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「ここ、どこなのよう……もう、帰りたい……」
滅多に人の通らない、朝の繁忙期を終えた洗濯場で、パタパタと翻る洗濯物の間に隠れるようにして、ジジは蹲り、ぐずぐずと啜りあげ、抱えた膝に顔を埋めて泣きじゃくっていた。
初めての異国。
初めての長旅。
初めての場所。
初めて会う人達。
初めてづくしの毎日は、不安と心細さでジジの胸を一杯にした。
自分では、好奇心が旺盛だし、細かいことをそんなに気にする方でもないし、男女共にあまりべたべた付き合うこともなく、独りでいるのも平気だから、大丈夫だと思っていた。
だが、予想より遥かに、自分は弱かったのだとジジは悔しく思う。
ローレンヌの王女ヴァレリアがルーベンスの王太子と結婚することになり、ジジは侍女として共にルーベンスに遣って来た。
ヴァレリアはもちろん、ジジも、目の回る様な忙しさの中、どうにかひと月ほど頑張った。
辛いこと、大変なこと、心細いことはたくさんあったが、弱音を吐いてはいけないと、頑張った。
一人で来たわけではなく、ヴァレリアの乳母だったジジの祖母マリアも一緒だったし、何よりヴァレリアの方が大変なのだから。
だが、そんなジジの張りつめていた気持ちは、今朝、ついさっき、崩壊した。
先日、ヴァレリアの夫となるルーベンスの王太子であるトリスタンが、急遽王位を継承し、国王に即位することとなった。
トリスタンの父、すなわち現国王の病状が思わしくなく、そのためヴァレリアとの挙式を延期していたのだが、この先もっと忙しくなるからと、戴冠式共に一度に済ませると言い出したのだ。
もちろん、当初から直ぐに結婚式を挙げる予定だったこともあり、ヴァレリアの花嫁衣装はローレンヌから持って来ていたし、最終的な手直しを少しすれば十分で、急な予定の変更も問題はないはずだった。
それを、ついさっき、ジジが台無しにしたのだ。
ジジは、来週に迫った挙式のために、ヴァレリアの身体に再度合わせ、身頃を少しだけ詰めるつもりで、純白の花嫁のドレスを衣装棚から取り出した。
繊細なレースや真っ白な生地を、少しも汚さないように、破かないようにと、ソファーの上に丁寧に置いて、それから、ヴァレリアのためにお茶を淹れようとした。
目を離したのは、ほんの少しの間だ。
でも、どこから遣って来たのか、悪戯好きの仔犬が潜り込み、泥だらけの足で踏み散らかし、征服感にご満悦となるには十分な時間だった。
「うっ……ううっ」
ジジは、青くなって、ヴァレリアに詫び続け、無駄とわかっていながらもどうにか出来ないかとドレスを手に洗濯場までやって来た。
小一時間も格闘した結果、やはり元の純白は取り戻せず、すごすごと、帰ろうとした。
だが、確かに、後にした洗濯場に、戻って来てしまった。
どうして、と更に青くなったジジは、濡れて重くなったドレスを抱えて右往左往したが、結局、四度目に再び洗濯場に戻ってしまったところで、遂に心が折れた。
とんでもなく方向音痴な自分が、情けなくて、涙が溢れて来る。。
「もしかして、迷子かな?」
蹲り、泣きじゃくっていたジジは、不意に頭上から降って来た優しい声に、驚いて顔を上げた。
そこに居たのは、小山のような洗濯ものを抱え、何故か懐に仔犬を仕込んだ青年だ。
「う、ウィリ、アム、さ、まっ」
ジジが涙を拭って慌てて立ち上がると、濃い褐色の髪と灰色の瞳を持つ青年は、困ったものだというように、苦笑した。
ヴァレリアの夫となるトリスタンの右腕と言われる護衛騎士のウィリアム・レガールとは、毎日のように顔を合わせていた。
ウィリアムは、王太子妃となるヴァレリアを気遣い、あれこれと骨を折ってくれ、ルーベンスの慣習に慣れずに戸惑うジジにも、とても親切で、とても優しく色んなことを教えてくれる人物だった。
「何の用事でここに来たのかな? 洗濯の時間はとっくに終わっていると思ったけど」
「ど、ドレス、をっ」
ジジが、握りしめているドレスを見下ろしたウィリアムは、「もしかして……」と呟き、懐の仔犬を見下ろした。
「コイツがやったんじゃない?」
「……」
ウィリアムの懐からジジを見つめる黒い犬の瞳に、してやったり、という色が見えたのは気のせいだろうか。
ジジがマジマジと見つめていると、ウィリアムが「あちゃ~!」と言って天を仰いだ。
「最近、王城内で飼っている狩猟犬が、森で拾って来たんだよ。生まれた頃から躾けていないせいで、世話係も手を焼いていて……そのドレス、ヴァレリア様のかい?」
「うっ……」
折角堪えた涙が、再び溢れ出し、ジジはドレスを握り締める。
「わぁ、泣かない! それ以上泣くと、綺麗な瞳が溶けてなくなる、ジェレーヌ嬢」
そう言いながら、ウィリアムが差し出したものでジジが涙を拭った途端。
「あ、ごめん。それ、下着だった」
「……っ!」
バッと顔から引き剥がしたジジは、手にしたそれが下着ではなく、普通の手巾であることに気付く。
ウィリアムを見れば、しれっとした顔で、さらっと言う。
「嘘だよ」
「……っ!」
冗談なんか聞いている場合じゃない、と怒りに打ち震えたジジだったが、ウィリアムはにっこり笑ってジジの手から手巾を取り戻すと、手を伸ばし、ジジの頭を軽く撫でた。
「大丈夫だよ。トリスタン殿下が、ちゃんと用意してくれるから。いや、むしろ、用意させろと言い出すから。ヴァレリア様だって、怒ったりしなかっただろう?」
確かに、そうだった。
ヴァレリアは、泥まみれになったドレスの中から仔犬が現れたのを見て、笑い転げていた。
「心配いらない」
ゆっくりと、優しく撫でる大きな手に、ジジの荒れ狂っていた感情も次第に治まる。
ウィリアムが大丈夫だと言えば、大丈夫なのだと、この短い付き合いでも知っている。
城の、ルーベンス王国の、あらゆることに通じている王太子の右腕の青年は、どんなことでも、いとも容易く解決してしまう。
気持ちが落ち着いて来ると、ジジは子供のように泣きじゃくったのがすっかり恥ずかしくなった。
十八にもなって、迷子になって泣いているなんて、恥ずかしすぎる。
ジジがすっかり泣き止んだのを確かめると、ウィリアムは優しく申し出た。
「ちょっと待ってて貰えるなら、送って行ってあげるよ。ところで、犬を洗ったことはある?」
ジジは、無事に部屋へ戻れるのなら、いつまでだって待てると何度も頷いたが、犬を洗ったことなどない。
「じゃあ、こっちを洗うのを手伝ってくれるかな?」
ウィリアムが示した小山のような洗濯物に、ジジは犬を洗うよりは断然、そちらがいいと頷いた。
何故、護衛騎士のウィリアムが洗濯などするのかは謎だが、不躾かと思って尋ねるのは止めた。
「よし、じゃあ、交渉成立だね」
ウィリアムは、高低差を使って水を流している洗い場まで来ると、いつもきっちりと着込んでいる上着を脱ぎ捨て、腕まくりし、仔犬を一番下流の槽に浸けた。
仔犬は暴れ、激しく鳴いているが、ウィリアムは容赦なく洗い立てていく。
騎士服を着ていると細身に見えるが、剥き出しになった腕はしっかりと筋肉が付いて逞しく、胸板も厚いと分かる。
何となく見つめていたジジに気付いたウィリアムは、にやりと笑う。
「そんなに熱烈に見つめられると、うっかり勘違いしちゃうよ?」
「……っ!」
ジジは慌てて洗濯物を抱え込むと、仔犬がいる隣の槽で纏めて一気に水洗いし、次いで一つずつ丁寧に石鹸を付けて洗って行く。
男物の上着や下穿き、手巾などが大半だったが、底の方から出て来たのは、下着だ。
ローレンヌでも、最初の頃は洗濯係だったし、家族の父や兄の洗濯物を洗ったりもしているので、さして気にも止めずに洗おうとしたジジだったが、横から伸びて来たウィリアムの手に奪われた。
「それはいいから」
「え、でも、どうせ洗うのなら一緒に……」
「いや、大丈夫。さすがにそれは、ちょっと……後で、自分で洗う」
ごにょごにょと口ごもったウィリアムの頬がやや赤い。
てっきり、トリスタンのものかと思っていたのだが、どうやら、この山のような洗濯物がウィリアムのものらしいと気付き、ジジは途端に、可笑しくなって吹き出した。
「……笑うとこじゃないよ」
恐らく、忙しくて、なかなか洗濯係に渡せないまま溜め込み、大量になりすぎて、今さら渡すのもバツが悪くなったのだろう。
今だって、遠慮なくジジに押し付けて、そのまま立ち去っても構わないところなのに、侍女や下働きの者にまで気を使うウィリアムらしい。
「きっと、ウィリアム様は後で洗う暇はないと思うので、一緒に洗ってしまいます。私、父や兄のものも洗ったりしていたので、気にしませんから」
「君は気にしないかもしれないけど、俺が気にする」
ウィリアムは、いつになく真剣な顔でジジに反論する。
「私は、侍女です。仕事の内ですから」
「でも……」
どうせ、今ここでジジが洗うのを止めたところで、生乾きの洗濯物が積み上げられたまま放置されるだけだということは、容易に想像がつく。
ジジは、あれこれと言い訳するウィリアムの下着を引っぱり、上品な侍女らしい笑みを浮かべた。
「私にお任せ下さい。ウィリアム様?」
「……」
しばし、濡れた下着を握り締め、無言の攻防を繰り広げた後、ウイリアムがようやく手を離し、不貞腐れたように顔を背け、ぼそっと呟いた。
「…………おねがい、します」
手際良く、ジジが洗濯物を綺麗に洗い上げ、干した後、ウィリアムは小綺麗になった仔犬を連れ、ジジをヴァレリアの下へと送り届けてくれた。
ヴァレリアはもちろんジジを叱ったりはせず、ドレスを駄目にしてしまった犯人が犯行現場に舞い戻った様を見て笑い、落ち着きがないところがウィリアムにそっくりだと酷い感想を述べた。
ウィリアムは不貞腐れ、躾が済んだら嫌がらせのためにヴァレリアへの贈り物にすると言い、再びヴァレリアを笑わせた。
「でも……ドレス、どうしましょう」
ジジが、駄目になったドレスを抱えて再び泣きそうになると、ウィリアムが三日待って欲しいと言った。
「三日後には、元通りになりますから」
一体どうやって、とジジとヴァレリアは顔を見合わせたが、ウィリアムが言った通り、三日後には素晴らしい純白のドレスが、しかも、駄目になってしまったドレスと寸分違わぬ物がヴァレリアに届けられた。
ほんの僅かな時間、眺めただけで見事に再現してみせたウィリアムの記憶力に、そしてたった三日で豪奢なドレスを仕上げると言う、無理を実現させる伝手を持つ如才のなさに、ジジだけでなくヴァレリアもミアも、舌を巻いた。
ただし、少しの直しも必要のないほどヴァレリアの身体にぴったりだったせいで、トリスタンが不機嫌になったのが、唯一の失策だったと言えるかもしれない。
*************************************
洗濯場での邂逅以来、ウィリアムは一層、ジジに親切にしてくれるようになった。
慣れないルーベンスの王城で、ジジが迷子になっているところを拾っては、ヴァレリアの部屋へ送り届けてくれた。
あまりにも度々、迷子になっているジジに行き会うウィリアムに、「もしかして呼ばれている?」などと冗談を言われ、ジジはドキリとした。
迷子になろうと思ってなっているわけではないが、ウィリアムが来てくれたらいいな、と思っているのを見透かされてしまったのではないか、と。
自分の、憧れが殆どを占める、淡い恋心に気付かれているのではないか、と。
そして、気付いてくれたらいいな、と。
だが、そんな物語のようなことが起きるはずもない。
ウィリアムには想う人がいて、ジジとの関係は、あくまでも騎士と侍女。ちょっと親しく言葉を交わすだけの間柄。
礼儀正しいウィリアムは、決して愛称でジジを呼ぶことはなく、いつも「ジェレーヌ嬢」と、まるで貴族のご令嬢のごとくジジを呼ぶ。
ジジは、その関係を変えたいとは思わなかった。
変えてはいけないと、思っていた。
だって、立派な騎士としがない侍女なんて、釣り合わないから。
叶わない恋ならば、せめて、ほんの少しだけ、親しい友人でいたい。
ほんの少しだけ、心を許して貰えるだけでいい。
そんな風に思っていたのだ。
本当の、恋に堕ちるまでは……。
滅多に人の通らない、朝の繁忙期を終えた洗濯場で、パタパタと翻る洗濯物の間に隠れるようにして、ジジは蹲り、ぐずぐずと啜りあげ、抱えた膝に顔を埋めて泣きじゃくっていた。
初めての異国。
初めての長旅。
初めての場所。
初めて会う人達。
初めてづくしの毎日は、不安と心細さでジジの胸を一杯にした。
自分では、好奇心が旺盛だし、細かいことをそんなに気にする方でもないし、男女共にあまりべたべた付き合うこともなく、独りでいるのも平気だから、大丈夫だと思っていた。
だが、予想より遥かに、自分は弱かったのだとジジは悔しく思う。
ローレンヌの王女ヴァレリアがルーベンスの王太子と結婚することになり、ジジは侍女として共にルーベンスに遣って来た。
ヴァレリアはもちろん、ジジも、目の回る様な忙しさの中、どうにかひと月ほど頑張った。
辛いこと、大変なこと、心細いことはたくさんあったが、弱音を吐いてはいけないと、頑張った。
一人で来たわけではなく、ヴァレリアの乳母だったジジの祖母マリアも一緒だったし、何よりヴァレリアの方が大変なのだから。
だが、そんなジジの張りつめていた気持ちは、今朝、ついさっき、崩壊した。
先日、ヴァレリアの夫となるルーベンスの王太子であるトリスタンが、急遽王位を継承し、国王に即位することとなった。
トリスタンの父、すなわち現国王の病状が思わしくなく、そのためヴァレリアとの挙式を延期していたのだが、この先もっと忙しくなるからと、戴冠式共に一度に済ませると言い出したのだ。
もちろん、当初から直ぐに結婚式を挙げる予定だったこともあり、ヴァレリアの花嫁衣装はローレンヌから持って来ていたし、最終的な手直しを少しすれば十分で、急な予定の変更も問題はないはずだった。
それを、ついさっき、ジジが台無しにしたのだ。
ジジは、来週に迫った挙式のために、ヴァレリアの身体に再度合わせ、身頃を少しだけ詰めるつもりで、純白の花嫁のドレスを衣装棚から取り出した。
繊細なレースや真っ白な生地を、少しも汚さないように、破かないようにと、ソファーの上に丁寧に置いて、それから、ヴァレリアのためにお茶を淹れようとした。
目を離したのは、ほんの少しの間だ。
でも、どこから遣って来たのか、悪戯好きの仔犬が潜り込み、泥だらけの足で踏み散らかし、征服感にご満悦となるには十分な時間だった。
「うっ……ううっ」
ジジは、青くなって、ヴァレリアに詫び続け、無駄とわかっていながらもどうにか出来ないかとドレスを手に洗濯場までやって来た。
小一時間も格闘した結果、やはり元の純白は取り戻せず、すごすごと、帰ろうとした。
だが、確かに、後にした洗濯場に、戻って来てしまった。
どうして、と更に青くなったジジは、濡れて重くなったドレスを抱えて右往左往したが、結局、四度目に再び洗濯場に戻ってしまったところで、遂に心が折れた。
とんでもなく方向音痴な自分が、情けなくて、涙が溢れて来る。。
「もしかして、迷子かな?」
蹲り、泣きじゃくっていたジジは、不意に頭上から降って来た優しい声に、驚いて顔を上げた。
そこに居たのは、小山のような洗濯ものを抱え、何故か懐に仔犬を仕込んだ青年だ。
「う、ウィリ、アム、さ、まっ」
ジジが涙を拭って慌てて立ち上がると、濃い褐色の髪と灰色の瞳を持つ青年は、困ったものだというように、苦笑した。
ヴァレリアの夫となるトリスタンの右腕と言われる護衛騎士のウィリアム・レガールとは、毎日のように顔を合わせていた。
ウィリアムは、王太子妃となるヴァレリアを気遣い、あれこれと骨を折ってくれ、ルーベンスの慣習に慣れずに戸惑うジジにも、とても親切で、とても優しく色んなことを教えてくれる人物だった。
「何の用事でここに来たのかな? 洗濯の時間はとっくに終わっていると思ったけど」
「ど、ドレス、をっ」
ジジが、握りしめているドレスを見下ろしたウィリアムは、「もしかして……」と呟き、懐の仔犬を見下ろした。
「コイツがやったんじゃない?」
「……」
ウィリアムの懐からジジを見つめる黒い犬の瞳に、してやったり、という色が見えたのは気のせいだろうか。
ジジがマジマジと見つめていると、ウィリアムが「あちゃ~!」と言って天を仰いだ。
「最近、王城内で飼っている狩猟犬が、森で拾って来たんだよ。生まれた頃から躾けていないせいで、世話係も手を焼いていて……そのドレス、ヴァレリア様のかい?」
「うっ……」
折角堪えた涙が、再び溢れ出し、ジジはドレスを握り締める。
「わぁ、泣かない! それ以上泣くと、綺麗な瞳が溶けてなくなる、ジェレーヌ嬢」
そう言いながら、ウィリアムが差し出したものでジジが涙を拭った途端。
「あ、ごめん。それ、下着だった」
「……っ!」
バッと顔から引き剥がしたジジは、手にしたそれが下着ではなく、普通の手巾であることに気付く。
ウィリアムを見れば、しれっとした顔で、さらっと言う。
「嘘だよ」
「……っ!」
冗談なんか聞いている場合じゃない、と怒りに打ち震えたジジだったが、ウィリアムはにっこり笑ってジジの手から手巾を取り戻すと、手を伸ばし、ジジの頭を軽く撫でた。
「大丈夫だよ。トリスタン殿下が、ちゃんと用意してくれるから。いや、むしろ、用意させろと言い出すから。ヴァレリア様だって、怒ったりしなかっただろう?」
確かに、そうだった。
ヴァレリアは、泥まみれになったドレスの中から仔犬が現れたのを見て、笑い転げていた。
「心配いらない」
ゆっくりと、優しく撫でる大きな手に、ジジの荒れ狂っていた感情も次第に治まる。
ウィリアムが大丈夫だと言えば、大丈夫なのだと、この短い付き合いでも知っている。
城の、ルーベンス王国の、あらゆることに通じている王太子の右腕の青年は、どんなことでも、いとも容易く解決してしまう。
気持ちが落ち着いて来ると、ジジは子供のように泣きじゃくったのがすっかり恥ずかしくなった。
十八にもなって、迷子になって泣いているなんて、恥ずかしすぎる。
ジジがすっかり泣き止んだのを確かめると、ウィリアムは優しく申し出た。
「ちょっと待ってて貰えるなら、送って行ってあげるよ。ところで、犬を洗ったことはある?」
ジジは、無事に部屋へ戻れるのなら、いつまでだって待てると何度も頷いたが、犬を洗ったことなどない。
「じゃあ、こっちを洗うのを手伝ってくれるかな?」
ウィリアムが示した小山のような洗濯物に、ジジは犬を洗うよりは断然、そちらがいいと頷いた。
何故、護衛騎士のウィリアムが洗濯などするのかは謎だが、不躾かと思って尋ねるのは止めた。
「よし、じゃあ、交渉成立だね」
ウィリアムは、高低差を使って水を流している洗い場まで来ると、いつもきっちりと着込んでいる上着を脱ぎ捨て、腕まくりし、仔犬を一番下流の槽に浸けた。
仔犬は暴れ、激しく鳴いているが、ウィリアムは容赦なく洗い立てていく。
騎士服を着ていると細身に見えるが、剥き出しになった腕はしっかりと筋肉が付いて逞しく、胸板も厚いと分かる。
何となく見つめていたジジに気付いたウィリアムは、にやりと笑う。
「そんなに熱烈に見つめられると、うっかり勘違いしちゃうよ?」
「……っ!」
ジジは慌てて洗濯物を抱え込むと、仔犬がいる隣の槽で纏めて一気に水洗いし、次いで一つずつ丁寧に石鹸を付けて洗って行く。
男物の上着や下穿き、手巾などが大半だったが、底の方から出て来たのは、下着だ。
ローレンヌでも、最初の頃は洗濯係だったし、家族の父や兄の洗濯物を洗ったりもしているので、さして気にも止めずに洗おうとしたジジだったが、横から伸びて来たウィリアムの手に奪われた。
「それはいいから」
「え、でも、どうせ洗うのなら一緒に……」
「いや、大丈夫。さすがにそれは、ちょっと……後で、自分で洗う」
ごにょごにょと口ごもったウィリアムの頬がやや赤い。
てっきり、トリスタンのものかと思っていたのだが、どうやら、この山のような洗濯物がウィリアムのものらしいと気付き、ジジは途端に、可笑しくなって吹き出した。
「……笑うとこじゃないよ」
恐らく、忙しくて、なかなか洗濯係に渡せないまま溜め込み、大量になりすぎて、今さら渡すのもバツが悪くなったのだろう。
今だって、遠慮なくジジに押し付けて、そのまま立ち去っても構わないところなのに、侍女や下働きの者にまで気を使うウィリアムらしい。
「きっと、ウィリアム様は後で洗う暇はないと思うので、一緒に洗ってしまいます。私、父や兄のものも洗ったりしていたので、気にしませんから」
「君は気にしないかもしれないけど、俺が気にする」
ウィリアムは、いつになく真剣な顔でジジに反論する。
「私は、侍女です。仕事の内ですから」
「でも……」
どうせ、今ここでジジが洗うのを止めたところで、生乾きの洗濯物が積み上げられたまま放置されるだけだということは、容易に想像がつく。
ジジは、あれこれと言い訳するウィリアムの下着を引っぱり、上品な侍女らしい笑みを浮かべた。
「私にお任せ下さい。ウィリアム様?」
「……」
しばし、濡れた下着を握り締め、無言の攻防を繰り広げた後、ウイリアムがようやく手を離し、不貞腐れたように顔を背け、ぼそっと呟いた。
「…………おねがい、します」
手際良く、ジジが洗濯物を綺麗に洗い上げ、干した後、ウィリアムは小綺麗になった仔犬を連れ、ジジをヴァレリアの下へと送り届けてくれた。
ヴァレリアはもちろんジジを叱ったりはせず、ドレスを駄目にしてしまった犯人が犯行現場に舞い戻った様を見て笑い、落ち着きがないところがウィリアムにそっくりだと酷い感想を述べた。
ウィリアムは不貞腐れ、躾が済んだら嫌がらせのためにヴァレリアへの贈り物にすると言い、再びヴァレリアを笑わせた。
「でも……ドレス、どうしましょう」
ジジが、駄目になったドレスを抱えて再び泣きそうになると、ウィリアムが三日待って欲しいと言った。
「三日後には、元通りになりますから」
一体どうやって、とジジとヴァレリアは顔を見合わせたが、ウィリアムが言った通り、三日後には素晴らしい純白のドレスが、しかも、駄目になってしまったドレスと寸分違わぬ物がヴァレリアに届けられた。
ほんの僅かな時間、眺めただけで見事に再現してみせたウィリアムの記憶力に、そしてたった三日で豪奢なドレスを仕上げると言う、無理を実現させる伝手を持つ如才のなさに、ジジだけでなくヴァレリアもミアも、舌を巻いた。
ただし、少しの直しも必要のないほどヴァレリアの身体にぴったりだったせいで、トリスタンが不機嫌になったのが、唯一の失策だったと言えるかもしれない。
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洗濯場での邂逅以来、ウィリアムは一層、ジジに親切にしてくれるようになった。
慣れないルーベンスの王城で、ジジが迷子になっているところを拾っては、ヴァレリアの部屋へ送り届けてくれた。
あまりにも度々、迷子になっているジジに行き会うウィリアムに、「もしかして呼ばれている?」などと冗談を言われ、ジジはドキリとした。
迷子になろうと思ってなっているわけではないが、ウィリアムが来てくれたらいいな、と思っているのを見透かされてしまったのではないか、と。
自分の、憧れが殆どを占める、淡い恋心に気付かれているのではないか、と。
そして、気付いてくれたらいいな、と。
だが、そんな物語のようなことが起きるはずもない。
ウィリアムには想う人がいて、ジジとの関係は、あくまでも騎士と侍女。ちょっと親しく言葉を交わすだけの間柄。
礼儀正しいウィリアムは、決して愛称でジジを呼ぶことはなく、いつも「ジェレーヌ嬢」と、まるで貴族のご令嬢のごとくジジを呼ぶ。
ジジは、その関係を変えたいとは思わなかった。
変えてはいけないと、思っていた。
だって、立派な騎士としがない侍女なんて、釣り合わないから。
叶わない恋ならば、せめて、ほんの少しだけ、親しい友人でいたい。
ほんの少しだけ、心を許して貰えるだけでいい。
そんな風に思っていたのだ。
本当の、恋に堕ちるまでは……。
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