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狩るのは、狐ではなく天使 2

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 咎めるような声を上げたのは、葦毛の馬に跨るジェフリーだった。
 その隣には、栗毛の馬に跨るハロルドがいる。

「あの……帽子が、川に……落ちて……」

 言い淀むブリギッドの視線が向かう先に気付いたジェフリーが首を巡らせようとするのを見て、ビヴァリーは慌てて岸へ戻ろうとしが、水草で足が滑った。

「あっ」

 後ろ向きに倒れかかりながら、ずぶ濡れになる覚悟で目をつぶったとき、力強い手に腕を引かれ、硬いものにぶつかった。

「泳ぐには、まだ季節が早すぎる」

 低い声が耳元で囁くのに顔を上げれば、鳶色の瞳があった。

 太陽の光にきらめく髪や長い睫毛。引き締まった頬に綺麗に弧を描いた口元。久しぶりに間近で見るハロルドは、やっぱり大天使のようだ。

(そう言えば、川で魚を釣ったこともあったっけ……ハルは、まったく釣れなくてふてくされていたけれど)

 二人で過ごした楽しい夏のひと時を思い出して、思わず頬が緩んだビヴァリーは、なぜかハロルドが息を呑むのを見て首を傾げた。

 急にハロルドの身体が強張り、晴れた空に暗雲が押し寄せるように、瞬く間に二人の間に緊張が走る。

 触れ合った場所から痺れるような刺激を感じ、ピクリと身体を震わせたとき、ブリギッドの泣きそうな声が聞こえた。

「ビヴァリー! 大丈夫っ!?」

「無事です。ブリギッドさま」 

 しっかりと支えてくれていた腕が緩み、直に感じていた温もりが失われると、ビヴァリーの胸に寂しさというよりはもどかしさに似た何かが湧き上がった。

「ごめんなさい、私が馬鹿な真似をしたせいで……」

 ぼうっとしていたビヴァリーは、手を握りしめながら涙ぐんで詫びるブリギッドに、恐縮してしまった。

「ブリギッドさまが謝ることなどありません。この通り私は無事ですし、帽子も無事です。天気もいいですし、きっと帰る頃には乾くでしょう」

 たとえずぶ濡れになったとしても、死ぬわけではないのだから問題ないとビヴァリーが言えば、ブリギッドもようやく微かな笑みを見せた。

「そうね……あんなに大量の料理をすぐには食べきれないものね」

 少し目元を赤くし、泣きそうになったのが恥ずかしいとはにかむブリギッドは、凛とした雰囲気がやわらぎ、いつもよりずっと十七歳の少女らしく見えた。

「あの……大騒ぎしてしまって、申し訳ありません。殿下」

「えっ……あ、ああ」

 ブリギッドが伏し目がちに詫びると、彫像のように固まっていたジェフリーが口元を覆いながら頷く。

「ところで、狩りはもう終わったのですか? もう少しかかるものだとばかり思っていたのですけれど……」

 マクファーソン侯爵夫人たちはまだ到着しておらず、料理などの準備をすべき使用人たちの姿も見えないようだと訝しむブリギッドに、ジェフリーは不機嫌そうな口調で答えた。

「二人の姿が見えなくなってしまったと知らされ、私とハロルドだけ狩りから抜けて探しにきたのだ。狩りではなく乗馬を楽しみたいのなら、最初からそう言ってくれればいいのに」

「えっ……あの、それは、あの……ごめんなさい」

 常に穏やかな態度で接していたジェフリーが、珍しく不機嫌を露にする様子を見て、ブリギッドは青ざめながら詫びた。

 ビヴァリーと初めて会った日、ジェフリーに対する不満をぶちまけたブリギッドだったが、さすがにありのままをジェフリーに伝えることはできなかったようだ。

 表面上は和解して寄り添っているように見えても、二人の間には未だ取り払われていない高い壁がある。

 昨夜は別々の寝室で休んでいたし、馬丁たちの噂では王宮でも、ジェフリーは未だブリギッドの部屋に入れてもらえずにいるらしい。

 二人がこれ以上仲違いしてはいけないと、ビヴァリーは自分がブリギッドを誘ったのだと言い出そうとしたが、ジェフリーが続けた言葉に驚いて声を失った。

「だが、おかげで……美しいものを見せてもらった」

 ジェフリーは、手を伸ばしてブリギッドのストロベリーブロンドの髪をひと房掴むと、その先に口づけた。

「え……」

 目を丸くするブリギッドに、「あなたのことだが?」と涼しい顔で告げる。

 途端にブリギッドが落ち着きなく視線をさまよわせる姿を見て、ジェフリーは笑い出した。

「なにが、おかしいのです? 殿下」

「おかしくはない。ただ……」

 むっとした表情をしたブリギッドに、甘い笑みを浮かべたジェフリーが口づける。

「――っ!」

「……かわいらしいと思っただけだ」

 ジェフリーは、顔を真っ赤にするブリギッドの手を取って数歩行ったところで振り返ると顎を上げた。

 ハロルドがくすりと笑い、ビヴァリーの手を取る。

「邪魔するなと仰せだ」

「え、あの……」

 ぐいぐいと引っ張られ、ブリギッドたちが腰を下ろした川岸に背を向けるようにして、少し離れた木陰に座るよう促された。

「ああ、そのままだと泥まみれになるか……」

 ハロルドは、高価でないはずがないテイルコートを脱ぐと、惜しげもなく地面に広げた。

 とても座れないと立ち尽くしていると、意志の強さを表すように一直線に描かれた眉を引き上げ、ビヴァリーの手を掴んで引き倒した。

「あっ」

 座り込んだハロルドの上に、四つん這いになって乗り上げるように倒れ込む。

「あ、あのっ……」

 あまりにも親密すぎる態勢に、声が裏返った。

 広い肩に手をつき、早く退かなくてはと思うのに、鳶色の瞳で見つめられるだけで、蜘蛛の糸に絡め取られたように身動きできなくなる。

「そんなに怯えられると、悪党にでもなった気分だ」

 ハロルドは眉根を寄せて顔をしかめると、ビヴァリーの腰を掴んでコートの上に座らせた。

「見なかったことにするから、ブーツを脱いで乾かせばいい」

 とんでもないと首を振ると、「脱がせてほしいのか?」と睨まれる。

「濡れたままでは、足が冷たくなってしまうだろう?」

 濡れたままの靴を履くのは確かに気持ち悪いので、ビヴァリーは抵抗するのを諦めた。

「お、お言葉に甘えて……失礼します」

 ハロルドに背を向けるようにして、ブーツを脱ぐと風通しがよさそうな場所に置く。

 十三歳のビリーなら何とも思わなかったかもしれないが、十八歳のビヴァリーにはハロルドの前で足を見せるなんてはしたない真似はできない。

(足どころか、思い切り裸を見られてはいるけれど、あの時は一瞬だったし……見られるというよりは、触られただけで……)

 肌を這うハロルドの手の感触を思い出しかけただけで頬が熱くなり、ビヴァリーが膝を抱えて俯いていると、先ほどのジェフリーの何倍も不機嫌そうな声が聞こえた。

「まさか、ずっとそのままでいる気か?」

 もちろんだと頷くと、肩を掴まれ引き倒された。

「きゃっ」

「まったく警戒されないよりは、警戒されるほうがマシだとは思うが……」

 見上げた先には、帽子を脱いで露になった木漏れ日に輝く少し乱れた金の髪がある。

 鳶色の瞳は、内側まで見通してしまいそうな鋭さでビヴァリーの全身を検分し、皮を剥がれて細切れにされ、鍋に放り込まれる兎になったような心境だ。

 じっと固まっていると、少しずつハロルドの顔が近づいてきた。

 逃げ出したいような、それでいて追いかけて捕まえてほしいような、相反する気持ちの間を行ったり来たりしながらビヴァリーが唇をわななかせていると、ハロルドは急に顔を背けて身体を起こした。

(な……にも、しないの?)

 何もされなかったことを喜ぶべきなのに、ビヴァリーはどこかでそれを寂しく思っている自分に気が付いて、恥ずかしくなった。

(まるで……キスしてほしかったみたいじゃない……)

 ハロルドとキスしたときの気持ち良さをもう一度味わいたいと思うなんて、自分がとてつもなくふしだらになってしまったような気がした。

(たった一回だけで、こんなふうになるなんて、そのうち自分からキスをねだるようになってしまったらどうしよう……)

 動揺するビヴァリーの傍らで、仰向けに横たわったハロルドは、目を伏せて何事もなかったかのように話しかけてきた。

「テレンスからも聞いていたが……すっかり、妃殿下に気に入られてるようだな? 今日の狩りは、どうあっても出席してもらわなくてはならなかったから……本当に助かった。このまま、二人が仲睦まじい様子を見せてくれれば、余計なことを考える者も減る。ビヴァリー……妃殿下の乗馬の相手は、今回の狩りが終わるまでという約束だったが、もう少し延ばせないだろうか?」

「え……」

「給金は、今回支払った額と遜色のない額を支払う。王宮にいれば、清潔な部屋に住めるし、食べるものにも困らない。多少束縛はされるが、五日に一度休みはあるし、妃殿下に申し出ればそれとは別に休みを貰うこともできるだろう」

 ハロルドの言う通り、今回先払いで貰った給金は馬丁のものとしては破格だった。

 服も食べ物も部屋も用意されていて、少しも困らなかった。

 特に、王宮の食堂で出される料理はどれも美味しくて、十分な量がある。ちょっと太ったんじゃないかと思うくらいだ。

 馬丁たちは真面目に働く馬好きばかりだし、王宮の馬たちもみんなきちんと世話をされていて、幸せそうだ。

 ブリギッドは尊敬できる主で、こうして時々ハロルドと会う機会もある。

 何の不自由も、何の不満もない。

 でも、ビヴァリーはハロルドの申し出を受けるわけにはいかなかった。

「ごめんなさい……それは……無理、です」

「なぜ? どんなに裕福な貴族の厩舎だって、王宮ほどの待遇を約束しているところなどない。ましてや、女性を雇うところなどない。もしあったとしても、その目的は馬の世話をさせることではないんじゃないか?」

 父の伝手を辿って雇ってもらった厩舎でのおぞましい一夜を思い出し、ビヴァリーはぎゅっと手を握りしめた。

 親切だったはずの雇い主が、夜中に突然部屋にやって来たときの驚きといったら……。

 優しい馬丁の妻が追いかけてきて、銀貨とパンを握らせてくれなかったら、着の身着のままで行き倒れていたに違いない。

「ビヴァリー?」

 咎めるようなハロルドの声に、ハッとしたビヴァリーは草の中に揺れるクローバーを見つめて首を振った。

 王宮の綺麗に手入れされた庭に咲くことを許されているのは、薔薇のような華やかな花だ。馬たちが大好きな、小さい白い花をつけるクローバーの居場所はない。

 今の暮らしは夢みたいに素晴らしいけれど、夢はしょせん夢だ。いつか目が覚める。

「断るなんて、失礼だと思うけど……でも、ちゃんとした仕事……馬丁の給金だと、私の欲しいものは買えないから」

 今のところ、目標額の半分くらいまでは貯まっているが、まだまだ足りない。

 これまでは、ドルトンの子どもを得ることを最優先に考えて、馬を譲ってくれそうな馬主をあたっていたけれど、これからは勝てそうな馬なら譲ってもらえなくても積極的に乗ろうと思っていた。

 競馬シーズンはまだ始まったばかり。一番の稼ぎ時を逃したくなかった。

「あの……ごめんなさい」
 
 ビヴァリーが頑なに断ると、ハロルドはガバッと身を起こし、苛立ちを隠そうともせず責め立てた。

「いくら金が必要だからと言って、あんな暮らしをいつまでも続けるつもりかっ!? 確かに、馬丁の仕事は楽ではないだろうが、人に言えないような仕事をして手に入れた金で買ったものに、価値があるのか? 今はよくとも、そのうち病にかかって、身体を壊す。今ならまだ、やり直せる。誰にでも、やり直せる機会が与えられるわけじゃない。機会があるだけでも、幸運なことだろう?」

 ハロルドの言うことは正しいし、その通りだとビヴァリーも思う。

 こんなふうに言ってくれるハロルドと知り合えた自分は、とても幸運だとも。

 でも、やっぱりハロルドはハロルドの世界に生きていて、ビヴァリーの世界に生きているわけではないのだ。

 ハロルドがくれたハンカチは、ビヴァリーがいくら洗っても、元のようには白くならない。

 きっと、ハロルドはそんな薄汚れたものは使えないと思うだろう。

 ビヴァリーが持っている石鹸も、ビヴァリーが使う水も、ハロルドのために使われるものとは違うから、いくらビヴァリーが一生懸命洗っても、ハロルドが求める白には届かない。

 それでも、ビヴァリーにとっては十分白いハンカチなのだ。

「……人に言えないような仕事をしていなかったら、今頃、死んでいたよ。……それに、人に言えないような仕事でも、恥ずかしい仕事だとは思っていない。だって、どんな仕事でも、その仕事をしている人には価値があるって思うから」

 俯いていたので、ハロルドの顔は見れなかったけれど、どんな顔をしているのかビヴァリーにはわかった。

 傲慢で、尊大で、いかにも貴族だけれど、ハロルドは人を故意に傷つけたりはしない。

 どちらもそれ以上は何も言わず、気まずい沈黙が広がる中、やがて小川のせせらぎに人の話し声が混じり始めた。

「そろそろ行かないと……」

 ビヴァリーが呟くと、ハロルドが立ち上がってブーツを拾い上げ、差し出した。

「ありがとう、ございます」

 恐縮しながら、何とか履ける程度には渇いた靴に足を通して立ち上がろうとしたが、目の間にいるハロルドが邪魔だった。

「あの……」

「……悪かった……侮辱するつもりはなかった」

 静かな声には、深い悔恨が滲んでいた。

「いえ……気にしてません」

 ハロルドの考えはハロルドが生きる世界では正しいもので、間違っているわけではない。

 伏し目がちのままビヴァリーが強張った笑みを浮かべると、ハロルドの指が額にかかる髪に触れた。

 顔を上げると、先ほど途中で離れて行った唇が重ねられた。

 ただ重ねるだけのキスをしたハロルドはすぐに離れたが、探るようにビヴァリーを見つめる鳶色の瞳には欲望が揺らめいている。

「ビヴァリー」

 もっと、と求める気持ちを声にしたはずはないのに、ハロルドはビヴァリーの頭を抱えるようにしてもう一度キスをした。

「んっ……」

 親指一本でたやすくビヴァリーの顎を引き下げると、舌を差し入れる。
 きつく吸われて苦しさに涙ぐんで、ぎゅっとその肩を掴むとようやく解放される。

「はっ……」

 呼吸を整える間もなく再び重ねられた唇は、食むようにして角度を変えてビヴァリーの唇を味わっていたが、やがてもっと深く交える場所を探して貪るような激しいものへと変わる。

 唇だけでは味わい足りないというように、ハロルドは顎から喉へ、喉から耳の後ろ側へと口づける場所を移動していく。

 優しく耳朶をくわえられ、柔らかな舌で耳の内側を抉るように嬲られると身悶えせずにはいられない。

 まるで欲望という毒が身体中に広がり、隅々まで侵されていくようだ。

 仰け反って、ふと頭上に揺れる木の葉の合間から降り注ぐ陽光を目にしたビヴァリーは、その眩しさにめまいを感じた。

(私……馬鹿なことをしている……?)

 抗いがたい激しい欲望に完全に染まる一歩手前で、亡き父ラッセルの声が聞こえた。

『後悔するようなことは、してはいけないよ。ビリー』
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