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もう一人のビリー、もう一人の天使
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「ビヴァリーっ! 何をしているんだっ!? もう到着するだろうっ!?」
「いまっ! 今、行くっ!」
階下から叫ぶハロルドに叫び返したビヴァリーは、念には念を入れて、今日から増える家族が使う部屋に、何か自分たち夫婦の忘れ物はないか再確認していたところだった。
先日、二階の自分とハロルドが使っていた部屋から、同じ二階にある昔両親が使っていた部屋へとハロルドが荷物を移した。
しかし、目につくものだけを取り敢えず運ぶというやり方だったので、箪笥の中に服が残っていたり、机の引き出しの中に日記帳が残っていたりとあちこち穴だらけだった。
ずっと誰かと一緒の部屋しか使っていなかった子だからこそ、せっかく一人部屋を手に入れるのだから、何の遠慮もなく自分の部屋だと思ってほしい。
そのためには、誰かのものだったという痕跡はできるだけ消しておきたかった。
そもそも大昔に書いた日記なんて、恥ずかしすぎて燃やしてしまいたい。
「もう、大丈夫かな……?」
箪笥の引き出し、机の引き出し、クローゼット、洗面台の扉の中は確認した。
ベッドのリネン類は取り替えてある。毛布も日干しした。
(掃除も……ハルはちゃんとやったって言ったけれど……?)
冬の間、必要最低限の使用人で乗り切ったため、ハロルドにはかなりの家事を負担してもらった。
シャツにウェストコート姿の侯爵様が、箒を持って床を掃いたり、鍋でスープを煮込んでいたり、洗濯物を畳んでいたりという姿は、なかなかお目にかかれないと思う。
本人曰く、どれも軍にいた時にやっていたことのようだが、それが普通なわけではないのだとテレンスに聞いた。
たいていは、職権濫用で部下を召使いのように使うか、召使いを職権濫用で潜り込ませるかするらしい。
潔癖なハロルドは、軍規を乱すような真似はしたくないと言ったのだとか。
ビヴァリーは、念のためひょいとベッドの下を覗き込んで、そこにきらりと光る何かを見つけた。
ちょっとお腹がキツイと思いつつ、這いつくばって手を伸ばす。
「ん?……」
拾い上げたものを見れば、金色の指輪だった。
内側を確かめて、目を見開く。
「な……んで、こんなところに……」
「ビヴァリー! 何をして……おいっ! どうした? 転んだんじゃないよな?」
痺れを切らして迎えに来たらしいハロルドは、床に座り込んでいるビヴァリーを見るなり青くなって駆け寄った。
「ハル……この指輪が、ベッドの下にあったんだけど……母さんのだと思うの」
「指輪……?」
「イニシャルがね。父さんと母さんのだから」
「結婚指輪か」
「たぶん」
ハロルドが差し出した手を取って立ち上がったビヴァリーは、少しくすんだ指輪を眺めながら、どうしようかと考え込んでしまった。
「どこかに大事に取っておくか……それとも……」
「ハンチング帽の中に、一緒に入れておくのがいいんじゃないか?」
ハロルドの思いがけない提案に、ビヴァリーは一瞬驚いたが、大きく頷いた。
「うん、それが一番いいね」
「あとで、マーゴットに頼んでくる」
手を差し出したハロルドに金の指輪を渡しながら、ビヴァリーは優しい夫に感謝の笑みを向けた。
「……ありがとう、ハル」
この春、マーゴットたちはグラーフ侯爵領へ引っ越してきて、本邸の庭師用のコテージで暮らし始めた。
庭師に弟子入りしたテレンスは、その怪力をお屋敷でも重宝されているし、マーゴットは個人的に仕立てを請け負いながら、やがては店を出すと張り切っている。
メアリは、ギデオンのいい話し相手になっているらしく、二人で散歩するのが日課になりつつあるらしい。
ビヴァリーは、春から頭数を増やすべく、ギデオンが競売で競り落とした種牡馬と昨年レースで騎乗した牝馬の中から、何頭かを貰い受ける約束をしていた。
同時に、ハロルドが天使様だと思われている教会の孤児院から、まずは馬丁見習いということで、少年を一人預かることにした。
今日、その少年がこのクレイヴン厩舎にやって来る。
「きっと、初めての長旅だよね? 大丈夫かな……」
ゆっくり階段を下りながら、ビヴァリーはまだ見たことのない少年が、心身ともに大丈夫かどうか、心配だった。
十三歳の少年にとって、生まれ育った土地を離れ、知り合いのいない土地で働くことを決心するのは、そう簡単なことではない。
「大丈夫だろう。そんなヤワには見えなかった」
ハロルドは、そのあたりも考えて選んだつもりだと肩を竦めた。
少年を雇うと決めたのはハロルドだ。
マーゴットの結婚式の時には、靴磨きの仕事に出かけていたらしく、ビヴァリーは会っていないのだが、ハロルドが教会を訪れるたびにビヴァリーの出たレースのことばかり聞いてくるので、「そんなに馬が好きか」と尋ねたら、「馬になりたいくらい好きだ」と言ったので、即決したらしい。
名前も面白くて気に入ったらしいが、会ってのお楽しみだと言って教えてくれない。
「向こうの使用人が連れてきてくれるから、大丈夫だとは思うが……逃げ足が早い馬もいるからな」
「……ハル?」
ハロルドは、ビヴァリーが睨んでいるのに気付かぬフリをして、馬場の向こう側をやって来る馬車を示す。
「あれだな」
「そうみたいだね」
二頭立ての馬車は、グラーフ侯爵邸へ続く道からこちらへ向かって道を折れ、あっという間に到着した。
馬車の扉が開き、見覚えのある使用人の男性が降り立つ。タウンハウスで従僕をしていた青年だ。
「ご無沙汰しております、旦那様、奥様」
「長旅、ご苦労だったな。途中、何の問題もなかったか?」
「はい、晴天に恵まれましたので。少年も、馬車酔いもせず元気です」
青年に促されて馬車から飛び降りたのは、初めて会ったときのハロルドのミニチュア版みたいな少年だった。
栄養状態のせいもあるだろう。全体的に細くて華奢で、十三歳の男の子にしては小柄だ。
やや長めの金色の髪や白い肌、アメジストの色をした瞳は長い金の睫毛で覆われ、女の子のようにも見える。
少年は緊張しているらしく、硬い表情でじっと立ち尽くしている。
「ほら、挨拶をしなさい」
促され、ようやく少年はギクシャクとした動きでハロルドとビヴァリーの前に進み出た。
「あ、のっ…………ビリーです。よろしくお願いします」
ビヴァリーは、呆気に取られてハロルドを見上げた。
ハロルドは、ニヤリと笑ってビリーに手を差し出し、固い握手を交わす。
「よく来たな、ビリー。今日から、このビヴァリーがおまえのボスだ。クレイヴン厩舎では、ビヴァリーの言葉は絶対だ。俺でも逆らえない」
「ハルっ!」
まるで独裁政権のようなことを言うハロルドを睨んでいると、ビリーが顔を真っ赤にさせて叫んだ。
「お、俺、ブレント競馬場でのレースを見ました! 一番速くて、一番格好良かったですっ! ビヴァリーさまの厩舎で働けるなんて、夢みたいですっ! 一生懸命働きますので、よろしくお願いしますっ!」
「あ、ありがとう」
あまりにも絶賛されると照れ臭い。
ビヴァリーが「よろしくね」と手を差し出すと、なんとビリーは手の甲にキスをした。
「とりあえず、厩舎から案内するか。馬が見たいんだろう?」
「はいっ!」
「ビヴァリーも来るか?」
「え、うん、荷物を入れてもらったらね」
ビリーは目を輝かせてハロルドの背を追いかけて行く。
「すっかり懐いているみたい」
「ええ。馬車の中では、ずっと旦那様か奥様の話ばかりしてましたよ。しかも……旦那様とは血の繋がりもなく、生まれも育ちも違うはずなんですが、なんというか……全体的な雰囲気が旦那様の小さい頃にそっくりで」
長年侯爵家に仕えているという青年は、幼い頃のハロルドをよく知っているらしく、苦笑していた。
「私もそう思いました」
「何なんでしょうね? 何が似ているんでしょうか」
「負けず嫌いなところとか?」
「意地っ張りなところとか?」
二人で顔を見合わせて噴き出す。
「長い間、私共は旦那様の嬉しそうな笑顔を見ることがありませんでしたが……今の旦那様は、笑みを堪えるのが大変でしょうね」
しみじみと呟く青年に、ビヴァリーも頷く。
「荷物を運んでしまいます。二階ですか?」
「あ、はい、ありがとうございます。二階の階段を上がってすぐ左手側の部屋です。扉を開けてあるのでわかると思います」
馬車の上から下ろしたトランクを運んでいく従僕を見送って、御者にお茶でも飲まないかと誘うと、このままグラーフ侯爵邸へ向かうのだと言う。
「ギデオン様に頼まれているものもあるので、届けなくてはならないのです」
「そう……あの、でも、しばらく滞在するんですよね?」
「ええ。二、三日はこちらの澄んだ空気で肺を綺麗にしたいですからね」
「じゃあ、明日侯爵邸でビリーの歓迎パーティーを開くので、ぜひ! 参加自由ですから」
「それは楽しみだ。ぜひ、参加させてもらいましょう」
荷物を運び終えて戻ってきた従僕にも参加してくれるよう頼む。
重荷を下ろした馬車は軽やかに走り去り、代わりに厩舎からハロルドがドルトンを曳き出してきた。
「ビリーに、この辺りを見せて来る」
冬の間、ハロルドの献身的な世話を受けたドルトンは、「仕方がない、認めてやる」と言いたげな顏で、必要最低限の指示には従うようになっていた。
ハロルドは、いつかドルトンを全速力で思うように走らせるという野望を抱いているようだが、遠い未来の話だとビヴァリーは思っていた。
「あの……ビヴァリーさま」
ハロルドの横にいたビリーが、ためらいがちに尋ねる。
「ビヴァリー」
「あ、はい、ビヴァリー……は、乗らないの?」
まさかハロルドは話していなかったのかと驚きつつ、ビヴァリーは少し膨らみが目立ち始めている腹部に手を当てた。
「うん。しばらくは乗らない。家族がもう一人増えて、四人になるの」
「……あ……赤ん坊が生まれる?」
「そうなの」
「でも、四人って……双子?」
怪訝な顔をするビリーに、ビヴァリーは指を折って数えてみせる。
「ハルと、私と、この子と……ビリー。四人でしょ?」
ビリーがぐっと唇を引き結んで俯くと、ドルトンに跨ったハロルドが上から掬い上げるようにして攫う。
「うわぁっ!」
「これくらいでビビるな。ビヴァリー、戻ったら……」
「お茶の時間でしょ」
「今朝作ったパイが二つある。なかなか上手くできたから、黒猫も満足するはずだ。あとで、帽子と一緒に一つ持って行くから準備しておいてくれ」
言いたいことだけ言って、ハロルドが軽く馬腹を蹴るとドルトンが走り出す。
あっという間に小さくなっていく馬影を見つめながら、ビヴァリーは苦笑した。
(ハルって……隠し事が下手だよね)
埃一つ落ちていないベッドの下に、五年も前のものが偶然落ちているはずがない。
ビヴァリーは、ハロルドに、デボラについてこれ以上何かを尋ねるつもりはなかった。
どうしても知らなくてはならないことならば、いくら隠そうが、嘘を吐こうが、知るべきときに知ることになる。
ハロルドが黙っていることを選んだのは、卑怯だからでも、臆病だからでもなく、ただビヴァリーのためを思ってくれてのことだと信じている。
今頃、馬上で目を輝かせ、こぼれんばかりの笑みを浮かべて、馬と一体になって走る楽しさの虜になっているに違いない、ビリーの姿を思い浮かべる。
馬体が躍動する様を体感して、上り詰めた丘の上から見る風景は、理不尽な仕打ちに対する怒りで煤けた心も、抗えない運命に翻弄される悲しみに曇った目も、きっと綺麗に洗い流してくれるだろう。
あの丘からは、すべてが見渡せる。
どこまでも続く道も。
目指すべきゴールも。
帰るべきこの場所も。
レースは、まだ終わりじゃない。
ゴールはまだまだ先にある。
走っている最中は、色んなことが起き、不安や恐怖に駆られてしまうこともあるかもしれない。
でも、焦る必要はない。
なぜなら……
丘の上から手を振るハロルドたちにビヴァリーが手を振り返すと、ドルトンが嘶く声が聞こえた。
「ドルトンっ!」
ビヴァリーが呼んだ瞬間、愛する黒鹿毛の馬は丘を駆け下り、飛ぶように走り出す。
どんどん近づいてくるドルトンに必死に掴まりながら、ビリーが歓声を上げるのが聞こえた。
自然と、ビヴァリーの顔にも笑みが浮かぶ。
どんなレースでも、
「私たちは、必ず勝つ」
「いまっ! 今、行くっ!」
階下から叫ぶハロルドに叫び返したビヴァリーは、念には念を入れて、今日から増える家族が使う部屋に、何か自分たち夫婦の忘れ物はないか再確認していたところだった。
先日、二階の自分とハロルドが使っていた部屋から、同じ二階にある昔両親が使っていた部屋へとハロルドが荷物を移した。
しかし、目につくものだけを取り敢えず運ぶというやり方だったので、箪笥の中に服が残っていたり、机の引き出しの中に日記帳が残っていたりとあちこち穴だらけだった。
ずっと誰かと一緒の部屋しか使っていなかった子だからこそ、せっかく一人部屋を手に入れるのだから、何の遠慮もなく自分の部屋だと思ってほしい。
そのためには、誰かのものだったという痕跡はできるだけ消しておきたかった。
そもそも大昔に書いた日記なんて、恥ずかしすぎて燃やしてしまいたい。
「もう、大丈夫かな……?」
箪笥の引き出し、机の引き出し、クローゼット、洗面台の扉の中は確認した。
ベッドのリネン類は取り替えてある。毛布も日干しした。
(掃除も……ハルはちゃんとやったって言ったけれど……?)
冬の間、必要最低限の使用人で乗り切ったため、ハロルドにはかなりの家事を負担してもらった。
シャツにウェストコート姿の侯爵様が、箒を持って床を掃いたり、鍋でスープを煮込んでいたり、洗濯物を畳んでいたりという姿は、なかなかお目にかかれないと思う。
本人曰く、どれも軍にいた時にやっていたことのようだが、それが普通なわけではないのだとテレンスに聞いた。
たいていは、職権濫用で部下を召使いのように使うか、召使いを職権濫用で潜り込ませるかするらしい。
潔癖なハロルドは、軍規を乱すような真似はしたくないと言ったのだとか。
ビヴァリーは、念のためひょいとベッドの下を覗き込んで、そこにきらりと光る何かを見つけた。
ちょっとお腹がキツイと思いつつ、這いつくばって手を伸ばす。
「ん?……」
拾い上げたものを見れば、金色の指輪だった。
内側を確かめて、目を見開く。
「な……んで、こんなところに……」
「ビヴァリー! 何をして……おいっ! どうした? 転んだんじゃないよな?」
痺れを切らして迎えに来たらしいハロルドは、床に座り込んでいるビヴァリーを見るなり青くなって駆け寄った。
「ハル……この指輪が、ベッドの下にあったんだけど……母さんのだと思うの」
「指輪……?」
「イニシャルがね。父さんと母さんのだから」
「結婚指輪か」
「たぶん」
ハロルドが差し出した手を取って立ち上がったビヴァリーは、少しくすんだ指輪を眺めながら、どうしようかと考え込んでしまった。
「どこかに大事に取っておくか……それとも……」
「ハンチング帽の中に、一緒に入れておくのがいいんじゃないか?」
ハロルドの思いがけない提案に、ビヴァリーは一瞬驚いたが、大きく頷いた。
「うん、それが一番いいね」
「あとで、マーゴットに頼んでくる」
手を差し出したハロルドに金の指輪を渡しながら、ビヴァリーは優しい夫に感謝の笑みを向けた。
「……ありがとう、ハル」
この春、マーゴットたちはグラーフ侯爵領へ引っ越してきて、本邸の庭師用のコテージで暮らし始めた。
庭師に弟子入りしたテレンスは、その怪力をお屋敷でも重宝されているし、マーゴットは個人的に仕立てを請け負いながら、やがては店を出すと張り切っている。
メアリは、ギデオンのいい話し相手になっているらしく、二人で散歩するのが日課になりつつあるらしい。
ビヴァリーは、春から頭数を増やすべく、ギデオンが競売で競り落とした種牡馬と昨年レースで騎乗した牝馬の中から、何頭かを貰い受ける約束をしていた。
同時に、ハロルドが天使様だと思われている教会の孤児院から、まずは馬丁見習いということで、少年を一人預かることにした。
今日、その少年がこのクレイヴン厩舎にやって来る。
「きっと、初めての長旅だよね? 大丈夫かな……」
ゆっくり階段を下りながら、ビヴァリーはまだ見たことのない少年が、心身ともに大丈夫かどうか、心配だった。
十三歳の少年にとって、生まれ育った土地を離れ、知り合いのいない土地で働くことを決心するのは、そう簡単なことではない。
「大丈夫だろう。そんなヤワには見えなかった」
ハロルドは、そのあたりも考えて選んだつもりだと肩を竦めた。
少年を雇うと決めたのはハロルドだ。
マーゴットの結婚式の時には、靴磨きの仕事に出かけていたらしく、ビヴァリーは会っていないのだが、ハロルドが教会を訪れるたびにビヴァリーの出たレースのことばかり聞いてくるので、「そんなに馬が好きか」と尋ねたら、「馬になりたいくらい好きだ」と言ったので、即決したらしい。
名前も面白くて気に入ったらしいが、会ってのお楽しみだと言って教えてくれない。
「向こうの使用人が連れてきてくれるから、大丈夫だとは思うが……逃げ足が早い馬もいるからな」
「……ハル?」
ハロルドは、ビヴァリーが睨んでいるのに気付かぬフリをして、馬場の向こう側をやって来る馬車を示す。
「あれだな」
「そうみたいだね」
二頭立ての馬車は、グラーフ侯爵邸へ続く道からこちらへ向かって道を折れ、あっという間に到着した。
馬車の扉が開き、見覚えのある使用人の男性が降り立つ。タウンハウスで従僕をしていた青年だ。
「ご無沙汰しております、旦那様、奥様」
「長旅、ご苦労だったな。途中、何の問題もなかったか?」
「はい、晴天に恵まれましたので。少年も、馬車酔いもせず元気です」
青年に促されて馬車から飛び降りたのは、初めて会ったときのハロルドのミニチュア版みたいな少年だった。
栄養状態のせいもあるだろう。全体的に細くて華奢で、十三歳の男の子にしては小柄だ。
やや長めの金色の髪や白い肌、アメジストの色をした瞳は長い金の睫毛で覆われ、女の子のようにも見える。
少年は緊張しているらしく、硬い表情でじっと立ち尽くしている。
「ほら、挨拶をしなさい」
促され、ようやく少年はギクシャクとした動きでハロルドとビヴァリーの前に進み出た。
「あ、のっ…………ビリーです。よろしくお願いします」
ビヴァリーは、呆気に取られてハロルドを見上げた。
ハロルドは、ニヤリと笑ってビリーに手を差し出し、固い握手を交わす。
「よく来たな、ビリー。今日から、このビヴァリーがおまえのボスだ。クレイヴン厩舎では、ビヴァリーの言葉は絶対だ。俺でも逆らえない」
「ハルっ!」
まるで独裁政権のようなことを言うハロルドを睨んでいると、ビリーが顔を真っ赤にさせて叫んだ。
「お、俺、ブレント競馬場でのレースを見ました! 一番速くて、一番格好良かったですっ! ビヴァリーさまの厩舎で働けるなんて、夢みたいですっ! 一生懸命働きますので、よろしくお願いしますっ!」
「あ、ありがとう」
あまりにも絶賛されると照れ臭い。
ビヴァリーが「よろしくね」と手を差し出すと、なんとビリーは手の甲にキスをした。
「とりあえず、厩舎から案内するか。馬が見たいんだろう?」
「はいっ!」
「ビヴァリーも来るか?」
「え、うん、荷物を入れてもらったらね」
ビリーは目を輝かせてハロルドの背を追いかけて行く。
「すっかり懐いているみたい」
「ええ。馬車の中では、ずっと旦那様か奥様の話ばかりしてましたよ。しかも……旦那様とは血の繋がりもなく、生まれも育ちも違うはずなんですが、なんというか……全体的な雰囲気が旦那様の小さい頃にそっくりで」
長年侯爵家に仕えているという青年は、幼い頃のハロルドをよく知っているらしく、苦笑していた。
「私もそう思いました」
「何なんでしょうね? 何が似ているんでしょうか」
「負けず嫌いなところとか?」
「意地っ張りなところとか?」
二人で顔を見合わせて噴き出す。
「長い間、私共は旦那様の嬉しそうな笑顔を見ることがありませんでしたが……今の旦那様は、笑みを堪えるのが大変でしょうね」
しみじみと呟く青年に、ビヴァリーも頷く。
「荷物を運んでしまいます。二階ですか?」
「あ、はい、ありがとうございます。二階の階段を上がってすぐ左手側の部屋です。扉を開けてあるのでわかると思います」
馬車の上から下ろしたトランクを運んでいく従僕を見送って、御者にお茶でも飲まないかと誘うと、このままグラーフ侯爵邸へ向かうのだと言う。
「ギデオン様に頼まれているものもあるので、届けなくてはならないのです」
「そう……あの、でも、しばらく滞在するんですよね?」
「ええ。二、三日はこちらの澄んだ空気で肺を綺麗にしたいですからね」
「じゃあ、明日侯爵邸でビリーの歓迎パーティーを開くので、ぜひ! 参加自由ですから」
「それは楽しみだ。ぜひ、参加させてもらいましょう」
荷物を運び終えて戻ってきた従僕にも参加してくれるよう頼む。
重荷を下ろした馬車は軽やかに走り去り、代わりに厩舎からハロルドがドルトンを曳き出してきた。
「ビリーに、この辺りを見せて来る」
冬の間、ハロルドの献身的な世話を受けたドルトンは、「仕方がない、認めてやる」と言いたげな顏で、必要最低限の指示には従うようになっていた。
ハロルドは、いつかドルトンを全速力で思うように走らせるという野望を抱いているようだが、遠い未来の話だとビヴァリーは思っていた。
「あの……ビヴァリーさま」
ハロルドの横にいたビリーが、ためらいがちに尋ねる。
「ビヴァリー」
「あ、はい、ビヴァリー……は、乗らないの?」
まさかハロルドは話していなかったのかと驚きつつ、ビヴァリーは少し膨らみが目立ち始めている腹部に手を当てた。
「うん。しばらくは乗らない。家族がもう一人増えて、四人になるの」
「……あ……赤ん坊が生まれる?」
「そうなの」
「でも、四人って……双子?」
怪訝な顔をするビリーに、ビヴァリーは指を折って数えてみせる。
「ハルと、私と、この子と……ビリー。四人でしょ?」
ビリーがぐっと唇を引き結んで俯くと、ドルトンに跨ったハロルドが上から掬い上げるようにして攫う。
「うわぁっ!」
「これくらいでビビるな。ビヴァリー、戻ったら……」
「お茶の時間でしょ」
「今朝作ったパイが二つある。なかなか上手くできたから、黒猫も満足するはずだ。あとで、帽子と一緒に一つ持って行くから準備しておいてくれ」
言いたいことだけ言って、ハロルドが軽く馬腹を蹴るとドルトンが走り出す。
あっという間に小さくなっていく馬影を見つめながら、ビヴァリーは苦笑した。
(ハルって……隠し事が下手だよね)
埃一つ落ちていないベッドの下に、五年も前のものが偶然落ちているはずがない。
ビヴァリーは、ハロルドに、デボラについてこれ以上何かを尋ねるつもりはなかった。
どうしても知らなくてはならないことならば、いくら隠そうが、嘘を吐こうが、知るべきときに知ることになる。
ハロルドが黙っていることを選んだのは、卑怯だからでも、臆病だからでもなく、ただビヴァリーのためを思ってくれてのことだと信じている。
今頃、馬上で目を輝かせ、こぼれんばかりの笑みを浮かべて、馬と一体になって走る楽しさの虜になっているに違いない、ビリーの姿を思い浮かべる。
馬体が躍動する様を体感して、上り詰めた丘の上から見る風景は、理不尽な仕打ちに対する怒りで煤けた心も、抗えない運命に翻弄される悲しみに曇った目も、きっと綺麗に洗い流してくれるだろう。
あの丘からは、すべてが見渡せる。
どこまでも続く道も。
目指すべきゴールも。
帰るべきこの場所も。
レースは、まだ終わりじゃない。
ゴールはまだまだ先にある。
走っている最中は、色んなことが起き、不安や恐怖に駆られてしまうこともあるかもしれない。
でも、焦る必要はない。
なぜなら……
丘の上から手を振るハロルドたちにビヴァリーが手を振り返すと、ドルトンが嘶く声が聞こえた。
「ドルトンっ!」
ビヴァリーが呼んだ瞬間、愛する黒鹿毛の馬は丘を駆け下り、飛ぶように走り出す。
どんどん近づいてくるドルトンに必死に掴まりながら、ビリーが歓声を上げるのが聞こえた。
自然と、ビヴァリーの顔にも笑みが浮かぶ。
どんなレースでも、
「私たちは、必ず勝つ」
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