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再会 2
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「今日は、リヴィエール中の住人が招待されていると言っても過言ではありません」
大広間に溢れる色とりどりのドレスや美味しそうな料理の匂い。
優雅な音楽に合わせて踊る美しい男女。
二年ぶりに見る、まるで現実とは思えぬ光景に、メルリーナは瞬きした。
「メルリーナ様?」
「えっ……あ、だ、大丈夫です。その、あまり……こういう場所は、得意ではなくて……」
「ディオン様は、あちらにいらっしゃいます。よろしければ、お連れいたしましょうか?」
セヴランが視線でちょうど大広間の反対側、大勢の若者たちが群がっている場所を示す。
「いえ……セヴランさんも、他のお客様を出迎えなくてはならないでしょう? 大丈夫です」
セヴランの気遣いは有難いけれど、手を煩わせたくない。
もう子供ではないのだから、ひとりでも大丈夫だと笑みを返したメルリーナは、人だかりの中に、朝焼け色の髪が見えた途端、早まる鼓動を鎮めるためにぎゅっとチェス盤を抱きしめた。
「お預かりしましょうか?」
大きくはないチェス盤だが、踊ったり料理を食べるときには邪魔になるだろうと言うセヴランに、首を横に振る。
「……挨拶するだけですから」
きっと、ディオンは大勢の人と挨拶し、会話しなくてはならないだろう。
取り敢えず挨拶するだけだからと、メルリーナはセヴランの申し出を断った。
「では、抜け出したくなったらいつでもお呼びください。ディオン様には適当な言い訳を見繕っておきますから」
真面目な顔で不真面目なことを言うセヴランに微笑んで、メルリーナは思いもかけない動きをする人たちにぶつかりそうになりながらも、何とかディオンの傍まで辿り着いた。
セヴランと同じ軍服らしきものを纏った若く逞しい青年や、美しく着飾った令嬢たちに囲まれているディオンの視線を捕らえようと伸び上がったメルリーナは、そこに思いがけないものを見た。
艶やかな栗色の髪を綺麗に結い上げ、細い項を露わにした美しい女性が、ディオンに寄り添い、微笑んでいた。
赤い唇が何事かを呟くたびに、ディオンはそのペリドットの瞳を見つめて頷き、微笑み返す。
二年前よりもっと背が伸びて、体つきも顔つきも逞しくなり、その横顔にも少年の影はもうどこにもない。
ごく自然に腕を絡める女性を見下ろし、給仕から受け取ったグラスを差し出して、互いに一口ずつ含んでは、再び何事かを囁き合い、微笑み合う様は恋人同士にしか見えなかった。
「お姉様。ご挨拶しないの?」
呆然と立ち尽くしたメルリーナは、するりと背後から腕を取られて思わず飛び上がった。
「行きましょう?」
振り返れば、ひどく嬉しそうに笑うオルガがいた。
メルリーナが纏っているドレスよりも一段深い赤のドレスを纏ったオルガは、有無を言わせぬ強さでメルリーナを引き摺り、妖艶な笑みで人垣を作っていた青年たちに道を譲らせて、ディオンの目の前に立った。
「ディオン様。無事のご帰還、何よりですわ」
ディオンは、不躾とも言えるやり方で現れたオルガに、明らかに不愉快そうな視線を向けたが、その横に立つメルリーナに気付くと、目を見開いた。
緩みも皺もない引き締まった身体を引き立たせる赤い軍服らしき服を纏い、落ち着いた立ち居振る舞いで美しい女性を傍らに立つディオンは、上から下へ、ゆっくりとメルリーナの全身を空色の瞳で眺め回す。
冷たさの残る春の薄い空色の瞳には、次々と色んな感情が浮かんでは消えて行った。
懐かしくて、ずっと会いたくていたはずなのに、メルリーナの目に映るディオンは、まるで知らない人のようだった。
「ディオン……?」
袖を引くフランツィスカを一瞥した後、再びメルリーナへ視線を戻したディオンの瞳からは入り混じっていた様々な感情が消え、ひとつのものだけがはっきりと残った。
結い上げることも出来ずに束ねた髪。
一年前より痩せてしまったせいで少しだらしなく見える、開き過ぎた胸元。
フランツィスカが着けている素晴らしい輝きの青い宝石に比べて小さな真珠を連ねただけの首飾り。
手入れはしているけれど、身の回りのことを自分でするために荒れた手は、ただ綺麗に爪を切り揃えただけ。美しく磨かれてもいなければ、桜色でもない。
頬紅をさし、申し訳程度に口紅を塗っただけの化粧とも言えぬ化粧を施した平凡な顔立ち。
自分がどんな風にその目に映っているのかをまざまざと思い知らせる冷たい眼差しに、メルリーナは震えそうになる唇を引き結んで俯いた。
「ありがとう、オルガ嬢。イースデイル男爵はお元気か?」
ディオンは、メルリーナが聞いたこともないような優しい物言いでオルガに挨拶を返す。
「はい。我が家は皆、息災に過ごしております。ディオン様もお元気そうで、何よりです。余程、カーディナルの風土がお身体に合っていらっしゃるのでしょうか?」
「ああ。私の場合、あちらで育ったようなものだし、厳しい訓練も忘れられるほど、親しい友人も多いから、気晴らしも出来た」
「まぁ! 私たちが、ディオンにとって気晴らし程度の存在だったとは知らなかったわ」
フランツィスカが大げさに憤ってみせれば、ディオンは慌てて否定する。
「え、あ、いや、そういうわけでは……」
「お二人は、ディオンのお知り合いなのですね? フランツィスカと申します。お名前をお伺いしても?」
にこやかに挨拶するフランツィスカに対し、何も言えずにいるメルリーナの代わりに、オルガがすらすらと応える。
「オルガ・イースデイルと申します。こちらは、姉のメルリーナです。私たちの祖父が前公爵のラザール様と懇意にさせていただいており、その縁で姉もディオン様のチェスのお相手を務めておりました」
「チェス……ああ! あなたがディオンが勝てない『無敵のメル』ね!」
話は聞いていると朗らかに笑うフランツィスカが、不貞腐れた表情をするディオンを揶揄い、親しげにその胸を小突いたりする様に、メルリーナの胸は鉄の杭を打ち込まれるような痛みを覚え、息もロクに出来なくなる。
「メル?」
ディオンの咎めるような声音に、ビクリと肩が跳ね上がり、その拍子に抱えていたチェス盤の留め金が外れた。
優雅な音楽を台無しにする無粋な音が響き渡り、バラバラと零れたチェスピースが床の上に飛び散った。
床を転がるポーンを見下し、メルリーナは血の気が引くのを感じた。
頭の中が真っ白になり、謝罪の言葉も思い浮かばず、どうやってこの場を収めればいいのかもわからず、呆然と立ち尽くす。
しん、と静まり返った場を取り繕うように、フランツィスカが朗らかに笑って足元に転がった白のクイーンを拾い上げた。
「ねぇ、ディオン。今気づいたのだけれど、大広間の床はチェス盤のようね? 人を駒に見立てて、ゲームをしたらどうかしら? あなたと『無敵のメル』の対戦なら、きっと面白いのではなくて?」
「それは……」
「むしろ、あなたとディオンが勝負したらどうです? フランツィスカ王女。彼女を参謀にすれば、いつも引き分けになる勝負にも勝てるのでは? 『無敵のメル』は、ディオンの弱点をたくさん知っているに違いない」
二人を取り囲んでいた青年のひとりが、名案だというように手を打った。
「そうだな! ディオンが負けたら、なんでも言うことをきくっていうのはどうだ?」
「じゃあ、俺が彼女を参謀にしてディオンに勝負を申し込む!」
「待てよ、俺がやる!」
「じゃあ、黒のキングを拾ったやつにしようぜ!」
「よしっ! みなさん、ちょっと足元を失礼!」
賑やかな青年たちは、口々に叫ぶと、床に転がるチェスピースを拾い始めた。
青年たちは、人々と会話を交わしながらおどけた仕草で駒を拾い集め、静まり返った広間に笑いを巻き起こす。
好みの青年が近づくのを待って、わざとらしく転がった駒をスカートの裾に隠す令嬢まで現れて、ちょっとした余興のように場が盛り上がる。
「うわ、ナイトかよ」
「ビショップ……」
「ポーンばっかりだ」
フランツィスカの機転に乗った青年たちは、人々を楽しませつつ、次々と転がった駒を拾い上げた。
「メル、チェス盤を開いてくれないかな?」
「まだ、ポーンがひとつ足りないな」
「ルークはどこだ?」
「どう? これで全部かな? メル」
「いや、黒のキングがない」
「ええっ!? 一体、誰が持ってるんだ?」
「メルを参謀に出来る幸運な奴はだれだよ?」
快活で陽気な青年たちは、何も出来ずにいるメルリーナの代わりに、あっという間にチェスピースを拾い集めてくれたが、メルリーナの抱えるチェス盤の裏側に収められたピースは、黒のキングが欠けていた。
大事なチェスセットなのに、見つからなかったらと思うと、恐ろしくて足が震えた。
更には、ディオンの食い入るような視線が注がれているのを感じ、ますますメルリーナは顔を上げることが出来なくなる。
「ディオン、キングがないぞ?」
「誰かが隠してるんじゃないのか?」
「うわ、やらしいなぁ」
「こんな可愛い子と一緒にいられるなら、こっそり二人きりで会いたいだろうけど」
賑やかな青年たちの会話を聞きながら、今にも泣き出しそうな気持ちで俯いていたメルリーナの頭上にディオンの声が落ちた。
「キングは、俺が持っている」
驚いて顔を上げれば、明らかに不機嫌そうな顔をしたディオンが見下ろしていた。
最後のひとつ、黒のキングを手にしたディオンは、無言で欠けていた場所へ埋め込むと、メルリーナからチェス盤を取り上げてしっかりと留め金を掛け、再び押し付けた。
「ちゃんと預かっておけと言っただろう?」
苛立ちと憎しみすら感じる冷たい光を浮かべた空色の瞳で睨まれて、メルリーナは青ざめた。
「ご、ごめっ、ごめんなさい……」
これ以上ここに居たら、もっとディオンを怒らせてしまうかもしれないと思い、震える声でどうにか謝罪の言葉を絞り出す。
一刻も早く引き上げるべきだった。
「ディ、ディオンさ、まっ……ふ、フランツィスカ、王女と……た、楽しくご歓談しているところ、お邪魔、をして、も、も、申し訳ありませんでした。失礼いたしますっ」
目線を落としたまま、どうにか膝を折って礼を尽くした挨拶を終えると、メルリーナはそのまま身を翻した。
驚いたように道を開ける青年たちの間をすり抜けて、ざわめきと人波に飛び込む。
この場に相応しくない身なりで、この場に相応しくない振舞いしか出来ない自分が情けなくて、恥ずかしくて、溢れそうになる涙を堪えながら、広間を足早に横切る。
逃げ出すようにして、つい先ほど入って来たばかりの入り口から出て行こうとしたメルリーナは、目の前に、黒のお仕着せを着た少年が立ちはだかるのを見て慌てて立ち止まった。
「メルリーナ・イースデイル様でいらっしゃいますか?」
緊張した面持ちで呼びかけられ、頷く。
「は、はい……?」
更に誰かの不快を買ってしまったのだろうかと怯えて身を竦めたメルリーナに、少年は声を潜めるようにして呼び止めた理由を告げた。
「公爵夫人グレース様が、お話したいと仰せです」
大広間に溢れる色とりどりのドレスや美味しそうな料理の匂い。
優雅な音楽に合わせて踊る美しい男女。
二年ぶりに見る、まるで現実とは思えぬ光景に、メルリーナは瞬きした。
「メルリーナ様?」
「えっ……あ、だ、大丈夫です。その、あまり……こういう場所は、得意ではなくて……」
「ディオン様は、あちらにいらっしゃいます。よろしければ、お連れいたしましょうか?」
セヴランが視線でちょうど大広間の反対側、大勢の若者たちが群がっている場所を示す。
「いえ……セヴランさんも、他のお客様を出迎えなくてはならないでしょう? 大丈夫です」
セヴランの気遣いは有難いけれど、手を煩わせたくない。
もう子供ではないのだから、ひとりでも大丈夫だと笑みを返したメルリーナは、人だかりの中に、朝焼け色の髪が見えた途端、早まる鼓動を鎮めるためにぎゅっとチェス盤を抱きしめた。
「お預かりしましょうか?」
大きくはないチェス盤だが、踊ったり料理を食べるときには邪魔になるだろうと言うセヴランに、首を横に振る。
「……挨拶するだけですから」
きっと、ディオンは大勢の人と挨拶し、会話しなくてはならないだろう。
取り敢えず挨拶するだけだからと、メルリーナはセヴランの申し出を断った。
「では、抜け出したくなったらいつでもお呼びください。ディオン様には適当な言い訳を見繕っておきますから」
真面目な顔で不真面目なことを言うセヴランに微笑んで、メルリーナは思いもかけない動きをする人たちにぶつかりそうになりながらも、何とかディオンの傍まで辿り着いた。
セヴランと同じ軍服らしきものを纏った若く逞しい青年や、美しく着飾った令嬢たちに囲まれているディオンの視線を捕らえようと伸び上がったメルリーナは、そこに思いがけないものを見た。
艶やかな栗色の髪を綺麗に結い上げ、細い項を露わにした美しい女性が、ディオンに寄り添い、微笑んでいた。
赤い唇が何事かを呟くたびに、ディオンはそのペリドットの瞳を見つめて頷き、微笑み返す。
二年前よりもっと背が伸びて、体つきも顔つきも逞しくなり、その横顔にも少年の影はもうどこにもない。
ごく自然に腕を絡める女性を見下ろし、給仕から受け取ったグラスを差し出して、互いに一口ずつ含んでは、再び何事かを囁き合い、微笑み合う様は恋人同士にしか見えなかった。
「お姉様。ご挨拶しないの?」
呆然と立ち尽くしたメルリーナは、するりと背後から腕を取られて思わず飛び上がった。
「行きましょう?」
振り返れば、ひどく嬉しそうに笑うオルガがいた。
メルリーナが纏っているドレスよりも一段深い赤のドレスを纏ったオルガは、有無を言わせぬ強さでメルリーナを引き摺り、妖艶な笑みで人垣を作っていた青年たちに道を譲らせて、ディオンの目の前に立った。
「ディオン様。無事のご帰還、何よりですわ」
ディオンは、不躾とも言えるやり方で現れたオルガに、明らかに不愉快そうな視線を向けたが、その横に立つメルリーナに気付くと、目を見開いた。
緩みも皺もない引き締まった身体を引き立たせる赤い軍服らしき服を纏い、落ち着いた立ち居振る舞いで美しい女性を傍らに立つディオンは、上から下へ、ゆっくりとメルリーナの全身を空色の瞳で眺め回す。
冷たさの残る春の薄い空色の瞳には、次々と色んな感情が浮かんでは消えて行った。
懐かしくて、ずっと会いたくていたはずなのに、メルリーナの目に映るディオンは、まるで知らない人のようだった。
「ディオン……?」
袖を引くフランツィスカを一瞥した後、再びメルリーナへ視線を戻したディオンの瞳からは入り混じっていた様々な感情が消え、ひとつのものだけがはっきりと残った。
結い上げることも出来ずに束ねた髪。
一年前より痩せてしまったせいで少しだらしなく見える、開き過ぎた胸元。
フランツィスカが着けている素晴らしい輝きの青い宝石に比べて小さな真珠を連ねただけの首飾り。
手入れはしているけれど、身の回りのことを自分でするために荒れた手は、ただ綺麗に爪を切り揃えただけ。美しく磨かれてもいなければ、桜色でもない。
頬紅をさし、申し訳程度に口紅を塗っただけの化粧とも言えぬ化粧を施した平凡な顔立ち。
自分がどんな風にその目に映っているのかをまざまざと思い知らせる冷たい眼差しに、メルリーナは震えそうになる唇を引き結んで俯いた。
「ありがとう、オルガ嬢。イースデイル男爵はお元気か?」
ディオンは、メルリーナが聞いたこともないような優しい物言いでオルガに挨拶を返す。
「はい。我が家は皆、息災に過ごしております。ディオン様もお元気そうで、何よりです。余程、カーディナルの風土がお身体に合っていらっしゃるのでしょうか?」
「ああ。私の場合、あちらで育ったようなものだし、厳しい訓練も忘れられるほど、親しい友人も多いから、気晴らしも出来た」
「まぁ! 私たちが、ディオンにとって気晴らし程度の存在だったとは知らなかったわ」
フランツィスカが大げさに憤ってみせれば、ディオンは慌てて否定する。
「え、あ、いや、そういうわけでは……」
「お二人は、ディオンのお知り合いなのですね? フランツィスカと申します。お名前をお伺いしても?」
にこやかに挨拶するフランツィスカに対し、何も言えずにいるメルリーナの代わりに、オルガがすらすらと応える。
「オルガ・イースデイルと申します。こちらは、姉のメルリーナです。私たちの祖父が前公爵のラザール様と懇意にさせていただいており、その縁で姉もディオン様のチェスのお相手を務めておりました」
「チェス……ああ! あなたがディオンが勝てない『無敵のメル』ね!」
話は聞いていると朗らかに笑うフランツィスカが、不貞腐れた表情をするディオンを揶揄い、親しげにその胸を小突いたりする様に、メルリーナの胸は鉄の杭を打ち込まれるような痛みを覚え、息もロクに出来なくなる。
「メル?」
ディオンの咎めるような声音に、ビクリと肩が跳ね上がり、その拍子に抱えていたチェス盤の留め金が外れた。
優雅な音楽を台無しにする無粋な音が響き渡り、バラバラと零れたチェスピースが床の上に飛び散った。
床を転がるポーンを見下し、メルリーナは血の気が引くのを感じた。
頭の中が真っ白になり、謝罪の言葉も思い浮かばず、どうやってこの場を収めればいいのかもわからず、呆然と立ち尽くす。
しん、と静まり返った場を取り繕うように、フランツィスカが朗らかに笑って足元に転がった白のクイーンを拾い上げた。
「ねぇ、ディオン。今気づいたのだけれど、大広間の床はチェス盤のようね? 人を駒に見立てて、ゲームをしたらどうかしら? あなたと『無敵のメル』の対戦なら、きっと面白いのではなくて?」
「それは……」
「むしろ、あなたとディオンが勝負したらどうです? フランツィスカ王女。彼女を参謀にすれば、いつも引き分けになる勝負にも勝てるのでは? 『無敵のメル』は、ディオンの弱点をたくさん知っているに違いない」
二人を取り囲んでいた青年のひとりが、名案だというように手を打った。
「そうだな! ディオンが負けたら、なんでも言うことをきくっていうのはどうだ?」
「じゃあ、俺が彼女を参謀にしてディオンに勝負を申し込む!」
「待てよ、俺がやる!」
「じゃあ、黒のキングを拾ったやつにしようぜ!」
「よしっ! みなさん、ちょっと足元を失礼!」
賑やかな青年たちは、口々に叫ぶと、床に転がるチェスピースを拾い始めた。
青年たちは、人々と会話を交わしながらおどけた仕草で駒を拾い集め、静まり返った広間に笑いを巻き起こす。
好みの青年が近づくのを待って、わざとらしく転がった駒をスカートの裾に隠す令嬢まで現れて、ちょっとした余興のように場が盛り上がる。
「うわ、ナイトかよ」
「ビショップ……」
「ポーンばっかりだ」
フランツィスカの機転に乗った青年たちは、人々を楽しませつつ、次々と転がった駒を拾い上げた。
「メル、チェス盤を開いてくれないかな?」
「まだ、ポーンがひとつ足りないな」
「ルークはどこだ?」
「どう? これで全部かな? メル」
「いや、黒のキングがない」
「ええっ!? 一体、誰が持ってるんだ?」
「メルを参謀に出来る幸運な奴はだれだよ?」
快活で陽気な青年たちは、何も出来ずにいるメルリーナの代わりに、あっという間にチェスピースを拾い集めてくれたが、メルリーナの抱えるチェス盤の裏側に収められたピースは、黒のキングが欠けていた。
大事なチェスセットなのに、見つからなかったらと思うと、恐ろしくて足が震えた。
更には、ディオンの食い入るような視線が注がれているのを感じ、ますますメルリーナは顔を上げることが出来なくなる。
「ディオン、キングがないぞ?」
「誰かが隠してるんじゃないのか?」
「うわ、やらしいなぁ」
「こんな可愛い子と一緒にいられるなら、こっそり二人きりで会いたいだろうけど」
賑やかな青年たちの会話を聞きながら、今にも泣き出しそうな気持ちで俯いていたメルリーナの頭上にディオンの声が落ちた。
「キングは、俺が持っている」
驚いて顔を上げれば、明らかに不機嫌そうな顔をしたディオンが見下ろしていた。
最後のひとつ、黒のキングを手にしたディオンは、無言で欠けていた場所へ埋め込むと、メルリーナからチェス盤を取り上げてしっかりと留め金を掛け、再び押し付けた。
「ちゃんと預かっておけと言っただろう?」
苛立ちと憎しみすら感じる冷たい光を浮かべた空色の瞳で睨まれて、メルリーナは青ざめた。
「ご、ごめっ、ごめんなさい……」
これ以上ここに居たら、もっとディオンを怒らせてしまうかもしれないと思い、震える声でどうにか謝罪の言葉を絞り出す。
一刻も早く引き上げるべきだった。
「ディ、ディオンさ、まっ……ふ、フランツィスカ、王女と……た、楽しくご歓談しているところ、お邪魔、をして、も、も、申し訳ありませんでした。失礼いたしますっ」
目線を落としたまま、どうにか膝を折って礼を尽くした挨拶を終えると、メルリーナはそのまま身を翻した。
驚いたように道を開ける青年たちの間をすり抜けて、ざわめきと人波に飛び込む。
この場に相応しくない身なりで、この場に相応しくない振舞いしか出来ない自分が情けなくて、恥ずかしくて、溢れそうになる涙を堪えながら、広間を足早に横切る。
逃げ出すようにして、つい先ほど入って来たばかりの入り口から出て行こうとしたメルリーナは、目の前に、黒のお仕着せを着た少年が立ちはだかるのを見て慌てて立ち止まった。
「メルリーナ・イースデイル様でいらっしゃいますか?」
緊張した面持ちで呼びかけられ、頷く。
「は、はい……?」
更に誰かの不快を買ってしまったのだろうかと怯えて身を竦めたメルリーナに、少年は声を潜めるようにして呼び止めた理由を告げた。
「公爵夫人グレース様が、お話したいと仰せです」
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