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再会 3

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 ディオンの母グレースが、どうして自分に会いたいと言うのかメルリーナには、わからなかった。
 グレースは、今までメルリーナと直接会おうとしたことなどなかった。

 しかし、目的はわからなくとも、公爵夫人の要望を無視するわけにはいかない。

「わ、わかりました……」

 滲んだ涙を指で拭ってメルリーナが承諾すれば、少年はあからさまにほっとしたような表情になり、先に立って歩き出す。

 公爵家の人々が日々生活を営む場所は、宮殿の奥深くにある。
 ラザールの部屋も同じ一角にあるが、グレースと現公爵アランが住まう東側とは逆の西側に位置しているので、メルリーナにとっては初めて足を踏み入れる場所だった。

 大広間の喧噪が嘘のように静まり返った廊下を奥へと進めば、表の顔とは違って、落ち着いた雰囲気が飾られている絵画や工芸品からも感じられる。

 同じ画家のものと思われる海や船を描いた絵画や面白い意匠の壺。見たこともない獣の木彫りなど、どちらかというと少年がガラクタを宝物として集めたような雰囲気すらあり、客の目を楽しませるためではなく、本当に好きなものだけを集めて飾っているのだと知れた。

 ラザールやアラン、ディオンへと続くリヴィエール公爵家の血筋に最も色濃く受け継がれているのは、間違いなく未知のものへの好奇心だろう。

 そんな区画の奥、ようやく辿り着いた美しいペリドットが花の形にはめ込まれた扉を少年がノックをすれば、扉の向こうで澄んだ女性の声が入室を許可すると告げるのが聞こえた。

「失礼いたします」

 滑らかに開かれた扉の向こう、見るからに高価な家具で整えられた部屋では、窓辺に置かれたソファーに、品の良い薄水色のドレスを纏った女性が背筋を伸ばして座っていた。

「メルリーナ。私があなたを呼んだ理由は想像がついているとは思いますが、こういうことは早いうちにはっきりしておいた方が、お互いのためです」

 凛とした声で、単刀直入に告げたグレースは、ディオンより濃く暗い赤い髪と灰色に近い薄水色の瞳をした絵に描いたような貴婦人だった。
 
 今まで、遠くから見たことはあっても言葉を交わしたことなどない。
 メルリーナは、ぎゅっと胸の前でチェス盤を握りしめた。

 グレースの言葉に、先ほどのディオンの眼差しを目の当たりにしていなければ、わからないふりをしたかもしれない。

 だが、はっきりと突きつけられた現実から目を逸らすのは、もう無理だった。

 ばら撒いてしまったチェスピースを元通りに戻すようにはいかない。

 グレースの瞳がメルリーナを捕らえる。

 その薄く形のよい唇から紡がれた言葉は、半年前から死にかけていたメルリーナの心に止めを刺した。

「ディオンは、いずれフランツィスカ王女と結婚します」


◇◆


 グレースの部屋を辞したメルリーナは、何も考えられないまま、あて所なく歩いていたのだが、気が付けば見慣れた扉の前に立っていた。

 船の舵を模した黒曜石の飾りを持つ扉をいつものようにノックすれば、くぐもった声で「入れ」と聞こえた。

「……ラザール様?」

 そっと扉を押し開ければ、カーテンが引かれた薄暗い部屋の中、ラザールが寝台の上に身体を起こし、ひとりでチェスをしていた。

「メルリーナ! パーティーはどうした? ディオンには……会ったのか?」

「はい……その……ご気分はいかがですか? ラザール様」

 足音を忍ばせるように静かに歩み寄り、勧められるままに寝台の傍らに置かれた椅子へ腰かける。

「なぁに、ただの疲れだ」

 マクシムが亡くなってから、めっきり元気を失っていたラザールは、ここ数か月、不調を訴えてはベッドから起き上がれない日々を送っていた。

 ひどく調子が悪いときには割れるような頭痛に悩まされるらしく、身体に良くはないものの、意識を混濁させて痛みを和らげる薬を使う影響で、眠っている時間が徐々に長くなっていた。

 痩せて、皺が目立つ顔は土気色に近い。
 それでも、目の下の隈は比較的薄く、今日は調子がいいようだと見てメルリーナはほっとした。

「リーフラント王国のフランツィスカ王女にも、会ったか?」

 ラザールは、メルリーナが気落ちしている理由をすぐに見抜いた。

「はい。とてもお美しい王女様で……ディオン様とお似合いですね」

 ラザールは、深々と溜息を吐くと、ぐしゃりと髪を掻き回した。

「グレースは、ディオンとの結婚に乗り気だ」

 メルリーナは、冷たくなった指先をぎゅっと握り込み、つい先ほどグレースに告げられた言葉を思い返した。

「だが、ディオンの方から、そういった話は聞いていないし、あちら側の女狐たちはまだ、実際には動いていないようだ」

 一国の王女と王妃を女狐呼ばわりするラザールに、ソランジュとオルガのことも同じように言っていたことを思い出し、メルリーナは苦笑いした。

「アランには、ディオンの意思を無視して勝手に動くなと釘を刺してある。だが……」

 言い淀んだラザールに、メルリーナは無理矢理微笑んだ。

「……ディオン様が望むなら、何の問題もないと思います」

「メルリーナ」

「私とディオン様は、婚約をしているわけでもなければ、将来を誓い合った仲でもありません。ただの……チェスをする相手です」

 言葉にしてみれば、自分とディオンの関係は、なんと脆く頼りないものだろうかとメルリーナは思った。

 子供の頃は、二人だけの世界にいた頃は、誰よりも近くて、誰よりもお互いのことをわかっているような気がしていた。

 でも、改めて広い世界から二人の関係を見れば、それは友人とすら呼べぬような、幼い独占欲に過ぎない。

 ただ、漠然と描いた未来でも一緒にいられると、何の根拠もなく信じていただけだ。

 そのために、何かを積み上げて来たわけでもなく、そのために、何かを犠牲にしたわけでもない。

 二人でいる未来を諦めたところで、誰も傷つかないし、誰も不利益を被らない。

 むしろ、二人でいようとすることの方が、リヴィエールにとっての不利益となり、ディオンにとっての足枷になるかもしれない。

 目先の一手、目先の勝利に囚われると、戦局を見誤る。

 一時は勝利を確信するかもしれないが、最終的には敗北が待っている。

 メルリーナには、ディオン不在の二年間の寂しさを埋めるものはチェスやマクシム、ラザールしかなかった。
 でも、ディオンには、フランツィスカ王女や、メルリーナのいない空白を埋める相手がたくさんいた。
 今のディオンには、メルリーナが傍いることが当たり前ではなく、彼らが傍にいることが当たり前なのだ。

 リヴィエールに戻っても、昔と同じように過ごせるはずもなく、メルリーナが彼らの代わりになれるとも思えなかった。

「それでも……ディオンにとって、メルリーナは大事な存在だし、メルリーナにとってもディオンは大事な存在だろう? ディオンがこれまでとは違った行動や態度を見せたとしても、どうか性急に判断しないでやってくれ。異国での生活は、ある意味非日常で、思考も感情も平静とは違った状態に陥っていることもある。リヴィエールの暮らしに、日常に戻るまで、少し時間が掛かるだろう」

 ラザールの言わんとしていることは、何となくわかる。
 海の上で長く生きていると、なかなか陸の暮らしには馴染めないとマクシムも言っていた。
 きっと、違う土地で暮らすのも、似たようなところがあるのだろう。
 だが、これ以上は待てなかった。

「……私の方は……先延ばしには、たぶん出来ません」

 メルリーナの脳裏には、ソランジュ以上に強引な手段を取ることも辞さないと言ったグレースの言葉がはっきりと刻まれていた。

『ディオンは、あなたではなく、フランツィスカ王女と結婚します。みっともなく縋るような真似をせず、身を引きなさい。そうすれば、少なくともあなたの評判が地に落ちることはないでしょう。潔く身を引くならば、私があなたの継母が見繕うよりはマシな結婚相手を紹介してあげます。もちろん、持参金についても用意しましょう』

 メルリーナの将来の面倒を見ると言うことは、ディオンから遠ざけ、追い払うと言うことだ。

 グレースは、ソランジュが宛がうよりもマシな相手と言っていたが、グレースが動く前に、ディオンとフランツィスカの婚約を聞きつけたソランジュが強引な真似をするかもしれない。
 ギュスターヴは、最早止めようとはしないだろう。

「どういうことだ? メルリーナ。まさかもう……」

「誰、とはまだ決まっていませんが、このままだと用意された相手に嫁ぐことになると思います。……それが嫌なら家を出るしかないと思うのですが……」

 外へ出ることの少ないメルリーナには、マクシムやラザールの知り合い以外、自分自身の友人というものは、ディオンを除いてひとりもいなかった。

「いっそのこと、リヴィエールを出た方がいいとは思うのですが、それも難しいでしょうね……」

「メルリーナは……海に出たいのか?」

「……そうですね……一度でいいから、広い海を旅してみたいと思います」

 ラザールの問いに、素直に答えられたのは、可能性がないとわかっているからだった。

 女性が、ひとりで生きていくのはリヴィエールに限らず大変なことだ。
 仕事を見つけるのはもちろん、住む場所だって探さなくてはならないし、年齢が若ければ若いほど、どういった事情なのかと訝しく思われるだろう。

 でも、広い海のどこかにならば、可能性が――自分の居場所があるかもしれないと思ってしまう。

 ラザールはしばし考え込んでいたが、何かを思いついたように顔を上げ、焦茶色の瞳で真っすぐにメルリーナを見据えた。

「本気で海に出たいのなら、手を貸してやろう」

 どういう意味だと目を瞬くと、ラザールはふと寂しそうな笑みを浮かべた。

「メルリーナがリヴィエールでは幸せになれないというのなら、旅立てるよう力を貸そう。マクシムに代わって、私がメルリーナを船に乗せてやる」

 ラザールは、寝台の脇に置かれた小さな引き箪笥の引き出しから、大きめの懐中時計に似た、鎖の付いた鈍い金色の手のひら大の丸いものを取り出した。

「正しき道へ導く、幸運のお守りだ」

 差し出されるままに受け取れば、少しひやりとしたものの、すぐに手のぬくもりで滑らかに肌になじむ。

 蓋を開けると、中身は羅針盤だった。

「内蓋には私の名が刻まれている。引退した老いぼれではあるが、昔あちこちで恩を売っているからな。何かの役に立つだろう」

「ら、ラザール様、こんな……」

 恐らくとても高価でとても貴重なもので、本来ならばディオンが受け継ぐべきものなのではないかと思ったメルリーナが断ろうとすると、ラザールの大きな手にそれごと握りしめられた。

「必要な人間に使ってもらえる方が、道具も喜ぶというものだ。生い先短い老人の頼みと思って、快く貰ってくれ」

「……わかり、ました……ありがとうございます」

 おずおずと礼を口にしたメルリーナに、ラザールは優しい笑みと次の一手のヒントをくれた。

「マクシムがよく行っていた店で、ブラッドフォード・スタンレーという男を探して、チェスの勝負を申し込むんだ。勝ったら船に乗せてくれと頼めばいい」

「チェス?」

「あいつには、貸しがある。その羅針盤にある私の名を見れば、勝負を断りはしないだろう。だが、船に乗るためにはメルリーナ自身の力で勝つ必要があるぞ」

「そ、れは……」

 どんな人物かもわからないのに、勝負を申し込み、更には船に乗せてくれなんて言えないとメルリーナが怖気づいて首を横に振ろうとすると、ラザールの大きな手に肩を掴まれた。

「メルリーナ。海に出るには、船に乗り、港を離れなくてはならない。港に留まっているだけでは、どこへも行けないんだ」

「で、でも……わ、私は……な、なにも……特別なことは、出来ないし……う、美しくもなくて、賢くもなくて……」

「今、出来ることをすればいい。初めてのことが、いきなり上手く出来ないのは当然だ。船乗りだって、人のやり方を見たり、失敗したりして、学んでいく。上手く出来ないことは、出来るように練習すればいい。遠くに見える船だって、上手く風を使い、船を適切に扱えば、追いつけるかもしれない。たとえ海の上では追いつけなかったとしても、港で追いつけることもある。船も船乗りも、永遠に海の上にはいられない」

 ラザールは何を言いたいのか、メルリーナは理解した。
 
 じわりと滲んだ涙が、頬を伝って流れ落ちる。

「メルリーナ。広い海の上にいれば、色んなことがよく見えるようになる。とにかく……」

 マクシムと同じことを口にするラザールにぎこちない笑みを返したメルリーナは、祖父の口癖だった言葉で応じた。

「……乗ってみればわかる?」

 ラザールは一瞬目を見開き、昔のように声をあげて笑ってくれた。
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