ぼくの受難の日々

安野穏

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北への旅立ちのために

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 朝食を食べた後で、ぼくが「北へ行くことにする」と言ったら、ノブユキさんはぼくの頭をポンポンと叩いて、お城へ出勤した。

「いつ行くの?」

「うん、できれば、今日か明日には出かけようと思ってる」

「そう、寂しくなるわね」

「ごめんね、お母さん」

「子供なんて、あっと言う間に大きくなっちゃってつまんないわ。まあ、いつまでも、親にくっついていられるのも困ったものだし」

 ルイさんはわざとさばけた口調で言った。それから、「じゃ」って、呟くと玄関の方へ、スタスタと歩いて行く。ドアから一度外へ出てから、急にチョコンと首だけを出した。

「レンに会ったら、思いっきり、ホッペタを二、三発殴っておいてね。あたしからの気持ちだって。『バーカ!』って、言うのも忘れないでね」

 言いたいことを言ったというスッキリした顔になって、ルイさんの顔はスッと消えた。ぼくは苦笑いしながら、見送った。

 鏡の前に座ると、ハサミでバサッと髪を切った。ジョキジョキと肩ぐらいまでに乱雑に切る。床にぼくの黒髪が散らばった。

「お嬢様、どうなさったんですか?」

 ぼくは後ろを振り向いた。昨日の今日なので、心配したルーイのおじいちゃんが侍女を早目に寄越したのだろう。今日来たのは、ぼくより四つ年上のサラサだった。ルーイ家の侍女の中では、まだ年若い彼女とはなんとなく馬が合う。

「見えない目でハサミなど危ないですわ」

 サラサがぼくからハサミを取り上げた。

「ああ、こんなにたくさん切られて、美しい黒髪でしたのに」

「いいんだ、ねえ、ぼくの髪、もっと短くしてくれる?そう、男の子みたいな髪にして欲しいんだ」

「どうなさったんですか?」

 ぼくは黙って首を振った。ぼくがどうしてもと頼むので、諦めたのか、ため息を吐きながら、サラサはぼくの髪を切って整えてくれた。ぼくを中心にして、床に散らばったぼくの黒髪は、黒い絨毯を敷いたようにも見えた。

「この髪、捨てるにはもったいないですわ。お嬢様の髪は私たちの間でも憧れでしたのに。長くて、くせのない真っ直ぐな髪は女の憧れなんですよ」

「あげる。この髪でよかったら、あげるよ」

「そんな、滅相もございません。お嬢様の髪をいただくなんて」

「いいよ、髪なんてまた伸びるもの」

「ではルーイ様にお伺いを立ててみます。でも、たぶん、ルーイ様がお許しにならないと思いますわ」

 サラサは床にあるぼくの髪を拾って、大切そうに箱に詰めた。サラサの前では、目が見える事を隠さなくちゃならないぼくは、少しイライラしている。

「じゃ、それ持って行って。今日はいいよ。ちょっと、ぼく、一人になりたいんだ」

「お嬢様、何か………はい、わかりました。ええ、私にも覚えがあります。そうですね。でなければ、あれ程の美しい髪を自分からお切りなるなんて………」

 ぼくが背を向けたので、サラサは勝手に何か勘違いしたらしい。

「お嬢様、男の方はたくさんいるんです。失恋の一つや二つで挫けてはいけませんよ!」

 ぼくを励ますつもりなのか、サラサは大きな声でぼくに言った。そうか、髪を切るとそう見られるのか。ぼくはとんだ勘違いに身体を震わせた。笑いをこらえるというのはこれで結構辛い。サラサはぼくの態度に、泣いているとでも思ったのか、髪を詰めた箱を持って、ソッと出ていった。

 ぼくはベッドにバタンと倒れ込んで、口を枕に押しつけ、クククと笑った。忍び笑いでがまんするのも辛かった。

 しばらく、笑った後で、ディパックに男の子らしい服を選んで詰込んだ。北に行くために、ぼくは商人の隊商に雇って貰うつもりでいる。修業の旅に出たばかりの子供なら、使い走りとかに結構雇ってくれると冒険ガイドブックに書いてあった。ただ、それは男の子に限る。女の子では北へ行く隊商といえば男ばかり、どういう目にあうかわからない。

 ぼくはノブユキさんとルイさん宛に手紙を書いた。書き置きは、ぼくなりの一応の礼儀。

 ぼくはサラサに買物を頼んだ。サラサは何の疑いもなく、市場に出かけた。ぼくの胸は罪の意識でチクンと痛んだ。




 エイーガの三の街には、大商人たちのギルドがある。西の果てへ行く隊商は、たいていここで装備を整える。エリシュオーネ山脈の山越えは、思ったよりも大変らしい。モンスターや魔物だけでなく、山賊や追い剥ぎなども潜んでいる。北エリシュオーネからの流入者も住み着いていて、盗賊まがいのこともしている。それで、たくさんの警護を雇って隊商で行くのだ。

 ぼくはギルドのドアをくぐった。中は広いワンフロアで、簡易パネルで仕切られていた。待合室にはたくさんの商人たちがいて、商売の話や世間話に夢中になっている。商人ほどでないにしろ、傭兵や冒険者らしい男たちもいた。たぶん、隊商の用心棒だろう。

 天井から下げられた幾つかの札に、各種の受付が書かれてあった。ぼくは右端の斡旋所に向かった。

「ぼうや、どういった仕事に就きたいの?」

 受付にはきれいなお姉さんが座っていた。ぼくを見て、用件はわかっているという顔をしている。テキパキと幾つかの書類を引っ張りだして、ぼくの前に並べた。

「修業の旅のお薦めは、このエチゼンヤさんがいいわよ。マース国の御用商人だし、親切丁寧に商人のイロハを教えてくれるわ」

「あ、あのう」

「ああ、そうね、大きな所が気に入らないなら、このメグミヤさんもお薦めよ。ここの社長さんはね、人情に厚くて、使用人といえど我が子のように接してくれるの。アットホーム的なところよ」

「あのう、ぼくは商家に勤めたいんじゃなくて、北へ行く隊商に入りたいんです」

 お姉さんは書類を持ったまま、ぼくの顔を本気なのかと言わんばかりにまじまじと見つめた。それから、思いっきり首をぶんぶんとものすごい勢いで振って、恐い顔でぼくをにらんだ。

「ぼうや、悪いことは言わないわ。それは無謀ってものよ」

 お姉さんは必死になって、ぼくの説得を始めた。ぼくが頑として聞き入れないことを知ると、「ちょっと、待ってね」と言って、奥へと引き込んだ。

 奥から、人のよさそうな商人風のおじさんを連れてくると、ぼくをチロッて見た。

「エチゴヤさん、この子がどうしてもと言うんです。隊商がどんなに危険か教えてやっていただけませんか?」

 エチゴヤさんと呼ばれたおじさんは、カウンター越しにぼくの顔を無遠慮にながめ回した。ぼくは背筋を伸ばして、胸をそらした。そんな視線に負けていたら、舐められると思ったからだ。

「何ができる?」

「料理と魔法が少し」

「ほう、それだけできればたいしたもんだ。魔術士見習いか?」

 ぼくは大きく頷いた。

「エチゴヤさん」

 お姉さんが目を三角につり上げた。薮蛇だったと言いたげだ。ぼくは肩を竦めた。

「よし、試験をしてやる。料理の腕がよかったら、考えてやろう。ちょうど、料理番が下働きを欲しがっていた。魔法の腕はあまり期待できそうもないからな」

 エチゴヤさんはぼくの頭をポンと叩くと、ワハハハハと大声で笑った。子供扱いがちょっと気に入らない。

「この子は真剣だよ。キャサリン、この子に私の住所を教えてやってくれ。それから、これを店の者に渡すようにな」

 エチゴヤさんはサラサラと紙に何か書き込んで、お姉さんに渡すと、また奥に戻って行った。お姉さんはヤレヤレという具合に見送った後で、ぼくの方を振り向いた。

「後悔しても遅いのよ」

「平気だよ」

「そう、じゃ、ここがエチゴヤさんのお店よ。魔術士見習いだからって、何も危険な旅を選ぶことないのに」

 お姉さんは、心底ぼくを心配しているらしく、いろいろとアドバイスもしてくれた。ぼくは丁寧にお礼を言って、受付から離れた。



 エチゴヤさんの店はというか、家は三の街の西区にあった。ぼくが通った学校のそばで、エイーガの大商人が店を店舗兼住宅にして住んでいる割と有名な場所だ。(本来、三の街は居住区ではない。)

 店というのはほんの格好だけで、大きな住宅だった。おじいちゃんちにも匹敵するくらいの大邸宅で、商人というものはお金もうけの仕事だと納得した。呼び鈴を押すと、エチゴヤさんの執事が出てきて、ぼくを巨大な台所に案内した。

「だんな様から、連絡がありました。ここで、今日の夕食を作っていただきます。材料はこの保存食から選んで下さいとのことでした。今日は初めてのことでしょうから、制限時間は二時間です」

 ぼくは積み上げられた保存食を見て、量の多さに唖然となる。

「何人分作ればいいの?」

「そうですね、隊商の方々をお呼びしておりますから、三十名ほどでしょうか」

「さ、三十名!それをぼく一人で?」

「はい、旅に出たつもりで作っていただきたいとも仰っておられました」

 ガクンとぼくは肩を落とした。いきなり、この仕打ち。考えが甘かった。ともかく、時間がない。ぼくは巨大な台所を所狭しと駆けずり回った。旅に出るなら、手軽に食べれるもので、栄養のあるものがいい、それから一番はおいしいものだ。旅に出て、不味いものを食べさせられるほど、悲しいことはない。

 ぼくは大鍋に保存野菜のゴッタ煮を作った。大きめに切った野菜をたっぷりと炒ったベーコンと一緒にスープで煮込んだ簡単なもの。その合間に砂糖と小麦粉をふるって、バターとミルクで練る。パンを作る暇がないから、代わりにパンケーキをたくさん焼いた。

「時間です」

 執事のおじさんは、ぼくがバタバタと走り回っている間、台所の隅っこで時計を持ってジッと待っていた。ぼくはよれよれになってペタンと床に座ると、吹きだしっぱなしだった汗をやっと、拭った。一人で、三十人は絶対に大変だよ。普段から大勢の食事を作っている人なら、簡単かもしれないけれど、ぼくんちは三人家族で、たまにレンダークさんやタクミくん、タクトくんなどが加わっても、十人を越えた食事を作ったことはなかったからだ。

「フゥ、疲れたぁ!」

 ぼくは独り言を言った。

「うん、うん、なかなかいい腕をしているみたいだ。匂はいい」

 いつのまにか、エチゴヤさんが後ろに立っていた。ぼくはあわてて、立ち上がった。見ると、もう一人いた。髪をアップにまとめた女の人で、ぼくの方をチラッと一瞥してお鍋の蓋を取った。

「味の方はどうかな?」

「まあ、こんなものなら、合格ですね。これなら、誰も文句を言わないでしょう」

「よし、きみの名前は?」

「モじゃない、エリシュ、そう、エリッシュだよ」

「自分の名前もまともに言えないのか?」

 女の人が威圧的にぼくをにらんだ。エチゴヤさんがカラカラと高笑いする。

「まあ、いい、本名を言いたくないなら、それでもいい。修業の旅に出る先の意見違いで、親に内諸で家出でもしてきたのだろう。違うかな?」

 エチゴヤさんはぼくの顔を覗いた。ぼくはウックと声を洩らした。それ見たことかとエチゴヤさんは身体を揺すって大笑いした。負けた。すごく敗北感を感じる。エチゴヤさんは何もかもお見通しといった感じで生温かい目をぼくに向けている。

「エリッシュだったな。家は詮索せんよ。そのうち、本名が言いたくなったら、言えばいい。さて、今日から、うちで働いてもらおう。こっちが隊商の料理長を務めるセレインだ。彼女は凄腕の剣士でもある。女だからと甘く見て、変なちょっかいは出さん方がいい。これは私の忠告だ」

 ぼくがしげしげとセレインさんを見ていたので、エチゴヤさんは冗談半分、冷やかし半分でそう言った。ぼくは顔を赤らめた。セレインさんがフンと鼻を鳴らして、ぼくを見下すと、さっさと台所を出ていった。

 実のところ、女の人が隊商にいるということにぼくは驚いた。まして、剣士ということは用心棒も兼ねているわけで、格好いいなあという羨望も含めて見つめていたのだ。ぼくはまだ半人前以下の魔術士で、というか、自分の神霊魔法がどこまで使えるかまだ確かめていないだけなのだが、ともかく、セイレンさんは美人だし、ぼくは内心憧れた。ルイさんとまた違った美人さんの登場にぼくの心は少しうきうきとしていた。女の子だって凛々しくてきれいな女の人には見惚れてしまう。

 セイレンさんは今エイーガで流行の女性だけの歌劇団の男装の麗人みたいで、本当にああいう人がいるのだと思うと旅の間に親しくなりたいなあと密かに思う。
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