空蝉

ひさかはる

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 その日は唐突に訪れた。

 午前四時のインターフォンに鳴らされた鼓膜は睡気を消し、欲望を漲らせた。掛布団を剥ぎ、玄関までと急く足を摺らせ、音を忍ばせながら廊下を渡った。電気を点けず、薄い朝のなかドアスコープを覗くと、対面すれば消えてしまうであろう男の心の細さが見えた。もう少し観察していたい気持ちと早く逢いたい想いに挟まれて、鍵を捻る手に音を殺させ、柔らかにドアを開けさせた。わずかでも繊細な表情が残っていることを期待したが対面するとやはり男は心を消した顔で立っていた。

 「連絡先。教えていたでしょう」

 家に入らずその場で立ち尽くしたまま鳴らす声は冷ややかではあったが、淋しみのような自分ではない誰かを求められている者が持つ嫉妬のような色調があった。

 何を返せば良いか考えあぐね、目だけで幾許かの心を示したが、男は一向に家へ入ろうとはしない。

 「ごめんなさい」

 あなたは下げた目を上げて、朝に響かせない薄い声を出した。

 取って付けた態度では納得しないといった顔を湛える男に不安を覚え、あなたのまなじりは苦しみに歪み、色に染まった。

 朝の散歩と思われるゆったりした靴音が遠くで鳴った。音は近付いている。近所の者であれば夫を亡くして間もない女のところへ早朝に訪れる男の姿に催すであろう嫌悪を想い、まだ本調子とはいかない淡い夏のなかでも掻かされるじとっとした汗がドアノブを握る手に宿り、背は薄いTシャツを隙なく貼り付けた。

 次は連絡しますから、と言葉が浮かび口から零す前に言い換えを試みた。

 「これからは、連絡しますから」

 男の目奥がわずかに弛み、緩慢な仕草でドアノブに手をのばし、大きく開いて玄関のなかへ入った。ドアを閉める頃には散歩の足音が大分近くなっており、ほっと撫で下ろす胸と、ドアの向こうに透かせるあなたの目を見つめる男の顔があった。

 この近辺に住んでいる訳ではなく、誰に見られたところで不都合のない男は遠くで鳴る靴音を早々と耳で捉え、ひとり十全とした余裕を持ち、女を甚振る意図が初めからあったのではないかと掻き乱される熱が身体を這いまわった。

 男は女から目を離して靴を脱ぎ、框を越えて廊下を行き、夫の部屋のドアを開いた。

 最初にもたげていた顔は夫に向けた嫉妬であったのは間違いではなかったか、と仏壇の前で抱かれる背徳以上の歓びがあなたの胸のうちで沸々と音を立てた。

 が、男はドアを派手に開いてもなかには入らず寝室に向けて足を送らせた。

 寝室のドアを大きく開き閉じてはならないと暗に示し、ベッドの脇で服を脱ぎ始めた。

 開かれてゆく男の背と腰回りに目を奪われ湿るものがあった。深くなる夏に籠められる熱から男を想わせられることを懸念し、冷房はタイマーではなく朝まで稼働させていたが、冷気に乾かされ得るようなものではない。

 露わになった男の裸体が早く脱げと女に言う。言われるがままあなたは開いていった。色香のないTシャツとハーフパンツは覗かれていることを意識していないと男に思わせる企みではあったが、いざこの時機に再会を果たしてしまえば女をさぼり始めた兆しにしか映らないことを素直に悔いた。

 下着姿になっても奪える男からの視線はなく、見られても差し支えのないブラを念のため装着していた胸を余すところなく自由にし、ショーツはするすると脚を脱いでいった。

 片脚を抜き、一度上体をあげて女の叢が露わになったところで男の目とぶつかった。

 もう片方の脚を男は脱がせ、ショーツの真ん中を見つめた。

 あなたは思わず手をのばしたが、意に介さない男の視線に、腿が締まる快楽に委ねて、のばした手を引き下げ、大人しく立ち尽くした。痒さを増してゆく内腿と潤んでゆく視界に、女の陰の前で組んだふたつの手を、自涜へ向かわせない自制は容易なものではなかった。

 男はショーツを目一杯開きあなたの頭のうえに掲げた。

 すんなりと受け入れられる許容のない身体が男の企みに自然と後ろへ下がった。

 男は睨むでも言葉で強要するでもなくそのままの姿勢で女の双眸を静かに見つめた。

 下腹部の熱が足先までおりて身体を前へと運んだ。

 幼き日にティアラを頭に載せた歓びが穢れ、歳を重ねた現在が大きく裏切る過去が涙を零しても、今の悦びに抗えるものはなく、昂ぶる材へと変えられて、すべての純潔は汚される未来の為に用意されていたとしか想えない淫蕩に脳が淫された。

 柔らかに頭に被せられてゆく感触に優しみめいたものさえ感じた。

 被せ終えた男の手は打って変わり、頭から顔のほうへと引き下げショーツの真ん中が鼻の先を湿らせた。

 柔軟剤とボディソープに負かされるようなものではない牝の匂いが鼻孔を領し、脚を通す穴から開く目を見つめる男に演出された恥は、偽りのない熱であなたを犯していった。

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