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嫌がる馬には、誓えません

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 人気のない薄暗い教会の礼拝堂に足を踏み入れたビヴァリーは、ひんやりとした空気に身震いした。

 身も心も清めてくれるはずの神聖な空気は、断罪の刃のように冷たい。

 白い手袋に覆われた手を押し当てて、今にもひっくり返りそうな胃を押さえようとしてみたけれど、震えっぱなしの手では効果がなさそうだ。

 普通なら、参列者でぎっしりと埋まっているはずの長椅子は、最前列の一列を除いてからっぽだ。

 その一列を埋める人物も、グラーフ侯爵ギデオンと王国陸軍の軍曹テレンス・ロウワーの二人だけ。他には、結婚式を執り行う司祭と花婿以外、誰もいない。

 ブレントリー王国でも十指に入るほど由緒正しい家柄であるグラーフ侯爵レノックス家の跡継ぎ――リングフィールド伯爵ハロルド・レノックスの婚礼とは思えぬ寂しさだ。

 隣接する司祭館で支度を整えてからここまで、ビヴァリーは頼れる付添人も支えもなく、たった独りで歩いて来たが、祭壇へと続く階段の下に立つ花婿の姿を目にした途端、足が凍りついたように動かなくなった。

 ステンドグラスを通して注ぐわずかな光にも輝く金の髪。些細なことでも見逃すことなどない、鋭い鳶色の瞳。すっきりと通った鼻筋や男性らしい直線的な眉と引き締まった口元で形づくられた顔立ちは、貴族らしい品の良さとわずかばかりの尊大さを滲ませている。

 教会のどこかに必ず描かれている大天使を思わせる研ぎ澄まされた容貌は、俗悪なものを嫌悪する厳しさを感じさせる。

 黒いフロックコートにグレーのズボン、淡いグリーンのアスコットタイを身に纏い、背筋がピンと伸びた美しい立ち姿は、そのまま額に入れて飾れるくらい様になっている。

 ただし、その表情は硬く、胸元に飾られた白い薔薇さえなければ誰も花婿だなんて思わないだろう。

(喜べなくて、当然よね……)

 ビヴァリーは、内心自嘲気味に呟いた。

 ハロルドがこの結婚を心から望んでいないことは、最初からわかっていた。

 だから、自分と結婚する必要はないのだと何度も言ったのだが、頑固なハロルドはまったく聞き入れず、今日を迎えてしまった。

(本当に、これでいいの……?)

 ビヴァリーは、自分がとてつもない間違いを犯そうとしているのではないかと思った。

 歩きなさいと命じる声と、ダメだと引き止める声が頭の中で交互に繰り返される。

 極度の緊張と葛藤にどんどん気持ち悪くなってきて、必死に吐き気を堪えていると、聞き覚えのある優しい声がした。

『ビリー』

 俯いていた顔を上げると、目の前にいるはずのない父ラッセルがいた。

(父さん……!)

 勢いよく抱きついても、いつもちゃんと受け止めてくれたがっしりした身体つき。お気に入りのツイードのハンチング帽からは、ビヴァリーと同じチョコレート色の髮がはみ出ている。穏やかな光を浮かべる琥珀の瞳と優しい笑みを求めて伸ばした手は、虚しく空を切った。

 心細さが見せる幻影だと知って、ビヴァリーは涙ぐんだ。

(そうよね……五年前に亡くなっているのに、ここにいるはずがない……)

 幻のラッセルは、まるで本物のように優しい笑みを浮かべてビヴァリーに問いかけた。

『このまま、神様の前で嘘を誓うのかい?』

 早鐘を打っていた鼓動が止まり、ビヴァリーは目を見開いて息苦しさに喘いだ。

『後悔するとわかっていることは、してはいけないよ』

 ラッセルの一言で、さまよっていたビヴァリーの心は行くべき道を見出したように、ぴたりと鎮まった。 

「ビヴァリー」

 咎めるような声を耳にして、瞬きする。

 顔を上げると、ハロルドが眉をひそめ、早く来いと言うように睨んでいた。

 少しも幸せな花婿には見えないその様子に、ビヴァリーは決心した。

(馬も、人も一緒。嫌なことを無理強いしてはいけない)

 震える足を一歩ずつ前へ出し、ビヴァリーがようやくその隣に辿り着くと、ハロルドは短く息を吐いて司祭へと向き直った。

 司祭が何か大事なことを話しているのはわかっていたけれど、これから言わなくてはならないことを考えるのに忙しくて、ほとんど耳に入ってこない。

「……誓います」

 ハロルドが呟いた言葉にハッとして、ビヴァリーは顔を上げた。

「ビヴァリー。汝、健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、ハロルドを愛し、敬い、命ある限り、心を尽くすことを誓いますか」

 穏やかな表情の初老の司祭を見つめ、ビヴァリーは震える唇を開いた。

「……ません」

 大きな声を上げたつもりだったが、実際には震え、掠れていた。

 司祭はやや驚いたように榛色の瞳を見開いたが、優しく微笑んだ。

「ビヴァリー? どうかしましたか?」

「あの……わた、私っ……あのっ……」

 震える手を胸の前で固く組み、ビヴァリーはつかえそうになりながらも必死に訴えた。

「わ、わたし……誓えませんっ!」
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