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霧笛

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「おはよう、メル」
「メルリーナ!」

 なかなか起きないディオンを無理矢理揺さぶり起こし、部屋で朝食を取ったメルリーナは、ラザールの顔を見てから、フランツィスカとの約束を果たそうとその部屋を訪れたが、嬉しそうなラザールだけでなく、意外な先客に出迎えられて驚いた。

「お、おはよう……ございます……船長、ゲイリーさん」

「おう。元気そうだな? 歩ける程度で済んだなんて、信じられねぇな」

 ラザールの寝台の傍には、いつものようにきっちりと身なりを整えたゲイリーと、いつものようにだらしなく髭も伸ばしっぱなし、シャツの襟も盛大に開けっ放しのブラッドフォードがいた。

「若いくせに、意外と……」

 ニヤニヤ笑うブラッドフォードに、ディオンがむっとするのを感じ、慌てて袖を引く。

「ディー……」

「別に、殴り合ったりはしない」
 
 そう言いながらも拳を握りしめるディオンにハラハラしていると、ゲイリーがにっこり笑って火に油を注ぐようなことを言う。

「昨日は、メルがあんまり綺麗だったから、ついちょっとした悪戯をしてごめんね? 大丈夫だったかい? まぁ、まさかあんなわかりやすい悪戯を本気にして、嫉妬に狂って抱き潰す……なぁんて、まるっきりガキのような青臭い真似をする馬鹿はいないと思うけど」

「……っ!」

 今にもゲイリーに突進しそうなディオンに、メルリーナはしがみつくようにして抱きついた。

「ディー!」

 小声で窘めるように呼べば、ディオンは目を伏せて深呼吸を繰り返した後、冷ややかな眼差しでゲイリーを見返した。

「うるさく吠える番犬が、どこにどんな印を残そうとも、全部俺が上書きするから意味はない。誰にだって、ドレスや宝石でメルを美しく着飾らせることは出来るだろうが、脱がせることは出来ない。一番美しいメルの姿を見られるのは、俺だけだ」

 ディオンの発言に、決して自分から脱いだわけではないと、メルリーナは恥ずかしさのあまりその胸を叩いた。

「でぃ……ディーっ!」
 
「着飾った自分の恋人の美しさを自慢しないなんて、もう一度、生まれ変わって女性の扱い方を勉強し直した方がいいんじゃないかな?」

 ゲイリーは、そんなディオンの発言に、一段声を低くして更に挑発する。

「ちゃんと勉強してるっ!」

「へぇ? じゃあ、よっぽど出来が悪いんだね」

「……っ!」

 メルリーナごとゲイリーに掴みかかりそうになったディオンだったが、フランツィスカを連れて現れたセヴランにより、即座に押しとどめられた。

「病人の部屋で何を暴れているんですか? ディオン様」
「おまえこそ、朝っぱらから青い真似すんじゃねぇよ、ゲイリー」

 ブラッドフォードもゲイリーの肩を掴んで引き戻し、取り敢えず流血の惨事は回避された。

 睨み合う二人を面白そうに眺めていたラザールは、セヴランと共にやって来たフランツィスカを見ると優しく微笑んだ。

「朝からうるさくてすまんな、フランツィスカ王女」

「いえ、賑やかなのは嫌いではありませんから」

 フランツィスカは、メルリーナと目が合うと微かにその美しい笑みを強張らせたが、それも一瞬だけのことだった。

「ああ、それならよかった。暇を持て余しているジジイに、美しい女性二人の勝負を見学させてほしくてな」

「そうでしたの。私は、全然構いません。メルは?」

 フランツィスカは、周囲に人がいようが勝負に影響はないと微笑む。

「私も、大丈夫です」
   
 ここ一年あまり、船の上や寄港地の酒場など、大勢の人がいる場所でチェスをすることにもすっかり慣れたメルリーナも、構わないと頷いた。

「そう来なくては! セヴラン!」

 ラザールは、身を乗り出してセヴランに早くチェス盤を用意しろと強請った。

「すぐに用意いたします」

 いつでも抜かりのないセヴランが合図すると、普通のチェスセットの二倍はありそうな大きなチェスセットがテーブルや椅子のセットごと運ばれて来て、ラザールの寝台のすぐ傍に据えられた。

「昔訪れたある国では、屋外にこれよりもずっと大きな石造りのチェスがあって、町の子供や大人たちが遊んでいた。ディオンがこちらで暮らすようになったとき、作ってみようかと思ったんだが、あまりにもチェスが弱くて、教えるのに手いっぱいで忘れていた」

「そうだったんですか。でも、カーディナルにいた頃、ディオンはチェスがとっても強くて、私や友人たちは全然勝てなかったんです。メルには勝てなかったとは聞いていたけれど、そんなに弱かったなんて、信じられないわ」

 さっそくメルリーナと向かい合うようにして座るフランツィスカの言葉に、ラザールは苦笑しながら首を振る。

「メルリーナのお陰だ。適度に手加減して、ディオンの自尊心を潰さずにいてくれたからな」

「そうなんですね。ディオン、だからあなたメルには頭が上がらないのね?」

「……さっさと始めろよ。午後には、出るんだろ」

 ディオンに促され、フランツィスカはわざとらしくむっとした顔をする。

「邪魔者は、さっさと追い出したいってわけね?」

「そうじゃない。ただ、出るのが遅くなると宿場町へ入るのが遅くなって、危ないからだ」

 宿場町、とはどういうことだろう。
 フランツィスカはどこかへ行くつもりなのだろうかと、メルリーナが首を傾げていると、ゲイリーがメルリーナの問いを代わりに口にしてくれた。

「宿場町? フランツィスカ王女はリヴィエールを離れるつもりで?」

「ええ。カーディナルへ向かいます。海路よりも陸路の方が、エナレスは手を出しにくいはずですから、街道も整備されたリヴィエールから向かうのが一番の近道と考えています」

「なるほどな……最初から、船は捨てる気だったわけか。だから、大した装備もなかった」

 ブラッドフォードの声にはどこか非難めいた響きがあり、フランツィスカも感じ取ったのだろう。表情を強張らせた。

「……犠牲を覚悟の上で出港したのは事実ですが、犠牲を望んでいたわけではありません」

「これで、カーディナルの援助を取り付けられなかったら、あいつらは無駄死にだな」

「そうはさせません。リーフラントをエナレスには渡さない。カーディナルが駄目なら、他の手を考えます。幸い、こうしてウィスバーデンとの繋がりも得たことですし、海から守ることが出来ないなら、陸から守ることを考えます。いつ自国に飛び火するかわからないとウィスバーデン国王もお考えのはず。きっと、こちらの話に耳を傾けてくれるはずですから」

 自分を生かすために払われた犠牲はわかっている。だからこそ、泣き暮らしたりはしないのだとブラッドフォードを真っ向から見つめ返したフランツィスカに、メルリーナは自分もそんな風になれるだろうかと思った。
 同じようにはなれなくとも、少なくとも、選んだ道を後悔せずに進んで行ける強さを持っていたいと思った。

「模範的な回答だね、フランツィスカ王女。でも、少しくらい弱いところを見せた方が可愛げがあると思うけど?」

 ゲイリーの緊張感のない発言に、フランツィスカはあからさまに不愉快だという表情になる。

「必要ならば、そうします」

「ますます、可愛くないねぇ……男心を掴む一番の武器は、素直さだよ」

「それは、ということではないのでしょうか? ゲルハルト殿下」

「まぁね。確かに、僕としては策略家の王女様より、素直なメルの方が可愛いと思うけど」

「……」

 フランツィスカは、これ以上話すことはないと言うように、ゲイリーから目を逸らすと、メルリーナに微笑みかけた。

「そろそろ、始めましょうか。メル」


◇◆


 フランツィスカは、その性格通り、迷いのない指し手だった。
 メルリーナは様子を窺うためにも敢えて先攻を譲り、向き合った盤上では、静かな勝負が始まった。

 ポーンを進め、フランツィスカがビショップを動かすと、ナイトを動かす。
 更に中央に切り込んで来たポーンを横目に、もうひとつのナイトでポーンの壁を乗り越えた。

 フランツィスカが動かしたナイトをポーンで狙う。
 ナイトが更に奥深く入り込もうとするのをビショップで牽制する。
 ナイトを奪われたので、ポーンでやり返す。
 クイーンが始動するのを待って、こちらもクイーンを出す。

「勝負を始めてしまったけれど、賭けをしましょうか」

 不意に、フランツィスカが呟いた。

「私が勝ったら、ディオンを貰う……というのは、多分無理でしょうから……そうね、キスでいいわ」

「え……ちょっと待てよ、ファニー!」

 ディオンがあり得ない賭けの対象だと叫び、メルリーナは驚いて、思わずナイトを適当な場所へ投下してしまった。

「あ、の……」

「メルは、勝ったら何が欲しい?」

 改めて問われると、難しい。
 欲しいものはたくさんあったはずなのに、何一つ思い浮かばなかった。
 
「メルが勝ったら、僕からキスしよう」

 ゲイリーの声がし、パン、と手を叩く音がして、メルリーナは飛び上がった。

「何でおまえなんだよっ!」

 ディオンが噛みつけば、ゲイリーは涼しい顔で答える。

「そりゃ、お姫様にキスするのは王子様だからね」

「だったら、ファニーにすることになるだろ!」

 即座に言い返すディオンに、ゲイリーは首を横に倒して笑った。

「一応、選ぶ権利というものがあると思うんだけど」

「私の方こそ、ご免です。それでは、ご褒美でなく罰だもの」

「……抉ってくるねぇ、王女様は」

「お褒めの言葉、ありがとうございます」

 容赦なく言い返し、微笑んだフランツィスカはビショップをキングの前に動かした。

 メルリーナは、最初から負けるつもりはなかった。
 ディオンも、メルリーナが勝つと思っているからか、焦っている様子はない。
 それでも、勝利の可能性を残したくなかった。

「メル? 決まった?」

 フランツィスカに促されたメルリーナは、ラザールの寝台の端っこに腰かけているディオンをちらりと見遣り、頷いた。

「はい。何も……いらないです。ただ……いつか、リーフラントを訪れたいです」

 既に、血の繋がりがあれど、家族と呼べるような人たちはいないとわかっているが、曾祖父、曾祖母に繋がる場所を訪れてみたいと思った。
 
「賭けなどしなくとも、歓迎するわよ?」

 政情が不安定な今は無理かもしれないが、いずれ落ち着いたら、いつでも訪ねてくれればいいと言うフランツィスカに、メルリーナはキャスリングを完成させ、一番言いたかったことを付け加えた。

「ディーと二人で、行きます」

 ディオンはすっと息を呑み込んで、誰が見てもわかる、嬉しそうな顔をした。

 その様子を見たフランツィスカは一瞬、泣きそうな顔をしたが、メルリーナが見つめていることに気付くとすぐに美しい笑みへと差し替えて、頷いた。

「ぜひ来て頂戴! 歓迎するわ」

「ありがとう、ございます」

 言いたいことを言い切ったメルリーナは、サクリファイスを仕掛けた。

 ナイトを囮にして奪わせ、道を開ける。

 そしてもう一度、サクリファイスを仕掛ける。
 一息にルークを敵陣へ突撃させれば、フランツィスカのルークに奪われた。

 ルークがキングに寄り添う間に、クイーンでチェック。
 キングはチェックを一度は逃れるが、ポーンでキングの隣にいたルークを奪うと同時に、ポーンがクイーンにプロモートする。

 フランツィスカが目を見開いた。
 
 そこからチェックすれば、もう白にはどうすることも出来ない。
 既に、リザインもステイルメイトも許さない状況だ。

 今日だけは、はっきりと決着を着けたかったから、メルリーナは普段口にすることのない止めの言葉を静かに告げた。

「……チェックメイト」
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