伯爵さまと羊飼い

唯純 楽

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第二章

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(苦しい……)

 クリフォードは、夢うつつに胸を塞がれる苦しさに喘いだ。

(なんでこんなに息苦しいんだ? 確かに昨夜はあの難解な遺言を読破するためにワインを飲み過ぎたが……やるべきことはやったし、もう少し眠ってもかまわないはずだ……)

 昨夜のうちに、クリフォードは三通の手紙を書き上げ、バーナードに朝一番で送るよう指示していた。

 ヘザートンのリチャード牧師にハリエットの身元を問い合わせ、ホワイト伯爵家の元弁護士にバーンズ家との土地取引の記録や契約書について資料を送付するよう依頼し、イザドラの元執事にメリンダからイザドラ宛てに届いた書簡の在りかを問い合わせるためだ。

 手紙を書き上げたあとは、イザドラの遺言冊子を最後まで読み通し、ハリエットとメリンダに関する記載が殴り書きの単語以外にないことを確かめた。

 今日の午前中には、大法官にヘザートン地域を担当している治安判事について、それとなく不審な点があることを匂わせる手紙を送る予定だが、一時間もかからず書き終えられる。少々寝坊したところで、問題はない。

 しばらく懸命に眠ろうと努力したが、とうとう重い岩に胸を押しつぶされているような苦しさに耐え切れなくなって、目を開けた。

(な、なんだ? これは……)

 目の前に迫る白い塊に心臓が止まりかけたが、ふさふさした尾が鼻先を掠めた。

「ジュエル……下りろ」

 ふてぶてしい猫は、尻を向けたままクリフォードの胸の上で優雅な伸びを披露してから、みぞおちに足をめり込ませ、ベッドから飛び降りた。

「うっ」

 油断していたせいで腹筋を締められず、しばし悶絶したものの、これでようやく眠れると目を閉じた途端に、甲高い笛の音と叫び声、そして鶏の鬨の声が聞こえて目を開けた。

「何事だ……?」

 ベッドを下り、ガウンを羽織って窓のカーテンを引き開ける。

 空を見れば美しい朝焼けが広がっていて、少しくらい早起きするのも悪くはないなどと思いながら窓を開け、爽やかな朝の空気を吸い込んで……息が止まった。

 屋敷の裏手に広がる芝生に、白や茶の点が散らばっている。

「なんだ、あれは……」

 目を凝らせば、その点は羽をまき散らして飛び回っているようだ。

 新鮮な食材が手に入りづらいと嘆く料理人のために、屋敷の敷地内で飼うことにした鶏かもしれないと思い当たった。

 鶏の大脱走だけでも驚きの光景だが、蜘蛛の子を散らすように散らばっていく鶏たちを犬と赤髪の女性、見覚えのある蜂蜜色の髪をした女性が追いかけている。

 クリフォードは目をつぶった。

 どうか夢でありますようにと願いながら、再び目を開けた。

 願い虚しく、走り回る二人と犬が一匹、逃げ惑う鶏たちの姿が見える。
 夢ではない。

 身を翻し、ガウンを脱ぎ捨てると、昨夜脱いだままにソファの背でだらしなく伸びていたシャツに袖を通す。
 慌てるあまり、なかなか足を入れられずに飛び跳ねながら、同じく昨夜脱ぎ散らかしたままだったズボンを履き(急いでいるのでブリーチズは無理だった)、そのまま部屋を飛び出しかけて考え直し、ベッドの下から靴を引っ張り出す。昨夜ベッドの下に放り込んだはずの靴下は見当たらなかったので、諦めた。

 そうこうしている間に、窓辺に飛び上がった猫が振り返り、にやりと笑った。

 残忍そうな笑みに、鶏をくわえる姿が目に浮かぶ。

「待てっ!」

 待てと言われるのを待っていたかのように、猫は窓から飛び出した。

 駆け寄って覗き込むと、窓の下に伸びている木の枝を伝って地面へ飛び下り、得意げな顏でクリフォードを振り仰いでいる。

「ひげを引っこ抜くぞっ!」

 窓の外へ靴を放り投げ、猫と同じように眼下の木を目がけて飛び降りた。

 十数年ぶりでも、首尾よく飛び移ることができたことにほっとした時、枝に引っ掛かったシャツの袖が盛大に破れる音がした。

 バーナードやアデラの眉が吊り上がる重大事件発生だ。

(これは……私の不注意のせいではない。ジュエルのせいだ) 

 原因はあの荒くれ者の猫にあると断じ、木を滑り下りると靴を拾い上げ、軽やかに走り出した白い猫を追いかける。

「ジュエルつ!」

 寝起きの全力疾走は、健康にいいどころか悪影響を与えるものだと実感し始めた頃、ハリエットの声が聞こえ、走り回る犬の姿が見えた。

 芝生の上に座り込み、高みの見物を決め込んでいる猫に追いついたクリフォードは、目の前で繰り広げられている光景に目を奪われた。

 走り回る犬は、逃げ惑う鶏を巧みに小屋の方へ追い詰め、戸口で待ち構えていた少女が追い立てられて来た鶏を次々捕まえて、小屋の中へ放り込む。

 ハリエットは、大声で犬に指示を出しながら少女の手伝いをしていたが、近くにいた鶏たちをあらかた小屋へ収容し終えると、胸元にぶら下げていた犬笛を取り出した。

 遥か彼方まで逃亡を図っている冒険心旺盛な鶏を指さし、吹き鳴らす。

 犬は、芝生の上をあっという間に駆け抜けて、鶏の正面へ回り込むとぴたりと静止した。

 そのまましばし鶏と睨み合い、犬の眼力に負けた鶏が羽を広げながら仲間のいる鶏小屋へ向かって走り出すと、つかず離れずの距離で追尾を開始する。ハリエットの吹く笛の合図に従って、鶏が家路へ向かう道から外れそうになるのを修正しているようだ。

 毅然としたハリエットの命令に迷いはなく、それを受ける犬にも無駄な動きは一つもない。人と犬との素晴らしい連携作業に、クリフォードは感嘆の溜息を漏らした。

 ハリエットたちが、羊を自由自在に操る様をこの目で見てみたいと思った。

 丘に散らばる羊たちがひとつの群れに集められ、導かれていく様はきっと圧巻だろう。

「あと一羽よ!」

 戸口で待ち構える少女の声に、ハリエットは微笑みながら、こちらへやって来るでっぷり太った雌鶏とその後ろを転がるようについてくるヒヨコたちを指さした。

「一羽じゃないわ」

 犬は、雌鶏を追い立てながら、時々はぐれそうになるヒヨコを鼻で押し戻してやっている。

 鶏たちの反乱は無事鎮圧されそうだとクリフォードがほっとしかけた時、傍らでのんびり毛づくろいしていた猫がぴたりとその動きを止めた。

(まさか……)

 嫌な予感にギクリとした瞬間、猫がヒヨコめがけて駆け出した。

「ジュエルっ!」
「レヴィ!」

 ヒヨコを守ろうと盾になった犬に、無慈悲な猫の鋭い爪が振り下ろされる寸前、クリフォードがその身体を抱き上げた。

「クエーッ!」

 猫の急襲に驚いた雌鶏は、我が子を守ろうとクリフォードの足を思い切りつついた。

 靴を履き忘れていたことを後悔したが、もう遅い。

「うっ」

 鋭いくちばしが皮膚を破る痛みに歯をくいしばる。不満そうに唸る猫が背中に爪を立てているが、雌鶏のくちばしに比べればかわいいものだ。

 滅多刺しにされた足が穴だらけになることを覚悟したその時、ハリエットが雌鶏を抱き上げた。

「やめなさい!」

 ハリエットに抱えられた凶暴な雌鶏とヒヨコが無事小屋へ帰りつき、ようやく事態は収束した。

(ついに、平和が戻った……)

 クリフォードが深々と溜息を吐くと同時に、盛大な拍手が沸き起こった。

 振り返れば、いつの間にか使用人たちが勢ぞろいして、口々にハリエットとレヴィを褒め称えている。

「大丈夫ですか? 伯爵さま」

 注目の的になったことに照れているのか、ハリエットは頬を赤くしながらクリフォードの方へやって来た。

 血が滲む足を見下ろしたクリフォードは「大丈夫ではない」と喚きたいところを堪え、「大したことはない」と頷いてみせた。

「でも、血が出ています」

 ハリエットは、首に巻いていたスカーフを外すとクリフォードの足もとにしゃがみこんだ。

「いったい、何があったんだ?」

 鶏が逃げ出した原因を尋ねると、籠を抱えた赤毛の少女が自分のせいだと告白した。キッチンメイドのジュディだ。

「申し訳ありません、旦那さま。卵を獲ろうとしたら、ボス――雄鶏につつかれ、追い回されて、小屋から飛び出したんです。それで、扉が開けっ放しになって……」

 雄鶏の一撃はさぞかし痛かっただろう。クリフォードは、同じ痛みを味わった者として、彼女を責める気にはなれなかった。

「怪我はしなかったのか?」

「ちょっと手や腕をつつかれましたけれど、大丈夫です」

「あとでアデラにきちんと手当してもらうように。しかし、鶏がああも凶暴だとしたら、安全に卵を集められる方法を考えるべきだな。このままでは、容赦ない攻撃を避けるために、いちいち甲冑を着込まなくてはならなくなる。ところで、肝心の卵は手に入れられたのか?」

「はい!」

 鶏たちがみんな小屋からいなくなった隙に確保したので、ものすごく楽だったとジュディはにっこり笑った。

 ハリエットはクリフォードの足にスカーフを巻きつけながら、鶏につつかれずに卵を集める方法があると言った。

「ちょっとした囲いを作るか、小屋を二つに仕切るかして、鶏を追い出してから卵を集めたほうがいいかもしれません。うちの鶏たちは大人しいのであまりつつかれないんですけれど、掃除するときは外の囲いに出して、レヴィに見ていてもらうんです。小屋を清潔にしていれば病気になりにくいし、簡単に掃除できるのでおすすめです」

「すぐにでも改善しよう」

 クリフォードは、次の犠牲者が出る前にその提案を実行に移そうと決めた。

「少し歩くくらいなら、解けないと思います。でも、あとでちゃんと手当てをしてもらってください」

 スカーフの端をしっかり結び終えたハリエットは立ち上がると、わざとらしくいかめしい顔で注意した。

「それから……鶏に近づく時には丈夫な靴を履いてくださいね? 伯爵さま」

「ああ……」

 クリフォードは、ハリエットの蜂蜜色の髪やごわごわしたワンピースに白い鶏の羽が散っているのに目を奪われたまま、うわの空で返事をした。

「……次からは、気をつける」

 まだ寝ぼけているのかもしれない。

 あちこち羽をくっつけたハリエットが、天使のように見える。

「旦那さま」

 ぼうっとしていたクリフォードの耳に、呆れたようなバーナードの声が聞こえた。

「……なんだ? バーナード」

「いい加減、目を覚ましてくださいませ。起きる時間でございます」
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