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馬に乗るのは、勝つためです 5

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 朝起きて、一人で寝ていたことに気付いたビヴァリーは、ハロルドが帰って来なかったのだろうかと思いかけ、ふと枕元にある紙に気付いた。

 厩舎で待っていると書かれた紙に、一瞬あの夜のことを思い出してドキリとしたが、もう終わったことなのだと思い直す。

 あれこれ考え出すと、次々と色んなことに怯えてしまいそうだ。

 りんご酒や王宮の大広間、ドレスやハロルドがくれた可愛い馬蹄の形をしたネックレスにブレスレット。クローバーの髪飾り。

 素敵な思い出が全部忘れたい思い出になってしまうのは嫌だった。

 起き出して、素早く身支度を整え、いつものように乗馬用の服装に着替えたのは、馬に乗らなくとも、やっぱりその恰好が一番落ち着くからだ。

(いい加減、ブリギッドさまもおかしいって思っているよね……)

 離宮へ移ってから三日が過ぎているが、ビヴァリーはまだ一度もアルウィンに乗っていなかった。

 毎朝厩舎には行くし、ブリギッドがアルウィンを調教する様子を眺めたり、他の馬たちの様子を眺めたりしてはいるが、自分から近付くことはしなかった。

 馬たちも、ビヴァリーのためらいを感じ取っているらしく、近付いてくることはない。

 アルウィンだけは「どうかしたのか?」と言うように、ビヴァリーに近寄って覗き込むけれど、じゃれついたりはしない。

 レースまでもう七日しかない。

 他の馬たちは最終的な調整を始めていて、馬と騎手の息もぴったりだ。

 アルウィンは初めてのレースだから、他の馬と競い合う練習をしたほうがいいのに、それもできていない。

 乗れないと正直に告白して、代わりの騎手を急いで探してもらうべきなのだけれど、焼け落ちてしまった厩舎の上に住んでいた馬丁たちの顔が脳裏に浮かんで、どうしても言えなかった。

 離宮に移る前に、きちんと謝ろうと思って訪ねたのだが、誰もビヴァリーを責めなかった。

 馬も、人も無事だったのだから、大丈夫。焼けて困るようなものは持っていないし、ビヴァリーとアルウィンに賭けているから、勝ってくれさえすれば火事で失くした以上のものが買えると、笑いながら言ってくれた。

(レースをみんな楽しみにしているのに……)

 じわりと滲む涙を手の甲で拭いながら、ハロルドのおさがりであるジャケットを羽織り、ブーツを履いて、ハンチング帽を被って部屋を出た。

 既にパンを焼くいい匂いが漂っていて、色んな人たちが忙しく働いている音がするが、王宮よりはずっと静かだ。

 一階へ下り、厨房の横にある裏口から外へ出ると、朝の冷えた空気に身震いした。

 白み始めていている空は薄っすらと雲がかかっているけれど、所々隙間があるので、今日は晴れそうだ。

 王宮のような平らな地面ではなく、ふかふかの草で覆われたでこぼこの地面の感触を感じながら歩いていると、寝ている間に強張っていた身体が少しずつ解れていく。

 本邸から少し離れた場所に建つ厩舎は、王宮のものに比べるとだいぶ小さいけれど、手入れもきちんとされているし、小綺麗に保たれていた。

 朝の早い馬丁たちは既に馬房から馬たちを曳き出して、掃除している間、のんびりと周囲を散歩させている。

 そんな馬たちから少し離れた場所で、黒鹿毛のアルウィンと金色の髪のハロルドが向かい合って何やら話し合っている。

(馬が合わないと思っていたのに……)

 意外な組み合わせを不思議に思っていると、ビヴァリーに気付いたアルウィンが軽く嘶いた。

 ビヴァリーが二人に近付くと、アルウィンはハロルドに擦り寄るほど親しげな様子を見せ、ハロルドは一緒に朝の散歩に行こうとビヴァリーを誘った。

 久しぶりに――と言っても、たったの三日ぶりだが――ハロルドの顔をちゃんと見られたのは嬉しかったが、一緒に馬に乗るなんて無理だった。

 アルウィンとハロルドの仲が良さそうなのも、何か裏がありそうだ。

(ハルを乗せるなんて、アルウィンは絶対何か貰ったでしょ)

 気位の高いアルウィンだが、まだ若い馬らしくちょっとしたことで釣れるので、ドルトンよりは多少扱いやすい。

(仲が悪いよりはいいけど……)

 ハロルドが、アルウィンを買収してまで誘ってくれたのに、応えられない自分が情けなくて俯いたビヴァリーは、いきなり身体が浮き上がったことに驚いた。

「乗るぞ」

「きゃっ! は、ハルっ!?」

 ハロルドは軽々とビヴァリーを抱き上げると、そのままアルウィンの上に乗せ、自分も後ろに跨った。

 ビヴァリーが跨りやすいようにもう一度持ち上げると、背後から包み込むようにして手綱を取る。

 アルウィンが万事心得ているというように歩き出すと、その揺れが身体に伝わり、指示はハロルドが出していても、ビヴァリーを乗せているだけでも気になるのではないかと不安になった。

 余計な力を入れてはいけないと思えば思うほど、身体が固くなってしまう。

「アルウィンは、振り落としたりしない」

 ハロルドの腕が腰に回り、後ろへ引き寄せられると逞しい胸板に背を支えられた。

「色々と忙しくてゆっくり話ができなかったが、体調は?」

「だ、大丈夫……ハルは?」

(ふ、普通に話せばいいのに、わざわざ耳元で囁くのはどうして……?)

 馬に乗っているはずなのに、何か別のことをしているかのような雰囲気に、ビヴァリーはうろたえた。

「快調とは言い難いが、寝込むほどではない。レースが終わる頃には少し楽になるだろう」

「でも、怪我を早く治すには休んだほうが……ひゃっ」

 何かにぱくりと耳をくわえられて、ビヴァリーは危うく飛び上がりそうになった。

(い、今、耳齧った……齧ったっ!?)

 振り返ろうとすると、ハロルドは肩に顎を載せて阻止してくる。

(か、確信犯だ……)

 ビヴァリーがあたふたしているというのに、ハロルドはまるでおかまいなしだ。

 腰に回した腕を解いたかと思ったら、お腹のあたりを優しく撫でながら、なぜか嬉しそうに聞こえる声で物騒なことを呟いた。

「今、大物をあぶり出そうとしているところなんだ。五年前の火事とこの前起きた火事はある一人の人物で繋がっている。おまえもよく知っている大貴族だ。追い詰める材料は着々と揃っているし、必ず息の根を止めてやる」

 ビヴァリーが知っている大貴族で、ラッセルやデボラとも繋がりがある人物など、一人しか思い浮かばない。

「……マクファーソン侯爵?」

 ハロルドは肯定も否定もしなかったが、それが答えだ。

「もう一匹、馬の周りをしつこく飛び回っている邪魔な虫がいるんだが、それも一緒に叩き落とす」

「う、うん……?」

 何がどうなっているのかよくわからないが、ハロルドが色々と忙しかったのは、ビヴァリーでは探し出せなかった様々な真実を見つけ出すためだったのだろう。

「絶対に逃したりしない。だから、ビヴァリーはレースに集中すればいい」

「…………」

「お祖父さまも、近々王都へ来る。正直、馬のことでは、俺は役に立てないだろうから、お祖父さまに相談してみればいい。ただし……」

 アルウィンがぴたりと足を止め、ハロルドはビヴァリーを持ち上げると、自分と向き合うように座らせた。

「ビヴァリーのことなら、俺が話を聞く」

 ハッとして見上げると、鳶色の瞳がじっとビヴァリーを見つめていた。

 馬のように耳がピクピク動いたりはしないけれど、ビヴァリーの言うことを聞こうとしてくれているのが伝わってくる。

「ハル……わ、わたし……あの……私……」

 何とか話そうとするけれど、上手く言葉にできない。

 言おうとすればするほど涙が溢れてくるが、ハロルドはじっと黙って待ってくれている。

「こ、怖くって……」

 しばらくしゃくり上げ、ようやくぽつりと呟けた。

「か、火事と私が一緒に記憶されていたら、私のこと嫌いになる……み、みんなに怖い思いをさせちゃったし……も、もう、乗せてもらえないかもしれないと思ったら……怖くて……」

 一度話し始めると、言葉は自然と溢れ出す。

「私とアルウィンに賭けている人もたくさんいるのに……ブリギッドさまだって、大事なアルウィンを預けくれているのに……乗れないなんて……言えない。乗っても勝てないかもしれないなんて、言えない……」

 ビヴァリーがずっと胸の奥に溜め込んでいたものを吐き出すと、ハロルドは綺麗な白いハンカチを取り出した。

「火事の後、アルウィンはすぐにおまえに駆け寄った。他の馬たちも、ビヴァリーの姿に怯えたりはしていない。近寄って来ないのは、おまえが大丈夫かどうか心配しているからだ。馬は、火事から助けてくれたおまえを恨むような、恩知らずだと思っているのか?」

「でもっ……私のせいで……」

「火事が起きたのは、ランタンのせいだ。だが、ランタンから火が燃え移ったのはおまえのせいじゃない。ビヴァリー、何があったのか一番よく知っているのは、あそこにいた馬たちだろう。もしも人間の言葉が話せるなら、全員がおまえの無罪を証言するはずだ」

 涙と鼻水を拭ったハロルドはビヴァリーの手にハンカチを握らせて、乾いた頬を撫でた。

「それに……勝てないなんて心配は、無用だ。おまえが上手く乗れなくとも、アルウィンが助けてくれる。ドルトンの子なら、それくらいできるだろう? アルウィン」

 馬体が揺れて、ハロルドの問いにアルウィンが大きく頷くのがわかった。

「おまえが馬たちを助けるように、馬たちもおまえを助けてくれる。だから、いつも勝てる。そうじゃないのか? ビヴァリー」

「……うん」

 ビヴァリーは、いつの間にか自分だけが、上手く走れるように馬たちを手助けしているつもりでいたことに気付かされた。

 馬たちがちゃんと言うことを聞くのは、ビヴァリーが上手く乗れるように手助けするためだというのに。

「アルウィンは、おまえと一緒に勝ちたいと思っている。そうでなきゃ、俺の言うことなんか聞かないだろう」

「……何かあげたでしょ?」

 ビヴァリーの問いに、ハロルドは視線をさまよわせたが「ちょっとだけだ」と小声で言い訳した。

「とにかく……可愛げのないアルウィンだが、馬丁たちはみんなおまえとアルウィンに賭けている。勝つ可能性が高いからじゃない。勝つと知っているからだ。それに……大勢の人が初陣のおまえたちに賭けているのは、金儲けを企んでいるからじゃない。期待し、応援しているからだ」

「……うん」

 ビヴァリーが俯きながら頷くと、ハロルドはぐいっと顎を掴んで持ち上げた。

「賭け屋で儲けるつもりはないが、レース当日は俺もビヴァリーとアルウィンの馬券を買う」

「え……でも、ハルは……賭け事は……」

「投資だ」

 詭弁じゃないかとビヴァリーは思ったが、ハロルドはそうじゃないと言葉を続けた。

「儲かった分はビヴァリーの厩舎に投資する。夏のうちに厩舎を完成させて、来年ドルトンの子どもたちを、前哨戦として二歳馬のレースに出してみたくないか?」

 目を見開くビヴァリーに、「それなら、ビヴァリー自身が稼いだのと同じことになるだろう?」と言う。

「ハル……」

 せっかく止まった涙が再び溢れそうになって、忙しなくまばたきしていると、ハロルドが泣くなと偉そうに命令する。

「泣いてる顔も悪くはないが……できれば、違う顔のほうがいい」

 ぼそっと呟いて、顔を近付ける。

 唇が重なるはずだったが、立ち止まっていたアルウィンがいきなり動いたため、仰け反ったビヴァリーは慌ててハロルドの胸元を握りしめた。

「ご、ごめんなさい、ハル……」

 ハロルドは、鳶色の瞳を大きく見開いていたが、果敢にも再挑戦した。

 すると、再びアルウィンが動き出し、しかも歩くだけでなく今度は軽く走り出した。

「アルウィンっ! おまえ、わざとだろうっ!?」

 ハロルドが転がり落ちそうになったビヴァリーを抱きかかえて怒鳴ると、ぴたりと足を止め、首を捻って振り返る。

 だからどうした、と言いたげな不遜な顔つきにハロルドが眉を吊り上げた。

「さっき、交渉しただろうがっ!」

「たぶん、その交渉には含まれていない内容だと言いたいんだと思うけど……」

 ビヴァリーが指摘すると、ハロルドは舌打ちしてポケットから取り出したものをアルウィンに差し出した。

「……梨も追加してやる」

 瞬く間にハロルドの差し出したものを奪ったアルウィンは、前を向いてのんびりと草を食べるフリをし始めた。

(簡単に買収されすぎでしょ……)

 こんなに簡単に物で釣られるなんて、おやつを与えるときには慎重になったほうがいいかもしれないとビヴァリーが呆れていると、ハロルドが呼ぶ。

「ビヴァリー?」

 甘えるように鼻の頭を擦りつけてくる様が、馬のようだ。

 綺麗な白いハンカチで、ビヴァリーの黒く煤けていた胸の内を拭ってくれたお礼に、ちょっとだけ伸び上がって物言いたげな唇に自分で唇を重ねてみた。

 すぐにハロルドはビヴァリーを抱き寄せ、もっと欲しいと深く口づけようとする。

(そう言えば、火事が起きてからずっと、こんなふうにされたことない)

 ハロルドが怪我をしていたということもあるけれど、馬たちがそうだったように、きっとビヴァリーの様子を窺っていたのだろう。

(……マーゴットが言ってたけど、餌なのかな?)

 一向にやめそうにないハロルドの様子に、飼い葉桶に顔を突っ込む馬たちの姿を思い浮かべていると、いつの間にかジャケットの中に入り込んでいた手が、シャツを引っ張り出そうとする。

「んぅっ……は、ハルっ……」

 その身体を押しやろうとするが、狭い鞍の上では自由に動けない。

「遠くからは見えない」

 だから問題ないと言わんばかりのハロルドに、ビヴァリーは唖然とした。

「触るだけだ」

「さ、触るだけってっ……」

 ビヴァリーが叫びかけたとき、いきなりアルウィンが軽く前脚を上げた。

「――っ」

 ハロルドはとっさにビヴァリーを抱え、アルウィンが再び大人しくなると大きく息を吐く。

「おまえ……」

「は、ハル、そろそろ戻らないとっ!」

 ビヴァリーが素早くシャツを元に戻すと、ハロルドはむっとしたまま抱き上げて、前を向いて座れるようにしてくれた。

「帰るぞ、アルウィン」

 アルウィンは、ハロルドの声を聞くなり走り始めた。

 雲の隙間から降り注ぐ朝日が作り出した、光と影が織りなす美しい模様の中を駆け抜け、塞ぐものがなくなった胸いっぱいに爽やかな風を吸い込む。

 風や土の匂い、馬から立ち上る熱。
 そこにあるものをただ受け入れるだけで、一枚ずつ薄いヴェールを剥ぐように、目に映る景色がどんどん鮮やかになっていく。
 
 この世で一番美しく、完璧な生き物と一緒に走る喜びに、自然と笑みがこぼれた。

 やがて、厩舎の傍にストロベリーブロンドの髪が見えてくると、アルウィンはハロルドの制止を振り切って、全速力で駆け出した。

「おいっ! ……話が違うだろ」

 しっかりとビヴァリーを抱え、体勢を整えたハロルドがぼやくのが聞こえた。

 久しぶりに味わうアルウィンの速さは素晴らしく、調教の仕上がりは上々だ。

 あっという間に大好きな主の下へと辿り着いたアルウィンは、ハロルドの指示をほとんど無視して優雅に停止した。

 さっさとアルウィンを降りたハロルドがビヴァリーを抱き下ろすと、ブリギッドが笑顔で尋ねてくる。

「朝の散歩は楽しめたかしら? ビヴァリー」

 ハロルドがアルウィンに乗れたのは、アルウィンに賄賂を与え、近付くことを許したブリギッドのおかげだ。

 馬に乗れなくなっていたビヴァリーのために、許してくれたのだ。

「はい……とても楽しめました。ありがとうございます」

「アルウィンの調子はどうだった?」

「とてもいいです。大体仕上がっているので、あとは併走させてみたりして、様子をみます」

「明日の朝には、騎手たちが揃って併走させるという話をしていたわ。今日も時間帯はバラバラだけれど、かならず厩舎には顔を出すから、一度乗せてみてもらったらどうかしら?」

「はい」

「アルウィン。またあとで来るからね?」

 ブリギッドは、朝食の席で待っていると言い残して立ち去った。

 ビヴァリーは、自分はアルウィンの世話をしてから行くから、先に戻っていてくれていいとハロルドに伝えようとしたが、振り返るなりぐいっと帽子のつばを押し下げられた。

「きゃっ!? な、何するの? ハル」

 帽子を引き上げながら顔を上げると、ハロルドは輝くような笑みを浮かべていた。

「五年前の借りは返したからな? ビリー」
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