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寄港

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「い、いない……」

 酔っ払いや娼婦たちがたむろする港の岸壁で、目当てのボートが影も形もなくなっているのを目にしたメルリーナは、呆然と立ち尽くした。

 船に引き揚げる者を待っていたはずのヴァンガード号のボートは、いくら目を凝らしても見当たらなかった。

 沖合にはまだその船影が見えるけれど、泳いだところで――メルリーナは泳げなかったが、日が落ちる前に辿り着ける距離ではない。  

 アンテメール海の西の端。西海と呼ばれる大海への出口に引っかかるようにして突き出した半島の先にある、多くの船が長い航海に備えて停泊するパスラの港にヴァンガード号が着いたのは、昨夕のことだ。

 各業種の組合から選出された代表によって運営される議会が治めるパスラは、自由都市とも呼ばれ、周辺の国々から一歩引いた姿勢を貫いていた。
 そのためパスラの港はどの国の船でも利用出来るが、各船や船員同士の揉め事には不介入。パスラに被害が及ぶようなことになったときのみ、軽くて罰金、重くて無人島への流刑が課される。

 アンテメール海のものと西海の向こうから入って来るものとが入り混じった文化や風習は、雑多で一風変わっていて、酒とその他、ここでしか味わえない楽しみを切望するヴァンガード号の乗組員たちは我先にと上陸した。
 日が昇ってからゆっくりと街を散策したかったメルリーナは、朝になってから、一夜の楽しみを味わいつくした彼らが船に戻って来るのと入れ替わりで、食料などの補充がてら下船する乗組員たちと共に束の間の観光目的に上陸した。

 パスラ周辺は多くの船が行き交い、混雑しているため、翌早朝には早々に出航する予定で、ブラッドフォードは陸へ上がる乗組員たちに、日が暮れる前に引き揚げるボートに必ず乗ること、もしも乗り遅れたら容赦なく置いて行くと言い渡していた。

 つまり、乗り遅れたメルリーナは置いてけぼりを食らったということになる。

 水平線に向かう太陽は、あっという間に落ち切って、淡い薄闇から暗闇へと移り変わるにつれ、辺りの空気も一段暗く、重くなったように感じられる。
 
 酔っ払いが大きな声で何事かを叫んだのに驚いて飛び上がり、そんな自分はいいカモだと思われる可能性に気付き、慌てて周囲を見回した。
 
 パスラの中心部にある市場で、大海の向こうにある別大陸から運ばれてきた品々を夢中になって眺め、すっかり時間を忘れてしまったのは完全に、自分の落ち度だった。

 しかも、慌てて港へ戻ろうとして、狭い岩場で発展したパスラのごちゃごちゃと入り組んだ路地で、迷子になった。
 ひとりでは危ないからと言って、付いて来てくれようとしたゲイリーや船医のエメリヒの厚意を断って、もう子供ではないのだから大丈夫だと、偉そうに言ったのに。 

 三か月ほど船で過ごし、異国の地に足を踏み入れるのにも慣れたと、自分を過信したことが悔やまれた。


 住み慣れたリヴィエールを旅立ってからの三か月。
 ヴァンガード号での旅は、慣れないことばかりで、それなりに大変だったが、楽しかった。
 ブラッドフォードは有能な船長で、もちろん根っからの悪人ではなかった。
 てっきり、海賊だと思っていたメルリーナは、リヴィエールを出航する際に掲げられたウィスバーデンの旗で、ブラッドフォードがウィスバーデン王国の海軍の端くれに属していて、しかも伯爵なのだと知って、心底驚いた。

 思わず、ウィスバーデンでは、海賊でも貴族になれるのかと尋ねそうになったが、ゲイリーの目配せで何とか余計な質問は飲み込み、船から放り出されずに済んだ。

 船では、読み書きの手伝いをしたり、チェスをしたりはもちろんのこと、フォア、メイン、ミズンと三本あるマストのうち、船の後方にある一番低いミズンマストによじ登り、震えながら帆を張ったり、何の障害もない海原をのんびり航行しているときに操舵させてもらったりもした。

 ヴァンガード号は、ウィスバーデン海軍のはしくれに所属しているものの、任務が取り立ててあるわけではないようで、メルリーナから見れば気まぐれにあちこちの港へ寄港していた。

 時折、どういう理由かわからないが、海賊船らしき船を襲うことがあり、船上での戦闘も三回ほど体験した。
 
 戦闘と言っても、大砲を撃ったり、敵船に乗り込んだりしたわけではないし、もちろん、銃で人を撃ったわけでもない。
 砲撃の音や激しい揺れに耐えながら、船医のエメリヒの手伝いをし、次々と担ぎ込まれて来る怪我人の手当てに追われた。

 ヴァンガード号は優れた装備と熟練の船員を擁し、的確な砲撃で常に優位に立ってから接近戦を仕掛けるらしく、ゲイリー率いる軍服を着ても何故か海賊にしか見えない海兵隊員たちは無敵で、毎回圧勝。幸い誰も酷い怪我をすることはなく、ほっとした。

 毎日新しいこと、新しい自分を見つけ、生まれ変わったように感じていた。
 止むことのない潮風に、余分なものは綺麗に削ぎ落とされ、洗い流されて行くようだった。
 船乗りらしく、強く、逞しくなったはずだった。

「……ど、どうしよう……」

 じわり、と熱いものが目の縁に滲む。
 
 周囲を見回しても、当然のごとく、誰ひとり知った顔はない。
 もともとメルリーナは乗せてもらっている身分であり、乗り降り自由とも言われている。
 もしかしたら、船を下りたくなったから、姿をくらましたのだと思われているかもしれない。

 どうすればいいのか、何をすればいいのかわからずに途方に暮れていると、背後からいきなり右肩を掴まれた。

「おい」

 恐る恐る振り返れば、頬に大きな傷のある大男がいた。

「おまえ、さっきから、こんなところで何してんだ。まさか海にでも飛び込む気じゃ……」

 その腰に無造作にぶら下がる湾曲した剣と銃を見て、顔が引きつった。

「ひっ……」

「それともまさか置き去り……」

「おう、どうした、どうした?」
「なんだ、ガキじゃねぇか」
「カワイイ顔してんなぁ」
「オジさんとイイことしようかぁ?」

 あっという間に似たような物騒な面構えの男たちに取り囲まれ、メルリーナはじりじりと後退った。

 悲鳴を上げたところで助けが来るはずもないのだが、喉が張り付いたように声も上げられない。
 カタカタと震える様に、男たちが下卑た笑みを浮かべる。

「おーおー、怖がっちゃって」
「震えてんじゃねぇか」
「慰めてやろうか?」

 横合いから伸びて来た手が触れそうになったとき、パン、と乾いた音がして、手を伸ばそうとした男の鼻先に血が滲んだ。

「鼻を吹き飛ばされたくなければ、汚い手を引っ込めろ」

 単なる脅しではないというように、今度は目の前を銀色の軌跡が過ぎり、男の手を貫いた。

「う、ぎゃああっ」

 細いナイフのようなものは、エメリヒの商売道具の一つだと見て取ったメルリーナは、一歩下がった男たちの向こう側に、短銃を構えるゲイリーとエメリヒを見つけた。

「五つ数えるうちに、その薄汚い面が視界から消えなければ、ヴァンガード号がおまえらの船を沈めるぞ。一、二、三、四……」

 明らかに待つつもりなどなく、満面の笑みを浮かべて大股に歩み寄りながら、すらすらと数を数えるゲイリーに、男たちは化け物でも見るような顔をし、瞬く間に走り去った。

「五。……メル、ちょっと遊びすぎじゃないかなぁ?」

 わざとらしく怒ったような険しい表情をしているが、緑色の瞳は優しいままだ。

「メル。出掛けるときは、遠慮せずに、を引き回していいんだぞ? どうせ暇なんだから」

 エメリヒは、焦茶色の瞳でゲイリーをちらりと見遣る。

「番犬って……せめて愛犬にしてくれないかな?」

 昔からのくされ縁だというブラッドフォード、ゲイリーとエメリヒの三人は、互いに容赦がない。
 ブラッドフォードやゲイリーと同年輩のエメリヒは、ヴァンガード号の船医で、物腰こそゲイリー以上に柔らかいものの、筋骨隆々だ。
 いざ治療するとなると、怯える大の男に有無を言わせぬ迫力を醸し出し、逆らおうものなら容赦なく締め落とす。
 船では、ブラッドフォードの次に恐れられているが、メルリーナに対してはいつも親切で、優しい。
 
「こんな図体のデカい可愛げのない犬なんぞ、メルはいらないだろう」

「いやいや。そんなことないよね? メル」

 置いて行かれずに済んだのだということだけを理解して、メルリーナはカタカタと震えながらぎゅっと唇を引き結んだ。

 みっともなく泣いてはいけない。

 あらゆる手を使って慰めたくなるから危ないと、ゲイリーも言っていた。
 悪いのは自分で、助けてくれた二人にはちゃんとお礼を言って、ブラッドフォードにも、他の乗組員たちにも謝らなくてはならない。
 もしかしたら、罰でむち打ちなんてことになるかもしれないけれど、置いて行かれずに済むのなら、何をされても構わないような心地だった。

「メル」

 大きな手がいきなり頬に触れ、ビクリとして顔を上げれば、ゲイリーが微笑んでいた。

「大丈夫だよ」

 いつもちゃんと撫でつけられている褐色の髪が乱れ、どんな時でも涼しい顔をしているはずが、額に滲んだ汗が、精悍な頬を伝って滴り落ちた。

 きっと、パスラ中を走り回って探してくれたのだろうに、ゲイリーはひと言もメルリーナを責めない。
 
「置いて行ったりしないよ。迷子になっても、ちゃんと見つけてあげるから」

 そう言ってからくすりと笑い、「まぁ、出来れば迷子にならないでくれる方がいいんだけどね」と付け足した。

「おいで」

 差し出された大きな手に、恐る恐る手を伸ばしたメルリーナの手をゲイリーはぎゅっと握りしめ、勢いよく引いた。

「……っ!」

 驚き、踏み止まれずにその胸に激突すれば、強く抱き竦められる。
 潮の香りと、ディオンのものではない匂いと温もりに包まれて、戸惑いと本能的な恐れに身を固くするメルリーナの頭上で、ゲイリーは安堵の吐息を漏らした。

「メルが、本物の海賊にでも捕まって、どこぞに売り飛ばされていやしないかと思って、ヒヤヒヤしたよ。ほんと…………怖かった」

 メルリーナも、怖かった。

 異国の地でも、誰も知り合いなんかいなくても、ひとりで生きていけるだろうと思っていた。
 それくらい、逞しくなったつもりでいた。
 まだまだ、何も知らない子供だったのに。

 十八にもなって、迷子になった上にどうすればいいかもわからず、立ち尽くすなんて情けない。
 たくさんの人に助けられて、だから無事にここまで来られたということを自覚していなかった自分が情けなかった。

「ご、め……んなさい」

 こぼれ落ちた涙を噛み締めるように呟けば、ゲイリーの大きな手が嗚咽を堪えて震えるメルリーナの背を優しく摩る。

「うん。みんなで探していたからね。後で、ブラッドを含め、みんなにも謝ること。それから……もうひとりでは、出かけないこと。いいね?」

「は、はい……」

「番犬でも愛犬でも駄犬でもなんでもいいから、誰かと一緒に行くんだ」

「はい」

「でも、誰をお供にしてもいいけど、僕を置いては行かないこと」

「は、……ん?」

「チッ……そこで気付かなくてもいいのに」

 ぼそっと呟くゲイリーに、エメリヒが「腹黒い男は嫌われるぞ」と告げる。

 ゲイリーは、「腹黒いんじゃない、策略家なだけだ」などと呟いていたが、見上げるメルリーナの頬を拭い、有無を言わせぬ笑みを浮かべて命令した。

「メル。とにかく、いついかなるときも、僕と一緒に出かけること。いいね?」    
  
「……」

 よく考えずに返事をしてはいけないのではないかと思い、メルリーナが頷けずにいると、ゲイリーはにやりと笑った。

「返事をしないと、一緒に出かけるだけじゃ済まなくな……」
「は、はいっ!」

 皆まで聞かずにメルリーナが即答すると、ゲイリーとエメリヒは声を上げて笑い出した。


◇◆


 パスラでの一件以来、メルリーナが寄港地で上陸する際には、必ずゲイリーが。ゲイリーがどうしても手が空かないときは、エメリヒが。二人とも駄目なときは、なんとブラッドフォードがメルリーナのお供をしてくれるようになった。

 ブラッドフォードは、面倒くさそうにメルリーナの行く先に付き合ってくれたが、時折、女性用のドレスや小物などを買いたいからと言って、メルリーナを着せ替え人形にした。
 お姫様が着るような各国各種の豪華なドレスや美しい髪飾りなど、一体何に使うのかと首を傾げながらも、大人しく協力した。

 取り敢えず、迷子になる心配はなくなったが、お供がいるから何でも任せきりでいいのだとは、思わなかった。

 自分の身は自分で守れるよう、ゲイリーから剣の扱い方や銃の撃ち方を習うことにした。
 ゲイリーは、嫌な顔ひとつせず、親切に教えてくれたものの、「どちらもまったく筋はなさそうだね」と言われた。
 練習中に、うっかり銃撃しそうになったブラッドフォードには「今度やったら海に突き落とす。絶対触るんじゃない」と激怒され、それ以降ブラッドフォードの目の届かない場所で練習することにした。

 どれほど練習しても、どういうわけか的の遥か遠くにしか当たらなかったが、いつか役に立つかもしれないからと、自分で自分を慰めた。

 海の上での楽しい日々は、あっという間に過ぎて行った。
 
 目まぐるしく過ぎる日々に、未来を思い悩んだり、泣き濡れたりする余裕はなかった。

 そして、気が付けば、リヴィエールを発ってからもうすぐ一年が経とうとしていた。
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