髪は、見た目どおり細くてふわふわしていた。
(傷みやすそうだから髪油を使ったほうがいいかもしれないな……)
そんなことを考えながら、指どおりがよくなったことを確かめているとノックの音がした。
従僕が朝の支度にやって来たのだろう。
しかし、返事をしようとしたところへ、いきなりドアが開いた。
「クリフっ! いったい、なんだって俺に黙ってこんな真似をしたんだ!」
クリフォードは、ドアの向こうに現れた人物を見て目を疑った。
「……ドノヴァン?」
そこにいたのは、長らく疎遠になっていた大伯母の孫――はとこのドノヴァン・フォーサイスだった。
五年前に陸軍へ入隊して外国を渡り歩いていると聞いていたが、帰国していたとは知らなかった。
艶やかな黒髪と鮮やかなエメラルド色の瞳、垂れ目がちなせいでどんなに怒っていてもそうは見えないところは変わっていないが、日に焼けて少し痩せたようだ。
童顔たらしめていた柔らかそうな頬は削げ、若干男くささが加わっている。
「自分の目で確かめるまではとても信じられないと思ってやって来たんだが……どうやら本当らしいな」
片手に新聞を握りしめ、ズカズカと部屋に入って来たドノヴァンは、ソファの前で仁王立ちになった。険しくは見えないが眉根を寄せ、不躾な視線をハリエットへ向ける。
「とにかく、別の場所で話を……」
クリフォードがハリエットの無防備な姿を隠すように立ち上がると、その旨へ手にしていた新聞を押し付けてきた。
「ああ、たっぷり話を聞かせてもらうぞ。だが、その前に……一応、祝いの言葉を述べておこう。婚約おめでとう」
「……婚約?」
何の話だと首を傾げながら新聞を受け取り、クリフォードは目を見開いた。
そこには、『フィッツロイ伯爵、ついに婚約!』という文字が躍っていた。
*****
食堂で、遅めの朝食と早めの昼食を兼ねた食事をひととおり食べ終えたハリエットは、現在デザートのブルーベリーパイをつついていた。二個目だ。
クリフォードの寝室で目覚め、新聞記事で自分が婚約したという驚愕の事実を知り、動揺していないわけではない。けれど、食欲は衰えていなかった。
先ほどから、クリフォードのはとこだというドノヴァンの視線をひしひしと感じていても、食欲に影響はない。
自然と動物は、時々予想もつかない状況を作り出す。食べられる時に食べ、眠れる時に眠ることは、羊飼いにとって大事な仕事のひとつだし、こんなに美味しいものを食べずにはいられない。
「で、そろそろ詳しい話を聞かせてもらえるんだろうな?」
ドノヴァンは、しきりに太い指でテーブルを叩いていた。
細身でいかにも貴族的なクリフォードは違って大柄ではあるが、垂れ目がちの童顔なため、あまり威圧感はない。口角が上がっているので、たぶん怒っているのだろうけれど、楽しそうに見える。
食堂へ入る前にこっそりバーナードが教えてくれた情報では、ドノヴァン・フォーサイスはボールドウィン公爵の三男。ドノヴァンの祖母とクリフォードの祖母が仲のよい姉妹で、クリフォードの一つ上と年齢も近かったことから、兄弟のようにして育ったらしい。
しかし、五年ほど前にドノヴァンが陸軍へ入隊して以来、疎遠になっていたとのことだ。
「話は、ハリエットがパイを食べ終わってからだ」
新聞を読みながらコーヒーを飲むクリフォードは、苛立つドノヴァンに悠然と答えた。
「永遠に食べ続けそうじゃないか! 二個目だぞっ!」
「デザートは、いつも二個食べることにしているんだ。そうだろう? ハリエット」
クリフォードの言葉に、「いつもではない」と抗議したかったけれど、これまでの食事では必ず二個食べていたので、頷くしかない。
「だったら、おまえと俺だけで、別室で話を始めればいいだろう?」
「女性が食事をしている最中に席を立つなどという、不作法な真似は許されない」
「だったら、いまここで話せ」
睨み合う二人の間に漂う険悪な空気に、ハリエットは急いでパイを平らげたほうがよさそうだと思った。
そうして大きめに切ったパイをまさに頬張ろうとした時、唖然とした表情でこちらを見つめるクリフォードと目が合った。
すぐに目を逸らしたが、クリフォードは咳払いして給仕に下がるよう言い付けた。
「ハリエット。ゆっくり食べてかまわない。無理をして喉を詰まらせては大変だ。ドノヴァンのことはまったく気にしなくていい」
「おい、少しは気にしろよっ!」
ドノヴァンは抗議したが、ハリエットはクリフォードに言われたとおり、パイを皿へ戻してもう半分に切った。
「……で、今度はどこの馬の骨を拾ったんだ?」
給仕が食堂から出て行くなり、ドノヴァンが口火を切った。
「言葉に気をつけろ、ドノヴァン。ハリエットは、私が後見している女性だ。羊飼いだった養母がホワイト伯爵未亡人の元侍女で、夫人が彼女の後見を引き受けていたんだが、先日亡くなった。そのため、彼女の遺産を受け継いだ私が、後見人として相談に乗っている」
「後見? はっ! 気の毒な境遇の作り話でも聞かされて、また騎士道精神でも発揮したのか? それとも羊飼いの手練手管に騙されて、まんまと罠に引っ掛かったのか?」
ハリエットは、まさに食べようとしていたパイを落としてしまった。
クリフォードの部屋にいるところを目撃されたのだから、ふしだらな関係にあると思われてもしかたない。
でも、まさか誘惑して罠にかけたと言われるなんて、考えてもみなかった。
(羊飼いが伯爵さまを誘惑する……? 羊でもないのに、どうやって?)
王都の美しい女性を見慣れたクリフォードをどうやったら誘惑できるのか、教えてほしいくらいだ。
「ドノヴァンっ! いますぐ、ハリエットに謝罪しろ」
新聞を放り投げたクリフォードが険しい声で要求した。
さすがにドノヴァンも言い過ぎたと思ったらしい。気まずそうな顔をしてぼそっと呟いた。
「……いささか言い過ぎたことは認める」
「私は、謝罪しろと言ったんだ。聞き取れないのなら、その耳に銃弾を撃ち込んで、よく聞こえるようにしてやる」
クリフォードは薄っすらと笑みを浮かべていたが、ダークブルーの瞳は凍り付きそうなほど冷たく輝いている。本気であることは、疑いようもない。
「ドノヴァン? 私は、同じことを何度も言わせる愚か者が死ぬほど嫌いだ」
ハリエットは、自分の命もそろそろ危ういと思い、ごくりと唾を飲み込んだ。
今度『でも』と口にしたら、二度と言えなくなるような目に遭うかもしれない。
ドノヴァンは、クリフォードの冷ややかな眼差しに負け、立ち上がって謝罪の言葉と言い訳を連ねた。
「どうか、無礼な発言をお許しください。クリフを心配するあまり、言葉が過ぎてしまいました。利用されているのではないかと思ったのです。似たようなことが以前にもあり……」
「私は謝罪しろと言ったんだ。余計なことを喋るな」
「理由を説明するのは余計なことじゃないだろう? クリフ。あの時と似たような状況でも疑うなというのか?」
「まったく似ていない。ハリエットは、悪徳地主からヘザートンを守るために、王都までやって来たんだ」
二人が何のことを言っているのかわからなかったけれど、親切で優しいクリフォードのことだ。これまでも困っている人たちに手を差し伸べていただろうことは、想像がつく。
「おまえはまだハリエットの許しを得ていない。ドノヴァン」
クリフォードに言われたドノヴァンは、エメラルドグリーンの瞳に反抗的な光をちらつかせながら、ハリエットに「お許しいただけますか」と丁寧に訊ねた。
許さないと言ったらどうなるのだろうと思ったけれど、朝からクリフォードが殺人を犯すところは見たくない。
「もちろんです」
「寛大な御心に感謝します」
表面上は和解が成立し、ドノヴァンが腰を下ろす。
満足そうに頷いたクリフォードは、ハリエットの空になった皿を見て「もう一個頼もう」と言い出した。
落としたパイは、ジュエルがちゃっかり掠め取っていた。
「あの、もういいです」
「本当に?」
「はい」
本音ではあともう半分くらい食べたかったけれど、ドノヴァンの滞在が長引けば長引くだけ、殺人事件が発生する可能性が高くなる。
「それで……おまえは、くだらない記事を見て、朝から押しかけたのか?」
クリフォードは、テーブルの上に放り投げられた新聞を顎で示した。
「いいや。昨夜、社交場でおまえが婚約したという噂を吹聴している人物を見かけたんだ」
「ロレインか? それともコールダー・メイソンか?」
クリフォードの指摘に、ドノヴァンは僅かに目を見開いた。
「ロレインだが……どうしてそれを?」
「昨日、ハリエットとスピネッリの店を訪ねた時、出くわした。挨拶を交わしただけだったが、私たちが店に来た目的を彼らにしつこく尋ねられて、スピネッリがそれらしきことを匂わせて追い払ったんだ」
「あの女なら、情報を売りかねないな。しかし、それなら明日の新聞に否定する内容の記事を載せればいいだろう。おまえがホワイト伯爵未亡人の遺産を相続して、後見人になったことも一緒に。完全に噂は消えなくとも、真実味はかなり薄まるはずだ」
ハリエットもドノヴァンの意見に賛成だった。
クリフォードが放り出した新聞を引き寄せて記事に目を通したが、来月には結婚するだとか、伯爵が夢中だとか、薔薇の咲き乱れる庭で求婚しただとか、ハリエットが実は大貴族の隠し子だとかいう大嘘が並べ立てられている。
こんな記事を本気で信じる人がいるとは思えないけれど、本当のことではないのだから否定したほうがいい。
ところが、クリフォードは首を横に振った。
「否定するつもりはない」
「は? クリフ、何を言って……」
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