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一章
いへん
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それからまた数日が経過したこの日、勇者は勇大の保育園をお休みさせました。
すでに保育園へ行く準備をしていたエードラムも勇大もびっくりして、特に勇大は不満げな顔をしておりましたが、勇者が「今日は車でお出掛けをしよう」と言えば大喜びでお出掛け準備を始めました。
車でお出掛け、というのは、勇大を疲れさせるための勇者の方便というやつです。
普段からしてあまり勇大とべったり、というわけにはいかない勇者ですから、たまにこうして一緒にお出掛けするとなると勇大は大層嬉しそうにはしゃぎます。
そうやって一緒にお出掛けをすれば疲れて夜にたっぷりと寝てくれるので、勇者も魔物退治へ外出しやすくなる、というわけです。
車でお出掛けをするのは、外気に触れさせないため。
行くのは家からはちょっと遠めの大型スーパーなんかが多いのですが、車だってきちんと結界を張っている特製です。
なんとも過保護な事ですが、まぁ幼子のためですから仕方がありません。
エードラムが来てからは始めてのことですので彼も不思議そうな顔をしていたものの、基本的に日常生活で勇者の言う事に逆らう事がない男ですので、無言で保育園バッグを定位置に戻します。
この定位置というのは、勇者の決めた躾の一貫でした。
あぁ、いえ、魔王の躾ではありません。
勇大の、です。
勇大は育て方がよろしかったのでしょうか、とっても聡明な子供なのです。
普段だってエードラムがしなくっても自分の保育園準備はお手の物ですし、自分のハンカチやパンツくらいならば自分で畳むことが出来るくらいにはいい子なのです。
ここ数日にそれが出来ていなかったのは、ただ単にちょっとした我侭もちゃんと聞いてくれるエードラムに甘えてるから、という事でしょう。
それにしても、また急なお休みである事です。
闇の気配の襲来は予兆があるわけでもないので急なのはいつもの事ですが、エードラムへの説明をする前にお休みが入るとは思いませんでした。
「車で……って、どこに行くんだ」
「おっきいスーパー。君の生活用品、あんまり買ってなかったし」
「おじちゃんのものかうの?」
「そうだよ。勇大が選んであげて」
「お、おい……」
「やったー!ぼく、えらぶ!」
おぉ、おぉ、戸惑ってる戸惑ってる。
さも当然のように自分の生活用品を購入してこようという勇者の行動が、まだエードラムには分からないのでしょう。
日常生活を営むためには当然服や靴、下着なんかは必要ですし、食事をするための食器だって今は使いまわしていたりサイズが合っていなかったりするので専用のものも必要でしょう。
そうなれば、買うしかないわけです。
けれどエードラムにしてみれば、何故勇者がそれを揃えるのかと思っていることでしょう。こちらに向けられている助けを求めるような視線で分かります。
魔王にしてみれば、施しを受けているような気分なのかもしれません。
それとも、勇者にそんな厚意を受けることに戸惑っているのでしょうか。
順応しているように見えてまだ人間世界における日常生活に慣れていないのか、人間としての感情に慣れていないのか。
しかしそんな事に戸惑っていたらいつまでも人間の生活には慣れることが出来ないと思うのですが。
「ほら、早く準備して」
「わざわざ買いに行かなくても……」
「もう冬だよ。いつまでもTシャツとサンダルってわけにもいかないでしょ」
「しかしだな……」
勇大に上着を着せつつ言う勇者に、魔王は自分の服装を見返して唸ります。
確かに、エードラムがここに来てから彼はほどんど着替えというものをしておりません。
流石に同じものを洗濯もなしに着せ続けているわけにもいきませんので今着ている服こそ勇者が近所のコンビニで追加で購入してきたり大学の友人に貰い受けた物だったりしましたが、それ以外に着替えというものがあるわけではなかったのです。
なんとも不衛生。
汚いですな。
もしかしたら勇者は、そんな風にいつも同じ服装なエードラムに何も言わない間にもちょっとばかり気になっていたのかもしれません。
唐突に見えて実は、自分の大学の都合をあわせるために予定をつけていたのかも。
まったく、無口ながらに色々と考えているお方であることです。
かくして我々は、初の家族ドライブに出かける事になったのです。
家族、なんて言ってしまうのも、あぁ何とも不愉快なことで御座いますが、車に乗り込んだ勇大は実に上機嫌でございました。
チャイルドシートの上でご機嫌で足をパタパタとさせて、お隣に座るお気に入りのおじちゃん(本人は断固として認めませんが)とのお出掛けが大層嬉しいようです。
わたしはと言えば、普段勇者が大学に行くのに使っている黒く長い筒に入れられて助手席に置かれています。
お出掛けの際にはわたしはいつもこのセンサーが出て外が見えるように加工された筒の中に入れられて勇者の背中に背負われます。流石の勇者も、大学以外での外出にはわたしは手放しません。
闇の魔物が日中出てくることはそうそうないとはいえ、完全に有り得ないわけでもないからです。
ですがまぁ、今回行くのはただのスーパーです。何事もないとは思う……というよりも、無いでしょうけれども。
このスーパーというのは、勇大を連れてよく行く大型のスーパーです。
子供が遊べるプレイルームもあれば家電から服飾品から様々なものが揃う店舗ですので、勇者は時間がある時には好んで勇大をそこに連れて行くので勇大もお気に入りのスポットなのです。
魔王も最初は半信半疑のまま付いて来ておりましたが、一歩店に入ればその規模に驚愕して目をキラキラとさせているのですから、子供と同じようなものです。
闇の魔物の一端として闇の世界に住んでいた彼ですから、こういった場所は新鮮で刺激的なのかもしれませんけれども。
「まずは服だね。大きいサイズは何処だろう勇大?」
「さんかい!」
「よく出来ました」
しかし勝手知ったる二人は案内図も見ずにサクサクと歩いていってしまいます。
いきなりの巨大な外国人の出現にびっくりしている周囲の人々のことなんかはお構いなしなのですから、図太いというか何というか。
エードラムの方がかえって恐縮してしまいつつエスカレーターで三階に上がると、果たして勇大が言った通りの紳士服売り場。
しかも身体の大きな人用サイズのある売り場もしっかりありました。
「……金なんか持ってねぇぞ」
「貰うつもりなんかないよ。いいから適当に選んで。着回せるくらい」
「どのくらいの量なんだ、そりゃあ」
「洗濯しても困らないくらい」
「だからどのくらいなんだっつーの」
ぐだぐだと喋りつつも、エードラムは悩み悩み服をチョイスしていきます。
と言っても人間の生活をよく知らない彼のことですから本当に適当すぎるくらいの選び方です。
流石にあんまりすぎる柄物やキャラクターものなんかを選んではいないようですが、勇者にサイズの確認をしてもらいつつある程度の枚数をカゴの中に放り込んで行きます。
はて、そういえば魔王の服のサイズはどのくらいなのでしょうか?
勇者とはあまりにも身体のサイズが違いますし、採寸なんかは一度もしておりません。
けれど勇者は見ただけで分かっているのか、それとも予め測ってきていたのか、迷う事なくエードラムにサイズの指示をしてその中からチョイスさせています。
不思議なものです。
勇大の服を選ぶときには何度も何度も試着させつつ選んでいるというのに、エードラムには一度も試着させる様子もありません。
大人は身体のサイズがそう変わる事がない、という事なのでしょうか。それにしたって下着やボトムスのサイズまで分かっていて指示するのですから、凄いものです。
それが靴にまで到ると流石のエードラムも気付いたのか、「サイズは本当にこれでいいのか」などと今更な事を言います。
勇者は靴を選んでいた視線を軽くエードラムへ向けると、
「シューフィッターに見てもらいたいの?」
「しゅーふぃったー?なんだそりゃ」
「……この靴履いてみて。きつい?」
「……いや。丁度いい」
「なら、そのサイズでいいんだよ」
いやはや、凄いものです。
勇者はその靴を店に入って一番に手にとったというのに、まさにエードラムにぴったりなサイズであったとは。
そんなにも彼の身体のサイズというのは分かりやすいのでしょうか。
わたしがセンサーを使って解析すれば、そりゃあ簡単に採寸は出来るというものですが、魔王ごときにわたしの解析機能を使うだなんてごめんですかので今回はそんな事はしておりません。
それだというのに見て分かっている勇者には、本当に感服してしまいます。
まるで、最初から知っていたかのようです。
「服と、下着と、靴と……後は何かあるかな」
「ごはんのときの!」
「あぁそうか。お茶碗とお箸買わなくちゃ
「箸……あの木の棒か」
「いつまでも子供用のフォークってわけにもね。勇大の教育に悪い」
スーパーの中の飲食店で軽く昼食をとった後、ガサゴソと音をたてる大きな荷物は魔王に持たせて勇者と勇大はさっさと地下の食器売り場へ足を向けます。
そこで買うのは皿とエードラム用の食器ですが、勇者は箸売り場の方に足を向けて食器売り場の方には近寄りませんでした。
「好きなものを選んでいいよ」と言って勇大に魔王を任せ、自分はそちらの方には一切足を向けないのです。
はてどうしたのだろうと思ってから、わたしはふと思い到りました。
そういえば家でも、勇者はあまりガラスの食器を使うことはありません。流石に一切使わないというわけでもないので家には沢山食器はありますが、食器棚にはきっちり鍵がとりつけられ、一枚一枚の食器がかなりしっかりと固定されているのです。
食事を盛る時にも先に食器だけをカートで食卓へ移動させてそこで食材を盛りますし、食事を終えればまたカートに載せてシンクまで移動させます。
それはまるで、ガラスを持つのを恐れているようで……つまるところ、彼はガラスや陶器といった割れ物が苦手なのだろうなと思わせました。
エードラムもそれに思い至ったのか何も言わずにおおはしゃぎの勇大と共に食器を選びはじめます。
勇者の唯一の弱点かもしれないそれに突っ込まないところは、少しばかり好感が持てました。
本当に、少しばかりですが。
「バル、今何時」
『じきに十五時を過ぎるところです』
「三時か……意外と早く済んじゃいそうだな……」
『夕飯も外でお食べになりますか?』
「そのつもりだったけどね。家を出るのが早すぎたかもしれない」
『家電をご覧になっては?あるいは、家具など』
「家具か……そういえば選んだことなかったな。いつまでも客用布団ってわけにもいかないし、そうしよう」
周囲の人に違和感を持たれない程度の小声で、勇者は次の移動先を決めます。
元々あまり口を大きくあけて喋ることのない人ですので、声さえ小さければ周囲に話していることを悟られたりはしないでしょう。
そういえばわたしは、彼が大口をあけて話すも叫ぶも、見たことがありません。
戦闘中ですら無言で淡々と、呪文の詠唱だって小声でまるで歌うように行います。
そんな彼が声を荒げるなんて事はあるのだろうかと、箸を二種類ばかりチョイスして購入する勇者を眺めつつ思いました。
勇大がガラスを割ってしまっても、おねしょをしても、ちょっとした失敗をしてしまっても、彼は声を荒げる事も怒ることもありません。
感情がフラットと言ってしまえばそれまでですが、そこにまた少し不思議なものを感じました。
こんなことは今まで考えた事がなかったものです。
エードラムという比較対照が出てきた事で感じるようになったのでしょうか、それともただそういう時期なだけなのでしょうか。
なんとなくまた、もやっとしたを感じつつエードラムのための買い物に付き合い、帰宅した時には車も荷物でいっぱいで、空は完全に暗くなっておりました。
勇大は夕飯を食べた後に早速船を漕ぎ出し今ではすっかり夢の中。
荷物の運び込みをエードラムに任せた勇者は、勇大を寝かしつけに寝室へと入って行きました。
「この後か?」
『えぇ。そうだと思います』
食器を食器棚に入れ、自分用の服を入れるためのボックスの包みをあけていたエードラムは、寝室に視線を向けつつ言いました。
何がこの後あるかと言えば、ひとつしかありません。
「オレも一緒に行くべきなのか」
『さぁ……分かりません。行きたいのですか』
「……わからねぇ」
ぐしゃぐしゃと包み紙を乱暴に丸めるエードラムの表情は硬くこわばっておりました。
さもあらん、闇の魔物はほんの少し前まで彼の同胞であり、部下であった者たちです。
その魔物退治に向かう勇者を、どういう顔で見送ればいいというのでしょう。
まして、共に行くなどという事は彼にとってはどういう意味を持つのでしょうか。
当然ながら、今まではそんなことだって考えた事はありませんでした。
魔王が知り合いになることも、まして一緒に暮らす事だって想像もしていなかったのですから、それも当たり前でしょう。
エードラムは、考え悩んでいる様子こそみせておりますが、声を荒げるでも取り乱すでもありません。
何を言えばいいのか分からない、というのが正しいところでしょうが、それはわたしも同じ気持ちでした。
エードラムに何と言えばいいのか、勇者に何と問えばいいのか、分かりません。
「じゃあ、行って来る」
その沈黙の場に、勇者が戻って参りました。
彼は魔物退治のときにも特に武装をするでもなく、普段着のままです。違いと言えば、その背か腰にわたしを帯びるかどうか、というくらいでしょう。
当然今も先ほどまでと同じ普段着なのですが、今は腰にも背にも、わたしを帯びるためのベルトをつけてはいませんでした。
あまりにも普通の様子にどう問い掛けてもいいのか分からなくなったわたしとエードラムは、とりあえず勇者と共に玄関前まで移動をしました。
エードラムに抱えられて移動をするのは初めてではありませんが、やはり魔王に持って移動されるというのはもぞもぞしてしまいます。動く事なんかは出来はしませんが。
「……オレはどうする」
「どうするって?眠いなら、寝ていればいいよ。あぁ、でもお風呂には入って」
「付いていくことは?」
「いらない。今日は一人で行く」
『ひとり、とは』
「バルもお留守番」
なんと、と思わず声が出ておりました。
エードラムが居残るのは分かるのです。単に邪魔なのか、エードラムへの配慮であるのかは、表情の乏しい勇者からはうかがい知ることは出来ませんが、まぁそういうものです。
しかしまさか、勇者の武具であるわたしまで居残りであるとは思いませんでした。
確かに、勇者は魔術を行使することが出来ます。多少の魔物であればその魔術で殲滅することだって容易でがあるのです。
ですが、魔術のみで戦うのと武器を持って戦うのとでは疲労の度合いが違う、と言っていたのは他ならぬ勇者自身です。ですのに、まさか武器を持たずに行かれるとは。
「ちゃんと警戒だけはしておいて」
『お、お待ち下さいっ』
「おやすみ」
引き止めましたが、勇者はこちらに一瞥もくれることなく家を出て行ってしまいました。
後には、ぽかーんとしている我々が残されるのみです。
勇者は確かに強いお方です。
わたしを手にされる前には別の武具をもって戦っていらっしゃったのでしょうから、他の武器で戦えない事もないのでしょう。
しかしこうもあっさり置いていかれてしまいますと、本の少しばかり矜持が傷つきます。
今日の敵は弱いから、などと言われたとしたって、そんな、どんな相手が出現するかは分からないのですから慰めにもなりません。
閉ざされたドアを何も言えずに見詰めていると、エードラムは乱暴に髪を引っ掻き回してからわたしをひょいと持ち上げていつものソファに投げました。
これ以上玄関前に居ても意味がない、という事でしょう。
それはその通りなのですが、やはり釈然とはしません。
エードラムが来て、色々と変化が訪れてしまったように思います。
いい変化であるのか、それとも悪い変化であるのかはわたしにはわかりません。
ただ分かるのは、確実にそれは今までとは違う生活に変化してしまうという事で、中々に受け入れ難いものがありました。
わたしは子供とは違います。製造された頃から数えれば、この世界にある何よりも古いかもしれない物質です。
それが故にわたしの考え方が硬いのか、と思わないでもありませんが、やはり魔王によってもたらされる変化というものを受け入れたいとは、思えませんでした。
しかし、と、考えを一度切り替えます。
勇者は変わりました。
確かにほんの少し、雰囲気が変わったのです。
しかし、では、わたしは彼が「凄く変わった」と言えるくらいに彼のことをよく知っていたのでしょうか。
勿論彼とはそれなりに長く暮らしておりますので、一通りの事は理解しております。しかし、かといって全てを理解していると言えるのでしょうか。
そんな事を考えてしまう程度には、わたしは色々なものに自信がなくなってしまいました。
わたしは勇者の剣です。
他の代わりの無い、世界にも、全ての時代にも、ただ一本の剣なのです。
……なのです、けれど。
ふぅ、と肺があれば恐らくは大きく吐き出されていただろう音を出しながら、わたしはソファの上に転がってセンサーを家中に張り巡らせました。
つい先ほどまで自分用にあてがわれた部屋でゴトゴトと荷物整理をしていたエードラムも、言われた通りに風呂に入って寝る準備に入ったようです。
普段であれば、わたしも夜に家の明かりが消えたならばセンサーだけを起動させて休眠状態に入りますが、この日はなんとなく休眠状態に入る気がせずにぼんやりと真っ暗な空間を眺めておりました。
わたしは人間では御座いませんので、疲れなんてものは御座いません。ですから、一晩中起きていたって問題はないのです。
かといって起きている理由もないのですが、なんとなく休眠状態に入る気になれなかったのです。
結局その日、勇者は朝までお戻りになられませんでした。
仕方なくエードラムがパンと卵とソーセージを焼き倒すだけの簡単な朝食を勇大にとらせ、保育園まで送っていきました。
勇者に料理を習っても一向に上がらぬ料理の腕ですが、何も食べさせないよりはよっぽどマシでしょう。
そうして登園準備をしている間も、エードラムは特に何を言うでもなく、勇大のお話に付き合うだけでわたしには何も言うことはありませんでした。
空気が張っているというか、ピリピリしているというか、です。
まぁ、わたしが勝手にそう思っているだけなのかもしれないのですけれど。
勇者が帰宅をしたのは、そのエードラムが勇大を保育園へ送りに行って少しした頃でありました。
少しばかり足元がおぼつかない勇者は、ボロボロとまでは言いませんが薄汚れた格好をしていて、所々破れた服には血の跡も見てとれました。
しかし何を言うでもなく、わたしが置かれているソファにヨロヨロとやってくると勢いよく寝転がり、そのまま寝入ってしまいました。
わたしは勇者があまりに勢いよく寝転がったせいで弾かれて床に落ちましたが、それを意に介してくださる様子もありません。
それほどまでに、お疲れなのでしょうか。
センサーを動かして、ソファで寝ている勇者を見ます。
そこまで疲れてしまうのであれば一緒に連れて行ってくださればよいのに、と思わないでもありません。
ですがわたしは良くも悪くも勇者の剣。彼の決定に抗う事などはできないのです。
そう言い聞かせるしか、出来ないのです。
「んだ、そんなトコで寝てんのか」
寝息ひとつとたてない勇者の睡眠をそのまま見守っていると、少しして勇大を保育園に送り届けたエードラムが帰宅してまいりました。
勇者が眠っていると気付くとドカドカと乱雑だった足音を潜め、いっそ滑稽なくらいにコソコソと足音を忍ばせ始めます。
魔王にも気遣いというものがあるとは何とも不自然な限りですが、気の細かいこの男に限っては逆に魔王という肩書きの方が似合わないのではと思ってしまいます。
「コイツのこんなツラ、初めて見るな」
毛布を持ってきて勇者に掛けてやり、暖房をいれるエードラムの表情はどこか苦々しさを含ませております。
こんなツラ、と言われてもわたしの位置からでは勇者の顔を見ることは出来ないのですが、エードラムがそう言うという事は相当に疲れた顔をしているのではあるまいかと、わたしは思いました。
魔術というものは精神力を使うものです。
身の内に留まっている魔力を編み上げ魔術へと変換し、それを打ち出すものを魔術といいます。
元々は太古の人々が勇者たちに教えたものであり、普通の人間には使うことも出来なければそもそも身の内に魔力を宿す事だって出来るものではありません。
大体にして魔力を編み上げている段階で精神力を使い果たして発狂するか、身の丈に合わぬ太古の術に逆に食われるかのどちらかでしょう。
太古の人々は、勇敢なる人々以外には力を貸そうとはしませんでした。それが故に、勇者と呼ばれる人々以外が使おうとすれば魔術そのものに宿る太古の人々の意思によってその身体を崩壊させてしまうのです。
はっきり申し上げまして、わたしはそのような前例を見たことはないのですが、太古の人々がそう言うのだからそういうものなのだろうなと、そう思ってまいりました。
実際、勇者は魔術を乱発した後には頭痛がすると訴えておりましたし、今もとても疲労しておられます。
魔術というものは、それだけ身体に負担をかけるものなのです。
『今日はお前が家事の一切をおやりなさい』
「命令かよ」
『お疲れの勇者にやらせるつもりですか?』
「洗濯モンが破れっちまってもしらねぇぞ」
言いながらも、エードラムは特に文句を言うでもなく洗濯を開始いたしました。
家事というものの価値を見出せないと常々ぼやいている魔王ですが、ずっと家に居るだけでは退屈だと言ってもいたので、のんびり家事をするのは丁度いい暇つぶしなのかもしれません。
それであれば、勇者が疲れている時くらいは文句を言わずにたっぷりと動いてもらわなければ困るというものです。
しかし、そんな目論見はあっさりと覆されてしまいました。
エードラムは実に気の細かい男でありましたが、何とも不器用な男でもあったのです。
と言っても、力の加減をミスって皿を割ったりだとか服を破いたりだとかいう程度でしたが、やはりまだ人間の身体に慣れなかったのでしょう、同じミスを数回繰り返しやがりました。
おっと失礼、同じミスを数回繰り返してしまったのです。
元々彼は魔王で人間よりもずっと強い膂力を持つ男です。腕だって勇者の腰周りくらいはありそうな勢いですし、保育園の子供たちを両腕にぶら下げても平然としているのですから、相当力がある方でしょう。
が、そのコントロールくらいつけてもらわないと困ります。
「マッシュポテトしたり濾したりするのには便利だけどね」
『ポジティブですな……』
ふかしたジャガイモをマッシュしているエードラムの後姿をソファに寝転がってニヤニヤ眺めつつ、勇者は言います。
えぇ実に潰したり叩いたりには適した腕であるとは言えますでしょう。
しかし今日までですでに皿を四枚割り、せっかく買ってきた服も二枚はダメにしているのです。ポジティブに受け取るといっても限界があるでしょう。
夕方になっても疲労がとれないのかソファに横になっている勇者はその辺はすでに諦めているのか、注意をするでも助言をするでもなくエードラムを見詰めています。
彼は今までも、エードラムがする事に対して何か言葉を発した事はありませんでした。
最初にエードラムに一連の事を教え、それ以外は聞かれれば答えるのみで自分から何かを言うことはなく、彼のやりたいようにやらせてきました。
エードラムの方でも大きな失敗をしたことはありませんでしたし、いちいち指示を飛ばされるのを嫌う気質の彼には正しい対処の仕方であったのかもしれません。
「……眠くなってきた」
「寝るなら部屋いけ部屋」
「……ごはんがたべたい」
「ガキが帰ってからだ」
「……けち」
ずずっとソファの背を滑りながら、勇者の赤い眼は徐々に眠りの世界に落ちていこうとしているかのように細められていきます。
これではいつ眠ってもおかしくなく、しかしここでまた眠ればそろそろお迎え時間の勇大に見つかってしまうでしょう。
勇大の躾には厳しい勇者のこと、こんな所で眠るのはよしとしないかもしれません。
それにしても、と、勇者に視線を向けます。
「はこんで」
「自分で歩け」
「無理」
「残念ながら先客の相手中だ」
「ぼく実はジャガイモ嫌いなんだよね」
「じゃあ何でジャガイモ料理にしろなんつったテメェ!」
ぶん、とマッシャーを振り上げつつ怒るエードラムに、勇者がうっすらと口角を上げて笑います。
その表情といったら、ありません。
何とも表現し難い、振り向いてくれた事を喜んでいるような、うっとりとしているような、眠気に負けそうになっているような、嘲っているような、そんな表情であったのです。
何なのでしょうか、この表情は。
驚いて勇者を見ていましたが、しかし勇者の表情はすぐにいつものような無表情に戻ってしまいました。
そのまま、足を投げ出したまま目を閉じて横になり、眠りの体勢に入ってしまいます。こうなるともう、エードラムの大声に脅かされようが何だろうが、勇者は起きません。
「あーあ、いいのかなー勇大かえってきちゃうよぅ……」
「だから、部屋行けつってんだろうが」
「…………」
「こら、寝るんじゃねぇ!」
エードラムはまだぎゃあぎゃあ言っておりましたが、ふと喋るのをやめた勇者は完全に夢の世界へ旅立ってしまわれたようです。
つまりはそれだけ疲れていたという事なのでしょうけれど、こんなにもあっさりと眠りに落ちる勇者というのも珍しいものです。
「くっそ……寝やがった」
『早く寝室へ』
「わぁってるよ」
エードラムの膂力であれば勇者一人を抱えるなど造作もない事のはずなのですが、エードラムは物凄く嫌そうに顔を歪めながら手を洗い、暫し悩むように眠る勇者を見下ろしておりました。
はて、何を悩んでいるというのでしょうか。
とっとと抱えて寝室に運んでいただかないと、勇大のお迎えが遅れてしまいます。
『何を悩んでおられるので?』
「……どう抱えたもんかと」
『普通に抱えればよろしいではないですか』
「ガキじゃねぇんだぞ。正面から抱くってわけにもいかねぇし、負ぶるのも変だろ」
『では……』
言いかけて、気付きました。
確かに、眠りに落ちている成人男性を抱えるのに最も適しているのはどんな抱き方なのでしょうか。
子供であればいくらでもパターンはありますが、曲がりなりにも勇者は成人している男性で、重さだって魔王よりかはずっと軽いとはいえ子供と比べたらどちらが重いのかは明らかです。
今の勇者の寝方からして一番いいのは膝裏と背を腕で支えて横向きに抱える抱き方なわけですが、成人男性に対してその抱き方はどうなんだ、という気持ちはないわけでもありません。
何しろその抱き方は乙女の夢……いわゆる姫だっこと呼ばれる抱き方でありますので……
「……肩に抱えたら起きるよな」
『……頭に血が上るでしょうね』
「脇に抱えたら……」
『足を床にずってしまいますね……』
「だよな……」
『えぇ……』
かと言って、選択肢が他にあるわけでもありません。
我々は暫しの沈黙の後に、何故かお互いに視線を向け合い見詰めあっておりました。
そしてたっぷり五分間悩んだ後、エードラムは意を決して勇者を横抱きに抱え上げました。
何故か見ているこっちが物凄く恥ずかしかったのですが、しかしまたこれが曲者で御座いまして、乙女が夢見る姫抱っこというものが実はとんでもなく大変なものであるという事をわたしとエードラムは知ってしまいました。
完全に眠りに落ち力が抜け切っている勇者の身体はぐにゃぐにゃで、エードラムが肩で頭を支えようにも筋肉の隆起に負けてがくりと横だの後ろだのに首が逃げてしまうのです。
さらに、膝裏と背から脇に腕を回して支えているにも関わらず、しっかりとその手で掴むように支えてやらないと勇者の身体が徐々にずり落ちていくのです。
なるほど、この抱き方は意識のある相手の協力があってこそ美しく見える抱き方なのだなと、わたしとエードラムはどちらが先かは分かりませんが思いました。
最終的にエードラムが力に任せて勇者を抱え込み、己の首元に頭を押し付けるようにして抱え上げてやっと、勇者はエードラムの腕の中で安定したようでした。
しかし夕食の時間になって起きてきた勇者が脇と足に痛みを訴え、見てみるとまるでギリギリと力を入れてつねられたかのような赤い痕が残っていたものですから、エードラムは必死に努力をしたというのにこっぴどく勇者から怒られる破目になってしまいました。
その赤い痕だって勇者の身体を安定させるためにしっかりと抱き込んだからであるというのに、何とも哀れなことです。
しかしエードラムにはお説教よりも、その後にあった勇者による姫抱っこ講習のほうがよっぽど辛かったらしく、物凄く真顔で姫抱っこされつつレクチャーをする勇者であったり、大喜びで横抱きに抱かれる勇大であったりを抱き上げるエードラムの目は完全に光を失っておりました。
このときわたしは初めて、もう少しこの元魔王に優しくしてやってもいいかもしれないなと、自分に身体が無い事を喜んだので御座いました。
すでに保育園へ行く準備をしていたエードラムも勇大もびっくりして、特に勇大は不満げな顔をしておりましたが、勇者が「今日は車でお出掛けをしよう」と言えば大喜びでお出掛け準備を始めました。
車でお出掛け、というのは、勇大を疲れさせるための勇者の方便というやつです。
普段からしてあまり勇大とべったり、というわけにはいかない勇者ですから、たまにこうして一緒にお出掛けするとなると勇大は大層嬉しそうにはしゃぎます。
そうやって一緒にお出掛けをすれば疲れて夜にたっぷりと寝てくれるので、勇者も魔物退治へ外出しやすくなる、というわけです。
車でお出掛けをするのは、外気に触れさせないため。
行くのは家からはちょっと遠めの大型スーパーなんかが多いのですが、車だってきちんと結界を張っている特製です。
なんとも過保護な事ですが、まぁ幼子のためですから仕方がありません。
エードラムが来てからは始めてのことですので彼も不思議そうな顔をしていたものの、基本的に日常生活で勇者の言う事に逆らう事がない男ですので、無言で保育園バッグを定位置に戻します。
この定位置というのは、勇者の決めた躾の一貫でした。
あぁ、いえ、魔王の躾ではありません。
勇大の、です。
勇大は育て方がよろしかったのでしょうか、とっても聡明な子供なのです。
普段だってエードラムがしなくっても自分の保育園準備はお手の物ですし、自分のハンカチやパンツくらいならば自分で畳むことが出来るくらいにはいい子なのです。
ここ数日にそれが出来ていなかったのは、ただ単にちょっとした我侭もちゃんと聞いてくれるエードラムに甘えてるから、という事でしょう。
それにしても、また急なお休みである事です。
闇の気配の襲来は予兆があるわけでもないので急なのはいつもの事ですが、エードラムへの説明をする前にお休みが入るとは思いませんでした。
「車で……って、どこに行くんだ」
「おっきいスーパー。君の生活用品、あんまり買ってなかったし」
「おじちゃんのものかうの?」
「そうだよ。勇大が選んであげて」
「お、おい……」
「やったー!ぼく、えらぶ!」
おぉ、おぉ、戸惑ってる戸惑ってる。
さも当然のように自分の生活用品を購入してこようという勇者の行動が、まだエードラムには分からないのでしょう。
日常生活を営むためには当然服や靴、下着なんかは必要ですし、食事をするための食器だって今は使いまわしていたりサイズが合っていなかったりするので専用のものも必要でしょう。
そうなれば、買うしかないわけです。
けれどエードラムにしてみれば、何故勇者がそれを揃えるのかと思っていることでしょう。こちらに向けられている助けを求めるような視線で分かります。
魔王にしてみれば、施しを受けているような気分なのかもしれません。
それとも、勇者にそんな厚意を受けることに戸惑っているのでしょうか。
順応しているように見えてまだ人間世界における日常生活に慣れていないのか、人間としての感情に慣れていないのか。
しかしそんな事に戸惑っていたらいつまでも人間の生活には慣れることが出来ないと思うのですが。
「ほら、早く準備して」
「わざわざ買いに行かなくても……」
「もう冬だよ。いつまでもTシャツとサンダルってわけにもいかないでしょ」
「しかしだな……」
勇大に上着を着せつつ言う勇者に、魔王は自分の服装を見返して唸ります。
確かに、エードラムがここに来てから彼はほどんど着替えというものをしておりません。
流石に同じものを洗濯もなしに着せ続けているわけにもいきませんので今着ている服こそ勇者が近所のコンビニで追加で購入してきたり大学の友人に貰い受けた物だったりしましたが、それ以外に着替えというものがあるわけではなかったのです。
なんとも不衛生。
汚いですな。
もしかしたら勇者は、そんな風にいつも同じ服装なエードラムに何も言わない間にもちょっとばかり気になっていたのかもしれません。
唐突に見えて実は、自分の大学の都合をあわせるために予定をつけていたのかも。
まったく、無口ながらに色々と考えているお方であることです。
かくして我々は、初の家族ドライブに出かける事になったのです。
家族、なんて言ってしまうのも、あぁ何とも不愉快なことで御座いますが、車に乗り込んだ勇大は実に上機嫌でございました。
チャイルドシートの上でご機嫌で足をパタパタとさせて、お隣に座るお気に入りのおじちゃん(本人は断固として認めませんが)とのお出掛けが大層嬉しいようです。
わたしはと言えば、普段勇者が大学に行くのに使っている黒く長い筒に入れられて助手席に置かれています。
お出掛けの際にはわたしはいつもこのセンサーが出て外が見えるように加工された筒の中に入れられて勇者の背中に背負われます。流石の勇者も、大学以外での外出にはわたしは手放しません。
闇の魔物が日中出てくることはそうそうないとはいえ、完全に有り得ないわけでもないからです。
ですがまぁ、今回行くのはただのスーパーです。何事もないとは思う……というよりも、無いでしょうけれども。
このスーパーというのは、勇大を連れてよく行く大型のスーパーです。
子供が遊べるプレイルームもあれば家電から服飾品から様々なものが揃う店舗ですので、勇者は時間がある時には好んで勇大をそこに連れて行くので勇大もお気に入りのスポットなのです。
魔王も最初は半信半疑のまま付いて来ておりましたが、一歩店に入ればその規模に驚愕して目をキラキラとさせているのですから、子供と同じようなものです。
闇の魔物の一端として闇の世界に住んでいた彼ですから、こういった場所は新鮮で刺激的なのかもしれませんけれども。
「まずは服だね。大きいサイズは何処だろう勇大?」
「さんかい!」
「よく出来ました」
しかし勝手知ったる二人は案内図も見ずにサクサクと歩いていってしまいます。
いきなりの巨大な外国人の出現にびっくりしている周囲の人々のことなんかはお構いなしなのですから、図太いというか何というか。
エードラムの方がかえって恐縮してしまいつつエスカレーターで三階に上がると、果たして勇大が言った通りの紳士服売り場。
しかも身体の大きな人用サイズのある売り場もしっかりありました。
「……金なんか持ってねぇぞ」
「貰うつもりなんかないよ。いいから適当に選んで。着回せるくらい」
「どのくらいの量なんだ、そりゃあ」
「洗濯しても困らないくらい」
「だからどのくらいなんだっつーの」
ぐだぐだと喋りつつも、エードラムは悩み悩み服をチョイスしていきます。
と言っても人間の生活をよく知らない彼のことですから本当に適当すぎるくらいの選び方です。
流石にあんまりすぎる柄物やキャラクターものなんかを選んではいないようですが、勇者にサイズの確認をしてもらいつつある程度の枚数をカゴの中に放り込んで行きます。
はて、そういえば魔王の服のサイズはどのくらいなのでしょうか?
勇者とはあまりにも身体のサイズが違いますし、採寸なんかは一度もしておりません。
けれど勇者は見ただけで分かっているのか、それとも予め測ってきていたのか、迷う事なくエードラムにサイズの指示をしてその中からチョイスさせています。
不思議なものです。
勇大の服を選ぶときには何度も何度も試着させつつ選んでいるというのに、エードラムには一度も試着させる様子もありません。
大人は身体のサイズがそう変わる事がない、という事なのでしょうか。それにしたって下着やボトムスのサイズまで分かっていて指示するのですから、凄いものです。
それが靴にまで到ると流石のエードラムも気付いたのか、「サイズは本当にこれでいいのか」などと今更な事を言います。
勇者は靴を選んでいた視線を軽くエードラムへ向けると、
「シューフィッターに見てもらいたいの?」
「しゅーふぃったー?なんだそりゃ」
「……この靴履いてみて。きつい?」
「……いや。丁度いい」
「なら、そのサイズでいいんだよ」
いやはや、凄いものです。
勇者はその靴を店に入って一番に手にとったというのに、まさにエードラムにぴったりなサイズであったとは。
そんなにも彼の身体のサイズというのは分かりやすいのでしょうか。
わたしがセンサーを使って解析すれば、そりゃあ簡単に採寸は出来るというものですが、魔王ごときにわたしの解析機能を使うだなんてごめんですかので今回はそんな事はしておりません。
それだというのに見て分かっている勇者には、本当に感服してしまいます。
まるで、最初から知っていたかのようです。
「服と、下着と、靴と……後は何かあるかな」
「ごはんのときの!」
「あぁそうか。お茶碗とお箸買わなくちゃ
「箸……あの木の棒か」
「いつまでも子供用のフォークってわけにもね。勇大の教育に悪い」
スーパーの中の飲食店で軽く昼食をとった後、ガサゴソと音をたてる大きな荷物は魔王に持たせて勇者と勇大はさっさと地下の食器売り場へ足を向けます。
そこで買うのは皿とエードラム用の食器ですが、勇者は箸売り場の方に足を向けて食器売り場の方には近寄りませんでした。
「好きなものを選んでいいよ」と言って勇大に魔王を任せ、自分はそちらの方には一切足を向けないのです。
はてどうしたのだろうと思ってから、わたしはふと思い到りました。
そういえば家でも、勇者はあまりガラスの食器を使うことはありません。流石に一切使わないというわけでもないので家には沢山食器はありますが、食器棚にはきっちり鍵がとりつけられ、一枚一枚の食器がかなりしっかりと固定されているのです。
食事を盛る時にも先に食器だけをカートで食卓へ移動させてそこで食材を盛りますし、食事を終えればまたカートに載せてシンクまで移動させます。
それはまるで、ガラスを持つのを恐れているようで……つまるところ、彼はガラスや陶器といった割れ物が苦手なのだろうなと思わせました。
エードラムもそれに思い至ったのか何も言わずにおおはしゃぎの勇大と共に食器を選びはじめます。
勇者の唯一の弱点かもしれないそれに突っ込まないところは、少しばかり好感が持てました。
本当に、少しばかりですが。
「バル、今何時」
『じきに十五時を過ぎるところです』
「三時か……意外と早く済んじゃいそうだな……」
『夕飯も外でお食べになりますか?』
「そのつもりだったけどね。家を出るのが早すぎたかもしれない」
『家電をご覧になっては?あるいは、家具など』
「家具か……そういえば選んだことなかったな。いつまでも客用布団ってわけにもいかないし、そうしよう」
周囲の人に違和感を持たれない程度の小声で、勇者は次の移動先を決めます。
元々あまり口を大きくあけて喋ることのない人ですので、声さえ小さければ周囲に話していることを悟られたりはしないでしょう。
そういえばわたしは、彼が大口をあけて話すも叫ぶも、見たことがありません。
戦闘中ですら無言で淡々と、呪文の詠唱だって小声でまるで歌うように行います。
そんな彼が声を荒げるなんて事はあるのだろうかと、箸を二種類ばかりチョイスして購入する勇者を眺めつつ思いました。
勇大がガラスを割ってしまっても、おねしょをしても、ちょっとした失敗をしてしまっても、彼は声を荒げる事も怒ることもありません。
感情がフラットと言ってしまえばそれまでですが、そこにまた少し不思議なものを感じました。
こんなことは今まで考えた事がなかったものです。
エードラムという比較対照が出てきた事で感じるようになったのでしょうか、それともただそういう時期なだけなのでしょうか。
なんとなくまた、もやっとしたを感じつつエードラムのための買い物に付き合い、帰宅した時には車も荷物でいっぱいで、空は完全に暗くなっておりました。
勇大は夕飯を食べた後に早速船を漕ぎ出し今ではすっかり夢の中。
荷物の運び込みをエードラムに任せた勇者は、勇大を寝かしつけに寝室へと入って行きました。
「この後か?」
『えぇ。そうだと思います』
食器を食器棚に入れ、自分用の服を入れるためのボックスの包みをあけていたエードラムは、寝室に視線を向けつつ言いました。
何がこの後あるかと言えば、ひとつしかありません。
「オレも一緒に行くべきなのか」
『さぁ……分かりません。行きたいのですか』
「……わからねぇ」
ぐしゃぐしゃと包み紙を乱暴に丸めるエードラムの表情は硬くこわばっておりました。
さもあらん、闇の魔物はほんの少し前まで彼の同胞であり、部下であった者たちです。
その魔物退治に向かう勇者を、どういう顔で見送ればいいというのでしょう。
まして、共に行くなどという事は彼にとってはどういう意味を持つのでしょうか。
当然ながら、今まではそんなことだって考えた事はありませんでした。
魔王が知り合いになることも、まして一緒に暮らす事だって想像もしていなかったのですから、それも当たり前でしょう。
エードラムは、考え悩んでいる様子こそみせておりますが、声を荒げるでも取り乱すでもありません。
何を言えばいいのか分からない、というのが正しいところでしょうが、それはわたしも同じ気持ちでした。
エードラムに何と言えばいいのか、勇者に何と問えばいいのか、分かりません。
「じゃあ、行って来る」
その沈黙の場に、勇者が戻って参りました。
彼は魔物退治のときにも特に武装をするでもなく、普段着のままです。違いと言えば、その背か腰にわたしを帯びるかどうか、というくらいでしょう。
当然今も先ほどまでと同じ普段着なのですが、今は腰にも背にも、わたしを帯びるためのベルトをつけてはいませんでした。
あまりにも普通の様子にどう問い掛けてもいいのか分からなくなったわたしとエードラムは、とりあえず勇者と共に玄関前まで移動をしました。
エードラムに抱えられて移動をするのは初めてではありませんが、やはり魔王に持って移動されるというのはもぞもぞしてしまいます。動く事なんかは出来はしませんが。
「……オレはどうする」
「どうするって?眠いなら、寝ていればいいよ。あぁ、でもお風呂には入って」
「付いていくことは?」
「いらない。今日は一人で行く」
『ひとり、とは』
「バルもお留守番」
なんと、と思わず声が出ておりました。
エードラムが居残るのは分かるのです。単に邪魔なのか、エードラムへの配慮であるのかは、表情の乏しい勇者からはうかがい知ることは出来ませんが、まぁそういうものです。
しかしまさか、勇者の武具であるわたしまで居残りであるとは思いませんでした。
確かに、勇者は魔術を行使することが出来ます。多少の魔物であればその魔術で殲滅することだって容易でがあるのです。
ですが、魔術のみで戦うのと武器を持って戦うのとでは疲労の度合いが違う、と言っていたのは他ならぬ勇者自身です。ですのに、まさか武器を持たずに行かれるとは。
「ちゃんと警戒だけはしておいて」
『お、お待ち下さいっ』
「おやすみ」
引き止めましたが、勇者はこちらに一瞥もくれることなく家を出て行ってしまいました。
後には、ぽかーんとしている我々が残されるのみです。
勇者は確かに強いお方です。
わたしを手にされる前には別の武具をもって戦っていらっしゃったのでしょうから、他の武器で戦えない事もないのでしょう。
しかしこうもあっさり置いていかれてしまいますと、本の少しばかり矜持が傷つきます。
今日の敵は弱いから、などと言われたとしたって、そんな、どんな相手が出現するかは分からないのですから慰めにもなりません。
閉ざされたドアを何も言えずに見詰めていると、エードラムは乱暴に髪を引っ掻き回してからわたしをひょいと持ち上げていつものソファに投げました。
これ以上玄関前に居ても意味がない、という事でしょう。
それはその通りなのですが、やはり釈然とはしません。
エードラムが来て、色々と変化が訪れてしまったように思います。
いい変化であるのか、それとも悪い変化であるのかはわたしにはわかりません。
ただ分かるのは、確実にそれは今までとは違う生活に変化してしまうという事で、中々に受け入れ難いものがありました。
わたしは子供とは違います。製造された頃から数えれば、この世界にある何よりも古いかもしれない物質です。
それが故にわたしの考え方が硬いのか、と思わないでもありませんが、やはり魔王によってもたらされる変化というものを受け入れたいとは、思えませんでした。
しかし、と、考えを一度切り替えます。
勇者は変わりました。
確かにほんの少し、雰囲気が変わったのです。
しかし、では、わたしは彼が「凄く変わった」と言えるくらいに彼のことをよく知っていたのでしょうか。
勿論彼とはそれなりに長く暮らしておりますので、一通りの事は理解しております。しかし、かといって全てを理解していると言えるのでしょうか。
そんな事を考えてしまう程度には、わたしは色々なものに自信がなくなってしまいました。
わたしは勇者の剣です。
他の代わりの無い、世界にも、全ての時代にも、ただ一本の剣なのです。
……なのです、けれど。
ふぅ、と肺があれば恐らくは大きく吐き出されていただろう音を出しながら、わたしはソファの上に転がってセンサーを家中に張り巡らせました。
つい先ほどまで自分用にあてがわれた部屋でゴトゴトと荷物整理をしていたエードラムも、言われた通りに風呂に入って寝る準備に入ったようです。
普段であれば、わたしも夜に家の明かりが消えたならばセンサーだけを起動させて休眠状態に入りますが、この日はなんとなく休眠状態に入る気がせずにぼんやりと真っ暗な空間を眺めておりました。
わたしは人間では御座いませんので、疲れなんてものは御座いません。ですから、一晩中起きていたって問題はないのです。
かといって起きている理由もないのですが、なんとなく休眠状態に入る気になれなかったのです。
結局その日、勇者は朝までお戻りになられませんでした。
仕方なくエードラムがパンと卵とソーセージを焼き倒すだけの簡単な朝食を勇大にとらせ、保育園まで送っていきました。
勇者に料理を習っても一向に上がらぬ料理の腕ですが、何も食べさせないよりはよっぽどマシでしょう。
そうして登園準備をしている間も、エードラムは特に何を言うでもなく、勇大のお話に付き合うだけでわたしには何も言うことはありませんでした。
空気が張っているというか、ピリピリしているというか、です。
まぁ、わたしが勝手にそう思っているだけなのかもしれないのですけれど。
勇者が帰宅をしたのは、そのエードラムが勇大を保育園へ送りに行って少しした頃でありました。
少しばかり足元がおぼつかない勇者は、ボロボロとまでは言いませんが薄汚れた格好をしていて、所々破れた服には血の跡も見てとれました。
しかし何を言うでもなく、わたしが置かれているソファにヨロヨロとやってくると勢いよく寝転がり、そのまま寝入ってしまいました。
わたしは勇者があまりに勢いよく寝転がったせいで弾かれて床に落ちましたが、それを意に介してくださる様子もありません。
それほどまでに、お疲れなのでしょうか。
センサーを動かして、ソファで寝ている勇者を見ます。
そこまで疲れてしまうのであれば一緒に連れて行ってくださればよいのに、と思わないでもありません。
ですがわたしは良くも悪くも勇者の剣。彼の決定に抗う事などはできないのです。
そう言い聞かせるしか、出来ないのです。
「んだ、そんなトコで寝てんのか」
寝息ひとつとたてない勇者の睡眠をそのまま見守っていると、少しして勇大を保育園に送り届けたエードラムが帰宅してまいりました。
勇者が眠っていると気付くとドカドカと乱雑だった足音を潜め、いっそ滑稽なくらいにコソコソと足音を忍ばせ始めます。
魔王にも気遣いというものがあるとは何とも不自然な限りですが、気の細かいこの男に限っては逆に魔王という肩書きの方が似合わないのではと思ってしまいます。
「コイツのこんなツラ、初めて見るな」
毛布を持ってきて勇者に掛けてやり、暖房をいれるエードラムの表情はどこか苦々しさを含ませております。
こんなツラ、と言われてもわたしの位置からでは勇者の顔を見ることは出来ないのですが、エードラムがそう言うという事は相当に疲れた顔をしているのではあるまいかと、わたしは思いました。
魔術というものは精神力を使うものです。
身の内に留まっている魔力を編み上げ魔術へと変換し、それを打ち出すものを魔術といいます。
元々は太古の人々が勇者たちに教えたものであり、普通の人間には使うことも出来なければそもそも身の内に魔力を宿す事だって出来るものではありません。
大体にして魔力を編み上げている段階で精神力を使い果たして発狂するか、身の丈に合わぬ太古の術に逆に食われるかのどちらかでしょう。
太古の人々は、勇敢なる人々以外には力を貸そうとはしませんでした。それが故に、勇者と呼ばれる人々以外が使おうとすれば魔術そのものに宿る太古の人々の意思によってその身体を崩壊させてしまうのです。
はっきり申し上げまして、わたしはそのような前例を見たことはないのですが、太古の人々がそう言うのだからそういうものなのだろうなと、そう思ってまいりました。
実際、勇者は魔術を乱発した後には頭痛がすると訴えておりましたし、今もとても疲労しておられます。
魔術というものは、それだけ身体に負担をかけるものなのです。
『今日はお前が家事の一切をおやりなさい』
「命令かよ」
『お疲れの勇者にやらせるつもりですか?』
「洗濯モンが破れっちまってもしらねぇぞ」
言いながらも、エードラムは特に文句を言うでもなく洗濯を開始いたしました。
家事というものの価値を見出せないと常々ぼやいている魔王ですが、ずっと家に居るだけでは退屈だと言ってもいたので、のんびり家事をするのは丁度いい暇つぶしなのかもしれません。
それであれば、勇者が疲れている時くらいは文句を言わずにたっぷりと動いてもらわなければ困るというものです。
しかし、そんな目論見はあっさりと覆されてしまいました。
エードラムは実に気の細かい男でありましたが、何とも不器用な男でもあったのです。
と言っても、力の加減をミスって皿を割ったりだとか服を破いたりだとかいう程度でしたが、やはりまだ人間の身体に慣れなかったのでしょう、同じミスを数回繰り返しやがりました。
おっと失礼、同じミスを数回繰り返してしまったのです。
元々彼は魔王で人間よりもずっと強い膂力を持つ男です。腕だって勇者の腰周りくらいはありそうな勢いですし、保育園の子供たちを両腕にぶら下げても平然としているのですから、相当力がある方でしょう。
が、そのコントロールくらいつけてもらわないと困ります。
「マッシュポテトしたり濾したりするのには便利だけどね」
『ポジティブですな……』
ふかしたジャガイモをマッシュしているエードラムの後姿をソファに寝転がってニヤニヤ眺めつつ、勇者は言います。
えぇ実に潰したり叩いたりには適した腕であるとは言えますでしょう。
しかし今日までですでに皿を四枚割り、せっかく買ってきた服も二枚はダメにしているのです。ポジティブに受け取るといっても限界があるでしょう。
夕方になっても疲労がとれないのかソファに横になっている勇者はその辺はすでに諦めているのか、注意をするでも助言をするでもなくエードラムを見詰めています。
彼は今までも、エードラムがする事に対して何か言葉を発した事はありませんでした。
最初にエードラムに一連の事を教え、それ以外は聞かれれば答えるのみで自分から何かを言うことはなく、彼のやりたいようにやらせてきました。
エードラムの方でも大きな失敗をしたことはありませんでしたし、いちいち指示を飛ばされるのを嫌う気質の彼には正しい対処の仕方であったのかもしれません。
「……眠くなってきた」
「寝るなら部屋いけ部屋」
「……ごはんがたべたい」
「ガキが帰ってからだ」
「……けち」
ずずっとソファの背を滑りながら、勇者の赤い眼は徐々に眠りの世界に落ちていこうとしているかのように細められていきます。
これではいつ眠ってもおかしくなく、しかしここでまた眠ればそろそろお迎え時間の勇大に見つかってしまうでしょう。
勇大の躾には厳しい勇者のこと、こんな所で眠るのはよしとしないかもしれません。
それにしても、と、勇者に視線を向けます。
「はこんで」
「自分で歩け」
「無理」
「残念ながら先客の相手中だ」
「ぼく実はジャガイモ嫌いなんだよね」
「じゃあ何でジャガイモ料理にしろなんつったテメェ!」
ぶん、とマッシャーを振り上げつつ怒るエードラムに、勇者がうっすらと口角を上げて笑います。
その表情といったら、ありません。
何とも表現し難い、振り向いてくれた事を喜んでいるような、うっとりとしているような、眠気に負けそうになっているような、嘲っているような、そんな表情であったのです。
何なのでしょうか、この表情は。
驚いて勇者を見ていましたが、しかし勇者の表情はすぐにいつものような無表情に戻ってしまいました。
そのまま、足を投げ出したまま目を閉じて横になり、眠りの体勢に入ってしまいます。こうなるともう、エードラムの大声に脅かされようが何だろうが、勇者は起きません。
「あーあ、いいのかなー勇大かえってきちゃうよぅ……」
「だから、部屋行けつってんだろうが」
「…………」
「こら、寝るんじゃねぇ!」
エードラムはまだぎゃあぎゃあ言っておりましたが、ふと喋るのをやめた勇者は完全に夢の世界へ旅立ってしまわれたようです。
つまりはそれだけ疲れていたという事なのでしょうけれど、こんなにもあっさりと眠りに落ちる勇者というのも珍しいものです。
「くっそ……寝やがった」
『早く寝室へ』
「わぁってるよ」
エードラムの膂力であれば勇者一人を抱えるなど造作もない事のはずなのですが、エードラムは物凄く嫌そうに顔を歪めながら手を洗い、暫し悩むように眠る勇者を見下ろしておりました。
はて、何を悩んでいるというのでしょうか。
とっとと抱えて寝室に運んでいただかないと、勇大のお迎えが遅れてしまいます。
『何を悩んでおられるので?』
「……どう抱えたもんかと」
『普通に抱えればよろしいではないですか』
「ガキじゃねぇんだぞ。正面から抱くってわけにもいかねぇし、負ぶるのも変だろ」
『では……』
言いかけて、気付きました。
確かに、眠りに落ちている成人男性を抱えるのに最も適しているのはどんな抱き方なのでしょうか。
子供であればいくらでもパターンはありますが、曲がりなりにも勇者は成人している男性で、重さだって魔王よりかはずっと軽いとはいえ子供と比べたらどちらが重いのかは明らかです。
今の勇者の寝方からして一番いいのは膝裏と背を腕で支えて横向きに抱える抱き方なわけですが、成人男性に対してその抱き方はどうなんだ、という気持ちはないわけでもありません。
何しろその抱き方は乙女の夢……いわゆる姫だっこと呼ばれる抱き方でありますので……
「……肩に抱えたら起きるよな」
『……頭に血が上るでしょうね』
「脇に抱えたら……」
『足を床にずってしまいますね……』
「だよな……」
『えぇ……』
かと言って、選択肢が他にあるわけでもありません。
我々は暫しの沈黙の後に、何故かお互いに視線を向け合い見詰めあっておりました。
そしてたっぷり五分間悩んだ後、エードラムは意を決して勇者を横抱きに抱え上げました。
何故か見ているこっちが物凄く恥ずかしかったのですが、しかしまたこれが曲者で御座いまして、乙女が夢見る姫抱っこというものが実はとんでもなく大変なものであるという事をわたしとエードラムは知ってしまいました。
完全に眠りに落ち力が抜け切っている勇者の身体はぐにゃぐにゃで、エードラムが肩で頭を支えようにも筋肉の隆起に負けてがくりと横だの後ろだのに首が逃げてしまうのです。
さらに、膝裏と背から脇に腕を回して支えているにも関わらず、しっかりとその手で掴むように支えてやらないと勇者の身体が徐々にずり落ちていくのです。
なるほど、この抱き方は意識のある相手の協力があってこそ美しく見える抱き方なのだなと、わたしとエードラムはどちらが先かは分かりませんが思いました。
最終的にエードラムが力に任せて勇者を抱え込み、己の首元に頭を押し付けるようにして抱え上げてやっと、勇者はエードラムの腕の中で安定したようでした。
しかし夕食の時間になって起きてきた勇者が脇と足に痛みを訴え、見てみるとまるでギリギリと力を入れてつねられたかのような赤い痕が残っていたものですから、エードラムは必死に努力をしたというのにこっぴどく勇者から怒られる破目になってしまいました。
その赤い痕だって勇者の身体を安定させるためにしっかりと抱き込んだからであるというのに、何とも哀れなことです。
しかしエードラムにはお説教よりも、その後にあった勇者による姫抱っこ講習のほうがよっぽど辛かったらしく、物凄く真顔で姫抱っこされつつレクチャーをする勇者であったり、大喜びで横抱きに抱かれる勇大であったりを抱き上げるエードラムの目は完全に光を失っておりました。
このときわたしは初めて、もう少しこの元魔王に優しくしてやってもいいかもしれないなと、自分に身体が無い事を喜んだので御座いました。
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