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狩るのは、狐ではなく天使 1
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「あ……」
朝靄が晴れ、薄い雲の隙間から差し込む陽光に、濡れた草や木の葉がきらきらと光る景色の中、久しぶりにハロルドの姿を目にしたビヴァリーは思わず声を上げてしまった。
すっと背筋を伸ばし、自信に満ち溢れた様子で馬に跨るハロルドは、黒のトップハットにテイルコート。乗馬用のぴったりした丈夫なベージュのブリーチズによく手入れされている艶やかな黒のブーツを身に着けている。
狩りの始まりを待つ大勢の紳士淑女と大差ない、何の変哲もない装いだが、ビヴァリーには眩い光がその周囲を取り巻いているように見えた。
じっと見るのは不躾なことだとわかっていたが、少し離れたところにいるので、気づかれることはないだろう。
ビヴァリーに求められているのは、影のように主である第三王子妃ブリギッドに付き従うことで、この場にいる他の使用人たちと一緒。貴族たちにとっては、空気のように見えない存在だ。
ハロルドに誘拐されるようにして王宮に勤め始めてから半月。毎日のようにハロルドと顔を合わせるのかと思いきや、呼び出されることもなく、もちろん使用人たちが住まう一画に与えられた小綺麗な部屋や厩舎にさえも、一度もビヴァリーを訪ねて来ることはなかった。
代わりに訪ねて来たのは、テレンスだ。
初対面で引っかかれて以来、すっかりマーゴットにたかられているらしいテレンスは、マーゴットの命令により、ビヴァリーにも貢ぎ物の一部を献上し、ついでにハロルドの近況も教えてくれた。
ブリギッドの乗馬の相手役を探すために行った面接が、花嫁を探しているという噂にすり替わり、縁談の申し込みや夜会などへの誘いが殺到し、ハロルドは断りの手紙を書いたり、夜会をかけ持ちして顔を出したりと、とても忙しいらしい。
賭け屋では、誰がハロルドの妻の座を射止めるかという、下世話な賭けも行われているようで、一番人気は公爵家のご令嬢だとか……。
もちろん、そこにビヴァリーは含まれない。
(あれくらい綺麗じゃないと、お似合いにはなれないわ……)
きりりと乗馬服を着こなした美しい女性がハロルドに近付き、親しげに笑みを交わすのを見て、ビヴァリーは自嘲の笑みを浮かべた。
王都からマクファーソン侯爵領までは、急いでも馬で丸一日は掛かるので、日帰りは無理だ。
ジェフリーとブリギッドは近くの王領地で一泊してから、今朝こちらへ到着するよう行程を調整したが、ハロルドは他の客たち同様、マクファーソン侯爵家に昨夜から滞在している。
令嬢たちは、昨夜からすでに狩りを始めているのだろう。
朝食が振舞われている間、ビヴァリーはブリギッドと供に今回の狐狩りに参加している人々の名前と身分を確かめたが、婚約者がいない令嬢ばかりが招かれていた。
ブリギッドの説明によれば、狐狩りとは、男性陣は狐を狩り、女性陣は未来の夫を狩るもので、ごく普通の令嬢の場合、一番の『獲物』はハロルド。ブリギッドと張り合って権力を手にしたいと望む野心家の令嬢の場合はジェフリーということになるらしい。
(この狐狩りが終わったら、湿った薄暗い屋根裏部屋で固いパンをかじる日々に逆戻りする私には、関係のない話だけど……)
食料を得るための狩りしか知らない自分には、貴族社会の狩りでは一匹も獲物を仕留められそうにないと思っていると、視界の端にブリギッドへ近づくマクファーソン侯爵夫人の姿が見えた。
マクファーソン侯爵が、ジェフリーに娘のコリーンを近づけようとしていることは、華やかな王宮の陰に潜むドロドロとした陰謀の数々を、なぜか知っているブリギッドから聞かされている。
ビヴァリーはすっと背筋を伸ばして馬を進め、ぴたりとブリギッドのそばへ張りついた。
「天気に恵まれて、本当によかったですわ。せっかっく妃殿下をお招きしたというのに、ぬかるみの中を走り回って泥だらけになるなど、ぞっとしますもの。夫も私も……もちろん娘のコリーンも、今日の日を心待ちにしていましたから」
にっこり笑うマクファーソン侯爵夫人のかたわらには、母と同じ整った笑みを浮かべる若い娘がいる。
どこを取っても非のない美しい容貌だが、青い瞳に宿る見下すような冷ややかさがすべてを台無しにしていた。
二人共、十年前にクビにした使用人の子どものことなど覚えていないのだろうが、マクファーソン侯爵によって温かい住処を追われ、両親とさまよった冬の夜の寒さは、今でも忘れられない。
そのせいか、幼い頃を過ごしたマクファーソン侯爵領の景色に懐かしさを感じることはなかった。
今になってみれば、家族共々、追い出されたことはむしろ幸運だったのだと思う。
そのおかげでギデオンに拾われ、ハロルドと出会い、こうしてブリギッドに仕える機会を得たのだから。
あの頃、恐ろしい狂人にしか見えなかったコリーンは、王子の掠奪を目論むほどの美貌と野心を手に入れ、一方のビヴァリーは変わらず寄る辺のない身のままだが、コリーンを羨ましいとは思わない。
(だって……あの頃よりずっと幸せだもの)
理不尽なことで物を投げつけられたり、叩かれたりすることもない。食べることにも眠る場所にも困らない。
しかも、尊敬できる主に仕えて大好きな馬に乗れるのだから。
ブリギッドはコリーンの敵意に気付いているのだろうが、大げさに呆れた表情を作ると首を横に振ってみせた。
「殿下は楽しみにしてらしたようね。私には理解できないけれど、殿方は狩猟が本当にお好きですものね」
自分は楽しみにはしていなかったと匂わせたブリギッドに、マクファーソン侯爵夫人は軽い笑い声を上げ、引きつりそうになった表情をごまかす。
「血なまぐさいところは殿方に任せて、私は乗馬を楽しみたいと思います」
さらにブリギッドは、仲良くお喋りしながら馬を歩かせる気はないのだとにっこり笑って宣言した。
狐狩りでは、女性も狩りに参加することは珍しくないらしいが、今日の狩りに参加している女性たちは、狩りの後に男性陣と合流して、一緒に昼食を取るためだけに馬に乗っていた。
料理人や給仕、ヴァイオリン弾きたちも同行して、狩りのあとはピクニックを楽しむことになっている。
「ご覧の通り起伏に富んでいますから、あまり速駆けには向いていないかもしれませんけれど……」
黙り込んだ母親に代わってコリーンが口を挟むと、ブリギッドはにっこり笑ってぴしゃりとやり込めた。
「そんなことはないわ。乗馬の楽しみは、速さを味わうことだけではないもの。喧騒を離れ、自然の静寂の中でリラックスすることも、乗馬の楽しみの一つよ。もっとも……走らせている最中は、余計なお喋りをせずに済むのが一番ありがたいのだけれど。ビヴァリー、まずは殿方と猟犬たちのやる気を見物しましょうか」
ブリギッドは母娘共々黙らせると、狩りの始まりくらいは見物したいと、少し離れた場所へ移動した。
「ふん。か弱いだけのお姫様に、かつて敵国だった国で王子妃なんか務まるわけがないと、なぜわからないのかしらね?」
涼しい顔で嘯くブリギッドにビヴァリーが苦笑いしたとき、晴れ渡った空に華々しくホルンの音が響き渡った。
何十頭もの猟犬たちが我先にと飛び出して行き、男性陣を乗せた馬たちがその後を追う。
真っ先に後を追ったのはジェフリーだ。
すぐ後ろをぴたりと付いて行くのは、ハロルド。その後ろに、他の男性たちも続く。
今日の狐狩りには、マクファーソン侯爵の権威を誇示するがのごとく、ジェフリーを始めとして現在ブレントリー王国の中枢を占める貴族や政治家など、大勢の人々が招かれていた。
ビヴァリーは、ハロルドの姿を追うように馬上で少し伸び上がったが、広い背中はあっという間に遠ざかってしまった。
「誰か気になる人でもいるのかしら?」
からかうような声音を耳にし、慌てて腰を落として座り直すと、ブリギッドがグレイッシュグリーンの瞳をきらめかせていた。
「いいえ」
ビヴァリーがきっぱり答えると、ブリギッドは「嘘おっしゃい」とからかうような眼差しを向けて来たが、マクファーソン侯爵夫人ら後方で控えていた女性陣が動き出すのを見て、愛馬に優しく呼びかけた。
「行きましょう、アルウィン」
主に忠実な黒鹿毛の牝馬は即座に歩き出し、トロットからキャンターへと瞬く間に速度を上げていく。
(たった半月しかなかったけれど、いい仕上がり具合だわ)
厩舎と狭い馬場で燻っていたアルウィンの調整に問題はないようだと確認し、滑らかに走り出したブリギッドたちを追って、ビヴァリーも速度を上げた。
ビヴァリー自身、競馬場や馬主の馬場といった柵に囲まれていない場所で思い切り馬を走らせるのは久しぶりだった。
滑らかな走りであっという間に貴婦人たちを置き去りにすると、ブリギッドはようやく自由を得たとばかりにビヴァリーへ話しかけた。
「私、乗馬は好きだけど、このスタイルは好きじゃないわ」
横乗りは嫌いだと不満を漏らすブリギッドに、ビヴァリーも頷いた。
「私もです」
「しかも、こんなもたつくドレスでは、思う存分馬を走らせることができないじゃない。コルディア人が見たら、お腹を抱えて笑うに違いないわ」
ビヴァリーも、ブリギッドと同じくトップハットを被り、ジャケットにロングスカート、下にズボンと乗馬用ブーツを履くというスタイルをここ半月ほどしているが、どうにも違和感が拭えない。
ブリギッドの母国コルディア王国では、女性もしっかり鞍に跨って乗るのが普通で、男性並みに乗りこなせる女性も珍しくないらしい。
ストロベリーブロンドの髪をなびかせて、ドレスではなくジャケットにパンツ姿で颯爽と馬を走らせるブリギッドの姿を思い浮かべたビヴァリーは、きっと戦女神のように美しいだろうと思った。
「そのうち、ブレントリーでも、女性も男性と同じ恰好で馬に乗れるようにしてみせるんだから!」
力強く宣言したブリギッドに、ビヴァリーは微笑んだ。
一時、ジェフリーとの行き違いや周囲の重圧から、落ち込んで引き籠りがちになっていたブリギッドだが、悲嘆に暮れて泣き濡れるような性格ではない。
諦めずに、必要とあらば自身の主張や要求を押し通すことを改めて決意したようだ。
今回の狐狩りも、自分を蹴落とそうと考えている貴族の筆頭であるマクファーソン侯爵の主催だとわかっていても、尻尾を巻いて逃げ出さず、堂々と敵地に乗り込んだ。
小さな体で異国の地に足を踏みしめて立つ王子妃のために、ビヴァリーには大したことはできないけれど、思い切りアルウィンを走らせてやることはできる。
「ブリギッドさま。昼食を取る予定の川岸まで、どちらが早く辿り着けるか競争しませんか?」
「もちろんよ! 負けないわよ? ビヴァリー」
宣言するなり、飛ぶように走り出したブリギッドのたちをビヴァリーもすかさず追いかける。
狩りが行われているだろう場所を大きく迂回する形で、起伏に富んだ道なき道を駆け抜け、追いつ追われつしながらうっすらと記憶にあるピクニック用に整備された川岸まで辿り着いた。
少し拓けた川のほとりには、一見無造作に見えるが、視界を遮るように配置された茂みやさりげなく置かれたベンチなどがあり、人目に付かずに過ごせるよう配慮されていた。
子どもの頃はかっこうの隠れ家としか思わなかったが、大人になった今では、まるで恋人同士のために造られた場所のようにも見える。
ブリギッドは小川で馬に水を飲ませてやりながら、少し遅れて到着したビヴァリーを振り返るとトップハットを脱いで、空高く放り投げた。
「私の勝ちね!」
満面の笑みを浮かべ、すっかり乱れたストロベリーブロンドの髪を流れ落ちるままに、大きく伸びをする生き生きとした様子は、決して王宮では見られない姿だ。
(こんな姿のブリギッドさまを見たら、きっと殿下だって……)
ありのままのブリギッドを目にすることのできない王子を気の毒に思ったビヴァリーは、微かな水音を聞いてハッとした。
音のしたほうに目を遣れば、ブリギッドの放り投げたトップハットが小川をぷかりぷかりと流れていく。
「あら、やだ……大変!」
慌てるブリギッドを目で制し、ビヴァリーは素早くロングスカートをたくし上げると、ためらうことなく小川へ足を踏み入れた。
「え、ちょっと……ビヴァリーっ!」
いくらズボンを履いているとはいえ、十分はしたないことだとわかっていたが、まだ狩りは途中で、のんびり馬を歩かせているはずの女性たちが追いつくのにも時間がかかる。
「大丈夫です。まだ、誰も来やしませんから」
「ビヴァリー! やめて! 溺れたらどうするのっ」
焦った様子で川岸を追いかけてくるブリギッドに、ビヴァリーは苦笑した。
「こんな浅い川で溺れたりなんかしませんよ」
小川の水位はせいぜいふくらはぎの中ほどまでしかない。どうがんばっても溺れられそうもないと笑いながら、流れゆく帽子を拾い上げた瞬間、ブリギッドの小さな悲鳴が聞こえた。
驚いて振り返ったビヴァリーは、茂みから現れた二頭の馬を目撃し、心臓が止まりそうになった。
「いったい、こんなところで何をしている?」
朝靄が晴れ、薄い雲の隙間から差し込む陽光に、濡れた草や木の葉がきらきらと光る景色の中、久しぶりにハロルドの姿を目にしたビヴァリーは思わず声を上げてしまった。
すっと背筋を伸ばし、自信に満ち溢れた様子で馬に跨るハロルドは、黒のトップハットにテイルコート。乗馬用のぴったりした丈夫なベージュのブリーチズによく手入れされている艶やかな黒のブーツを身に着けている。
狩りの始まりを待つ大勢の紳士淑女と大差ない、何の変哲もない装いだが、ビヴァリーには眩い光がその周囲を取り巻いているように見えた。
じっと見るのは不躾なことだとわかっていたが、少し離れたところにいるので、気づかれることはないだろう。
ビヴァリーに求められているのは、影のように主である第三王子妃ブリギッドに付き従うことで、この場にいる他の使用人たちと一緒。貴族たちにとっては、空気のように見えない存在だ。
ハロルドに誘拐されるようにして王宮に勤め始めてから半月。毎日のようにハロルドと顔を合わせるのかと思いきや、呼び出されることもなく、もちろん使用人たちが住まう一画に与えられた小綺麗な部屋や厩舎にさえも、一度もビヴァリーを訪ねて来ることはなかった。
代わりに訪ねて来たのは、テレンスだ。
初対面で引っかかれて以来、すっかりマーゴットにたかられているらしいテレンスは、マーゴットの命令により、ビヴァリーにも貢ぎ物の一部を献上し、ついでにハロルドの近況も教えてくれた。
ブリギッドの乗馬の相手役を探すために行った面接が、花嫁を探しているという噂にすり替わり、縁談の申し込みや夜会などへの誘いが殺到し、ハロルドは断りの手紙を書いたり、夜会をかけ持ちして顔を出したりと、とても忙しいらしい。
賭け屋では、誰がハロルドの妻の座を射止めるかという、下世話な賭けも行われているようで、一番人気は公爵家のご令嬢だとか……。
もちろん、そこにビヴァリーは含まれない。
(あれくらい綺麗じゃないと、お似合いにはなれないわ……)
きりりと乗馬服を着こなした美しい女性がハロルドに近付き、親しげに笑みを交わすのを見て、ビヴァリーは自嘲の笑みを浮かべた。
王都からマクファーソン侯爵領までは、急いでも馬で丸一日は掛かるので、日帰りは無理だ。
ジェフリーとブリギッドは近くの王領地で一泊してから、今朝こちらへ到着するよう行程を調整したが、ハロルドは他の客たち同様、マクファーソン侯爵家に昨夜から滞在している。
令嬢たちは、昨夜からすでに狩りを始めているのだろう。
朝食が振舞われている間、ビヴァリーはブリギッドと供に今回の狐狩りに参加している人々の名前と身分を確かめたが、婚約者がいない令嬢ばかりが招かれていた。
ブリギッドの説明によれば、狐狩りとは、男性陣は狐を狩り、女性陣は未来の夫を狩るもので、ごく普通の令嬢の場合、一番の『獲物』はハロルド。ブリギッドと張り合って権力を手にしたいと望む野心家の令嬢の場合はジェフリーということになるらしい。
(この狐狩りが終わったら、湿った薄暗い屋根裏部屋で固いパンをかじる日々に逆戻りする私には、関係のない話だけど……)
食料を得るための狩りしか知らない自分には、貴族社会の狩りでは一匹も獲物を仕留められそうにないと思っていると、視界の端にブリギッドへ近づくマクファーソン侯爵夫人の姿が見えた。
マクファーソン侯爵が、ジェフリーに娘のコリーンを近づけようとしていることは、華やかな王宮の陰に潜むドロドロとした陰謀の数々を、なぜか知っているブリギッドから聞かされている。
ビヴァリーはすっと背筋を伸ばして馬を進め、ぴたりとブリギッドのそばへ張りついた。
「天気に恵まれて、本当によかったですわ。せっかっく妃殿下をお招きしたというのに、ぬかるみの中を走り回って泥だらけになるなど、ぞっとしますもの。夫も私も……もちろん娘のコリーンも、今日の日を心待ちにしていましたから」
にっこり笑うマクファーソン侯爵夫人のかたわらには、母と同じ整った笑みを浮かべる若い娘がいる。
どこを取っても非のない美しい容貌だが、青い瞳に宿る見下すような冷ややかさがすべてを台無しにしていた。
二人共、十年前にクビにした使用人の子どものことなど覚えていないのだろうが、マクファーソン侯爵によって温かい住処を追われ、両親とさまよった冬の夜の寒さは、今でも忘れられない。
そのせいか、幼い頃を過ごしたマクファーソン侯爵領の景色に懐かしさを感じることはなかった。
今になってみれば、家族共々、追い出されたことはむしろ幸運だったのだと思う。
そのおかげでギデオンに拾われ、ハロルドと出会い、こうしてブリギッドに仕える機会を得たのだから。
あの頃、恐ろしい狂人にしか見えなかったコリーンは、王子の掠奪を目論むほどの美貌と野心を手に入れ、一方のビヴァリーは変わらず寄る辺のない身のままだが、コリーンを羨ましいとは思わない。
(だって……あの頃よりずっと幸せだもの)
理不尽なことで物を投げつけられたり、叩かれたりすることもない。食べることにも眠る場所にも困らない。
しかも、尊敬できる主に仕えて大好きな馬に乗れるのだから。
ブリギッドはコリーンの敵意に気付いているのだろうが、大げさに呆れた表情を作ると首を横に振ってみせた。
「殿下は楽しみにしてらしたようね。私には理解できないけれど、殿方は狩猟が本当にお好きですものね」
自分は楽しみにはしていなかったと匂わせたブリギッドに、マクファーソン侯爵夫人は軽い笑い声を上げ、引きつりそうになった表情をごまかす。
「血なまぐさいところは殿方に任せて、私は乗馬を楽しみたいと思います」
さらにブリギッドは、仲良くお喋りしながら馬を歩かせる気はないのだとにっこり笑って宣言した。
狐狩りでは、女性も狩りに参加することは珍しくないらしいが、今日の狩りに参加している女性たちは、狩りの後に男性陣と合流して、一緒に昼食を取るためだけに馬に乗っていた。
料理人や給仕、ヴァイオリン弾きたちも同行して、狩りのあとはピクニックを楽しむことになっている。
「ご覧の通り起伏に富んでいますから、あまり速駆けには向いていないかもしれませんけれど……」
黙り込んだ母親に代わってコリーンが口を挟むと、ブリギッドはにっこり笑ってぴしゃりとやり込めた。
「そんなことはないわ。乗馬の楽しみは、速さを味わうことだけではないもの。喧騒を離れ、自然の静寂の中でリラックスすることも、乗馬の楽しみの一つよ。もっとも……走らせている最中は、余計なお喋りをせずに済むのが一番ありがたいのだけれど。ビヴァリー、まずは殿方と猟犬たちのやる気を見物しましょうか」
ブリギッドは母娘共々黙らせると、狩りの始まりくらいは見物したいと、少し離れた場所へ移動した。
「ふん。か弱いだけのお姫様に、かつて敵国だった国で王子妃なんか務まるわけがないと、なぜわからないのかしらね?」
涼しい顔で嘯くブリギッドにビヴァリーが苦笑いしたとき、晴れ渡った空に華々しくホルンの音が響き渡った。
何十頭もの猟犬たちが我先にと飛び出して行き、男性陣を乗せた馬たちがその後を追う。
真っ先に後を追ったのはジェフリーだ。
すぐ後ろをぴたりと付いて行くのは、ハロルド。その後ろに、他の男性たちも続く。
今日の狐狩りには、マクファーソン侯爵の権威を誇示するがのごとく、ジェフリーを始めとして現在ブレントリー王国の中枢を占める貴族や政治家など、大勢の人々が招かれていた。
ビヴァリーは、ハロルドの姿を追うように馬上で少し伸び上がったが、広い背中はあっという間に遠ざかってしまった。
「誰か気になる人でもいるのかしら?」
からかうような声音を耳にし、慌てて腰を落として座り直すと、ブリギッドがグレイッシュグリーンの瞳をきらめかせていた。
「いいえ」
ビヴァリーがきっぱり答えると、ブリギッドは「嘘おっしゃい」とからかうような眼差しを向けて来たが、マクファーソン侯爵夫人ら後方で控えていた女性陣が動き出すのを見て、愛馬に優しく呼びかけた。
「行きましょう、アルウィン」
主に忠実な黒鹿毛の牝馬は即座に歩き出し、トロットからキャンターへと瞬く間に速度を上げていく。
(たった半月しかなかったけれど、いい仕上がり具合だわ)
厩舎と狭い馬場で燻っていたアルウィンの調整に問題はないようだと確認し、滑らかに走り出したブリギッドたちを追って、ビヴァリーも速度を上げた。
ビヴァリー自身、競馬場や馬主の馬場といった柵に囲まれていない場所で思い切り馬を走らせるのは久しぶりだった。
滑らかな走りであっという間に貴婦人たちを置き去りにすると、ブリギッドはようやく自由を得たとばかりにビヴァリーへ話しかけた。
「私、乗馬は好きだけど、このスタイルは好きじゃないわ」
横乗りは嫌いだと不満を漏らすブリギッドに、ビヴァリーも頷いた。
「私もです」
「しかも、こんなもたつくドレスでは、思う存分馬を走らせることができないじゃない。コルディア人が見たら、お腹を抱えて笑うに違いないわ」
ビヴァリーも、ブリギッドと同じくトップハットを被り、ジャケットにロングスカート、下にズボンと乗馬用ブーツを履くというスタイルをここ半月ほどしているが、どうにも違和感が拭えない。
ブリギッドの母国コルディア王国では、女性もしっかり鞍に跨って乗るのが普通で、男性並みに乗りこなせる女性も珍しくないらしい。
ストロベリーブロンドの髪をなびかせて、ドレスではなくジャケットにパンツ姿で颯爽と馬を走らせるブリギッドの姿を思い浮かべたビヴァリーは、きっと戦女神のように美しいだろうと思った。
「そのうち、ブレントリーでも、女性も男性と同じ恰好で馬に乗れるようにしてみせるんだから!」
力強く宣言したブリギッドに、ビヴァリーは微笑んだ。
一時、ジェフリーとの行き違いや周囲の重圧から、落ち込んで引き籠りがちになっていたブリギッドだが、悲嘆に暮れて泣き濡れるような性格ではない。
諦めずに、必要とあらば自身の主張や要求を押し通すことを改めて決意したようだ。
今回の狐狩りも、自分を蹴落とそうと考えている貴族の筆頭であるマクファーソン侯爵の主催だとわかっていても、尻尾を巻いて逃げ出さず、堂々と敵地に乗り込んだ。
小さな体で異国の地に足を踏みしめて立つ王子妃のために、ビヴァリーには大したことはできないけれど、思い切りアルウィンを走らせてやることはできる。
「ブリギッドさま。昼食を取る予定の川岸まで、どちらが早く辿り着けるか競争しませんか?」
「もちろんよ! 負けないわよ? ビヴァリー」
宣言するなり、飛ぶように走り出したブリギッドのたちをビヴァリーもすかさず追いかける。
狩りが行われているだろう場所を大きく迂回する形で、起伏に富んだ道なき道を駆け抜け、追いつ追われつしながらうっすらと記憶にあるピクニック用に整備された川岸まで辿り着いた。
少し拓けた川のほとりには、一見無造作に見えるが、視界を遮るように配置された茂みやさりげなく置かれたベンチなどがあり、人目に付かずに過ごせるよう配慮されていた。
子どもの頃はかっこうの隠れ家としか思わなかったが、大人になった今では、まるで恋人同士のために造られた場所のようにも見える。
ブリギッドは小川で馬に水を飲ませてやりながら、少し遅れて到着したビヴァリーを振り返るとトップハットを脱いで、空高く放り投げた。
「私の勝ちね!」
満面の笑みを浮かべ、すっかり乱れたストロベリーブロンドの髪を流れ落ちるままに、大きく伸びをする生き生きとした様子は、決して王宮では見られない姿だ。
(こんな姿のブリギッドさまを見たら、きっと殿下だって……)
ありのままのブリギッドを目にすることのできない王子を気の毒に思ったビヴァリーは、微かな水音を聞いてハッとした。
音のしたほうに目を遣れば、ブリギッドの放り投げたトップハットが小川をぷかりぷかりと流れていく。
「あら、やだ……大変!」
慌てるブリギッドを目で制し、ビヴァリーは素早くロングスカートをたくし上げると、ためらうことなく小川へ足を踏み入れた。
「え、ちょっと……ビヴァリーっ!」
いくらズボンを履いているとはいえ、十分はしたないことだとわかっていたが、まだ狩りは途中で、のんびり馬を歩かせているはずの女性たちが追いつくのにも時間がかかる。
「大丈夫です。まだ、誰も来やしませんから」
「ビヴァリー! やめて! 溺れたらどうするのっ」
焦った様子で川岸を追いかけてくるブリギッドに、ビヴァリーは苦笑した。
「こんな浅い川で溺れたりなんかしませんよ」
小川の水位はせいぜいふくらはぎの中ほどまでしかない。どうがんばっても溺れられそうもないと笑いながら、流れゆく帽子を拾い上げた瞬間、ブリギッドの小さな悲鳴が聞こえた。
驚いて振り返ったビヴァリーは、茂みから現れた二頭の馬を目撃し、心臓が止まりそうになった。
「いったい、こんなところで何をしている?」
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