空蝉

ひさかはる

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 翌日、電気屋は来なかった。

 男が訪れないことで昨夜の作為が露骨に迫り、自身への誤魔化しは一方的に監視される現状に脱がされて、あなたが纏えるものは何もなかった。

 見え透いた誘いには乗らない、と冷たくあしらわれた心地に掻き乱される下腹部があった。想いを充たされるよりも思いのままにならない男に向く熱はマゾヒスティックな性質だけでなく、刺激を受けた自尊心によるものでもあった。まともに相手にされず終わってしまうことを被虐者は求めていない。

 取るに足らない者とされた自身が最後には報われることを欲し、そこに至るまでの道中の紆余曲折を愉しんでいるに過ぎない。苦しみと歓びの大きな隔たりがそのまま快楽に転じる味を覚えてしまうと、なじられて傷ついた自身の矜持も同時に回復される快さまでもが付与される贅にも気付いてしまい、手放すことが容易ではなくなる。言葉では何と言おうがその身体を欲していないのであれば繋がりはしない。程度が低いと見做しながらもその女を甚振る欲望を寝かせてはおけない男が堕ちていく様は、本来自分程度の女であれば一瞥さえも得られなかったほどの価値がある男の堕落であるかのような錯覚を生み出し、その男に自身の女を認識させ、その男の価値を吸い取り女の価値が増してゆく幻想が際限なく悦びを膨らませる。吸い取り切れないほどの価値が加虐者にあると思わせられなければ被虐者は飽いてしまい、主人と奴隷は成り立たなくなってくる。

 こういった悦楽を脳が覚えてしまったのならば心も身体も従うほか道はない。

 この世界の創造主がいるかどうか定かでないが、絶対的な存在を想う事で自分で自分を生きてゆかなくても良い安楽が心に棲みつく。人間は自分の責を負うことを良しとしない。誰かの責を代わりに請け負う歓びには善の甘みがあり、正義感とはつまり自分事ではないと周囲に思わせられる悦楽であり、その利他的であろうとする姿勢で自分自身をも騙す試みは、その実自身の責を棄てられる悦びにほかならない。

 利他の本懐である神の価値が低ければ吸い取り切ってしまう。

 際限のない悦びは自身の神の偉大さによってしか得られない。

 神の違いによる戦いとはつまり人間の欲望であり、土地にせよ金銭にせよ神にせよ何かを求める限り、人間の醜態はこれからも続いていく。

 神の言いなりでいることに、自身の欲で生きている訳ではないと誤魔化しが利くことに、棄てた責任の安楽に胡坐を掻く自身に目をつむり続けられることに、苦しみから自身を救う為に這いあがろうとしない怠慢をその場で堪え続ける美徳にすり替える事に…。

 そういった事柄からもうすでに十全とした極楽を得ているにも拘わらず、死後にも天国という褒美を齎されることを期待する欲望は果てしなく、現世だけでなく、あの世に至っても他人である神から与えられる悦びを望む人間は死んでもなお自分をやれはしない。

 神を愛する人間は宗教など信仰しない。

 神が与えたもうたこの世界で意識を持つ個体として生きられることを極楽とし、自分を体験する時間を命と呼び生きてゆく。

 マゾヒズムとは誰かに従わされる立場を求める者ではなく、自身を悦ばせる質感を表す言葉でしかない。自身をやれぬ者にマゾヒストの資格はない。

 安心を求めるのは不安との付き合い方であり、成功を望むのは失敗との関係性でしかない。安心と成功はそこに至るまでの不安と失敗を求めている。誰かからの御目溢しで得られる利益を欲するものは安心と成功を求めてはいない。自己を他人に委ね、尚且つ他人に自己を悦ばせる結果をも強要しているだけ。

 あなたは次に訪れる悦楽を求め、男の沈黙を悦びの材とする自己に忠実でいられる時間を愛した。
 
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