本当は、二番目に愛してます

唯純 楽

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名馬の子でも、名馬にはなれません 1

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 窓を叩き始めた雨音に気付き、ハロルドは眉をひそめた。

 低い雷鳴に追いかけられるようにして馬車はひたすら走り続けているが、重い雲が立ち込める空を稲光が切り裂く間隔はどんどん短くなっている。

 遅い昼食を取るために町に立ち寄った際、馬車の上に積んだ荷物などは中へ入れ、御者とテレンスもしっかりと外套を着込んだが、馬車が途中で立ち往生する可能性もある。

 ビヴァリーの体調も心配なので、できることなら降り出す前に辿り着きたかった。

 昨日は、寝不足が続いていたハロルド自身、ほとんど丸一日眠りっぱなしだったが、ビヴァリーも同じようなものだった。

 ビヴァリーは今日もまた、泣き疲れたせいもあるだろうが、昼食を取った後もずっと眠っている。

 五年前にラッセルが亡くなった火事について話したビヴァリーは、泣き疲れてしばらく眠った後、遅い昼食を取るために起こしたときもぼうっとしており、結局馬車に戻ってすぐに再び眠ってしまった。

(話があると言っていたが……想像はつくな)

 ビヴァリーが話したいことと言えば、これから待ち受けている結婚のことくらいしか思いつかない。

 度々、脱走しようとしていたということは執事から報告を受けていた。

 妊娠していなかったと報告してきたのも、おそらく結婚する必要はないと言いたかったからだろう。

(問題は、実際に子どもができたかどうかじゃない)

 ハロルドにとって、結婚の約束もしておらず、ましてや恋人同士でもない相手と寝るなんて、たとえ相手が誰であろうと無責任極まりない行為だった。

 ビヴァリーは、子どもさえできなければ何もなかったことになると思っているのかもしれないが、五年前の顛末を聞かされた今となっては、なおさら手放すわけにはいかなかった。

(母親か。まだ存命だし、直接訊くか……)

 調べた結果、ビヴァリーの母デボラは、再婚相手と共に各国を転々としていたようだが、現在は海を渡った南側にある隣国で暮らしていることがわかった。

 戦ったり和解したりを繰り返している潜在的な敵国にあたるため、ブレントリーは相手がそうしているのと同じように、常時軍の諜報員を幾人か送り込んでいる。

 テレンスの伝手を使って、デボラに接触することは不可能ではない。

 ビヴァリーが、火事の原因について何も言わなかったのは事故だと思っているからだろうが、ハロルドの知るラッセルは誰よりも慎重で注意深い男だった。

 初産の牝馬がいるのに、火事に繋がるような迂闊な真似をするとは思えない。

 母親が差し入れを持って行ったのは偶然と言えなくもないが、ラッセルがあしらうのに苦心していた『ある商人』というのがデボラの再婚相手だという可能性もある。

(どちらにせよ、詳しく調べる必要があるな)

 グラーフ侯爵家には、家令を始めとして当時のビヴァリーやデボラに会っていて、火事の焼け跡を目撃している使用人たちがまだ幾人も働いているし、司祭も存命だ。

 記憶が薄れかけているとしても、話すことで思い出す場合もあるだろう。

「少佐。降ってきましたが……濡れネズミになる前には辿り着けるでしょう」

 窓の外を並走するテレンスを見て、ネズミにしては大きすぎると思いながらも、ハロルドはほっとした。

「花嫁も最愛の馬に会えば、元気になります。まぁ……逃げ出す手段が増えるのはいささか危険ではありますが」

 最愛の相手が馬だなんて、花婿のプライドはズタズタだが、今のビヴァリーを慰められるのは自分ではなく、ドルトンだと認めざるを得ない。

 ハロルドは、苦々しく思いながらも反論はせず、十日の休みの間も時間を無駄にしたくないとテレンスに指示した。

「テレンス。明日、おまえの伝手で例の件を探るよう依頼してくれ。限りなく、黒に近い」

「……承知いたしました」

 手を伸ばし、毛布にくるまって眠るビヴァリーのチョコレート色の髮を撫でてやりながら、ハロルドは五年前に戻りたいと心の底から思った。

 ビヴァリーが一人で乗り越えなくてはならなかった過酷な日々を思えば、呑気に外遊していた自分はビヴァリーの命を救ったドルトン以下の存在だ。

 しかも、大事に優しく扱わなくてはならないのに、それとは逆のことばかりしている。

 女性に慣れていないと言い訳するのは情けない限りだが、自分の不甲斐なさを振り返れば他に適当な言葉が見当たらない。

 エスコートするために必要な所作やダンスは習得しているが、必要最低限のマナーとして会話したり踊ったりするだけで、女性と深い付き合いをしたことはないし、そうなりたいとも思わなかった。

 酔った父親に、没落寸前の伯爵家の令嬢だった母親が計画的に自分を妊娠し、堕胎できない状態になってから結婚を迫ったのだと聞かされたせいもある。

 父親が都合のいいように話しただけだと思っていても、心のどこかで女性というものを信じ切れずにいた。

『ビリー』が少女だと最初からわかっていたら、きっとあそこまで親しくはなれなかっただろう。

 今は、『ビリー』がビヴァリーでよかったと思うし、かつての『ビリー』以上にビヴァリーを尊敬せずにはいられない。

 どんなに困窮した暮らしをしていても、どんな仕事をしていても善良さや誠実さが損なわれないビヴァリーは、ハロルドよりもずっと強く、正しい道を選んできたのだ。

 もしも自分がビヴァリーと同じ立場だったら、金貨二枚を突き返したりしないし、わざわざ快適な家から逃げ出したりしない。妊娠したと嘘を吐いてでも結婚し、楽な暮らしを手に入れる。

(たぶん、ビヴァリーの考えていることのほうが正しい……だが……)

 ハロルドはビヴァリーの正しい提案に頷くわけにはいかなかったし、頷きたくなかった。

 そんなことをすれば、ビヴァリーはあっという間に目の前からいなくなってしまうだろう。

 今は乾いた頬を指先で撫でると、くすぐったそうに口元を綻ばせる。

 思わずキスしたくなったが、ジェフリーの「獣が!」という罵声が脳裏を過ぎり、踏みとどまった。

 中身は獣でも、少なくとも表面上は紳士であるべきだ。
 特に、近々神の前で神聖な誓いをするのなら、できるだけやましいことは少ないほうがいい。

(馬を捕まえるには、まず柵の中へ追い込む必要があるからな……)

 すべすべしたビヴァリーの頬を撫でながら、ハロルドは、正しくないとわかっていてもその道を選んでしまう人間の気持ちが、初めてわかった気がした。


◇◆◇


「ビヴァリー、着いたぞ。降りられるか?」

「…………?」

 目を開けると、馬車の扉の向こうにランタンを持ったハロルドがいた。

 雨に濡れてきらきら光る金色の髪から、雫が頬を伝って落ちる。

 鳶色の瞳には、ビヴァリーを気遣うような色があり、馬車の中で、八つ当たりして泣きじゃくったり、膝の上に乗っかったまま寝入ってしまったりとかなり恥ずかしい姿をさらしてしまったことを思い出した。

「だ、大丈夫、です」

 雨の音が酷く、外は暗かったが、ハロルドの後ろには眩い明かりが見える。

 差し出された手を取って馬車を降りるとすぐにハロルドが外套に入れてくれ、そのまま石段を上った。

 てっきりどこかの食堂か宿屋だと思っていたビヴァリーは、大きく開かれた扉の向こう、広間の奥までずらりと並ぶ使用人たちに出迎えられて驚いた。

 広々とした玄関ホールの高い天井や奥へと続く壁一面に描かれた素晴らしい絵には見覚えがあり、使用人たちの中にも、懐かしい顔があった。

「降っても晴れても、来客があるのは嬉しいものだ」

 ホールに懐かしい声が響き、奥の広間から銀色の髪と髭をきっちり整え、フロックコートにグレーのウェストコート、緩みもたるみもないぴったりしたズボンを身に着けたギデオンが現れた。

「嵐では馬にも乗れない。家に籠って昔話をするには、最適の天気だとは思わんかね? ビリー」

 にこりともせずに言うギデオンは皺が増え、銀色の髪の中に白いものも増えたようだけれど、ピンと伸びた背筋やよく響く硬い声音は変わらない。

 元気そうな姿に嬉しくなって、ビヴァリーは頬を緩ませた。

「はい。明日になれば、雨も止んで綺麗な虹が見られると思います」

 ギデオンは満足そうに頷くと、ピクリと眉を引き上げた。

「確かに。明日への期待を胸に眠るのが一番の幸せだ。ところで……夜は長い。先日古い血統書を見つけたんだが、競争史と比較した実に興味深い考察が書かれていた。見てみるかね?」

「ぜひ!」

 くるりと背を向けたギデオンは数歩進んだが、後ろをついて来たビヴァリーを振り返って手を差し伸べた。

「失敬。レディのエスコートを忘れるとは。長らく、若くて美しい女性にはお目にかかっていなかったもので、すっかり舞い上がってしまっていたようだ。許してくれるかね? ビヴァリー」

「もちろんです」

 ビヴァリーが差し出された手を取ると、ギデオンはするりと腕に絡めてこれが正しいやり方だと言うように頷いた。

「では、行こうか」

 ギデオンと並んで歩きだしたところで、まったく無視されていたハロルドが叫ぶ。

「ビヴァリーっ! お祖父さまっ! ちょっと待ってください。まだ何も説明を……」

 ギデオンはさも面倒だと言わんばかりに振り返ると、硬い声で問う。

「ハロルド。名馬の血筋でさえあれば、名馬になると思うか?」

「え……?」

「おまえは、私がドルトンの何に投資していると思う?」

 謎かけのような問いにハロルドが答えられずにいると、ギデオンは冷ややかに告げた。

「それがわかったら、私とビヴァリーの馬についての崇高な会話に混ぜてやろう。子どもには、いささか難しすぎる話だからな」

「…………」

 茫然とするハロルドを置き去りにするのは少し可哀相な気がしたが、ビヴァリーは五年ぶりに会うギデオンと話したいことがたくさんあった。

 ドルトンのことやアルウィンのこと、自分が届けた牝馬たちのこと。
 そして……。

 長い廊下を抜け、びっしりと本が詰め込まれた棚に囲まれた書斎へ入ったギデオンは、暖炉の前に置かれた椅子にビヴァリーを座らせる。

 すぐに侍女がやって来て、温かいお茶を淹れてくれた。

 喉からお腹、お腹から全身へ温もりが広がって、窮屈な格好を続けて強張っていた身体が解れ、ほっと息を吐く。

 ビヴァリーと並ぶようにして暖炉を見つめて座っていたギデオンは、優雅な仕草でお茶を飲み干すと「さて」と呟いた。

 じっと灰色の瞳をビヴァリーに据え、身じろぎもしない。

 ビヴァリーがもぞもぞし始めると、ようやくカップを置いてゆったりと腕を組む。

「過去の謎をひも解くには、ある一点から始めるよりも、サラブレッドの血を辿るように新しいものから辿るほうがわかりやすい」

「は、はい……」

 よくわからないながらも頷くと、ギデオンはピクリと片方の眉を引き上げた。

「まずは、アルウィンの初陣。それから……ブレントリーの競馬狂たちを熱狂させている、レースの話をたっぷり聞かせてもらえるかね? 負け馬のビリー」
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