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細波(さざなみ)

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「懐かしいかい? メル」

 差し出されたゲイリーの手を取って、ボートから下り立ったメルリーナは、素直に頷いた。

 一年ぶりのリヴィエールは、相変わらずの賑わいに満ちていた。
 夕暮れ間近の港では、船乗りや客引きが声を張り上げ、食堂や道端の露店からいい匂いが漂う。
 見慣れた光景と見慣れた建物が立ち並ぶ風景に、大きく変わったところはない。

「今回ばかりは、リヴィエールで少しのんびりしたい気分だ」

 続いてボートから下りたエメリヒは、げっそりした顔で疲れ切っているのがありありとわかる。

 リーフラントの船は怪我人ごとリヴィエールが引き取り、エメリヒはようやく解放された。

 リヴィエールに着くまでの間に息を引き取ってしまった者たちは、戦闘で命を落とした者たち同様白い布に包まれ、比較的海流や潮流の影響が少ない一帯で、アンテメール海へと沈められ、結局のところ、生き残ったリーフラントの船員は二十人にも満たなかった。

 いつも陽気なヴァンガード号の乗組員たちも、どこか沈みがちではあったが、リヴィエールの港が見えて来ると、俄然元気になった。
 乗組員たちは、解放されたエメリヒを含め、二組に分かれて交代で上陸することになり、メルリーナはブラッドフォードらと一緒に、第一陣に混じって上陸した。

「おー、さすがは公爵家。立派な馬車だな。ご一緒したいところだが、今回は遠慮しておくよ」

 港の端に停まっている、リヴィエール公爵家の紋章が大きく描かれた黒塗りの馬車を見つけたエメリヒが、自分は巻き込まれたくないと両手を挙げるのを見て、ブラッドフォードは嫌そうな顔をした。

「どこへ連れて行かれるかわからねぇな。宮殿じゃなくて拷問部屋かもしれねぇぞ、ゲイリー」

「さすがにそれはないと思うよ、ブラッド。僕らを取り込んでおかなくては、リーフラントとリヴィエールが手を組んだ、カーディナルはエナレスに攻め込むつもりだ、なぁんて噂を流されるかもしれないしね?」

 今のところ、立場を明らかにしていないリヴィエールは、フランツィスカを自国に上陸させたことを、極力エナレスに知られたくないはずだった。

「その気があるとしても、時機を伺っている最中なんだ。ヘタに掻き回されたくないだろう? もしかしたら、リヴィエールの対応次第では、ウィスバーデンがエナレスに付く、ということもあり得るしねぇ?」

 お互いに利用し合うことを目論んでいるから、腹黒い会談になることは間違いないと楽しそうに笑うゲイリーこそ、物凄く腹黒いとメルリーナは思った。

「……その辺は、おまえに任せる。俺は、ジジイに挨拶したら、さっさと引き揚げる」

「えー? それは許されないと思うよ。現リヴィエール公爵は、前公爵とは違って、なぁなぁでは話を進めない性格みたいだし。僕らが単にメルを送って来たとは思っていないさ」

「ジジイの息子じゃねぇみたいだな」

「カーディナル海軍と長い付き合いがある人物だからね。その思考は海賊ではないだろうね」

「じゃあ、あの息子は隔世遺伝か? えげつない攻撃といい、脅し方といい、海賊そのものだろうが」

 そう言うブラッドフォードこそ見た目が立派に海賊だろうとメルリーナは思ったが、不機嫌なブラッドフォードを刺激してもいいことなどないとわかっているので、黙っておいた。

 ああだこうだと言い合う二人の遣り取りを聞き流しながら、人ごみの中爪先立ちになって、朝焼け色の髪を探してみるが、どこにも見当たらなくてがっかりした。

 会えなくともちゃんと我慢出来ていたのに、本物が目の前にいて、言葉を交わして、触れてしまうと、とても会いたくなる。
 港に来るときは、大抵ディオンと一緒だったからかもしれないが、繋いでくれる手がないことが心細いと思ってしまうのは、条件反射なのかもしれない。
 
「メル、どうぞ」

 馬車に乗るメルリーナのために、ゲイリーが差し出した手を握って、その違和感に気付く。
 大きくて、ごつごつしている手は、メルリーナが掴むには大きすぎて、馴染んだディオンの手とは違っている。
 
「ん? どうしたんだい? メル。心細いの?」

 半分は当たっているゲイリーの推察にドキリとして、慌てて首を振りながら馬車へ乗り込む。
 エメリヒは、扉を閉めようとした御者に自分がやると申し出た。

「じゃあ、後でな! 宿はいつものところで、店もいつものところで待っている」

「おう。ついでに、いつものヤツも頼む」

 ブラッドフォードはまた女性を侍らせる気なのかと呆れたメルリーナは、にやりと笑ったエメリヒの言葉に驚いた。

「ああ、安心しろ。ジョージアナ王女とそっくりなのを探しておいてやるから」

 エメリヒが勢いよく扉を閉めるなり、馬車が走り出す。
 メルリーナは、思わず目を見開き、まじまじと向かいに座るブラッドフォードを見つめてしまった。

「ばっ、おまっ……! ち、違うぞ、メル。そ、そういうわけじゃねぇぞ? 成長したアナを想像してヤッてるわけじゃねぇからな? そんな変態じゃねぇからな?」

 やけに慌てて否定するブラッドフォードの額には、汗が滲んでいる。

「メル、許してやって。ブラッドは、あと三、四年は待たなくちゃならないんだ。我慢しすぎて暴走する方が怖い。兄としても、アナの初めては酷い思い出にしたくない。飢えたブラッドは、とんでもなく鬼畜な行為をするだろうから」

「ゲイリーっ!」

 悲鳴のような声を上げるブラッドフォードに、メルリーナはごくりと唾を飲み込んだ。
 鬼畜な行為とは、どんなものだろう。
 想像もつかないけれど、きっと痛かったり怖かったりするに違いない。

「わかりました。船長が変態だということは、アナには黙っています」

「うん、ありがとう。ちなみに僕は鬼畜な真似はしないよ。女性の体は繊細だからね。蕩けるような気分にさせて、天にも昇るような快感を味合わせてあげたいと常々思っている」

「そ、そう、ですか……」

「メルにも、そうしてあげたいと思っているよ?」

 甘い笑みを浮かべたゲイリーにじっと見つめられ、何と答えていいかわからず、メルリーナは逃げるようにして窓の外へと視線を向けた。
 胸を突き破りそうなほど鼓動を早める心臓の音がうるさくて、項垂れたブラッドフォードの小さな呟きは、よく聞き取れなかった。 

「………俺は、変態じゃねぇ……」


◇◆


「ようこそお越しくださいました。ゲルハルト殿下、スタンリー伯爵……そして、お帰りなさい。メルリーナ様」

 懐かしいリヴィエールの宮殿で出迎えてくれたセヴランは、軍服姿ではなかった。
 つい先ほどまで船に乗っていたとは思えぬほど完璧な侍従姿をしたセヴランに、メルリーナは一気に子供の頃に時が巻き戻ったような気がした。

「公爵夫妻は、ご挨拶は後ほどさせていただきたいとのことです。すぐにラザール様のところへご案内いたします」

「何なら、ジイさんに会ったらそのまま帰るぜ」

「いえいえ。それは無理かと。ここから港までは、それなりに距離がありますので」

 暗に、アランの許可なく馬車は出さないと言うセヴランに、ブラッドフォードは舌打ちする。

「どうぞこちらへ」

 促されるままに通い慣れた道を歩きながら、メルリーナは気になっていることを口にすべきかどうか悩み、口を開いては閉じしていたが、不意にセヴランが振り返った。

「ディオン様は、フランツィスカ様を公爵夫妻のところへ案内しています」

 まるで心の内を読まれたかのようで、メルリーナは恥ずかしさに熱くなる頬を手で押さえた。

「さっさと切り上げて、ラザール様のところへ顔を出すつもりでしょう」

 もうすぐディオンに会えると聞いて、ようやく安心してセヴランの背を追って進めるようになった廊下には、奇怪な置物や絵が一年前と少しも変わらず無造作に飾られていた。

「ラザール様、失礼いたします」

 宮殿の静寂が漂う奥まった一角にあるラザールの部屋のドアを軽くノックをしたセヴランは、いつでも入室してよいと許可を得ているらしく、そのまま返事を待たずに開ける。
 そこには既にディオンが居て、寝台の上に起き上がれるようラザールに手を貸していた。

 すっかり痩せてしまった姿に驚いて立ち竦むメルリーナに、ラザールが気付き、落ちくぼんだ焦茶色の目が大きく見開かれた。

「メルリーナ!」 

 嬉しそうに笑うラザールを見るなり、メルリーナは会いたかったという気持ちに突き動かされるようにして、駆け寄った。

「よく戻ったな。元気にしていたか? すっかり日に焼けて、一人前の船乗りのようだな? うん?」

 掠れてはいるものの、昔のような豪快な笑い声を聞いた途端、どっと熱い涙が溢れた。
 寝台の脇に跪いて、骨と皮ばかりになってしまった大きな手を握り、額を押し当てるようにして蹲る。

「なんだ、まだ泣き虫のままなのか?」 

「は、はい」

 頬を滴り落ちた涙が、ラザールの手を濡らして行く。

「どうだ? 海は、船は、良かっただろう?」

「はい……」

 握りしめられていない方の手で、ラザールはメルリーナの頭を撫でた。

「ディオンと一緒にいるより、ずっと楽しかっただろう?」

「……す、少しだけ……」

 メルリーナがちらりと傍らにいるディオンを見遣り、小さな声で答えると、ラザールは苦笑した。

「ははは、少しか。いいんだぞ、遠慮などしなくて。ディオンなんかより、海の方が何百倍も大きくて広くて、自由だろう?」

「海と人間を比べる方がどうかしてますよ、お祖父様」

 憮然とした表情で反論するディオンを見上げたラザールは、にやりと笑った。

「海より大きな人間になれなければ、メルリーナにフラれるぞ」

「……」

 ディオンをやり込めたラザールは、メルリーナの後ろに控えていたブラッドフォードとゲイリーに視線を移し、深々と頭を下げた。

「この一年、可愛い孫娘に広い海を見せてくれた上に、こうして無事連れ帰ってくれたこと、礼を言う」

「礼は、口だけじゃなく物をくれ」

 即座に言い返したブラッドに、頭を上げたラザールはにやりと笑う。

「既に手配済みだ。今頃は、ヴァンガード号の船倉に船が沈むほどのワインが詰め込まれているはずだ」

 ヒュッとゲイリーが口笛を吹き、ブラッドフォードはガシガシとその髪を掻きむしってぼそっと告げた。

「ガキの頃の恩返しは、これで終わりだからな」

「ああ。ここから先は、ウィスバーデンのスタンリー伯爵とゲルハルト殿下として話を聞こう。ディオン、セヴラン。おまえたちは外せ」

「え……いや、でも、お祖父様、それは……」

 あり得ないと言うディオンに、ラザールは有無を言わせぬ眼差しを向ける。

「二度言わせるな」

 かつての威厳を思わせる低い声に、セヴランが即座にディオンの首根っこを引っ掴んだ。

「何かあれば、お呼びください」

「ああ。アランとグレースにも、邪魔をするなと伝えろ」

「かしこまりました」

 不満一杯の顔つきのディオンが引きずられるようにして出て行った後、ラザールは大きな溜息を吐いた。

「やれやれ……なかなか成長せんなぁ」

「あの年頃は、そんなもんだろ。何かにつけ、反発したいんだ。あんなガキの頃から人間出来てたら、それこそ胡散臭せぇだろ」

 ブラッドフォードが珍しくディオンを庇うようなことを口にする。

「確かにそうだな」

「しかも、あんたにそっくりな男になりそうだぜ?」

「それは誉め言葉と思っていいのか?」

「褒めてねぇよ」
「いいえ、褒めています」

 ゲイリーの補足に、ブラッドフォードはむっとした様子で口を噤み、ラザールは再び笑い出したが、すぐに咳き込む。

「ら、ラザール様!」

 慌てて背を摩るメルリーナが、寝台の脇に用意されていた水を杯に注いで手渡せば、一口含んでほう、吐息を吐いた。

「すまんな。すっかり、オヤジからジジイになってしまった」

 ブラッドフォードは、ラザールの体調がかなり思わしくないことを見て取ったのだろう。
 単刀直入にメルリーナの帰国の目的を告げた。

「老い先短いジジイの貴重な時間を無駄にするのは忍びねぇから、さっさと用件を言う。メルリーナが預けた母親の形見を預かりたい」 
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