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プロローグ
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ほんのちょっとした冒険のはずだった。
遠くまで行くつもりはなかったし、転んで足を挫くつもりもなかった。迷子になるつもりもなかった。みっともなく泣きじゃくるつもりもなかった。
未来のフィッツロイ伯爵は、臆病な泣き虫であってはならないと大伯母に言われている。
ズキズキする右足をひきずりながら丘を登るクリフォードは、きつく唇を噛み締めて、汗と一緒に流れる塩辛いものを拳でぬぐった。
犬に追いかけられて、逃げようとした拍子に足を挫くなんて予想外の出来事だ。
助けを呼ぼうにも、声の届く範囲に人影など見当たらない。
「完璧だと思ったのに……」
悔しさのあまり唇を震わせながら呟いた。
五日ほど前、大伯母のモードリンに「この夏は、北の荒野に行くことにした」と言われた時、クリフォードの胸は高鳴った。
モードリンの話では、遠い昔、キルケイクではない別の国が治めていたその土地のどこかに、滅んだ王家の宝が隠されているという言い伝えがあるらしい。
大伯母も隠された秘宝を探す冒険にそそられていたようだが、北へ向かうにつれてどんどん酷くなる道のせいですっかり腰を痛め、荒野を歩き回る気はなさそうだった。
だから、クリフォードは一人で冒険を始めることにしたのだ。
最初は、馬車の窓から見えた緑の丘に散らばる白い点の正体を突き止めることにした。
北部では牧羊がさかんだから、きっと羊だろうとは思ったけれど、両親には常々、自分の目や耳で確かめることが何よりも大事だと言われている。モードリンも同じで、きちんとした理由さえあれば、クリフォードの行動を頭ごなしに叱ったりはしない。
とは言え、勝手に宿を抜け出して怪我をしたことは、やっぱり叱られるだろう。
ぽつりと冷たいものが頬に当たり、暗雲立ち込める空を見上げたクリフォードは、焦りを覚えた。
雨で体が冷えて動けなくなることだけは、避けたい。こんな荒野では、誰にも知られることなく死んでしまうことだってあるかもしれない。
降り出すなり、あっという間に激しくなった雨でずぶ濡れになりながら、足を引きずり、どうにか丘を登り切ったところでふもとに小さな家が見えた。
「助かった……」
途中、何度も転び、泥まみれになりながらも小さな田舎家の戸口まで辿り着く。
家の周囲には、鶏小屋らしきものもあるし、柵の中には羊たちが収まっている。誰かが住んでいるのはまちがいない。
(どうか、家にいてくれますように……)
祈るような気持ちで震える手を振り上げ、扉をノックした。
もしかしたら、激しい雨音でノックの音が聞こえないかもしれないと不安だったが、さっと扉が開き、飛び出して来た犬に再び猛然と吠えられた。
「おやめ、リヴァイ!」
黒と白に塗り分けられた毛並みの犬は、丘でクリフォードを追いかけ回した不届き者だ。
クリフォードが後退りしかけるのを見て、さらに吠えたてる犬の首輪を誰かがむんずと掴んで引き戻した。
「盗人なら、私が杖のひと突きで追い払ってやるから……」
恰幅のいい中年の女性は、手にした羊飼いの杖を突き出そうとしたが、クリフォードを見ると目を丸くした。
「おや、まあ……いったい、どこから来た迷子だい?」
険しい表情が、一瞬で柔らかくなる。
「く、クリ、フォード……エリン、トンです……ち、父は……フィッツロイ、は、伯爵……」
クリフォードは、なんとか礼儀正しく名乗ろうとしたものの、震えるあまりまともに喋ることができなかった。
「ひどい恰好だね。とにかく中へお入り」
羊飼いらしい女性は、歯を鳴らすクリフォードを家の中へ引っ張り込むと暖炉の前に連れて行き、濡れた服を脱い
で毛布に包まるように言った。
人前で、しかも女性の前で服を脱ぐなんてとんでもないと思ったけれど、大伯母を思わせる鋭い目つきで睨まれて、逆らえば無理やり脱がされるだけだと悟った。
恥ずかしさを押し殺し、素っ裸になるとごわごわした毛布に包まって暖炉の前に座り、羊飼いが差し出した熱い紅茶を啜る。
喉を通って胃に落ちた紅茶が冷え切った身体を内側から温めてくれた。
「さて……次はこっちだ」
震えが治まったところで、羊飼いはクリフォードの足首の捻挫を荒っぽく手当てし始める。
遠慮なくあちらへこちらへと足を引っ張られる間、クリフォードは歯を食いしばって悲鳴を堪えた。
「折れてはいないようだね。それで……どうして未来の伯爵さまが、こんなところをほっつき歩いていたんだい?」
「羊を……見たかったんです。本物の羊を近くで見たことがなかったから……」
ひどい臭いのする緑色の何かを足首に塗りたくられて、ぞっとしながらクリフォードは説明した。
「羊だって? ここいらじゃ、至るところにいるよ。珍しくともなんともない。一週間も見ていたら、飽き飽きするだろうに……。よし、これでいい。雨が止んだら、宿に知らせてあげよう。きっと、大騒ぎになっているだろうからね」
羊飼いは呆れた顔をしながらも、村の宿屋にいる大伯母に知らせてくれると請け合った。
「……ありがとうございます」
「冒険心旺盛なのは悪いことではないけれど、いつでも助けを求めることができるとは限らないんだってことは、ようく覚えておくんだ」
「はい、十分気をつけます。あのう……あなたは、羊飼いなんですよね?」
身体も温まり、すっかり落ち着いたクリフォードは、どんな時でも消えることのない好奇心を抑えきれずに尋ねた。
経緯はどうであれ、本物の羊飼いから話を聞けるせっかくの機会を無駄にしたくなかった。
「ああ、そうだよ。本物の羊飼いに会うのも初めてかい?」
「はい。その、色々と訊きたいことがあるんです……」
ところが、クリフォードが、羊飼いを質問攻めにしようと口を開いたとき、ふいに部屋の奥から声がした。
「だあれ? おきゃくさん?」
「迷子の仔羊だよ。おちびちゃん」
自分は仔羊ではないと言い返そうとしたクリフォードは、毛布を引きずりながらやって来た少女に目を奪われた。
まだ三、四歳と思われる少女はふわふわの蜂蜜色の髮と印象的な瞳の持ち主だった。
大きくて丸い瞳は、深紅の薔薇を思わせる赤色だ。
クリフォードは、これまでそんな瞳をした人間を見たことがなかった。
少女のほうも、クリフォードのような人間を見たことがなかったのかもしれない。
かすかに首を傾げてじっと見つめていたが、自分が引きずっていた毛布を彼の背にかけると中へ潜り込んできた。
「う、わぁっ!」
裸で女の子に密着されるという事態にうろたえたクリフォードが仰け反ると、逃さないとばかりにぎゅっと抱きついて、眉をひそめる。
「ねえ、メリンダ。毛がないよ? 刈られちゃったの?」
「ち、ちがうっ!」
クリフォードが羞恥で真っ赤になりながら叫び返すと、羊飼いが声を上げて笑い出した。
「刈ったんじゃない。まだ、仔羊なんだよ。おちびちゃん」
「仔羊なら、わたしの羊にしてもいい? 仔羊には、羊飼いが必要でしょ?」
自分は羊ではないのだから、羊飼いは必要ない。クリフォードはそう訴えたかった。
しかし、あまりにも心臓がドキドキして、口を開いたら飛び出してきそうで何も言えなかった。
「そうだねぇ……迷子の伯爵さまには、羊飼いが必要だ。でも、まだちょっと早いさ。善き羊飼いになってからにおし。それまでは、迷子になったりしない賢い羊で我慢するんだ」
「でもっ! でも、誰かが連れて行っちゃうかもしれないもん。だって、こんなにかわいい羊なら、きっとみんなほしがるもん」
かわいいと言われて喜ぶ男なんかいない。クリフォードは思わずむっとしたが、少女に泣かれると困るので、言い返すのは我慢した。
「それなら、しるしをつけておけばいいさ」
羊飼いの提案に、少女は目を見開いてクリフォードを見上げ、なぜか眉根を寄せた。
「でも、焼いてしるしをつけるのは……かわいそう」
羊飼いと少女の会話から、牛の臀部などに所有を示す焼印をつけるという話を思い出したクリフォードは、青ざめた。
仔羊扱いされるくらいなら我慢できるが、あらぬ場所にそんなものを付けられるわけにはいかない。慌てて口を開きかけたが、羊飼いが反対してくれた。
「焼印はだめだよ。どんな羊になるか、じっくり観察してからのほうがいいだろう」
「じゃあ……リヴァイにするのと同じにする。それならいいでしょ?」
「うーん、まあ、害はないだろうけれど……」
いったい何をする気だと慄くクリフォードの眼前に、少女の顔が迫る。
警戒する間もなく、少女は鼻と鼻をこすりつけ、柔らかくて温かいものをクリフォードの唇にむにゅっと押し当てた。
「――っ!」
経験はなかったけれど、それがどういう行為なのかくらいは知っていた。
キスだ。
まさか突き飛ばすわけにはいかないが、黙ってされるがままになっていていいものだろうか。
「おや、まあ……初めてじゃなけりゃいいけど」
もちろん、クリフォードにとって、誰かと唇を合わせてキスするのは初めてのことだった。
手の甲へのキスではない、唇へのキスは、夫婦や恋人がするものだ。
大伯母には、未婚の淑女に手を出したら責任を取らなくてはいけないと言われているけれど、手を出したのではなく、手を出された場合はどうなるのか。
キスされるのはちっとも嫌じゃないし、むしろ気持ちいい。他人の唇が、こんなに柔らかく、甘い味がするものだとは知らなかった。
頭へ血がのぼり、ぐるぐると視界が回り始める。思わず目をつぶると、急に体が泥の中へ沈んでいくように重くなった。
「ねえ、どうしたの?」
小さな手が容赦なく耳をひっぱったり、顔を撫で回したりするのを感じたが、どう頑張っても瞼を引き上げられない。しかも、小さな手は顔だけではなく、肩や胸、腹に、さらにはその下へ……。
「こら、おやめ!」
間一髪のところで、羊飼いがいたずら好きの小妖精を引きはがしてくれた。
「元気がないみたい……」
「熱が上がってきたんだろう。王都育ちのひ弱なお坊ちゃまには、北の雨は冷たすぎる」
自分はひ弱ではないと心の中で悔しさに歯噛みしても、身体の欲求には抗えない。
クリフォードは、目が覚めたら羊になっているかもしれないという恐怖に包まれながら、意識を手放した。
それからどれくらいの時が過ぎたのか。
丘に散らばって草を食む羊たちを牧羊犬になって追いかけ回し、何度目かの挑戦で上手に柵へ追い込むことに成功して遠吠えした瞬間、クリフォードは夢から醒めた。
羊にも、牧羊犬にもなっていなかった。
ふかふかのベッドの上にいて、足首がやたらズキズキしていて、横にはしかめ面の大伯母がいた。
「ようやくお目覚めかい?」
「お、おはようございます……大伯母さま……あの……?」
「雨に濡れたせいで、おまえはひどい風邪をひいたんだ。三日三晩、高熱で唸っていたんだよ。私の寿命を縮める気かい? この大馬鹿者が」
そう言って叱った大伯母の目の下には隈がある。つきっきりで看病してくれたのだろう。
しかしながら、なぜ自分は雨に濡れたのか、どこでどうやって足首を痛めたのか、クリフォードはさっぱり思い出せなかった。
何一つ覚えていないと言おうものなら、ぶつぶつ文句を言っている大伯母が炎を吐きそうだ。クリフォードは沈黙を守ることにした。
眠れるドラゴンをわざわざ起こす必要などない。きっとそのうち思い出せるはずだ。
「もう、北へは二度と来ない。相性がよくないとわかったからね。まったく、血迷った真似をしてしまったよ……」
そうぼやいたモードリンは、目覚めたクリフォードが食事を取れるようになって三日後には村を発ち、王都へ引き返した。
クリフォードは、まったく荒野を見物できないまま帰ることになり、がっかりしたものの、いつか大人になったら好きなだけ滞在し、滅亡した王家の財宝を探し出そうと思った。
窓から眺める素っ気ない荒野に、なぜかとても心惹かれた。
しかし、その後、クリフォードがキルケイクの北を訪ねることはなかった。
子どもの頃は、モードリンが二度と行きたがらず、フィッツロイ伯爵となってからは領地以外を旅する余裕などなかった。
失った記憶も思い出せないままに長い年月が過ぎ、旅をしたことさえも遥か昔のことのようにおぼろげな記憶になり、すっかり忘れてしまっていた。
再び、羊飼いに会うまでは……。
遠くまで行くつもりはなかったし、転んで足を挫くつもりもなかった。迷子になるつもりもなかった。みっともなく泣きじゃくるつもりもなかった。
未来のフィッツロイ伯爵は、臆病な泣き虫であってはならないと大伯母に言われている。
ズキズキする右足をひきずりながら丘を登るクリフォードは、きつく唇を噛み締めて、汗と一緒に流れる塩辛いものを拳でぬぐった。
犬に追いかけられて、逃げようとした拍子に足を挫くなんて予想外の出来事だ。
助けを呼ぼうにも、声の届く範囲に人影など見当たらない。
「完璧だと思ったのに……」
悔しさのあまり唇を震わせながら呟いた。
五日ほど前、大伯母のモードリンに「この夏は、北の荒野に行くことにした」と言われた時、クリフォードの胸は高鳴った。
モードリンの話では、遠い昔、キルケイクではない別の国が治めていたその土地のどこかに、滅んだ王家の宝が隠されているという言い伝えがあるらしい。
大伯母も隠された秘宝を探す冒険にそそられていたようだが、北へ向かうにつれてどんどん酷くなる道のせいですっかり腰を痛め、荒野を歩き回る気はなさそうだった。
だから、クリフォードは一人で冒険を始めることにしたのだ。
最初は、馬車の窓から見えた緑の丘に散らばる白い点の正体を突き止めることにした。
北部では牧羊がさかんだから、きっと羊だろうとは思ったけれど、両親には常々、自分の目や耳で確かめることが何よりも大事だと言われている。モードリンも同じで、きちんとした理由さえあれば、クリフォードの行動を頭ごなしに叱ったりはしない。
とは言え、勝手に宿を抜け出して怪我をしたことは、やっぱり叱られるだろう。
ぽつりと冷たいものが頬に当たり、暗雲立ち込める空を見上げたクリフォードは、焦りを覚えた。
雨で体が冷えて動けなくなることだけは、避けたい。こんな荒野では、誰にも知られることなく死んでしまうことだってあるかもしれない。
降り出すなり、あっという間に激しくなった雨でずぶ濡れになりながら、足を引きずり、どうにか丘を登り切ったところでふもとに小さな家が見えた。
「助かった……」
途中、何度も転び、泥まみれになりながらも小さな田舎家の戸口まで辿り着く。
家の周囲には、鶏小屋らしきものもあるし、柵の中には羊たちが収まっている。誰かが住んでいるのはまちがいない。
(どうか、家にいてくれますように……)
祈るような気持ちで震える手を振り上げ、扉をノックした。
もしかしたら、激しい雨音でノックの音が聞こえないかもしれないと不安だったが、さっと扉が開き、飛び出して来た犬に再び猛然と吠えられた。
「おやめ、リヴァイ!」
黒と白に塗り分けられた毛並みの犬は、丘でクリフォードを追いかけ回した不届き者だ。
クリフォードが後退りしかけるのを見て、さらに吠えたてる犬の首輪を誰かがむんずと掴んで引き戻した。
「盗人なら、私が杖のひと突きで追い払ってやるから……」
恰幅のいい中年の女性は、手にした羊飼いの杖を突き出そうとしたが、クリフォードを見ると目を丸くした。
「おや、まあ……いったい、どこから来た迷子だい?」
険しい表情が、一瞬で柔らかくなる。
「く、クリ、フォード……エリン、トンです……ち、父は……フィッツロイ、は、伯爵……」
クリフォードは、なんとか礼儀正しく名乗ろうとしたものの、震えるあまりまともに喋ることができなかった。
「ひどい恰好だね。とにかく中へお入り」
羊飼いらしい女性は、歯を鳴らすクリフォードを家の中へ引っ張り込むと暖炉の前に連れて行き、濡れた服を脱い
で毛布に包まるように言った。
人前で、しかも女性の前で服を脱ぐなんてとんでもないと思ったけれど、大伯母を思わせる鋭い目つきで睨まれて、逆らえば無理やり脱がされるだけだと悟った。
恥ずかしさを押し殺し、素っ裸になるとごわごわした毛布に包まって暖炉の前に座り、羊飼いが差し出した熱い紅茶を啜る。
喉を通って胃に落ちた紅茶が冷え切った身体を内側から温めてくれた。
「さて……次はこっちだ」
震えが治まったところで、羊飼いはクリフォードの足首の捻挫を荒っぽく手当てし始める。
遠慮なくあちらへこちらへと足を引っ張られる間、クリフォードは歯を食いしばって悲鳴を堪えた。
「折れてはいないようだね。それで……どうして未来の伯爵さまが、こんなところをほっつき歩いていたんだい?」
「羊を……見たかったんです。本物の羊を近くで見たことがなかったから……」
ひどい臭いのする緑色の何かを足首に塗りたくられて、ぞっとしながらクリフォードは説明した。
「羊だって? ここいらじゃ、至るところにいるよ。珍しくともなんともない。一週間も見ていたら、飽き飽きするだろうに……。よし、これでいい。雨が止んだら、宿に知らせてあげよう。きっと、大騒ぎになっているだろうからね」
羊飼いは呆れた顔をしながらも、村の宿屋にいる大伯母に知らせてくれると請け合った。
「……ありがとうございます」
「冒険心旺盛なのは悪いことではないけれど、いつでも助けを求めることができるとは限らないんだってことは、ようく覚えておくんだ」
「はい、十分気をつけます。あのう……あなたは、羊飼いなんですよね?」
身体も温まり、すっかり落ち着いたクリフォードは、どんな時でも消えることのない好奇心を抑えきれずに尋ねた。
経緯はどうであれ、本物の羊飼いから話を聞けるせっかくの機会を無駄にしたくなかった。
「ああ、そうだよ。本物の羊飼いに会うのも初めてかい?」
「はい。その、色々と訊きたいことがあるんです……」
ところが、クリフォードが、羊飼いを質問攻めにしようと口を開いたとき、ふいに部屋の奥から声がした。
「だあれ? おきゃくさん?」
「迷子の仔羊だよ。おちびちゃん」
自分は仔羊ではないと言い返そうとしたクリフォードは、毛布を引きずりながらやって来た少女に目を奪われた。
まだ三、四歳と思われる少女はふわふわの蜂蜜色の髮と印象的な瞳の持ち主だった。
大きくて丸い瞳は、深紅の薔薇を思わせる赤色だ。
クリフォードは、これまでそんな瞳をした人間を見たことがなかった。
少女のほうも、クリフォードのような人間を見たことがなかったのかもしれない。
かすかに首を傾げてじっと見つめていたが、自分が引きずっていた毛布を彼の背にかけると中へ潜り込んできた。
「う、わぁっ!」
裸で女の子に密着されるという事態にうろたえたクリフォードが仰け反ると、逃さないとばかりにぎゅっと抱きついて、眉をひそめる。
「ねえ、メリンダ。毛がないよ? 刈られちゃったの?」
「ち、ちがうっ!」
クリフォードが羞恥で真っ赤になりながら叫び返すと、羊飼いが声を上げて笑い出した。
「刈ったんじゃない。まだ、仔羊なんだよ。おちびちゃん」
「仔羊なら、わたしの羊にしてもいい? 仔羊には、羊飼いが必要でしょ?」
自分は羊ではないのだから、羊飼いは必要ない。クリフォードはそう訴えたかった。
しかし、あまりにも心臓がドキドキして、口を開いたら飛び出してきそうで何も言えなかった。
「そうだねぇ……迷子の伯爵さまには、羊飼いが必要だ。でも、まだちょっと早いさ。善き羊飼いになってからにおし。それまでは、迷子になったりしない賢い羊で我慢するんだ」
「でもっ! でも、誰かが連れて行っちゃうかもしれないもん。だって、こんなにかわいい羊なら、きっとみんなほしがるもん」
かわいいと言われて喜ぶ男なんかいない。クリフォードは思わずむっとしたが、少女に泣かれると困るので、言い返すのは我慢した。
「それなら、しるしをつけておけばいいさ」
羊飼いの提案に、少女は目を見開いてクリフォードを見上げ、なぜか眉根を寄せた。
「でも、焼いてしるしをつけるのは……かわいそう」
羊飼いと少女の会話から、牛の臀部などに所有を示す焼印をつけるという話を思い出したクリフォードは、青ざめた。
仔羊扱いされるくらいなら我慢できるが、あらぬ場所にそんなものを付けられるわけにはいかない。慌てて口を開きかけたが、羊飼いが反対してくれた。
「焼印はだめだよ。どんな羊になるか、じっくり観察してからのほうがいいだろう」
「じゃあ……リヴァイにするのと同じにする。それならいいでしょ?」
「うーん、まあ、害はないだろうけれど……」
いったい何をする気だと慄くクリフォードの眼前に、少女の顔が迫る。
警戒する間もなく、少女は鼻と鼻をこすりつけ、柔らかくて温かいものをクリフォードの唇にむにゅっと押し当てた。
「――っ!」
経験はなかったけれど、それがどういう行為なのかくらいは知っていた。
キスだ。
まさか突き飛ばすわけにはいかないが、黙ってされるがままになっていていいものだろうか。
「おや、まあ……初めてじゃなけりゃいいけど」
もちろん、クリフォードにとって、誰かと唇を合わせてキスするのは初めてのことだった。
手の甲へのキスではない、唇へのキスは、夫婦や恋人がするものだ。
大伯母には、未婚の淑女に手を出したら責任を取らなくてはいけないと言われているけれど、手を出したのではなく、手を出された場合はどうなるのか。
キスされるのはちっとも嫌じゃないし、むしろ気持ちいい。他人の唇が、こんなに柔らかく、甘い味がするものだとは知らなかった。
頭へ血がのぼり、ぐるぐると視界が回り始める。思わず目をつぶると、急に体が泥の中へ沈んでいくように重くなった。
「ねえ、どうしたの?」
小さな手が容赦なく耳をひっぱったり、顔を撫で回したりするのを感じたが、どう頑張っても瞼を引き上げられない。しかも、小さな手は顔だけではなく、肩や胸、腹に、さらにはその下へ……。
「こら、おやめ!」
間一髪のところで、羊飼いがいたずら好きの小妖精を引きはがしてくれた。
「元気がないみたい……」
「熱が上がってきたんだろう。王都育ちのひ弱なお坊ちゃまには、北の雨は冷たすぎる」
自分はひ弱ではないと心の中で悔しさに歯噛みしても、身体の欲求には抗えない。
クリフォードは、目が覚めたら羊になっているかもしれないという恐怖に包まれながら、意識を手放した。
それからどれくらいの時が過ぎたのか。
丘に散らばって草を食む羊たちを牧羊犬になって追いかけ回し、何度目かの挑戦で上手に柵へ追い込むことに成功して遠吠えした瞬間、クリフォードは夢から醒めた。
羊にも、牧羊犬にもなっていなかった。
ふかふかのベッドの上にいて、足首がやたらズキズキしていて、横にはしかめ面の大伯母がいた。
「ようやくお目覚めかい?」
「お、おはようございます……大伯母さま……あの……?」
「雨に濡れたせいで、おまえはひどい風邪をひいたんだ。三日三晩、高熱で唸っていたんだよ。私の寿命を縮める気かい? この大馬鹿者が」
そう言って叱った大伯母の目の下には隈がある。つきっきりで看病してくれたのだろう。
しかしながら、なぜ自分は雨に濡れたのか、どこでどうやって足首を痛めたのか、クリフォードはさっぱり思い出せなかった。
何一つ覚えていないと言おうものなら、ぶつぶつ文句を言っている大伯母が炎を吐きそうだ。クリフォードは沈黙を守ることにした。
眠れるドラゴンをわざわざ起こす必要などない。きっとそのうち思い出せるはずだ。
「もう、北へは二度と来ない。相性がよくないとわかったからね。まったく、血迷った真似をしてしまったよ……」
そうぼやいたモードリンは、目覚めたクリフォードが食事を取れるようになって三日後には村を発ち、王都へ引き返した。
クリフォードは、まったく荒野を見物できないまま帰ることになり、がっかりしたものの、いつか大人になったら好きなだけ滞在し、滅亡した王家の財宝を探し出そうと思った。
窓から眺める素っ気ない荒野に、なぜかとても心惹かれた。
しかし、その後、クリフォードがキルケイクの北を訪ねることはなかった。
子どもの頃は、モードリンが二度と行きたがらず、フィッツロイ伯爵となってからは領地以外を旅する余裕などなかった。
失った記憶も思い出せないままに長い年月が過ぎ、旅をしたことさえも遥か昔のことのようにおぼろげな記憶になり、すっかり忘れてしまっていた。
再び、羊飼いに会うまでは……。
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