伯爵さまと羊飼い

唯純 楽

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第一章

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(本物の馬車って、こういうものなのね……)

 二頭立ての立派な馬車に乗り込んだハリエットは、これまで乗ったものを馬車と呼んではいけないとしみじみ思った。

 これまで乗った臭くてぎゅう詰めの駅馬車や、そもそも座席すらない荷馬車の荷台とは大違いだ。そこはかとなくいい匂いが漂い、ふかふかの座面は座り心地がよく、揺れも少なく快適で、あちこち身体をぶつけることもない。

 しかし、その快適な乗り心地を思う存分味わうことはできなかった。

「そんなに小さくならずとも、馬車は十分広いと思うが?」

 向かいに座る馬車の持ち主――フィッツロイ伯爵が片方の眉を引き上げた。

「いえ、あの……その、このほうが落ち着くので……」

 どこも汚したりしないよう、出来る限り小さく縮こまっていたハリエットは、ささやかな嘘を吐いた。

 ボロボロの外套にはレヴィの涎や毛が付いているし、五日間の旅で埃まみれだ。立派な身なりをした人物と二人きりで馬車に乗る恰好ではない。
 それも、こんな美男子と。

 艶やかな金髪とダークブルーの瞳をしたフィッツロイ伯爵は、間近で見るといっそう素敵だった。低く艶のある声も、耳にするだけで胸がドキドキしてしまう。

「私の屋敷は王都の郊外にある。かなり距離があるから、足を伸ばして楽な姿勢を取ってはどうだろう? 君のレヴィも寛いでいることだし」

 ちゃっかりハリエット一緒に馬車の中へ乗り込んだレヴィは、床に伏せたまま上目づかいにハリエットを見ていた。尻尾を水平に揺らし、そうすればいいのにと言いたげだ。

 美しい伯爵さまもこちらを見つめている。じいっっと見つめて……どうやら、提案を受け入れるまで目を逸らす気はないようだ。

「……では、お言葉に甘えてそうさせていただきます」

 穴が開きそうなほど見つめられることに耐え切れず、そろりと足を伸ばしたハリエットは背中にあたるクッションの柔らかさに溜息を吐きそうになった。

 楽な姿勢になった途端、どっと疲れが襲ってきた。

 レヴィのおかげで危険な目に遭うことは一度もなかったけれど、慣れない旅は緊張の連続だった。
 ようやくホワイト伯爵未亡人の屋敷に辿り着いたのに、大事な手紙もお金も全部失って、しかも夫人が亡くなったと聞いた時には、目の前が真っ暗になった。

 見ず知らずの人間(しかも正体不明)を助けてくれた伯爵さまは、とても親切で、寛大な人だ。

 にこりともしないので近寄りがたく見えるけれど、優しい人でもある。

 猫の求めに応じて背中を撫でてやり(途中でやめると抗議されるため、ずっと撫でっぱなしだ)、レヴィがピカピカの革靴の上に腹ばいになっていても、追い払ったりしない。

 長い指が、優雅な動きでゆっくり猫の毛を撫でる様子をぼんやり見つめているうちに、眠気が襲ってきた。

(あんなふうに撫でられたら、とっても気持ちよさそう……。ちょっとだけ……ちょっと目をつぶるだけなら……大丈夫よね……?)

 再び欠伸を噛み殺し、ほんの少しだけ休もうと思いながら、ハリエットは目を閉じた。

 そして、瞬く間に眠りに落ちた。




 見知らぬ男と二人きり(正確に言えば猫と犬もいるのでほぼ二人きり)の馬車の中で熟睡するハリエットを見つめながら、クリフォードは嬉しいような腹立たしいような、複雑な気分だった。

 怯えた兎のように警戒されるよりはマシだが、あまりにも無防備な寝姿をさらされると、それはそれで釈然としない。膝の上から動く気のない猫と、靴の上から動く気のない犬のせいで、何かしようと思ってもできない状態だが。

(それにしても……あの髪は、触ったらどんな感じがするのだろう?)

 馬車が揺れるたびにふわふわ動く蜂蜜色の髪に、触れてみたくなる。

(そう言えば、年齢を訊いていなかったな。まだ二十歳前か……?)

 無防備なところはあるが、養母亡きあともひとりで羊飼いを続け、見知らぬ相手に物怖じせず反論できるのだから、それなりの年齢のはずだ。

(ひとりで旅をするなど、頼りにできる恋人はいないのだろうか?)

 クリフォードがあれこれ想像と妄想を巡らせていると、馬車が停まった。

 いつもよりずいぶん早く着いてしまった気がして、内心舌打ちする。

「おっ! おかえり、なさいませ? 旦那さま」

 出迎えた従僕は、馬車のドアが開くなり飛び出した猫と犬に仰け反った。

「家政婦長に、女性客がいるので『赤の間』を準備するよう伝えてくれ。犬に必要なものもそろえるように」

「かしこまりました。ところで……猫もいたようですが、そちらはいかがいたしますか?」

「猫のものは、旦那さまの部屋に用意を」

 クリフォードが答えるより先に、御者台から降りたバーナードが指示してしまった。

「バーナード!」

「ジュエルは人見知りをするそうです。知っている人間と一緒でないと、不安にかられていたずらをしてしまうかもしれません」

 想像力を駆使せずとも、先祖伝来の家宝の数々を粉々にされる光景がクリフォードの脳裏に浮かんだ。

「ジュエルのものは、私の部屋に用意するように」

 しばらく平和な暮らしは望めそうにないと思いながら、すっかり眠り込んでいるハリエットを抱き上げる。

 軽くて華奢な身体は乱暴に扱ったら壊れてしまいそうで、慎重にドアから身を乗り出す。

「手を貸せ、バーナード」

「ぐっすりお休みですね。よほど疲れていらっしゃったのでしょう。ヘザートンからは長旅ですから」

 バーナードの腕にハリエットを預けて馬車を降りると、主人に忠実な犬がぴたりと足もとに寄り添った。

「私が運びましょうか?」

「いや、いい。私が運ぶ」

 バーナードから取り戻した小さな体は、ちょうど腕の中に納まる大きさで、不思議なほど抱き心地がよかった。

 二階の奥にある『赤の間』と呼ばれている客間へ向かうと、家政婦長のアデラが慌ただしく準備を整えていた。
 アデラはクリフォードの乳母だったが、いまでは家政婦長として女主人の代わりに家のことを取り仕切ってくれている。

「急なお越しでしたので、取り敢えずの用意しかしておりませんが……」

「かまわない。おそらく、明日の朝まで起きないだろう」

 馬車から降りてここまでの間、ハリエットは睫毛を震わせることもしなかった。

「まあ……本当によく眠っていらっしゃいますね」

 あどけないハリエットの寝顔を覗き込んだアデラの顔がほころぶ。

「旦那さまは外套を脱がせてくださいませ。私が靴を脱がせます」

 ソファに腰を下ろしたクリフォードはハリエットの外套を脱がせてから、アデラがブーツを脱がせやすいよう横向きにして膝に抱いた。

 目の粗い生地で作られたごわごわするワンピースを着ているのに、その身体はどこもかしこも柔らかい。

(柔らかくて当たり前だ。生きた人間なのだから。それにしても……意外と……)

 真上から見下ろす体勢のため、女性らしい膨らみが視界に入る。

 スカーフで覆われていたはずの襟元は、すっかり乱れ、鎖骨があらわになっていた。ほんの少し襟を引き下げれば、首にかかる銀の鎖の先にあるものだけでなく、もっと別のものも確かめられるだろう。

「今夜は顔や手足を拭くだけにして、明日の朝、ちゃんと入浴できるよう準備しましょう。それから……犬もブラッシングが必要ですね」

 アデラの声ではっとしたクリフォードは、咳払いした。

「犬?」

 ソファの傍に行儀よく座っている犬が、尻尾をパタパタと床に打ちつけている。

「はい。エサをやるのはもちろんですが、長毛種ですからブラッシングが欠かせません」

 クリフォードは、元乳母の意外な知識に驚かされた。

「犬に詳しいんだな? アデラ」

「私の祖父が羊飼いをしていたんです。この子のような牧羊犬を使って仕事をしていました。とても賢くて働き者。まさに羊飼いの相棒になるべくして生まれた犬なんですよ。このお嬢さまも立派な羊飼いなのでしょうね。犬笛を肌身離さず持っていますから」

 アデラが銀の鎖を引き上げ、ハリエットの胸から銀色の笛を取り出すのを見て、クリフォードは思わず唾を飲み込んだ。

「旦那さま、あとはお手伝いいただかなくとも大丈夫です。ベッドへ運んでくださいませ」

「あ、ああ……頼む。ブラッシングだ。行くぞ、レヴィ」

 そそくさとハリエットをベッドへ運んで、付いてくるよう命じるとレヴィはベッドの上に横たわる主人を心配そうに見遣った。

「おまえの御主人さまのお世話は任せてちょうだい」

 アデラが微笑んで見せると安心したらしく、大人しくクリフォードに従った。

 一階へ下り、待ち構えていたバーナードから渡されたブラシを持って庭へ通じるドアを出る。

 階段に腰を下ろしたところで猫――ジュエルが音もなく背後から肩に乗っかって来た。どうやら、猫もブラッシングしてほしいらしい。

「下りるんだ、ジュエル。さもないとブラッシングしてやらないぞ」

 ジュエルは不満げにひと鳴きしたものの、軽やかに芝生の上へ飛び降り、レヴィと並んで座った。

「そのまま行儀よくしているように。まずは、レヴィからだ」

 小物入れが付いている首輪を外してやり、何気なく中を確かめたクリフォードは、そこに収められていたものを見て眉をひそめた。

「犬笛……のようなネックレス? 自分で身に着ければいいだろうに」

 根元部分のティアラに使われているのはガーネットだろうか。繊細な模様や丈夫そうな鎖など、単なる安物ではないことが窺える。

「大切なものだから、おまえに預けているのか?」

 レヴィは首を傾げ、焦茶色の瞳で見つめ返してきたが、当然何も言わない。

(犬に訊いてもしかたないか。折を見て、ハリエットに確かめることにしよう)

 クリフォードは元通りにネックレスを小物入れに戻し、ブラッシングに取りかかった。

 ひと通りレヴィをブラッシングした後で、ジュエル。ジュエルの後で再びレヴィ。二匹は暴れることはなかったが、満足という言葉を知らず、切り上げようとするたびに抗議された。

 夕食に現れないクリフォードを従僕が探しに来てくれなかったら、朝までブラッシングしてやる羽目に陥っていたかもしれない。

 犬と猫を従えて食堂に到着したクリフォードは、ぎょっとした顔の給仕に入り口で押し止められた。

「だ、旦那さま! まずは、上着をお脱ぎになったほうがよろしいかとっ」

 給仕は、クリフォードの足にまつわりついている犬と猫へ意味ありげな視線を向ける。

 我が身を見下ろしたクリフォードは、黒の上着が白黒犬猫混合の毛だらけになっているのを見て、眩暈を覚えた。あきらかに、ブラッシングが必要だ。

 上着を脱いで従僕に手渡し、ようやく椅子に腰を落ち着けて、グラスにワインを注ぐ給仕が説明する今夜のメニューに耳を傾ける。問題ないと頷こうとしたところで、付け加えられた言葉に目を見開いた。

「それから……ジュエルとレヴィには鶏を一羽分ずつ用意しました。よろしいでしょうか?」

 クリフォードは喉まで出かかった「そんな贅沢が必要か?」という言葉を呑み込んだ。
 窓際に置かれた銀の器の前に座る犬と猫は、期待に満ちた眼差しを寄越している。

「たっぷり与えてやってくれ。長い……とてつもなく長い一日だったからな……」
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