キツネつきのお殿さま

唯純 楽

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真神さまの使い 1

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 その日の八ツ半を回った頃。秋弦が黒書院で寺社奉行と昨日途中で切り上げた話し合いの続きをしていると、角右衛門が足音荒く飛び込んで来た。

「殿っ! 一大事ですぞ!」

 角右衛門は、眉を吊り上げた険しい表情をしている。

 楓は、直筆の詫び状を受け取った角右衛門が感涙にむせび、「殿がお忙しいときは、手習いに付き合ってやってもよい」などと口走っていたと言っていたのだが……今は、そんな好々爺の雰囲気は欠片もない。

「一体どうしたのだ、角右衛門。そんなに慌てて転びでもしたら、危ないだろう」

 矍鑠かくしゃくとしている角右衛門も、六十になる。若い頃にはちょっとした怪我で済む粗相が、今では大怪我になりかねない。

「年寄扱いはおやめください、殿! こう見えても、朝晩の鍛錬は欠かしておりませぬ」

 憤然と言い返す角右衛門に、都合が悪くなると「年寄りを敬え」と言い出すくせに、とは言わずにおいた。

「ああ、悪かった。この頃、楓のことが気になるせいか、心配性でな。で、城を走り回るほどの一大事とは何事だ?」

「縁談が来ておりまする」

 長らく縁がなかった言葉に、秋弦は一瞬「えんだん」とは何だったか、と考えてしまった。

「えんだん……?」

「銀嶺の国の姫君との縁談です」

 昨夜、その国を思い起こさせるものを手にしたばかりだ。

 寺社奉行は、「手放しでは喜べませんな」と渋い顔をした。

「銀嶺の国は殿にとっては母国であり、手を結ぶ利もなくはない相手ですが……亡き大奥さまのこともありますし……国内の反発は必至でしょう」

 銀嶺の国は、照葉の国と南西で隣り合う国だ。

 隣り合っていても国境には高い山々が連なっているため、親しく付き合うことも、また激しく争うことも長らくなかった。国の規模は同じくらいだが、言葉も習慣も大きく違い、国の在り方も異なるので、親しみにくいというのも疎遠であった一因だろう。

 照葉の国は、豊かな土壌と様々な恵みをもたらす山河を有し、穀物を始めとして大抵のものを自給自足しているので、さほど交易に頼る必要はない。

 しかし銀嶺の国は荒れ地が多く作物が育ちにくい土地柄で、荒れた山から銀や宝石を採掘し、他国へ売って得た富で、食料などを近隣諸国から輸入している。

 共通点などほとんどないのだが、秋弦にとっては切っても切れぬ縁がある国だった。
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