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旅立ち 6

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 言い切った後、これ以上何も言うことはないとでも示すように、メルリーナはぎゅっと唇を引き結んだ。

 その表情を見て、ディオンは焦った。
 それは、メルリーナが、勝つと決めたときの表情だった。
 戦術を組み立て、綻びのない戦略を脳裏に思い描き、迷いなく駒を動かすときにする顔だった。

「乗せない」

 無理矢理にでも、引き摺ってでも連れて帰ろうと腕を掴む手に力を込めた。

「手を放せ、このクソガキが」

 押し殺した怒声に視線を巡らせれば、笑みを消し、黒い瞳を獰猛な光でギラつかせたブラッドフォードと目が合った。

「おまえには、メルの選択に口を出す権利はねぇ」

「……おまえこそっ」

 部外者が口を出すな、と言おうとしたディオンに、ブラッドフォードは冷ややかに告げた。

「俺には、メルの行動に口を出す権利がある。船長としてメルの命を預かっているからな。おまえはどうだ? おまえは、メルの何なんだ?」

 問われたディオンは、咄嗟に何も答えられなかった。

「家族でもなけりゃ、婚約者でもねぇ。メルの将来に、何の責任も義務もねぇ、単なるオトモダチだろ。大人しく、引っ込んでな」

 嫌だと言いかけたディオンは、腕を掴むゲイリーの手に加わった力に苦痛を感じてハッとした。
 メルリーナが痛みに顔を歪めていることに気付いて、手を放す。

 腕を摩るメルリーナに、痣になっていないかと確かめようとしたが、すっと身を引かれた。
 
「……大丈夫」

 これまで、メルリーナに触れようとして避けられたことなど一度もなかったディオンは、不意に開いた二人の間の距離に、うろたえた。
 見えない壁が、既に築かれているような気がして、自分にはその壁を崩すことも乗り越えることも出来ないのではないかという恐怖に捕らわれた。

「私は、船に乗る。そういう約束で、賭けをして勝ったから」

 きっぱりと言い切ったメルリーナは、小さなテーブルの上に置かれていた折り畳みのチェス盤を取り上げると、ディオンに差し出した。

「これ……ディオン様にお返しします。もう、預かる必要はないから」

 その言葉の意味を理解したくなかった。
 もう待たない、と言われているなんて、信じたくなかった。

「もう、勝負は着いたから」

 次はない、と言うメルリーナに、ディオンはチェス盤を押し返した。

「勝負しろ」

「……ディー」

 首を横に振ろうとするメルリーナに、ディオンは懇願した。

「一度でいい、メル。いつもと同じ賭けをして、勝負してくれ」



◇ 

 

 勝敗は、あっけなく決した。

 チェス盤上の惨敗の跡を見下ろし、ディオンは呆然とした。

 メルリーナとの勝負は、まるで話にならなかった。
 
 メルリーナに勝てるようになると、言い続けてきた。
 手加減されずとも、勝てるようになると、思い込んできた。
 実際、カーディナルにいる間も、フランツィスカや友人たちを相手にチェスをし、ほぼ勝ち越していた。
 メルリーナやマクシム、ラザールとの勝負に比べれば、楽勝とまでは行かずとも、歯が立たないと思うことはなかった。
 だが、肝心のメルリーナには、全然通用しなかった。

 一番勝ちたい相手に勝つために、必要なことを何もして来なかったのだと思い知った。

 ルークやビショップ、ナイトにポーン。
 守りを固めるには十分すぎる駒を手にしていながら、クイーンにチェックされたキングは、身動きが取れない。
 
 そこにキングを進めたのはディオン自身で、そこに至るまでの間で、何度も選択を誤った結果だった。

 回避する術も逆転する術もあったに違いないのに、見過ごしいていた。
 敗北するシナリオを書き換える機会を何度も見逃した。
 そして、メルリーナが思い描いた通りに、負けた。

「ディオン様」

 セヴランに肩を叩かれ、呆然としていたディオンは顔を上げた。
 
 メルリーナが、チェスピースを内にしまい、折り畳んでしっかりと留め金を掛けたチェス盤を差し出した。

「お返しします」

 賭けを持ち掛けたのはディオンの方で、賭けに負けた以上、何でも言うことを聞くと決めたのもディオンだった。
 それでも諦めきれずに口を開こうとすれば、メルリーナがぎこちない笑みを浮かべた。

「これからは、ディオン様に相応しいお相手と勝負をお楽しみください」

 メルリーナの言葉は、裏を返せば、ディオンではメルリーナの相手をするには不足しているということだ。
 自分こそ、メルリーナの相手として相応しくないのだという事実は、あまりにも悔しかった。
 ディオンは拳を握りしめ、メルリーナの青銀の瞳を見返した。

「……次は、必ず勝つ」

「おいおい、往生際が悪すぎるだろ」

 二人の勝負を眺めていたブラッドフォードが、呆れたように首を横に振る。
 ゲイリーも「しつこい男は嫌われるよ」などと善人面して忠告する。
 セヴランの小さな溜息が背後から聞こえる。

 それでも、大きく目を見開くメルリーナにディオンは宣言した。

「メル。一年後、もう一度ここで勝負しろ。そのとき俺がメルに勝てなかったら、もう何も言わない。メルの好きなように生きればいい」

 今度は、自分が待つ番だと言うディオンに、メルリーナは目を瞬き、答えを探して視線を彷徨わせる。
 
「あのなぁ……船の行き先は、船長である俺が決めることだ。一年後、リヴィエールに戻るかどうか、俺の気分次第だ」

 そもそもメルリーナがリヴィエールに戻らなければ成り立たない話だろうと冷笑するブラッドフォードを睨み、チェス盤をメルリーナに押し返して、ディオンは立ち上がった。

「ああ。だから、一年経ってもリヴィエールに戻らなかったら、おまえの船を拿捕する」

「は?」

「抵抗するようなら、沈める」

「ちょっと待った。君……ブラッドのことは、知っているよね? 戦争でも始める気かな?」

 信じられないと言わんばかりの表情で、ディオンの正気を確かめるように目の前で手を振るゲイリーに殴りかかりたい気持ちをなんとか堪える。

「奪われたものを取り返すだけだ。それに……リヴィエール公爵家は、カーディナル皇帝から私掠の許可を貰っている。海賊だと思って拿捕した船が、実は違ったということも、十分あり得る話だろう。そもそも、広い海のに何があったか確かめる術はない」

 事故にしろ故意にしろ、船が沈んでしまえば何があったか確かめることは出来ないし、どこで沈んだかすらわからないこともある。闇に葬ることも不可能ではない。

 いくつものを拿捕し、時には沈めた祖父たちのように。

 ウィスバーデン王国に連なる者だったと、沈めた後に発覚することもあり得ない話ではない。
 
「ふん……あのジジイの孫らしい言い草だな。まぁ、いいだろう。一年後に立ち寄ってやるよ」

 ディオンの本気を見て取ったのか、ブラッドフォードが譲歩を口にする。
 だが、それは善意からではないのだと、すぐに知れた。

「ただし、それまでの間に、おまえのメルがうっかり別の男に惚れたらどうするんだ? おまえと違って、包容力も理解力も思い遣りもある、俺様のような大人の男が傍にいたら、惚れずにはいられないだろう。おまえとは経験値の違う俺は、女としての悦びを余すことなく与えてやれる手練手管を持ち合わているし、そんな男に毎晩のように抱かれてたら、今は何も知らないようなメルだって、スブスブに溺れて俺なしじゃいられないくらいに……うぉっ!」

 ディオンは、にやにや笑いながら耳を塞ぎたくなるようなことを並べ立てたブラッドフォードに、殴りかかる代わりに、頭突きを見舞った。

「ディオン様っ!」

 慌てたセヴランに背後から羽交い絞めにされそうになるが、その手を振り払う。

「手は出していない」

「そういう問題じゃねぇだろうがっ!」

 額を押さえて怒鳴るブラッドフォードの背後で、騒いでいた者たちが殺気立つ。
 中には短剣に手を伸ばす者もいたが、ゲイリーのさり気ない目配せで、不満そうな顔をしながらも大人しく傍観の姿勢を保った。

「メルに何かしたら、砲撃でおまえを船ごと蜂の巣にした上で、残った部分は細切れに切り刻んで魚の餌にしてやる」  

 ブラッドフォードは、脅すディオンを睨みながら鼻で笑う。
 
「……結構なこった。だが、据え膳はいただく主義でね。頼まれれば抱くぜ。そういう場合は、ご容赦願えるんだろうな?」

 メルリーナが、他の男を選ぶなど考えたくもなかった。
 だが、メルリーナを自分の思い通りにすることは出来ないのだと、ついさっき思い知らされたばかりだ。
 ディオンは、ぐっと奥歯を噛み締め、ブラッドフォードを睨みながらなんとか言葉を絞り出した。

「メル、が……望む、なら……でも、おまえのような野獣は、メルの好みじゃない」

「野獣っ!? おまえ、どこに目ぇ付けてんだよ。大人の男の魅力が溢れているだろうが? お子様のおまえより数百倍はイイ男だぜ」

 鼻息も荒く宣言するブラッドフォードに、ゲイリーが憐れみの眼差しを向ける。

「顔と将来性で、思い切り負けてると思うよ」

「ゲイリー、てめぇ……」

「ここは、メルに確かめるのが一番だ。メルは誰が一番格好いいと……いや、愚問だね。一番は、そこの王子様だとして、二番目は? 僕とブラッド、どっちが格好いいと思う?」

 メルリーナは目を瞬き、ブラッドフォードをちらりと一瞥した後、恐る恐るといった様子でゲイリーを指さした。

「……」

「うん、君の審美眼は確かだね!」

 すっかり戦意喪失したらしいブラッドフォードは、ドカッとソファーに身を放り出すとテーブルの上に足を乗せてディオンを見上げた。

「何なら、ここにいる全員、酔って急に眠くなったことにしてやるぜ」

 メルリーナが驚いたようにブラッドフォードを見つめ、泣きそうな顔をする様子を見て、ディオンはセヴランの言っていた『引き際』を悟った。

 メルリーナ自身が、船に乗り、リヴィエールを離れることを望んでいるのに、ディオンが無理強いすることは出来ない。

 そもそも、勝負は、メルリーナの勝ちだった。
 負けたディオンは、本来何も要求することが出来ないのだ。

 それでも、約束が欲しかった。
 諦めずにいてもいい、理由が欲しかった。

「……メル。次は、負けない。だから……」

 一年後、メルリーナが何を思っているのか、誰を想っているのか、ディオンに知る術はない。
 ただ、一年の間に、メルリーナを取り戻すために出来る限りのことをし、無事を祈るしかない。
 
 ディオンは、チェス盤を抱え、潤んだ青銀の瞳で見上げるメルリーナに手を伸ばした。

 避けられなかったことにほっとしながら、柔らかな頬を両手で包み込む。

 言わなくてはならないことは、わかっていた。

「よい旅を」

 自分勝手な欲望を呑み込む代わりに、初めてキスしたときのように、軽く触れ合うだけの口づけをした。
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