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前夜

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『ディ、ディオンさ、まっ……ふ、フランツィスカ、王女と……た、楽しくご歓談しているところ、お邪魔、をして、も、も、申し訳ありませんでした。失礼いたしますっ』

 今まで聞いたこともない、畏まった口上を早口に述べ、あっという間に人波に消えたメルリーナの小さな背を追いかけようとして、無意識に足を踏み出したディオンは、腕を引き戻されてハッとした。

「ディオン。あんな風にひどい態度を取るなんて、あなたらしくないわ」

 淀みなく流れる音楽と喧噪を取り戻した大広間の様子を確認したフランツィスカに、添えていた手でパシン、と腕を叩かれ、苦い表情で「わかっている」と呟いた。

「二年ぶりに会う幼馴染を泣かせるなんて、最低よ」

 フランツィスカが「女の敵よ」と剣呑な顔つきで責めるのに、むっとする。

「……メルは、幼馴染じゃない」

「まぁ! あまりこういった場所は好きではないでしょうに、わざわざ帰還祝いを述べに来てくれた相手に対して、知らないとでも言うつもり?」

「そうじゃない……」
 
 呟いたディオンに、遠慮と言うものを知らない友人たちが口々にまくし立てる。

「フランツィスカ王女。ディオンは、幼馴染があんまり美しくなっていたんで、驚いたんですよ」
「なんだか、想像していたのと違ったよな? 自信なさげなところが、いいいよなぁ。首都のご令嬢たちは押しが強くて」
「無垢で、初心で、控えめなところがいいよな?」
「まだ何も知らなさそうなところがいい。俺の好みに育てることも出来そうだし」
「なぁ、ディオン。後で紹介してくれよ」
「俺もっ!」
「チェスの相手からでもいいからさ!」

 ディオンは、「あれは俺のものだ」と怒鳴りそうになるのをどうにか堪えてぐっと拳を握りしめた。



 昨日、二年ぶりにカーディナルから帰国するなり、帰還祝いと誕生祝を兼ねたパーティーを開くことになっていると、父アランから告げられた。

 今後、ディオンがアランの正式な後継者として様々な公の場に顔を出すことになると、対外的に知らしめるためだと理解していたので、もちろん了承した。
 更に、同じ船でカーディナルへ向かい、同じ船で故国へ帰る友人――リーフラント王国の王女であるフランツィスカのエスコートを務めることも、自ら申し出た。

 アンテメール海を挟んだ対岸にあるいくつかの国の中で、リーフラント王国はカーディナルにとってぜひとも味方に引き入れたい国のひとつだ。

 カーディナルと対立しているエナレス帝国と国境を接するリーフラント王国は、これまで中立的な立場を取り、エナレス、カーディナル双方と友好的な関係を保っていたが、ここ数年、アンテメール海への出入口を求めるエナレスからの圧力が増している。

 王女のフランツィスカをカーディナルへ遊学させたのは、エナレスを牽制するために、カーディナルとのある種の結びつき――たとえば政略結婚の相手――といったものを求めてのことだ。

 今回の遊学中に婚約話がまとまるには至らなかったが、フランツィスカは大勢の知己を得て、今後に繋げることは出来たと満足していた。

 その中のひとりに、ディオンも含まれている。

 母のグレースとリーフラント王妃であるフランツィスカの母が友人の上、カーディナルへの道中を共にしたこともあり、親しくなるまで時間は掛からなかった。

 チェスをしたり、議論を交わしたりと、エスコート役としてだけでなく、友人としても深く付き合うようになったのは、政治的な思惑からだけではない。

 才気煥発で、打てば響くフランツィスカとの会話は楽しく刺激的で、一緒に居ても退屈しない相手であったし、場に相応しい装いはもちろんのこと、礼儀作法も話術も完璧なフランツィスカは面倒な社交界でのパートナーとして最適だった。

 フランツィスカといれば、令嬢たちも美しく完璧な王女に張り合うことに怖気づいて近寄って来ないし、面倒なカーディナルの貴族らもフランツィスカの美しさの方に気を取られてあしらいやすくなる。
 フランツィスカにしても、ディオンがいれば、強引な輩を牽制できる。

 フランツィスカは何でも話せる気楽で貴重な友人であり、リヴィエール公国として、リーフラント王国と友好的な関係を築くためにも、フランツィスカのエスコートをしないという選択肢はなかった。
 
 父アランに、メルリーナのエスコートはしなくていいのかと尋ねられた時も、しなくていいと頷いた。

 メルリーナが、人の多い場所を苦手としていること、こういった社交的な場を苦手としていることは十分わかっていたから、無理に引き回したくなかったし、何よりも二人きりでゆっくり会いたい気持ちの方が強かった。  

 ただ、下手をすれば真夜中まで顔を見る時間すらなくなるのではないかという懸念はあったので、一応招待状を用意し、宮殿に滞在するよう伝言を添えた。

 公の場で親し気に振舞うことは出来ないとしても、装ったり嘘を吐いたりするのが上手くないメルリーナは、再会を喜ぶ様を素直に見せてくれるだろうし、挨拶程度でも言葉を交わせれば、今しばらく我慢できると思ったのだ。

 それなのに、再会したメルリーナはディオンの予想を悉く裏切った。

 二年ぶりに見るメルリーナは、記憶にあるよりも一段と美しくなっていた。

 身体に合っていないドレスのせいで、折れそうに細い腰や華奢な骨格がより一層目立っていて、不恰好さよりも儚げな様子の方が勝って、多くの男たちがチラチラと盗み見ていた。

 緩やかに編まれただけの髪や薄い化粧は、一部の隙もなく装う女性を見慣れた目には、何の手も加えられていない、まだ蕾のまま花咲く日を待っている野にある可憐な花のように映った。

 伏し目がちで長い睫毛が影を落とす目元は、優しく柔らかで、不意に覗く青銀の瞳の無垢で真っすぐな光に射抜かれると心臓が止まりそうになる。

 メルリーナは、ディオンの知らない女性になっていた。

 傲慢さの滲む異母妹とは全く違うし、完璧な淑女であるフランツィスカとも違う。
 この場にいる誰とも違うメルリーナは、この場に相応しくないからこそ、密かな注目を集めていた。
 そんなメルリーナに目を奪われる友人や男性らに気付き、苛立った。

 何より、俯いたきり、少しも嬉しそうな顔をしないメルリーナに腹が立った。

『メル?』

 つい、キツイ口調で呼んでしまったことを後悔した時には、遅かった。

 ビクリと身体を大きく震わせたメルリーナが抱えていたチェス盤からチェスピースが零れ落ち、無粋な音を立てて転がった。

 血の気が引いて真っ白な顔をしたメルリーナは今にも倒れそうで、思わず足を踏み出しかけたところで、フランツィスカが機転を利かせ、同じ船に乗り、訓練を共にして、ここまで送ってくれた友人たちに協力を求めてくれた。

 気ままな次男、三男といった貴族の子息が殆どで、カーディナルの社交界で遊び慣れている友人たちは、静まり返った大広間で咎めるような視線をメルリーナに注ぐ人々から、巧みに笑いを誘い出し、チェスピースを拾い集めた。

 ぎこちない笑みを浮かべて受け取るメルリーナに、どうにかして近づきたいと画策する友人らを見て、苛立ちからまたしてもキツイ口調で話してしまった。

 その結果、真っ青になったメルリーナは、ぎこちない畏まった口調で謝罪し、逃げるようにして去ってしまったのだ。

 青銀の瞳から、今にも溢れそうになっていた涙は、喜びが齎したものではないことは、明らかだった。



「泣きそうな顔がまた、そそる感じで……」
「うん、なんかこう、泣かせてみたくなる子だったよなぁ」

 意味深な笑みを交わす友人たちに、完全な八つ当たりだとわかっていても、釘を刺さずにはいられなかった。

「メルは、おまえたちみたいにペラペラ喋る奴は苦手だ」

「えー、そうかなぁ? ちょっと笑ってくれたけどな?」
「ああ。媚びてない笑みなんて、久しぶりすぎて。ほんと、可愛かったよなぁ……」

 諦めきれないとばかりにメルリーナが去って行った方を眺める様子に、この場に呼ばなければよかったとつくづく後悔した。
 
「そうね、とても可愛らしい人だったけど……ディオンとは合わないんじゃないかしら」

 友人たちに同意を示したフランツィスカの呟きに、ディオンは眉根を寄せた。

「何だって? ファニー?」

「ディオンは、彼女をどこへも行かないように閉じ込めて、自分だけが愛でていたいのかもしれないけれど……未来の公爵夫人は、そういうわけにはいかないわ」

 胸の奥にある願望を言い当てられたことにギクリとしながらも、ディオンは「どういう意味だ」と問い返す。

「優しくて、控えめで、人の気持ちや周囲の視線をとても気にする繊細さを持ち合わせている恋人は、ディオンみたいにガサツで横暴で、傍若無人なところがある人にはちょうどいいのかもしれないけれど、未来のリヴィエール公爵の横には相応しくないんじゃないかということよ。人見知りで、引っ込み思案で、消極的では、公爵夫人の務めを果たせないわ」

 公爵夫人と聞いて、ディオンは笑いそうになった。
 公爵になるのはずっと先の話なのに、何を憂える必要があるのだと。
 だが、フランツィスカの暗がりでも輝きを失わないペリドットの瞳には、冗談めいた色などどこにもなかった。

「まだ、先の話だ」

「ディオンにとってはそうかもしれないけれど、彼女にとってはどうかしら? その覚悟があるのかしら?」

「メルは、こういう場に慣れていないだけだ。まだ、十八だし、無理に押し付けたくない」

「まだ、ではなくて、もう、十八よ。十八歳と言えば、婚約して結婚していてもおかしくない年齢よ。何の約束もしていない恋人を呑気に待っていられたとは思えないわ。二年の間、何もなかったと思うの?」

 メルリーナが、自分以外の誰かを選ぶなんて、そんな可能性を考えたくもなかった。

「メルは、そんなことはしない! たとえ、もしもそういうことになっていたとしても、黙って裏切ったりはしない。メルは、そんなこと出来るような性格じゃない」

 遠慮なく指摘するフランツィスカの忠告や助言は、いつも有難かったが、メルリーナとのことには、口出しされたくなかった。

 メルリーナのことを知らない相手に、勝手に判断されたくない。
  
「これは俺とメルの問題だ。ファニーには関係ない」

 言ってしまってから、あまりにも素っ気なかったかと思ったが、フランツィスカはふっと苦笑して詫びた。

「そうね。余計なお世話だったわ。ごめんなさい」
 
「いや……その……」
 
「ディオンが、カーディナル中の美女に見向きもしなかった理由に、ようやく行き着いたわ。本当に『メル』のことが好きなのね。メル以外は、その他大勢にしか見えないんでしょう? ねぇ、いつから好きなの? 小さい頃から?」

 冗談めかして笑うフランツィスカに、ディオンは頬が熱くなるのを感じながら、白状した。

「……初めて会ったのが十歳のときで……それからだから、八年か……」

「うわ、どこの世界の住人だよ」
「ひえー、純情すぎる」
「おとぎ話だな」

 揶揄う友人らを小突くディオンに、フランツィスカが問う。

「ディオン。もしも、メル以外の人と結婚しなくてはならないと言われたらどうするの?」

 何故そんなことを尋ねるのだとむっとしながらも、ディオンは考えるまでもないことだと答えた。

「メル以外とは、結婚しない」

「絶対に?」

 念を押され、一体何を訊きたいのだと思いながら、理由を説明した。

「しない、というより……きっと、出来ない。メル以外の相手が隣にいることが、想像出来ない」

 相手が誰であれ、必要とあればパーティーでパートナーとしてエスコートを務めることは、出来る。
 嫌でも、リヴィエールのために必要ならばやる。

 だが、未来を思い描くとき、リヴィエールで生きる自分を思い描くとき、その傍らに当然のごとく思い描くのはメルリーナだ。

 メルリーナへ向ける感情は、ディオンの中に当然のごとくずっと存在し、忘れることはないし、消えてなくなったりもしない。

 カーディナルには、メルリーナよりも社交的で、家柄も良く、完璧な装いで文句の付けようのない女性は大勢いた。
 フランツィスカも、条件からすればリヴィエール公爵夫人に相応しいだろう。

 だが、メルリーナに抱くような感情は、一切ない。
 自分だけのものでいてほしいとは思わないし、自分だけのものだとも思わない。

 迷いなく言い切るディオンをじっと見つめるフランツィスカは、その顔から見慣れた美しい笑みを消し、その代わり謎めいた笑みを浮かべた。

「ディオンの未来には、必ずメルがいるということね。でも……時には、想像もつかないことが起こるのが人生だと言うけれど」


◇◆


 友人たちとフランツィスカのお陰で、どうにか退屈せずにパ―ティーをやり過ごしたディオンは、日付が変わる前にようやく解放されたその足で、着替える間も惜しんで、メルリーナに与えた客室へ向かった。

 クラヴァットを外し、走り出しそうになるのを堪え、ノックもそこそこに扉を開いた。

「メルっ!」

 予想に反して暗い部屋に、寝ているのかもしれないと思い、二間続きの寝室へと向かったが、ベッドの上には誰もいない。
 念のため確認した浴室にも、姿はなかった。

 ラザールのところにいるのかもしれないと、即座に身を翻したディオンは、部屋を出たところで真夜中でも身なりを整えたままのセヴランに出くわした。

「セヴラン! メルは?」

 若い頃からラザールの部下として仕え、今はディオンの右腕となるべく常に付き従っている年上の侍従は苦い表情で首を横に振った。

「お帰りになりました」

「……帰った?」

「はい。ラザール様を見舞われた後、早々に」

「な、んで? どうして帰したんだよっ! 今日は泊まるようにって言っただろうっ!?」

 帰りの馬車を手配したというセヴランを思わず問い詰めた。

「この状況で滞在出来るほど、メルリーナ様は厚顔無恥ではありませんよ」

「何なんだよ、一体! メルにはちゃんと招待状を出したし、滞在するように手紙も……」

 訳が分からずぐしゃぐしゃと髪を掻きむしるディオンに、セヴランは呆れた様子で溜息を吐いた。

「自分が特別な扱いをされていると知れば、フランツィスカ王女が不快な思いをされるからと仰っていました」

「は? なんでファニーが関係あるんだ? 賓客だからエスコートしていただけだろ」

「そのように、ご説明されたので?」

 ディオンは、指摘されてようやく、自分が何もメルリーナに説明していなかったことに気付いた。

 それでも、自分とフランツィスカのことについては、メルリーナだって予め知っているのだから、誤解されるはずはないと思い直す。

「いや、でも、ファニーのことはいい友人だって、手紙にも何度も書いたし、メルも会ってみたいって書いていたし、疚しく思うような関係ではない」

 しかし、言い訳したディオンに、セヴランはまるでゴミを見るような視線を向けた。

「ディオン様……フランツィスカ王女と親しくしていることをメルリーナ様への手紙に書いたんですか? 何度も?」

「あ、ああ……だって、その、隠すようなことではないし、カーディナルで何をしているのか説明すると必然的に……」

「……それで、メルリーナ様は一緒に帰国するということについては、何と?」

「え……あ、いや、それは知らせていなかった。直前まで、海に出ていただろう? メルからの手紙も行き違いになっていて、半年ほどは音信不通に……」

 毎月メルリーナから手紙は届いていたが、不定期に訓練航海へ出ていたため、なかなか直ぐに受け取れないことも度々だった。
 その上、海軍の宿舎と皇帝の宮殿を行き来する生活で、行き違いになってしまい受け取れぬまま、ひと月、ふた月経ってしまうことも多かった。
 
 何かあったなら、セヴランにラザールから連絡があるだろうと、日々の忙しさに追われてつい後回しになっていたのは事実だ。

 気がつけば、半年近く返信していなかったが、もうすぐ帰国するのだし、直接会って近況を確かめればいいと思っていた。

 セヴランは、大きな溜息と共に手で額を押さえた。

「もしかして……マクシム様が亡くなったことも、ご存知ない?」

「な……」

 初耳の事態に、ディオンは絶句した。

 セヴランは、そんなディオンに向かってひと言告げた。

「ディオン様。不敬を承知で申し上げますが…………あなた、最低の男ですね」




 セヴランに最低の男だと酷評されたディオンは、自室へ駆け戻り、侍女たちが綺麗に片づけてくれた荷物を漁って滅茶苦茶にしたが、構っていられなかった。

 海軍で学んだことを記した膨大な量の覚書や首都ラティフィアで手に入れた貴重な海図や航海記などと共にしまい込まれていた、封を切ってさえいない手紙を見つけると、慌てて読んだ。

 その時々、手元に届いたものを優先して読んでいたため、ちょうどマクシムが亡くなったことを知らせた手紙とその後の数通を読んでおらず、メルリーナもまた、マクシムが亡くなった直後にしか、そのことに触れていなかった。

「……」

 いつも、日常の何気ない話題を綴っていたメルリーナの手紙に、何事もなく穏やかに、元気に暮らしているのだと思っていた。

 だから、一通や二通、読まずとも変わりはないだろうと思っていた。

 ディオンにとって、メルリーナは、いつでも変わらずそこにいてくれる存在だった。
 変わるなんてことは、あるはずがないと思っていた。

 今夜のことを謝って、二年もの間、寂しい思いをさせたことを謝って、ちゃんと約束を果たさなくては、それこそ最低の男になる。

 ディオンは、脱ぎ捨てたコートの代わりに外套を引っ掴むと部屋を飛び出した。
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