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番外編
番外編:海鷲の贈り物 4
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「……はぁ」
今日も憎たらしいくらいに晴れ渡っている夏空を見上げ、グレースは溜息を吐いた。
十日ほど前には、海鷲の羽に煽られて嵐のように荒れ狂い、驚くほど乱高下していた気持ちも、今は冬の曇天のように重く沈んでいる。
退屈な代わり映えのしない宮殿での日々は、それでも、ひと月、半年、一年とあっという間に過ぎていたはずなのに、どういうわけかあの日から、一日がとても長く感じられて仕方がない。
痛めた足のせいでしばらく自由に歩き回れなかったのも、鬱々とした気持ちになった原因の一つだとは思うが、すっかり回復しても、走ったり飛んだり跳ねたりといった浮かれたことをしたい気持ちにまったくならない。
淑女はそんなことはすべきではないとわかっているけれど、すっかりやる気が失せていた。
「はぁ……」
再び溜息を吐いたグレースは、起きっぱなしの寝間着姿、髪も下ろしたままという、なんともやる気のない姿で椅子に腰かけ、窓辺で頬杖をついていた。
皇女としてはいついかなる時でも、人前に出て恥ずかしくない格好をするのが当然だ。
美しくて当たり前、美しくないのが例外。世の中の人々は――皇族という生き物と縁のない人々はとくに、皇女や皇子というものはくしゃみ一つ、欠伸一つしないと思っているかもしれない。
もちろん、グレース自身、そんな世間の理想像をいささかぶち破っている自覚はあるけれど、それでも最低限の皇女らしさは保っていた。
これまでは、どんなに気分が乗らなくとも、どんなにうんざりするような出来事に見舞われても、寝起きのままダラダラ過ごしたことはない。息苦しいコルセットは別として、庭に飛び出せるくらいの格好はしていた。
でも、今はまったくその気が起きない。
アランが再びラティフィアに来るまで、ひと月。
ものすごく会いたいわけではない……はずだが、たったひと月が遥か彼方まで続いているように思えてしかたがない。
「はぁ……」
三度目の溜息を吐いたとき、ふと晴れ渡った空に黒い点が見えた気がした。
「……?」
既視感を覚えて目を凝らし、ぐんぐん迫ってくるそれが大きな鳥だと気付いた瞬間、グレースは思わず窓を閉めそうになり、その結果起きた出来事を思い出して手を止めた。
バサバサという音。ブワッと吹き付ける風。そして、潮の香りを運んできた海鷲は、ややつんのめったものの、無事に窓枠に着地した。
尾羽は白く、黄色く鋭い嘴と大きな鉤爪は迫力満点。一度見てはいるものの、間近にすると予想以上の大きさだ。
ジロリと鋭い金色の瞳で睨まれ、グレースはごくりと唾を飲み込んで、まずは挨拶する。
「…………ごきげんよう」
海鷲は軽く頷くと、鋭い嘴で乱れた羽を整え、グレースへと近づくように窓枠を伝って来る。
「何か、用かしら?」
明らかに鳥であって、鳥以外の何物でもないが、一応、訪問の目的を尋ねてみる。
「…………」
当然沈黙が返ってきたが、海鷲の視線は侍女が置いていったまま放置されているテーブルの焼き菓子の上に注がれている。
「まぁ……せっかくですから、お茶でも?」
海鷲に菓子を与えていいものかどうか甚だ疑問ではあったが、持って来なければ行くぞとばかりに、その太い足にぐっと力が込められるのを見て、グレースは立ち上がった。
一応、小皿に取って海鷲の目の前の高さに捧げてみる。
「どうぞ召し上がれ」
海鷲は、すかさずその鋭い嘴で可愛らしい小鳥の姿をした焼き菓子をひと突きする。
「きゃっ」
思った以上の衝撃に、グレースは危うく皿を取り落としそうになった。
海鷲はよろめいたグレースを一瞥すると、呆れたような眼差しを向け、器用に焼き菓子を嘴で取り上げて窓枠に置き、滅多刺しにして破壊した。
「…………」
細かく砕いた焼き菓子をつつく海鷲に、お茶の代わりに水が必要かと思ったが、滅多刺しにされても問題なさそうな器が生憎見つからない。
仕方なく、浴室に置いてあった大きめの盥に浅く水を張って戻れば、菓子は綺麗になくなっていた。
「水でもいいかしら?」
海鷲の生態について、ちゃんと調べておくのだったと後悔しつつ、床に置く。
「あの、盥で申し訳ないけれど、どうぞ」
次からは、エサ用の器を用意してもらおうと思いながら盥を指さすと、海鷲は心得たとばかりにふわりと窓枠から飛び降りて、盥に突っ込んだ。
「え」
てっきり飲むのだと思っていたグレースは、盥に突っ込んだ海鷲がバッシャバシャと水をはね散らかし、何かを探すように盥を突く様を見て、しばし呆然とした。
はねた水が頬にかかった冷たさで我に返り、水浸しの惨状に愕然としていると、盥の中からこちらを見上げる海鷲と目が合う。
『まぎらわしい真似をして、ぬか喜びさせるんじゃない』
聞こえるはずのない声が、聞こえた気がした。
「……もしかして……魚が入っていると思ったのかしら?」
そうだ、と言わんばかりに大きな羽を上下させて抗議する姿に、グレースは引きつった笑みを返した。
「………次からは、生きのいい魚をご用意しますわ」
それでいいと言うように、大きく頭を振った海鷲は、盛大に盥をひっくり返して飛び立った。
「――っ!」
その姿はあっという間に小さな点になって空に消えた。
「あれは……外で飼うべき生き物だわ」
そもそも海鷲を飼うことはできないのかもしれないが、間違いなく室内向けではない。
グレースは、それこそ嵐の後のような部屋の惨状にめまいを覚えつつ、落ちていた一枚の大きな羽を拾い上げ、羽の色と同じ瞳を思い出し、「はぁ……」と四度目の大きな溜息を吐いた。
「あの、生きた魚が欲しいのだけれど」
厨房に皇女が現れたというだけでも、料理人たちの間には緊張が走ったようだが、グレースの用向きを聞いた彼らは、一様に顔を見合わせた。
「……それは……観賞用に、ということでしょうか」
恐る恐る問い返したのは、恰幅のいい艶々した丸顔の料理長だ。
グレースが幼い頃から料理長を務めている人物で、宮殿に住まう皇族の食の好みを知り尽くしている。
「いえ、食用に」
「ええと……生きたまま、食べると?」
「そうね。多分」
海鷲の訪問を受けたその翌日。グレースは宮殿の図書室の蔵書を読み漁った。
古今東西、様々な国の書物で溢れかえる図書室には、海鷲について書かれた本が二冊ほどあり、その生態をつぶさに調べた結果、彼らは主に水辺に生息しているものの、魚以外にもキツネやウサギ、小鳥などを食べる、肉食でもあるらしい。大型な動物も食べるが、自分で狩れないものは死骸を食べる。
とは言え、海鷲もできれば新鮮なものを食べたいだろう。
ただ、キツネやウサギや小鳥などが狩られる様を目の前で観察する勇気はなかったので、やはり魚を用意することにした。
アランは、事前に訪問のお伺いを立てるよう海鷲に言っておくと世迷言を口にしていたが、そんなことができるはずもない。
いつ突撃されても大丈夫なように、部屋で飼っておけばいい。
しかし、そんなグレースの思い付きに反し、料理長は申し訳なさそうな顔になった。
「グレース様……そのう、大変申し訳ないのですが、厨房に運ばれてくる魚は、既に死んでおりまして」
「…………そうなの?」
「ええ」
てっきり、ザックリバッサリ、厨房でやられているのだとばかり思っていた。
「もしも、生きたままのものをお求めなら、出入りの商人に申し付けましょうか」
「え……いえ、いいわ、その……他の手を考えてみるわ」
「そうですか? その、死んだ魚でもよければ、お渡しできますが」
生きた魚を手に入れる算段をしている間に、海鷲が来てしまってはいけない。
グレースは、とりあえず死んだ魚で手を打つことにした。
「では、死んでいる魚でいいわ」
「一応、涼しい場所に置けばある程度は持ちますが、一晩もすれば悪くなってしまいますので」
「わかりました」
料理長は、こぎれいな盥にグレースが両手で抱えられそうなくらいの重さになるよう、小さい銀色の魚を五匹ほど入れてくれた。
「……本当に、料理せずともよろしいので?」
「ええ、大丈夫よ。素材の味で十分だわ」
海鷲は食通だとは書かれていなかったので、大丈夫だろう。
「そ、そうですか……」
何故か引きつった笑みを見せる料理長に礼を言って、いそいそと部屋まで運ぶ。
侍女か侍従に頼むべきだったかもしれないが、誰かへの贈り物を人任せにするのはよろしくない。
生きの良さも確かめたかったし、厨房で生きた魚が手に入らないということも学んだ。
これはこれで、なかなかに有意義な体験だ。
目的の物を手に入れて、上機嫌で部屋へと戻ったグレースは、二日ぶりに窓枠に佇む海鷲を見て目を見開いた。
「あら……ようこそ。ちょうどよかった。たった今、仕入れたばかりよ」
死んではいるが、まだ新鮮なはずだ。
グレースが「どうだ!」とばかりに盥を床へ置くと、海鷲は「待ってました!」とばかりに部屋へ飛び込んできて、盥の中の魚を突きはじめた。
どんな風に食べるのか興味があったグレースは、最初のうちはその様子を眺めていたのだが、引きちぎられた魚から迸る鮮血や内臓といったものに、耐えられなくなって目を逸らした。
「うっぷ……」
魚の匂いに気持ち悪くさえなってきて、ソファーによろよろと横たわる。
考えてみれば、人間だって、食べているのをじっと見つめるなんて真似はしない。
はしたないかつ、不用意な行動だったと反省し、海鷲の食事が終わるまで、クッションに顔を埋めて耐えた。
「…………」
しばらくして、音が消え、ぐいっと何かにドレスの裾を引っ張られて顔を上げると、ソファーの横に海鷲がいた。
バッと身を起こし、背筋を伸ばして引きつりながらも微笑む。
「ご満足いただけたかしら?」
盥の魚は綺麗に消えており、海鷲は満足だと言うように羽を広げた。
「できれば、生きた魚を用意したかったのだけれど、簡単ではなくて……。次に来るときまでには、用意できるようにします」
「…………」
海鷲は大きく頷くと、用は済んだとばかりに飛び立った。
翌日、グレースは珍しいもの好きな父、皇帝に目通りを願い出た。
「おお、グレースか。おまえの方から会いたいと言ってくるなんて、珍しいな」
「お忙しいところお時間を割いていただき、ありがとうございます」
朝に申し込んで、その日の昼過ぎには執務室に呼ばれたグレースは、忙しい父が融通を利かせてくれたことに礼を述べた。
大国、カーディナル帝国の皇帝は、毎日大勢の人間と会うのが仕事でもある。
通常であれば、いくら家族であっても急な面会が叶わないのだが、一年に一度あるかないかのグレースからの面会希望とあって、優先してくれたのだろう。
愛情豊かとまではいかないが、冷酷な父でもない。
「して、ようやくこうして来たからには、何か大事な話でもあるのだろう?」
まるで、グレースがこうしてやって来ることを知っていたかのように、身を乗り出して尋ねてくる様子を訝しく思いつつ頷く。
「はい。その、陛下にいつも色んな生き物を献上している商人を紹介していただきたく……」
「……生き物?」
「生きた魚が欲しいのです」
「生きた魚? グレース……先日、料理長から死んだ魚を手に入れて部屋に持ち込んだという話は、本当だったのか?」
どうして知っているのだろうと思いかけ、そう言えば昨日血塗れの盥を片付けてほしいと頼んだところ侍女が悲鳴を上げて腰を抜かし、ちょっとした騒ぎになったことが耳に入ったのだろうと納得する。
「ええ」
「食べたのか?」
「はい」
「…………で、今度は生きた魚を生きたまま、食べる気か?」
「その方が新鮮でしょうし、海辺や河畔ではそうしているようですので」
たとえ相手が海鷲であっても、訪問客である。
もてなすために、できる限りのことをするのは当然だろう。
何か問題があるのかとグレースが見つめると、広大な領土を如才なく治める皇帝は額を押さえて俯いた。
「おまえがそこまで覚悟を決めているとは知らなかった。いや、その、陸のものにも興味はないようだったが、海のものは見た目と違って結構荒々しいところがある。てっきり嫌いだろうと思っていたのだが……」
「確かに迫力はありますが、何でもかんでも襲ったりはしませんわ。優しいところもあるようですし」
本によれば、狩りはするものの、海鷲はけっして凶暴な性格ではない。
一雄一雌で繁殖し、浮気もしない愛情深い鳥でもある。
それに、海鷲はとても美しいとグレースは思う。
焦茶色と白と黄色のコントラストは素晴らしく、大きな翼と共に青空だけでなく、冬の雪原にも映えるだろう。
「襲う……いや、まさかな……しかし……あー、グレース。ちなみに、どのくらいの回数だ?」
「三度ですわ。宮殿に住んでいるわけではありませんし、そう頻繁には顔を見せられないでしょう」
「……三度……そうか。手遅れか」
「はい? 手遅れ?」
「いや、ついに来たるべき時が来たというだけのことだな。うむ、こればかりは仕方ない。おまえが最近は楽しそうにしていると聞いて、私も嬉しく思うぞ。商人には、なるべく美味なものを何匹か見繕って献上するよう申し伝えておこう」
何やらよくわからないことを口走る父に首を傾げながらも、グレースは素直に感謝した。
「ありがとうございます、陛下」
今日も憎たらしいくらいに晴れ渡っている夏空を見上げ、グレースは溜息を吐いた。
十日ほど前には、海鷲の羽に煽られて嵐のように荒れ狂い、驚くほど乱高下していた気持ちも、今は冬の曇天のように重く沈んでいる。
退屈な代わり映えのしない宮殿での日々は、それでも、ひと月、半年、一年とあっという間に過ぎていたはずなのに、どういうわけかあの日から、一日がとても長く感じられて仕方がない。
痛めた足のせいでしばらく自由に歩き回れなかったのも、鬱々とした気持ちになった原因の一つだとは思うが、すっかり回復しても、走ったり飛んだり跳ねたりといった浮かれたことをしたい気持ちにまったくならない。
淑女はそんなことはすべきではないとわかっているけれど、すっかりやる気が失せていた。
「はぁ……」
再び溜息を吐いたグレースは、起きっぱなしの寝間着姿、髪も下ろしたままという、なんともやる気のない姿で椅子に腰かけ、窓辺で頬杖をついていた。
皇女としてはいついかなる時でも、人前に出て恥ずかしくない格好をするのが当然だ。
美しくて当たり前、美しくないのが例外。世の中の人々は――皇族という生き物と縁のない人々はとくに、皇女や皇子というものはくしゃみ一つ、欠伸一つしないと思っているかもしれない。
もちろん、グレース自身、そんな世間の理想像をいささかぶち破っている自覚はあるけれど、それでも最低限の皇女らしさは保っていた。
これまでは、どんなに気分が乗らなくとも、どんなにうんざりするような出来事に見舞われても、寝起きのままダラダラ過ごしたことはない。息苦しいコルセットは別として、庭に飛び出せるくらいの格好はしていた。
でも、今はまったくその気が起きない。
アランが再びラティフィアに来るまで、ひと月。
ものすごく会いたいわけではない……はずだが、たったひと月が遥か彼方まで続いているように思えてしかたがない。
「はぁ……」
三度目の溜息を吐いたとき、ふと晴れ渡った空に黒い点が見えた気がした。
「……?」
既視感を覚えて目を凝らし、ぐんぐん迫ってくるそれが大きな鳥だと気付いた瞬間、グレースは思わず窓を閉めそうになり、その結果起きた出来事を思い出して手を止めた。
バサバサという音。ブワッと吹き付ける風。そして、潮の香りを運んできた海鷲は、ややつんのめったものの、無事に窓枠に着地した。
尾羽は白く、黄色く鋭い嘴と大きな鉤爪は迫力満点。一度見てはいるものの、間近にすると予想以上の大きさだ。
ジロリと鋭い金色の瞳で睨まれ、グレースはごくりと唾を飲み込んで、まずは挨拶する。
「…………ごきげんよう」
海鷲は軽く頷くと、鋭い嘴で乱れた羽を整え、グレースへと近づくように窓枠を伝って来る。
「何か、用かしら?」
明らかに鳥であって、鳥以外の何物でもないが、一応、訪問の目的を尋ねてみる。
「…………」
当然沈黙が返ってきたが、海鷲の視線は侍女が置いていったまま放置されているテーブルの焼き菓子の上に注がれている。
「まぁ……せっかくですから、お茶でも?」
海鷲に菓子を与えていいものかどうか甚だ疑問ではあったが、持って来なければ行くぞとばかりに、その太い足にぐっと力が込められるのを見て、グレースは立ち上がった。
一応、小皿に取って海鷲の目の前の高さに捧げてみる。
「どうぞ召し上がれ」
海鷲は、すかさずその鋭い嘴で可愛らしい小鳥の姿をした焼き菓子をひと突きする。
「きゃっ」
思った以上の衝撃に、グレースは危うく皿を取り落としそうになった。
海鷲はよろめいたグレースを一瞥すると、呆れたような眼差しを向け、器用に焼き菓子を嘴で取り上げて窓枠に置き、滅多刺しにして破壊した。
「…………」
細かく砕いた焼き菓子をつつく海鷲に、お茶の代わりに水が必要かと思ったが、滅多刺しにされても問題なさそうな器が生憎見つからない。
仕方なく、浴室に置いてあった大きめの盥に浅く水を張って戻れば、菓子は綺麗になくなっていた。
「水でもいいかしら?」
海鷲の生態について、ちゃんと調べておくのだったと後悔しつつ、床に置く。
「あの、盥で申し訳ないけれど、どうぞ」
次からは、エサ用の器を用意してもらおうと思いながら盥を指さすと、海鷲は心得たとばかりにふわりと窓枠から飛び降りて、盥に突っ込んだ。
「え」
てっきり飲むのだと思っていたグレースは、盥に突っ込んだ海鷲がバッシャバシャと水をはね散らかし、何かを探すように盥を突く様を見て、しばし呆然とした。
はねた水が頬にかかった冷たさで我に返り、水浸しの惨状に愕然としていると、盥の中からこちらを見上げる海鷲と目が合う。
『まぎらわしい真似をして、ぬか喜びさせるんじゃない』
聞こえるはずのない声が、聞こえた気がした。
「……もしかして……魚が入っていると思ったのかしら?」
そうだ、と言わんばかりに大きな羽を上下させて抗議する姿に、グレースは引きつった笑みを返した。
「………次からは、生きのいい魚をご用意しますわ」
それでいいと言うように、大きく頭を振った海鷲は、盛大に盥をひっくり返して飛び立った。
「――っ!」
その姿はあっという間に小さな点になって空に消えた。
「あれは……外で飼うべき生き物だわ」
そもそも海鷲を飼うことはできないのかもしれないが、間違いなく室内向けではない。
グレースは、それこそ嵐の後のような部屋の惨状にめまいを覚えつつ、落ちていた一枚の大きな羽を拾い上げ、羽の色と同じ瞳を思い出し、「はぁ……」と四度目の大きな溜息を吐いた。
「あの、生きた魚が欲しいのだけれど」
厨房に皇女が現れたというだけでも、料理人たちの間には緊張が走ったようだが、グレースの用向きを聞いた彼らは、一様に顔を見合わせた。
「……それは……観賞用に、ということでしょうか」
恐る恐る問い返したのは、恰幅のいい艶々した丸顔の料理長だ。
グレースが幼い頃から料理長を務めている人物で、宮殿に住まう皇族の食の好みを知り尽くしている。
「いえ、食用に」
「ええと……生きたまま、食べると?」
「そうね。多分」
海鷲の訪問を受けたその翌日。グレースは宮殿の図書室の蔵書を読み漁った。
古今東西、様々な国の書物で溢れかえる図書室には、海鷲について書かれた本が二冊ほどあり、その生態をつぶさに調べた結果、彼らは主に水辺に生息しているものの、魚以外にもキツネやウサギ、小鳥などを食べる、肉食でもあるらしい。大型な動物も食べるが、自分で狩れないものは死骸を食べる。
とは言え、海鷲もできれば新鮮なものを食べたいだろう。
ただ、キツネやウサギや小鳥などが狩られる様を目の前で観察する勇気はなかったので、やはり魚を用意することにした。
アランは、事前に訪問のお伺いを立てるよう海鷲に言っておくと世迷言を口にしていたが、そんなことができるはずもない。
いつ突撃されても大丈夫なように、部屋で飼っておけばいい。
しかし、そんなグレースの思い付きに反し、料理長は申し訳なさそうな顔になった。
「グレース様……そのう、大変申し訳ないのですが、厨房に運ばれてくる魚は、既に死んでおりまして」
「…………そうなの?」
「ええ」
てっきり、ザックリバッサリ、厨房でやられているのだとばかり思っていた。
「もしも、生きたままのものをお求めなら、出入りの商人に申し付けましょうか」
「え……いえ、いいわ、その……他の手を考えてみるわ」
「そうですか? その、死んだ魚でもよければ、お渡しできますが」
生きた魚を手に入れる算段をしている間に、海鷲が来てしまってはいけない。
グレースは、とりあえず死んだ魚で手を打つことにした。
「では、死んでいる魚でいいわ」
「一応、涼しい場所に置けばある程度は持ちますが、一晩もすれば悪くなってしまいますので」
「わかりました」
料理長は、こぎれいな盥にグレースが両手で抱えられそうなくらいの重さになるよう、小さい銀色の魚を五匹ほど入れてくれた。
「……本当に、料理せずともよろしいので?」
「ええ、大丈夫よ。素材の味で十分だわ」
海鷲は食通だとは書かれていなかったので、大丈夫だろう。
「そ、そうですか……」
何故か引きつった笑みを見せる料理長に礼を言って、いそいそと部屋まで運ぶ。
侍女か侍従に頼むべきだったかもしれないが、誰かへの贈り物を人任せにするのはよろしくない。
生きの良さも確かめたかったし、厨房で生きた魚が手に入らないということも学んだ。
これはこれで、なかなかに有意義な体験だ。
目的の物を手に入れて、上機嫌で部屋へと戻ったグレースは、二日ぶりに窓枠に佇む海鷲を見て目を見開いた。
「あら……ようこそ。ちょうどよかった。たった今、仕入れたばかりよ」
死んではいるが、まだ新鮮なはずだ。
グレースが「どうだ!」とばかりに盥を床へ置くと、海鷲は「待ってました!」とばかりに部屋へ飛び込んできて、盥の中の魚を突きはじめた。
どんな風に食べるのか興味があったグレースは、最初のうちはその様子を眺めていたのだが、引きちぎられた魚から迸る鮮血や内臓といったものに、耐えられなくなって目を逸らした。
「うっぷ……」
魚の匂いに気持ち悪くさえなってきて、ソファーによろよろと横たわる。
考えてみれば、人間だって、食べているのをじっと見つめるなんて真似はしない。
はしたないかつ、不用意な行動だったと反省し、海鷲の食事が終わるまで、クッションに顔を埋めて耐えた。
「…………」
しばらくして、音が消え、ぐいっと何かにドレスの裾を引っ張られて顔を上げると、ソファーの横に海鷲がいた。
バッと身を起こし、背筋を伸ばして引きつりながらも微笑む。
「ご満足いただけたかしら?」
盥の魚は綺麗に消えており、海鷲は満足だと言うように羽を広げた。
「できれば、生きた魚を用意したかったのだけれど、簡単ではなくて……。次に来るときまでには、用意できるようにします」
「…………」
海鷲は大きく頷くと、用は済んだとばかりに飛び立った。
翌日、グレースは珍しいもの好きな父、皇帝に目通りを願い出た。
「おお、グレースか。おまえの方から会いたいと言ってくるなんて、珍しいな」
「お忙しいところお時間を割いていただき、ありがとうございます」
朝に申し込んで、その日の昼過ぎには執務室に呼ばれたグレースは、忙しい父が融通を利かせてくれたことに礼を述べた。
大国、カーディナル帝国の皇帝は、毎日大勢の人間と会うのが仕事でもある。
通常であれば、いくら家族であっても急な面会が叶わないのだが、一年に一度あるかないかのグレースからの面会希望とあって、優先してくれたのだろう。
愛情豊かとまではいかないが、冷酷な父でもない。
「して、ようやくこうして来たからには、何か大事な話でもあるのだろう?」
まるで、グレースがこうしてやって来ることを知っていたかのように、身を乗り出して尋ねてくる様子を訝しく思いつつ頷く。
「はい。その、陛下にいつも色んな生き物を献上している商人を紹介していただきたく……」
「……生き物?」
「生きた魚が欲しいのです」
「生きた魚? グレース……先日、料理長から死んだ魚を手に入れて部屋に持ち込んだという話は、本当だったのか?」
どうして知っているのだろうと思いかけ、そう言えば昨日血塗れの盥を片付けてほしいと頼んだところ侍女が悲鳴を上げて腰を抜かし、ちょっとした騒ぎになったことが耳に入ったのだろうと納得する。
「ええ」
「食べたのか?」
「はい」
「…………で、今度は生きた魚を生きたまま、食べる気か?」
「その方が新鮮でしょうし、海辺や河畔ではそうしているようですので」
たとえ相手が海鷲であっても、訪問客である。
もてなすために、できる限りのことをするのは当然だろう。
何か問題があるのかとグレースが見つめると、広大な領土を如才なく治める皇帝は額を押さえて俯いた。
「おまえがそこまで覚悟を決めているとは知らなかった。いや、その、陸のものにも興味はないようだったが、海のものは見た目と違って結構荒々しいところがある。てっきり嫌いだろうと思っていたのだが……」
「確かに迫力はありますが、何でもかんでも襲ったりはしませんわ。優しいところもあるようですし」
本によれば、狩りはするものの、海鷲はけっして凶暴な性格ではない。
一雄一雌で繁殖し、浮気もしない愛情深い鳥でもある。
それに、海鷲はとても美しいとグレースは思う。
焦茶色と白と黄色のコントラストは素晴らしく、大きな翼と共に青空だけでなく、冬の雪原にも映えるだろう。
「襲う……いや、まさかな……しかし……あー、グレース。ちなみに、どのくらいの回数だ?」
「三度ですわ。宮殿に住んでいるわけではありませんし、そう頻繁には顔を見せられないでしょう」
「……三度……そうか。手遅れか」
「はい? 手遅れ?」
「いや、ついに来たるべき時が来たというだけのことだな。うむ、こればかりは仕方ない。おまえが最近は楽しそうにしていると聞いて、私も嬉しく思うぞ。商人には、なるべく美味なものを何匹か見繕って献上するよう申し伝えておこう」
何やらよくわからないことを口走る父に首を傾げながらも、グレースは素直に感謝した。
「ありがとうございます、陛下」
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