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細波 2
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ラザールは、ブラッドフォードの要求に驚きはしなかったが、問い返した。
「何のためだ?」
「メルの母親の身元を確かめるためだ。ウィスバーデンに、異母妹がいるかもしれないんだ」
「……ジゼルの家族が?」
「家族、というのとは違うな。ただ、半分ばかり血の繋がりがあるかもしれない」
顔を合わせたこともない相手を家族とは言えないだろう。
ブラッドフォードの説明を聞いたラザールは、しばし難しい表情で黙り込んでいたが、メルリーナに寝台の横に置かれた小さなチェストの一番上の引き出しを開けるように言った。
「そこに入っている」
引き出しの中には、アデルが持っていたのとは比べ物にならないくらい質素で小さな木箱があった。
間違いなくメルリーナが預けたものだ。
蓋を開ければ、小さな銀の巻貝の中に一粒の真珠と青い宝石が埋め込まれた首飾りがある。
右巻きの貝は、アデルが持っていた左巻きの貝とほぼ同じものだった。
「そっくりだな」
「同じものだろうね」
横から覗き込んだブラッドフォードとゲイリーも、まず間違いないだろうと頷き合う。
「同じ品を持っている人物が、それだと?」
ラザールの問いに、ゲイリーは柔らかな笑みを浮かべた。
「今はまだ、誰とは言えませんが、悪企みに利用しようとしているわけではありません。こちらにもそれ相応の事情があって、確証が得られるまでは内密にしておきたいのです」
口調は丁寧だが、その緑の瞳は鋭い光を浮かべている。
「ハワード国王絡みか」
ズバリと言い当てたラザールに、ゲイリーはますます笑みを大きくして「どうでしょう」とはぐらかす。
「なるほどな。ハワード国王は女に弱いと有名だからな。寵妃のうちの誰かと繋がりがあるということか」
「……」
そこだけがハワードの欠点だと首を振るラザールを見下ろすゲイリーの笑みが、微かに引きつった。
「チェス狂いでも知られているから、メルリーナを気に入ったんだろう?」
「ああ。下手したら、ウィスバーデンの王城に閉じ込めかねないところだった」
押し黙るゲイリーの代わりに、ブラッドフォードが答えた。
「あのオッサンは、勝つまで止めないからな」
「ほう……で、メルリーナには勝てたのか?」
「いいや。だから、もう一度、メルをウィスバーデンへ連れて行かなくちゃならねぇ」
ブラッドフォードがそう告げるなり、ラザールの表情が急に険しいものになる。
「行ったっきり、というわけではないだろうな?」
「そ、それは……」
戻って来る、と言いかけたメルリーナをゲイリーが遮った。
「そうなるかもしれません。ウィスバーデンなら、メルはここにいるよりもずっと自由で気楽に過ごせるはずです。優しい親戚もいるし、ヴァンガード号の乗組員たちとはそれこそ家族のように親密ですし、ハワード陛下もメルを気に入っている。自分も、メルにはウィスバーデンで暮らして欲しいと思っていますから」
「リヴィエールは、メルリーナにとって故郷だ。故郷を離れて暮らすほどの思いを、そっちに抱いているとは思えんが?」
「今はまだ、というだけのことです」
「ふん。自信があるのか?」
「少なくとも、自分ならばメルがしたいと思うことを手助けすることも、導くことも出来る。闇雲に引きずり回して、強引に繋ぎ止めるような真似はしない」
何となく、ディオンのことを言っているのだとわかり、メルリーナは気まずくなる。
ディオンにそんなつもりはないとわかっているけれど、他人から見ればそう見えるだろう。
ラザールも苦い表情で溜息を吐いた。
「アレの不器用で不甲斐ないところは、一体誰に似たものか……まぁ、今のままでは勝ち目はなさそうだが、最終的に決めるのはメルリーナだ」
ラザールとゲイリーにじっと見つめられ、メルリーナは今ここで答えなくてはいけないのかと焦った。
まだ何も決めていないし、考えてもいなかった。
まずは、母ジゼルが間違いなくアデルと異母姉妹であるかどうかを確かめるつもりだった。
ディオンとの再戦の約束も果たさなくてはならないとわかっているけれど、フランツィスカのこと、エナレスの件が片付くまでは、後回しになるだろうと思っていた。
「あ、あの……わ、私はっ……」
「何、焦ることはない。まずはメルリーナが優先したいことをすればいいんだ。ウィスバーデンへ一度戻ってもいいし、再戦の約束を反故にしたところで、メルリーナがそうしたいと思うのなら、それでいい。無理をすることはないし、ディオンの勝手な言い分を聞く必要もない」
「でも……ディーとは、約束したから……」
ディオンとの約束をなかったことにしたくない、とつい本音を漏らせば、ラザールは苦笑した。
「勝負は、迷いなく勝つと思えるときにすべきだ。ウィスバーデンに後ろ髪引かれた状態では、いくらディオン相手でも負けてしまうぞ?」
きゅっと唇を引き結んで視線を彷徨わせていると、ラザールが「少し、疲れたな」と呟いた。
「ご、ごめんなさいっ! 長い時間、お話させてしまって……」
慌てて横になるのを手伝い、細い身体に毛布をしっかりとかけてやる。
乱れた灰色交じりの髪を撫でつけるように手を伸ばせば、目を細めて笑った。
「マクシムが羨ましがるに違いない」
メルリーナがくすりと笑うと、ラザールは優しい眼差しと共に、髪を整えたメルリーナの手を軽く握って囁いた。
「ギュスターヴとジゼルとの間に、何があったのか、確かめてみてはどうだ?」
「え……」
父ギュスターヴと母ジゼルの間に何があったのか、知りたいと思わなかったと言えば嘘になる。
でも、知りたいと思う一方で、知るのが怖くもあった。
ギュスターヴがどれほどジゼルと自分を憎んでいるのか、はっきり聞かされるかもしれないと思うと、怖かった。
マクシムとギュスターヴの仲違いの原因も、母にあるような気がしていたから、尚更尋ねられなかった。
「今なら、聞く勇気があるだろう?」
知らないままでもいいかもしれない。
でも、いつか聞こうと思っていても、聞けなくなるかもしれない。
「は、い……」
躊躇いながらも、今ならばギュスターヴと向き合えるのではないかと思った。
ソランジュやオルガに対しても、あの邸へ戻ることはないと思えば、昔のようにビクビクする必要はない。
「聞くだけ聞いて、後は忘れるなり、怒るなりすればいい。対岸へ渡りたいと思うだけでは、駄目だ。船を出し、漕ぎ出さなくては辿り着けないし、本当の姿を見ることはかなわない」
ラザールは目を瞑り、夢見るように呟いた。
「美しいと思っていたものが、近づいてみればそうではなかったり、醜いと思っていたものが、近づいてみれば……美しかったり、するものだ」
すうっと眠りに入る様子に、このまま逝ってしまうのではないかと驚いたが、その表情も呼吸も穏やかだった。
「かなり、無理をしてたんだろうよ」
ブラッドフォードは、長居してしまったことを悔やむように呟いた。
「とにかく、メルに会いたかったんだろうね」
ゲイリーは、メルリーナが手放して寝台の上に置いたままにしていた木箱を取り上げると、中から首飾りを取り出した。
「着けてあげるよ。持って歩くより、安全だからね」
「え、あのっ」
自分で出来ると言うより先に、ゲイリーはメルリーナの後ろに立って束ねている髪を優しく払い、あっという間に首飾りの留め金を止めてしまった。
少し冷たいものが胸元に落ち、見下せば巻貝から海と真珠が覗いていた。
「うん、よく似合っているよ」
ゲイリーは、振り返ったメルリーナに手を貸して立たせながら、満足そうに笑う。
「このまま引き揚げてぇな」
幸い、セヴランもディオンもいないから、こっそり逃げ出してもバレないだろうと言うブラッドフォードに、ゲイリーは「沈められたいのなら、どうぞ」と冷たい。
「引き揚げるにしても、公爵夫妻にご挨拶くらいはしておかないと。それに、やるべきことをやっておかないと、後から痛い目を見る。ウィスバーデンは取り敢えず関わり合いになりたくないってことと、こちらの用事の邪魔をするなってことは、言っておかないと後から陛下にドヤされるだろうし……それにしつこくメルに付きまとう鳥を撃ち落としておかないとね」
メルリーナとしては、もう少しラザールの傍にいたい気もしたが、眠りの邪魔をするのも気が引ける。
また明日会いに来ようと決め、ブラッドフォードたちと共に部屋を出ると、セヴランが待っていた。
「ゆっくりお話し出来ましたか? メルリーナ様」
「はい。でも、疲れさせてしまったみたいで……今は、眠っています」
「いつもあまり長くは起きていられないのですが、メルリーナ様が傍にいれば眠るのが勿体ないと思われたのでしょう。無事にお戻りになったことですし、安心してお休みになられたに違いありません」
セヴランは、公爵夫妻の下へ案内すると先に立って歩き出す。
無駄とわかっていながらも、メルリーナはラザールの病気は治らないのかと尋ねてしまった。
「長年の航海で負った古傷もあるでしょうが、船長の……ラザール様の親しい人がみな、この世を離れて、気落ちしてしまっているのです。航海長が亡くなってからは、特に」
ラザールの妻は、随分昔に亡くなっているし、乗組員たちも大半が老いてこの世を去っている。
チェスの好敵手だったマクシムがいなくなってからは、メルリーナがその相手を務めていたとはいえ、多くの思い出を分かち合うことは出来なかった。
「本心では、メルリーナ様とディオン様が傍にいてくれればいいと思っているのでしょうが、指摘すれば、そんな気弱なことを口にするほど落ちぶれてはいないと言うでしょうね」
セヴランの言葉に、メルリーナの半歩後ろを歩いていたゲイリーが言い返す。
「ご老人の望みを叶えてあげたいとは思うけれど、残念ながらメルはリヴィエールには残らないよ」
ゲイリーは、先ほどからしきりにメルリーナがウィスバーデンで暮らすようなことを言うけれど、何もまだ決めていない。
後でちゃんと説明しようとメルリーナは心に決めた。
ゲイリーの言動は、とにかくディオンを刺激しすぎる。
一年前に比べたら、格段に大人になったように見えるディオンだが、一生懸命癇癪を起さないよう、メルリーナを強引な行動で振り回したりしないよう、我慢していることは見え見えだった。
セヴランは、すっとその目を細めてゲイリーを一瞥したが、何も言わずにいい匂いの漂う一角へとメルリーナたちを誘った。
「アラン様が、ぜひ夕食をご一緒に楽しみながら、ゆっくりお話したいとのことです」
開かれた扉の向こうは十人程度が座れる長いテーブルが据えられた食堂で、既にアランとグレース、それぞれの横に、ディオンとフランツィスカが席に着いていた。
単なる儀礼的な挨拶をすれば解放されると思っていたらしいブラッドフォードは、あからさまにうんざりした顔で「詐欺だろ」と呟いた。
「楽しみながらゆっくりなんて、出来るわけねぇだろうが」
どう見ても緊張せずにはいられない顔ぶれだろうとぼやくブラッドフォードに、メルリーナも心の底から同意した。
「何のためだ?」
「メルの母親の身元を確かめるためだ。ウィスバーデンに、異母妹がいるかもしれないんだ」
「……ジゼルの家族が?」
「家族、というのとは違うな。ただ、半分ばかり血の繋がりがあるかもしれない」
顔を合わせたこともない相手を家族とは言えないだろう。
ブラッドフォードの説明を聞いたラザールは、しばし難しい表情で黙り込んでいたが、メルリーナに寝台の横に置かれた小さなチェストの一番上の引き出しを開けるように言った。
「そこに入っている」
引き出しの中には、アデルが持っていたのとは比べ物にならないくらい質素で小さな木箱があった。
間違いなくメルリーナが預けたものだ。
蓋を開ければ、小さな銀の巻貝の中に一粒の真珠と青い宝石が埋め込まれた首飾りがある。
右巻きの貝は、アデルが持っていた左巻きの貝とほぼ同じものだった。
「そっくりだな」
「同じものだろうね」
横から覗き込んだブラッドフォードとゲイリーも、まず間違いないだろうと頷き合う。
「同じ品を持っている人物が、それだと?」
ラザールの問いに、ゲイリーは柔らかな笑みを浮かべた。
「今はまだ、誰とは言えませんが、悪企みに利用しようとしているわけではありません。こちらにもそれ相応の事情があって、確証が得られるまでは内密にしておきたいのです」
口調は丁寧だが、その緑の瞳は鋭い光を浮かべている。
「ハワード国王絡みか」
ズバリと言い当てたラザールに、ゲイリーはますます笑みを大きくして「どうでしょう」とはぐらかす。
「なるほどな。ハワード国王は女に弱いと有名だからな。寵妃のうちの誰かと繋がりがあるということか」
「……」
そこだけがハワードの欠点だと首を振るラザールを見下ろすゲイリーの笑みが、微かに引きつった。
「チェス狂いでも知られているから、メルリーナを気に入ったんだろう?」
「ああ。下手したら、ウィスバーデンの王城に閉じ込めかねないところだった」
押し黙るゲイリーの代わりに、ブラッドフォードが答えた。
「あのオッサンは、勝つまで止めないからな」
「ほう……で、メルリーナには勝てたのか?」
「いいや。だから、もう一度、メルをウィスバーデンへ連れて行かなくちゃならねぇ」
ブラッドフォードがそう告げるなり、ラザールの表情が急に険しいものになる。
「行ったっきり、というわけではないだろうな?」
「そ、それは……」
戻って来る、と言いかけたメルリーナをゲイリーが遮った。
「そうなるかもしれません。ウィスバーデンなら、メルはここにいるよりもずっと自由で気楽に過ごせるはずです。優しい親戚もいるし、ヴァンガード号の乗組員たちとはそれこそ家族のように親密ですし、ハワード陛下もメルを気に入っている。自分も、メルにはウィスバーデンで暮らして欲しいと思っていますから」
「リヴィエールは、メルリーナにとって故郷だ。故郷を離れて暮らすほどの思いを、そっちに抱いているとは思えんが?」
「今はまだ、というだけのことです」
「ふん。自信があるのか?」
「少なくとも、自分ならばメルがしたいと思うことを手助けすることも、導くことも出来る。闇雲に引きずり回して、強引に繋ぎ止めるような真似はしない」
何となく、ディオンのことを言っているのだとわかり、メルリーナは気まずくなる。
ディオンにそんなつもりはないとわかっているけれど、他人から見ればそう見えるだろう。
ラザールも苦い表情で溜息を吐いた。
「アレの不器用で不甲斐ないところは、一体誰に似たものか……まぁ、今のままでは勝ち目はなさそうだが、最終的に決めるのはメルリーナだ」
ラザールとゲイリーにじっと見つめられ、メルリーナは今ここで答えなくてはいけないのかと焦った。
まだ何も決めていないし、考えてもいなかった。
まずは、母ジゼルが間違いなくアデルと異母姉妹であるかどうかを確かめるつもりだった。
ディオンとの再戦の約束も果たさなくてはならないとわかっているけれど、フランツィスカのこと、エナレスの件が片付くまでは、後回しになるだろうと思っていた。
「あ、あの……わ、私はっ……」
「何、焦ることはない。まずはメルリーナが優先したいことをすればいいんだ。ウィスバーデンへ一度戻ってもいいし、再戦の約束を反故にしたところで、メルリーナがそうしたいと思うのなら、それでいい。無理をすることはないし、ディオンの勝手な言い分を聞く必要もない」
「でも……ディーとは、約束したから……」
ディオンとの約束をなかったことにしたくない、とつい本音を漏らせば、ラザールは苦笑した。
「勝負は、迷いなく勝つと思えるときにすべきだ。ウィスバーデンに後ろ髪引かれた状態では、いくらディオン相手でも負けてしまうぞ?」
きゅっと唇を引き結んで視線を彷徨わせていると、ラザールが「少し、疲れたな」と呟いた。
「ご、ごめんなさいっ! 長い時間、お話させてしまって……」
慌てて横になるのを手伝い、細い身体に毛布をしっかりとかけてやる。
乱れた灰色交じりの髪を撫でつけるように手を伸ばせば、目を細めて笑った。
「マクシムが羨ましがるに違いない」
メルリーナがくすりと笑うと、ラザールは優しい眼差しと共に、髪を整えたメルリーナの手を軽く握って囁いた。
「ギュスターヴとジゼルとの間に、何があったのか、確かめてみてはどうだ?」
「え……」
父ギュスターヴと母ジゼルの間に何があったのか、知りたいと思わなかったと言えば嘘になる。
でも、知りたいと思う一方で、知るのが怖くもあった。
ギュスターヴがどれほどジゼルと自分を憎んでいるのか、はっきり聞かされるかもしれないと思うと、怖かった。
マクシムとギュスターヴの仲違いの原因も、母にあるような気がしていたから、尚更尋ねられなかった。
「今なら、聞く勇気があるだろう?」
知らないままでもいいかもしれない。
でも、いつか聞こうと思っていても、聞けなくなるかもしれない。
「は、い……」
躊躇いながらも、今ならばギュスターヴと向き合えるのではないかと思った。
ソランジュやオルガに対しても、あの邸へ戻ることはないと思えば、昔のようにビクビクする必要はない。
「聞くだけ聞いて、後は忘れるなり、怒るなりすればいい。対岸へ渡りたいと思うだけでは、駄目だ。船を出し、漕ぎ出さなくては辿り着けないし、本当の姿を見ることはかなわない」
ラザールは目を瞑り、夢見るように呟いた。
「美しいと思っていたものが、近づいてみればそうではなかったり、醜いと思っていたものが、近づいてみれば……美しかったり、するものだ」
すうっと眠りに入る様子に、このまま逝ってしまうのではないかと驚いたが、その表情も呼吸も穏やかだった。
「かなり、無理をしてたんだろうよ」
ブラッドフォードは、長居してしまったことを悔やむように呟いた。
「とにかく、メルに会いたかったんだろうね」
ゲイリーは、メルリーナが手放して寝台の上に置いたままにしていた木箱を取り上げると、中から首飾りを取り出した。
「着けてあげるよ。持って歩くより、安全だからね」
「え、あのっ」
自分で出来ると言うより先に、ゲイリーはメルリーナの後ろに立って束ねている髪を優しく払い、あっという間に首飾りの留め金を止めてしまった。
少し冷たいものが胸元に落ち、見下せば巻貝から海と真珠が覗いていた。
「うん、よく似合っているよ」
ゲイリーは、振り返ったメルリーナに手を貸して立たせながら、満足そうに笑う。
「このまま引き揚げてぇな」
幸い、セヴランもディオンもいないから、こっそり逃げ出してもバレないだろうと言うブラッドフォードに、ゲイリーは「沈められたいのなら、どうぞ」と冷たい。
「引き揚げるにしても、公爵夫妻にご挨拶くらいはしておかないと。それに、やるべきことをやっておかないと、後から痛い目を見る。ウィスバーデンは取り敢えず関わり合いになりたくないってことと、こちらの用事の邪魔をするなってことは、言っておかないと後から陛下にドヤされるだろうし……それにしつこくメルに付きまとう鳥を撃ち落としておかないとね」
メルリーナとしては、もう少しラザールの傍にいたい気もしたが、眠りの邪魔をするのも気が引ける。
また明日会いに来ようと決め、ブラッドフォードたちと共に部屋を出ると、セヴランが待っていた。
「ゆっくりお話し出来ましたか? メルリーナ様」
「はい。でも、疲れさせてしまったみたいで……今は、眠っています」
「いつもあまり長くは起きていられないのですが、メルリーナ様が傍にいれば眠るのが勿体ないと思われたのでしょう。無事にお戻りになったことですし、安心してお休みになられたに違いありません」
セヴランは、公爵夫妻の下へ案内すると先に立って歩き出す。
無駄とわかっていながらも、メルリーナはラザールの病気は治らないのかと尋ねてしまった。
「長年の航海で負った古傷もあるでしょうが、船長の……ラザール様の親しい人がみな、この世を離れて、気落ちしてしまっているのです。航海長が亡くなってからは、特に」
ラザールの妻は、随分昔に亡くなっているし、乗組員たちも大半が老いてこの世を去っている。
チェスの好敵手だったマクシムがいなくなってからは、メルリーナがその相手を務めていたとはいえ、多くの思い出を分かち合うことは出来なかった。
「本心では、メルリーナ様とディオン様が傍にいてくれればいいと思っているのでしょうが、指摘すれば、そんな気弱なことを口にするほど落ちぶれてはいないと言うでしょうね」
セヴランの言葉に、メルリーナの半歩後ろを歩いていたゲイリーが言い返す。
「ご老人の望みを叶えてあげたいとは思うけれど、残念ながらメルはリヴィエールには残らないよ」
ゲイリーは、先ほどからしきりにメルリーナがウィスバーデンで暮らすようなことを言うけれど、何もまだ決めていない。
後でちゃんと説明しようとメルリーナは心に決めた。
ゲイリーの言動は、とにかくディオンを刺激しすぎる。
一年前に比べたら、格段に大人になったように見えるディオンだが、一生懸命癇癪を起さないよう、メルリーナを強引な行動で振り回したりしないよう、我慢していることは見え見えだった。
セヴランは、すっとその目を細めてゲイリーを一瞥したが、何も言わずにいい匂いの漂う一角へとメルリーナたちを誘った。
「アラン様が、ぜひ夕食をご一緒に楽しみながら、ゆっくりお話したいとのことです」
開かれた扉の向こうは十人程度が座れる長いテーブルが据えられた食堂で、既にアランとグレース、それぞれの横に、ディオンとフランツィスカが席に着いていた。
単なる儀礼的な挨拶をすれば解放されると思っていたらしいブラッドフォードは、あからさまにうんざりした顔で「詐欺だろ」と呟いた。
「楽しみながらゆっくりなんて、出来るわけねぇだろうが」
どう見ても緊張せずにはいられない顔ぶれだろうとぼやくブラッドフォードに、メルリーナも心の底から同意した。
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