本当は、二番目に愛してます

唯純 楽

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必要なものは、馬車じゃなく馬です 2

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 寝つきのいいビヴァリーは、一度眠りに入ったら、滅多に途中で目が覚めることはない。
 余程のことがない限り、起きない。

 だが、言い争うような声が聞こえてきても惰眠を貪るほど平穏な暮らしはしていない。

 押し殺した声で交わされている会話の中身は聞き取れなかったが、『結婚』『婚外子』などという言葉が途切れ途切れに聞こえてきて、二度寝することなどできるはずがなかった。

 鈍い痛みが下腹部を襲い、ビヴァリーは毛布の中で丸くなった。

(昨夜……私、ハルと……しちゃった……)

 足の間から、じわりと滲み出るものを感じて心臓が止まりそうになった。

 自分とハロルドが何をしていたのか、そしてその名残であるものが何なのか、経験はなくとも知っている。

 気持ち良かったところから、ものすごく痛くなって、そして再び気持ちよくなって、嵐の真っ只中をさまようような一夜の記憶は生々しく、それがもたらす結果は明白だった。

 本来は結婚するまで守るべきものを、恋人でもないハロルドとの行為で失ったことは、よくないことかもしれないけれど、悲しくはなかった。

 むしろ、見ず知らずの人に無理やりされるよりは、よかった。

 ものすごく痛かったし、もうあんな痛い思いするのは嫌だけれど、どうしてもいつかは経験しなきゃいけなかったのだろうから。

(途中からはちゃんと言うことを聞いてくれたし……蹴ってもいいって言ったし。でも……どうしよう)

 ビヴァリーは、もしかしたらこれから十か月後にぷっくり膨らんでいるかもしれない腹部を押さえて唇を噛んだ。

 昨夜の痛みはそのうち綺麗になくなっても、何事もなかったように忘れることが不可能になるかもしれない。

「またあとで」

 扉が閉まる音がして、ハロルドがベッドに近付いて来る気配がした。

「ビヴァリー。起きろ」

 軽く揺さぶられ、たった今起きたようにビヴァリーは眠い目を擦るふりをしながら、毛布から這い出た。

 昨夜見たものやしたことを思い出すと、恥ずかしくてとても顔を上げられない。俯いたままくしゃくしゃになって足に絡まっていたシーツを引きずってベッドから下り立とうとすると、手が差し伸べられた。

 つい身構えてしまい、じっとその手を見つめていると、いきなり抱き上げられた。

「ひゃっ」

 間抜けな声を上げている間に、ハロルドはビヴァリーを部屋の隅にある洗面台まで連れて行った。

 洒落たタイルで飾られた洗面台には、身支度を整えるために必要なもの一式が用意されている。

 腕から下ろされたビヴァリーが、倒れることなく立てる状態であるとわかると、ハロルドはようやく腰に回していた腕を放してくれたので、顔を洗うことができた。

 できれば身体も拭いたかったが、ハロルドの手前とても言い出しにくい。

 足の間を伝い落ちるものを感じ、慌てて膝を擦り合わせたが、カッと頬が熱くなる。
 後ろを向いていてほしいと内心思っていると、思いもかけないことを言われた。

「拭いてやろうか?」

「えっ!?」

 思わず振り返って見上げると、ハロルドはいたって真面目な顔をしている。
 寝癖がついた髪が跳ねていても、その造作が美しいことに変わりはない。

 ビヴァリーは、ふいに今までと何も変わらないはずなのに、ハロルドはもう少年ではなくて、男の人になっていたのだと思った。
 五年も会っていなかったから当たり前なのだけれど、知らないことがたくさんあった。
 ビヴァリー自身、自分にあんな声が出せるなんて知らなかった。

 昨夜のことを考えれば考えるほど、顔が熱くなってくる。

(何も身に着けていない姿を見られているし、あらゆるところに触れられているけれど、改めて考えるととてつもなく恥ずかしい……またあんなふうにおかしくなったら困るし……)
 
「身体を拭いたいんだろう?」

 ハロルドは昨夜のことなど何とも思っていないような平然とした顔で尋ねてくる。

「そ、それは、そうだけどっ……じ、自分でできるから……」

 病気でもないのだから、拭いてもらう必要はないと首を横に振ると、不満そうな顔をしたもののあっさり引き下がってくれた。

「……わかった」

「その……できれば、向こうを……」

 どうやら、言うことを聞きそうだと更に要求してみると、そのまま後ろを向いた。

 暴れ馬が、突然何の前触れもなく従順になったときのように、嬉しいような落ち着かないような、なんとも言えない気持ちを抱えながら固く絞った布で身体を拭い始めた。

 何だか今まで使ったことのないような身体のあちこちが軋むように痛かったが、昨夜一番大変な思いをした足の間を拭うと、鮮血ではないが微かに血の名残が混じっていた。

(どうりで痛いはず……)

 身体に巻き付けたシーツもやはり少し汚してしまっていたので、無駄とは思ったけれど叩き洗いをする。
 ハロルドのような何でもしてもらう生活に慣れている貴族たちは違うのかもしれないけれど、このまま使用人たちに洗われるなんて、瞬時に燃え尽きてしまいそうなほど恥ずかしかった。

「ビヴァリー? 何をしているんだ?」

「え、あ、よ、汚れを落としただけ……もう、終わったから……」

 次は服を着なくてはと、部屋の中を見回す。

 昨日、あちこちに放り投げられていたはずのものは、ソファの背にかけられていた。

「新しいものは用意できなかったんだが……」

「後で、着替えます……」

 たとえ、どんな服だろうと裸でいるよりはマシだ。

 ハロルドは、ビヴァリーが服を着る間、自分も顔を洗ったり髪を整えたりと身支度をし、背を向けるようにしていてくれた。

「お、終わりました……」

「……ジェフリー殿下の部屋で、ブリギッド妃殿下と一緒に朝食を取ることになっている」

「は、はい……」

 ジェフリーは、きっとブリギッドに話しているだろう。

 ブリギッドが怒るとは思えないが、使用人が他人の館で男性と同衾するなんて褒められた行いではない。
 ビヴァリーは、ブリギッドたちにも迷惑をかけてしまったと思って項垂れた。

 ハロルドが、酔って自制心を失くしてしまったのは、ビヴァリーがあんなにワインを飲ませたせいでもある。
 馬は、基本的に大人しくて従順だけれども、扱いを間違うととても危険だ。

(やっぱり、酔い潰すのではなくって、殴って気絶させるほうだったのかな……なんとなく、テレンスさんならそうしそうだし……そのためにテレンスさんが傍にいるような気もするし……とにかく、謝らなくちゃ……)

 昨夜は、ハロルドも辛そうだったし、結婚相手を探している最中なのだ。きっと酔ってビヴァリーとあんなことをしてしまったことを後悔しているだろう。

 ビヴァリーが、鈍い痛みを訴えるお腹をさすりながら、どうやって切り出そうかと考えていると、先に立って部屋を出ようとしていたハロルドがいきなり振り返った。

「ビヴァリー」

「はっ、はい?」

 驚いて飛び上がりそうになったが、見上げたハロルドの顔がとても険しくて、ごくりと唾を飲み込んだ。

「…………」

 ハロルドは口を開き、一旦閉じた後、よくわからないことを言い出した。

「王都へ戻り、許可書が手に入り次第、グラーフ侯爵領へ向かう。祖父の了承を取り付け、式を挙げるつもりだが……万が一了承を得られなかったら、近隣の教会で式を挙げる」

「……許可書? 式……」

 ハロルドが、グラーフ侯爵領の教会ですることと言えば、結婚式か葬式くらいだろう。

 ビヴァリーは、殺到していた申し込みの中から誰かが選ばれたのだと思った。

 賭け屋でハロルドの結婚相手の賭けに興じていたものの中には、大金持ちになる者もいるかもしれないと思い、笑みを浮かべようとしたけれど、唇が震えて上手く笑えなかった。

「あ、あの……おめでとう……ございます」

 とりあえず、最低限の礼儀として祝いの言葉を述べると、なぜかハロルドが目を丸くした。
 ちょっとだけ険しい表情が緩み、ビヴァリーは今なら話せそうだと言葉を続けた。

「あの、昨日のことは……ワインをたくさん飲ませてしまって、ごめんなさい。ハロルドさまはとっても酔っていたから、あんなことしたんだと思うから……でも、あの、きっと大丈夫だし、ギデオンさまもお嫁さんが来たらきっと喜ぶ……」

「何を言っているんだ?」

 唖然とした表情をしていたハロルドは、低く唸るような声でビヴァリーの話を遮った。

「え……あの、ギデオンさま、独りで広い屋敷にいるのは寂しそうだから……」

 まだ父ラッセルが生きていた頃、ギデオンの屋敷を訪ねたことがあるが、使われないたくさんの部屋やひとりで使うには広すぎる食堂を見て、豪華だけれどまったく人気がないことに寂しさを感じた。

 うるさいのは好きではないのだと思うけれど、広い屋敷に漂っていたのは満ち足りた静寂ではなく、廃屋のような空虚だった。

「だから、ハルが結婚して、一緒に住んだら寂しくないんじゃないかと……」

「……花嫁は、いったい誰だと思っているんだ?」

「か、賭け屋の予想では公爵家の……」

 テレンスに聞いた長ったらしい名前を思い出そうと記憶を辿っていると、ハロルドがたまりかねたように怒鳴った。

「何でそうなるんだっ! 花嫁はおまえだ、ビヴァリー!」

「え」

 予想外の相手に驚くビヴァリーに向かって、ハロルドは淡々とその理由を述べた。

「酔っていて、正常な判断力があったとは言い難くとも、自分が何をしたかはわかっている。己がしたことの責任は取る。婚外子を持つつもりはない」

 潔癖で高潔なハロルドは、どうやら一夜の過ちの責任を取って結婚するつもりらしいと知って、ビヴァリーはその正気を疑って目を見開いた。

「でも……私は、貴族じゃ……」

「相手が誰であれ、子どもが半分はレノックス家の血を引いているならば、責任はその血を与えた者にある。それに……本来は、結婚するまで守り、夫に捧げるべきものを奪ったのだから、正すべきだろう」

 ハロルドの言っていることは正しいように思われたけれど、ビヴァリーの中の何かが、間違っていると訴えた。

 その何かを捕え、言葉にして説明しなくてはと思うのに、見つけたはずの言葉は口にしようとすると消えてしまう。

「で、でもっ……」

 ハロルドは、罪を見通す天使のように、冷たく澄んだ瞳でビヴァリーの未来を啓示した。

「結婚するのは決定事項だ。異議は認めない」
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