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六章 『追憶の先に見えるもの』
253話『スイッチ』
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そこには穴があった。
あたり一面雪景色。
白くまだらな粉雪が降り積もる中、それはしんと一つ静かに佇んでいた。
地面に空いた穴ではない。
エミリたちの目の前に──空間に開けられた穴だ。
その穴は黒く、向こう側に何があるのかすら判別つかない。見えるのは闇ばかりで、虚無ばかりを連想させる。初見、息を呑んだるんちゃんは足を止めていた。
──それからかれこれ数分。
それの前に立ち、るんちゃんは呆然とそれを凝視していた。
エミリも驚いた様子でそれを眺めていた。
「これ……は?」るんちゃんは尋ねた。
「知らないな。ただ、この向こうは──」
そう言いながら、名無しはその穴へと手を伸ばし──
「──は」
るんちゃんが感嘆の声を上げた。
名無しは、まるで吸い込まれるような形で穴の向こうへと消えてしまう。
それを見届けたるんちゃんは振り返り、エミリを見た。
「エミリちゃん」
彼女を呼んだるんちゃんの瞳には生物としての本能が宿り、片時もエミリから目を離せない。
まるで蛇に睨まれた蛙のように欠片も動きはしない。
「大丈夫。……懐かしいなあ」
「え?」
「行こうるんちゃん」
そう言って呆気にとられた様子のるんちゃんを置いて一人先へ進もうとするエミリの肩を掴むるんちゃんだが、振り返り白と黒の瞳でるんちゃんを見据えたエミリは「大丈夫」ともう一度、それだけを告げて、その虚空の中に吸い込まれていった。
その場に取り残されたるんちゃんは吸い込まれるようにその向こうへ手を伸ばし──
※※※
昏い、暗澹とした意識の中を漂っていた。
それはまるで頼りなく、持っている心地さえしない、不思議な夢のような心地だった。
きっとおそらく、簡単に忘れてしまえるような。
そんな中ふと水泡が揺れ動く音に意識が向いて、それを見るべく慣れない動きで瞼が開いた。
薄っすらと開いた黄金色の瞳が見たものは──
「おお! 遂に、初号機が完成したッ!」
彼女が初めてその目に収めた世界には、一人の男しかいなかった。
薄汚れた白衣を着込んだ男が、信じられないものでも見るかのような目で、彼女を見た。
その男は歓喜の声を上げ、馬鹿のように笑っていた。
それを、何も分かってはいなかった彼女は、無表情で、停滞した無為の意識の中でその声をただ淡々と聞いていた。男はそんな事は知らずに、ただただ歓喜に打ち震え、高らかな笑いを叫んでいた。
それから数日後、彼女はそれの中から排出された。
筒のような形のそれから吐き出された彼女は、排出される前にある程度乾かされたが未だ湿った体で床に倒れ伏す。
「あー、ぅー……?」
彼女が悶えていると、白衣を着込んだ男が彼女を抱え起こした。
「やあ、こんにちは。私の言葉は分かるかな?」
彼女は突如として頭の中を駆け巡った雷のような衝撃に瞳孔を大きく開く。
途端に彼女の全身へ目から拡がっていった淡い青い光の筋が足のつま先まで走っていき、数秒後に瞬きを一度した。
「はい。理解します」
淡々とした口調で彼女がそう言った直後、彼は喜色満面の笑みを浮かべて高揚した声で言う。それはまるで、光に群がる蝿のようであった。
「ああ、良かった! では早速性能テストと行こう! なあに、心配することは無い! 君なら簡単なテストだ! ……これでようやく、連合軍に勝てるぞ……!」
そう言われ、彼女は白衣の男に抱きかかえられながらその場を離れた。
自分の排出されていた場所を眺めている彼女の記憶に、その光景は焼き付いた。
──そして、その焼け付いた景色が今、目の前にあった。
「は……」
唐突に襲い来る無理解が生む小さな呟き。
その向こうで二人の人影が会話をしているのが見えた。
エミリと名無しだ。
膝をつく姿勢でその場にへたり込んでいたるんちゃんは、ゆっくりと目を大きく見開いたまま左右を眺めた。綺麗とは言い難い、書類や何やらが散らばった床、正面の粉々に砕けた特殊ガラスによって存在していた筒──まるで試験管のようなものの残骸。
それらを目の当たりにしたるんちゃんは、引き攣った笑みを浮かべた。
「るんちゃん?」
エミリが彼女の変化に気がつき、声をかける。
──が、彼女はぼんやりと自分の足下──もとい、膝下を見下ろし、引き攣った笑みを浮かべ続けていた。
「るんちゃん、ここは──」
「ここは、レジスタンスと名乗る、有馬家の残党の一部によって造られた場所だ。通常の手段では見つける事は難しいが『聖戦の福音』ともなると別だ。アレは常軌を逸した道具だからな」
淡々と並べられる言葉を理解しているのかいないのか、るんちゃんは項垂れたまま動かない。その傍へと歩み寄るエミリを見上げる事もなく、やはりただ項垂れたまま、動かなかった。
「…………」
彼女と同じように黙り込むエミリを見て、名無しは奥へと歩きながら続けた。
「ここでは科学、魔法を混合させた研究を行っていたらしい。例えば空間を断裂させたり、繋げたり、あるいは人智の超えた生物の作製や、特殊な薬、武器も造っていたらしいな」
そして、と彼女はすぐそばの引き出しから拳銃を取り出し、引き金に手をかけると二人に銃口を向けた。エミリは彼女を見て、すぐに興味を無くした形でるんちゃんへ視線を戻す。
「──これが、私達が求めていた物だ。残念だが、空間を断裂、あるいは繋げられる道具ではない。これは『空間の状態を調べる道具』だ」
「状態、を……?」とるんちゃん。
その拳銃に酷似した物を向けられ、そこから目を離せないるんちゃんへと「ああ、そうだ」とだけ、名無しは答えた。
「実践してみよう」
銃声。
それほど広くもない室内に轟くそれに目を固くつむったるんちゃんは、数秒経っても来ない衝撃を確かめるべく、おそるおそるといった感じに目を開けた。
目の前には、穴があった。
それはここへ来る時と同じ、どこまでも続いていそうな深い闇。
──ただし、今目の前にある穴は小さく、精々小指の先程度の大きさでしかなかった。
「──出たぞ。計測結果だ」
カシャンと何かが閉じる音と共に銃口からゆっくりと吐き出される球体。
それを手に取った名無しは、その小さなビー玉のような球体を摘んだ手をひらひらさせながら二人に見せた。
二人はその球体をまじまじと見やる。それを確認した名無しは説明を始めた。
「ここに、その位置にあった空間の情報を閉じ込めた。しかしこれは──」
言うが早いか、そのビー玉らしきものは瞬間も待たずにするりと気化したように見え、るんちゃんの目の前にあった虚空は何事も無かったかのように消え去った。
「──ものの十秒と経たずに消失する。そしてその間、何者もその虚空に触れる事はできない」
困惑した様子で先程まで穴の空いていた空間と、その銃器を交互に見比べ、るんちゃんは苦い顔をした。
「いったい何のためにそんな物が……」
「さあな。私は知らない」と名無し。「──とにかくこれは空間を調べるためのものだ。ほら、受け取れ」
──瞬間、低い唸り声が、その部屋に木霊した。
「こ、の……声は……!」
るんちゃんが歯を食いしばり、目を潤ませるのを見たエミリ。
それと同時に名無しが軽く舌打ちした。
「……長居しすぎた。早く行くぞ」
そう言いながらるんちゃんの手を掴み、むりやり立ち上がらせる名無しの手を振り切り、その反動で数歩、彼女は後ずさる。
──千切れて無くなった右腕と、掌が半分ほど弾け飛んでいた彼が、闇を背景に扉を閉める姿がるんちゃんの脳裏に降って湧く。それを、苦虫を噛み潰すような顔で堪えながら、るんちゃん立ち止まった。
「──待って、下さい」
「待てない。今すぐ行くぞ」
「るんちゃん?」
名無しの傍で立ち上がるエミリが、くるりと振り返る。
二人の背後──天井のライトが光を当て、二人の顔を見えづらくしていた。
彼女からは見えない二つの顔が、どことなく恐ろしいものに見えた。
「自分は……」
震え始める喉をむりやり動かし、彼女は言う。
「…………」
言おうとしたのだ。
何かを。
しかし、その何かが出てこない。
喉の奥に必死にしがみついて、口から出てきてくれないのだ。
どうしても伝えなくてはならない事のはずなのに、震えて、出て来ない。
「ッ!」
弾かれたようにエミリがるんちゃんへと走り、その胸元近くへ手を伸ばし、ガシッと力強く『それ』を──エミリにしか見えない『運命の糸』を引っ張った。
その糸はどす黒くもやがかり、触れたエミリは腕に絡みつくそれを見て顔をしかめた。
それから数秒ほど遅れて異変を察知した名無しは大きく目を見開く。
「くそっ……」
悪態をつく名無しは先程投げた銃を拾おうと手を伸ばし──その瞬間に後ろを振り返ったるんちゃんが、あ、とその湿った瞳に驚きを灯す。
「──博士」
──彼女がそう呼んだのは『全身から触手を生やした巨大な腐りかけの犬』に似た化物であった。
『博士』と呼ばれたその化物は、犬の顔に付いた一つ目をるんちゃんへ向ける。
目があった。
涙を目から溢れさせるるんちゃんと、その化物を敵視するエミリと名無し。
果たしてどちらが正しい反応なのか、それすら見つからないままに、彼らは遭遇した。
※※※
「…………」
彼女は鬱陶しそうに中空に浮かぶモニターに目をやった。
うんざりするほど聞いたその声を聞きながら、彼女は玉座にも似た椅子に深く座り込んだ。
──その椅子は氷で出来上がり、周囲には見事に彫られた氷の彫像達がこれでもかというくらいその果てしなく広い部屋の中数え切れんばかりに造られていた。
その圧倒的な数に、舞踏会でも開いていたのか、そんな思いさえ浮かび上がった。
ただし、その氷像達の怒りや絶望、苦痛の表情を、その氷像達の悲痛な姿を度外視すればだが。
「──それで? 何が言いたいわけ?」
モニターに映る彼女の言葉を遮り、その本質を問い質した栗毛の少女。
氷の彫像達に囲まれた少女は、女の顔を睨みつける。
そんな少女の態度に、にこにこと愛想をその顔に貼り付けた女は何気ない顔で答える。
「私が言いたいのは一つ。──あなたに戦争を仕掛けます」
顔色一つ変えず、モニターの向こうで女は答えた。
その言葉を正気かどうか疑い、馬鹿にするように目を眇めた。
「へえ? あなた、この世界が今どうなってるか分かっているんですか?」
「ええ、分かっていますよ」
その言葉を聞き、少女は眉間にシワを寄せる。
「かわいい顔が台無しですよ」
「分かっているのなら、そんな事をしてどうなるか分からないのですか?」
「戦争を起こして、あなたに勝つ」
「勝てるとでも?」
「ええ、その為にあなたを起こしたんですから」
一つ、少女はため息をついた。
「人間が滅ぶ可能性があるのよ?」
「ええ、そうですね? それがどうかしましたか?」
少女がその言葉を聞いた直後、周囲が白い霧に包まれ始めた。
それに少女の姿が覆い隠され、モニターに映る女は小さく口元を歪ませた。
「……その言葉を、忘れないように」
霧の向こうで赤く目を光らせた少女がそう言うと、モニターはノイズ音を鳴らしながら掻き消えてしまう。
叫び声。それは、甲高く狂おしい程の怒りの体現であった。
霧の向こうで少女が喚き散らすと同時に部屋のあちこちに氷柱が弾け飛ぶ。
無数のそれらは壁や床、あらゆる物に突き刺さり、挙げ句には氷像を壊し続けた。
ガシャァンと高い音を立てて崩れ去る氷像が多い中、それが止んだ時、いくつかの氷像が残る。
そして、その中の一つ──細身の中年男性の氷像の指先に氷柱が掠めていた。
小さく削られたそこからはじわっと血が滲み出したが、周囲の温度差により即座に凍りつき、ついぞ彼女はそれに気がつくことはなかった。
やがて、ひとしきり叫び終わると、霧で姿の見えぬ彼女はこう言った。
「ああ……実に忌々しい」
霧の向こうで、彼女はぶつくさとくぐもった声で怒りに満ちた言葉を吐き続ける。
「どうやってあの女に愛の存在を知らしめてくれようか」
ひと呼吸置いた。
「いえ……怒りが少々混じったようですね」
その一言の後、すぅ、と霧が晴れていく。
そこに残ったのは、崩れた数々の氷像による破片のみ。壁や床など、建物には一切被害が及んではいなかった。それらをぐるりと見渡した後、彼女はもう一度息をつく。
「気を保たなければ……」
彼女はそう言って、再び目を閉じた。
すぅ、すぅ、と。深い寝息がその静けさに溶け込み、それはまるで、時間が止まったかのようだった。
※※※
そこは、広大な雪原の上。
「行きますよ」
るんちゃんが、電磁バリアの前で意気消沈した顔で拳銃を構える。
銃声。そうして何も無い空間に穴が空き、銃口からビー玉のようなものが吐き出された。
それを掌に落とし、見下ろす。
「視認、保存、解析開始……」
それらを背後から眺める二人。
「できました。今、一時的に無効化します」
「ああ、そうしてくれ」と名無し。
るんちゃんの全身に、青い光が走る。
それは規則的に並び、顔や手、あらゆる所へとその光は広がり、それは空気中に伝播し始める。
──瞬間、強い光が一帯を覆った。
それが晴れた時、三人の目の前ではバリアに穴が開いていた。
「行きましょう」
るんちゃんの掛け声と共に三人はバリアの中へと入って行った。
[あとがき]
では、これからは一月に一度更新にしたいと思います。
六章でまた一区切りがつくとは思うので、ひとまず伏線を上手く回収していきたいです。
今年中には終わるように頑張ります。
最後までお付き合い頂ければ幸いです。
執筆時間は増えているのに……スランプですかね。頑張ります。
あたり一面雪景色。
白くまだらな粉雪が降り積もる中、それはしんと一つ静かに佇んでいた。
地面に空いた穴ではない。
エミリたちの目の前に──空間に開けられた穴だ。
その穴は黒く、向こう側に何があるのかすら判別つかない。見えるのは闇ばかりで、虚無ばかりを連想させる。初見、息を呑んだるんちゃんは足を止めていた。
──それからかれこれ数分。
それの前に立ち、るんちゃんは呆然とそれを凝視していた。
エミリも驚いた様子でそれを眺めていた。
「これ……は?」るんちゃんは尋ねた。
「知らないな。ただ、この向こうは──」
そう言いながら、名無しはその穴へと手を伸ばし──
「──は」
るんちゃんが感嘆の声を上げた。
名無しは、まるで吸い込まれるような形で穴の向こうへと消えてしまう。
それを見届けたるんちゃんは振り返り、エミリを見た。
「エミリちゃん」
彼女を呼んだるんちゃんの瞳には生物としての本能が宿り、片時もエミリから目を離せない。
まるで蛇に睨まれた蛙のように欠片も動きはしない。
「大丈夫。……懐かしいなあ」
「え?」
「行こうるんちゃん」
そう言って呆気にとられた様子のるんちゃんを置いて一人先へ進もうとするエミリの肩を掴むるんちゃんだが、振り返り白と黒の瞳でるんちゃんを見据えたエミリは「大丈夫」ともう一度、それだけを告げて、その虚空の中に吸い込まれていった。
その場に取り残されたるんちゃんは吸い込まれるようにその向こうへ手を伸ばし──
※※※
昏い、暗澹とした意識の中を漂っていた。
それはまるで頼りなく、持っている心地さえしない、不思議な夢のような心地だった。
きっとおそらく、簡単に忘れてしまえるような。
そんな中ふと水泡が揺れ動く音に意識が向いて、それを見るべく慣れない動きで瞼が開いた。
薄っすらと開いた黄金色の瞳が見たものは──
「おお! 遂に、初号機が完成したッ!」
彼女が初めてその目に収めた世界には、一人の男しかいなかった。
薄汚れた白衣を着込んだ男が、信じられないものでも見るかのような目で、彼女を見た。
その男は歓喜の声を上げ、馬鹿のように笑っていた。
それを、何も分かってはいなかった彼女は、無表情で、停滞した無為の意識の中でその声をただ淡々と聞いていた。男はそんな事は知らずに、ただただ歓喜に打ち震え、高らかな笑いを叫んでいた。
それから数日後、彼女はそれの中から排出された。
筒のような形のそれから吐き出された彼女は、排出される前にある程度乾かされたが未だ湿った体で床に倒れ伏す。
「あー、ぅー……?」
彼女が悶えていると、白衣を着込んだ男が彼女を抱え起こした。
「やあ、こんにちは。私の言葉は分かるかな?」
彼女は突如として頭の中を駆け巡った雷のような衝撃に瞳孔を大きく開く。
途端に彼女の全身へ目から拡がっていった淡い青い光の筋が足のつま先まで走っていき、数秒後に瞬きを一度した。
「はい。理解します」
淡々とした口調で彼女がそう言った直後、彼は喜色満面の笑みを浮かべて高揚した声で言う。それはまるで、光に群がる蝿のようであった。
「ああ、良かった! では早速性能テストと行こう! なあに、心配することは無い! 君なら簡単なテストだ! ……これでようやく、連合軍に勝てるぞ……!」
そう言われ、彼女は白衣の男に抱きかかえられながらその場を離れた。
自分の排出されていた場所を眺めている彼女の記憶に、その光景は焼き付いた。
──そして、その焼け付いた景色が今、目の前にあった。
「は……」
唐突に襲い来る無理解が生む小さな呟き。
その向こうで二人の人影が会話をしているのが見えた。
エミリと名無しだ。
膝をつく姿勢でその場にへたり込んでいたるんちゃんは、ゆっくりと目を大きく見開いたまま左右を眺めた。綺麗とは言い難い、書類や何やらが散らばった床、正面の粉々に砕けた特殊ガラスによって存在していた筒──まるで試験管のようなものの残骸。
それらを目の当たりにしたるんちゃんは、引き攣った笑みを浮かべた。
「るんちゃん?」
エミリが彼女の変化に気がつき、声をかける。
──が、彼女はぼんやりと自分の足下──もとい、膝下を見下ろし、引き攣った笑みを浮かべ続けていた。
「るんちゃん、ここは──」
「ここは、レジスタンスと名乗る、有馬家の残党の一部によって造られた場所だ。通常の手段では見つける事は難しいが『聖戦の福音』ともなると別だ。アレは常軌を逸した道具だからな」
淡々と並べられる言葉を理解しているのかいないのか、るんちゃんは項垂れたまま動かない。その傍へと歩み寄るエミリを見上げる事もなく、やはりただ項垂れたまま、動かなかった。
「…………」
彼女と同じように黙り込むエミリを見て、名無しは奥へと歩きながら続けた。
「ここでは科学、魔法を混合させた研究を行っていたらしい。例えば空間を断裂させたり、繋げたり、あるいは人智の超えた生物の作製や、特殊な薬、武器も造っていたらしいな」
そして、と彼女はすぐそばの引き出しから拳銃を取り出し、引き金に手をかけると二人に銃口を向けた。エミリは彼女を見て、すぐに興味を無くした形でるんちゃんへ視線を戻す。
「──これが、私達が求めていた物だ。残念だが、空間を断裂、あるいは繋げられる道具ではない。これは『空間の状態を調べる道具』だ」
「状態、を……?」とるんちゃん。
その拳銃に酷似した物を向けられ、そこから目を離せないるんちゃんへと「ああ、そうだ」とだけ、名無しは答えた。
「実践してみよう」
銃声。
それほど広くもない室内に轟くそれに目を固くつむったるんちゃんは、数秒経っても来ない衝撃を確かめるべく、おそるおそるといった感じに目を開けた。
目の前には、穴があった。
それはここへ来る時と同じ、どこまでも続いていそうな深い闇。
──ただし、今目の前にある穴は小さく、精々小指の先程度の大きさでしかなかった。
「──出たぞ。計測結果だ」
カシャンと何かが閉じる音と共に銃口からゆっくりと吐き出される球体。
それを手に取った名無しは、その小さなビー玉のような球体を摘んだ手をひらひらさせながら二人に見せた。
二人はその球体をまじまじと見やる。それを確認した名無しは説明を始めた。
「ここに、その位置にあった空間の情報を閉じ込めた。しかしこれは──」
言うが早いか、そのビー玉らしきものは瞬間も待たずにするりと気化したように見え、るんちゃんの目の前にあった虚空は何事も無かったかのように消え去った。
「──ものの十秒と経たずに消失する。そしてその間、何者もその虚空に触れる事はできない」
困惑した様子で先程まで穴の空いていた空間と、その銃器を交互に見比べ、るんちゃんは苦い顔をした。
「いったい何のためにそんな物が……」
「さあな。私は知らない」と名無し。「──とにかくこれは空間を調べるためのものだ。ほら、受け取れ」
──瞬間、低い唸り声が、その部屋に木霊した。
「こ、の……声は……!」
るんちゃんが歯を食いしばり、目を潤ませるのを見たエミリ。
それと同時に名無しが軽く舌打ちした。
「……長居しすぎた。早く行くぞ」
そう言いながらるんちゃんの手を掴み、むりやり立ち上がらせる名無しの手を振り切り、その反動で数歩、彼女は後ずさる。
──千切れて無くなった右腕と、掌が半分ほど弾け飛んでいた彼が、闇を背景に扉を閉める姿がるんちゃんの脳裏に降って湧く。それを、苦虫を噛み潰すような顔で堪えながら、るんちゃん立ち止まった。
「──待って、下さい」
「待てない。今すぐ行くぞ」
「るんちゃん?」
名無しの傍で立ち上がるエミリが、くるりと振り返る。
二人の背後──天井のライトが光を当て、二人の顔を見えづらくしていた。
彼女からは見えない二つの顔が、どことなく恐ろしいものに見えた。
「自分は……」
震え始める喉をむりやり動かし、彼女は言う。
「…………」
言おうとしたのだ。
何かを。
しかし、その何かが出てこない。
喉の奥に必死にしがみついて、口から出てきてくれないのだ。
どうしても伝えなくてはならない事のはずなのに、震えて、出て来ない。
「ッ!」
弾かれたようにエミリがるんちゃんへと走り、その胸元近くへ手を伸ばし、ガシッと力強く『それ』を──エミリにしか見えない『運命の糸』を引っ張った。
その糸はどす黒くもやがかり、触れたエミリは腕に絡みつくそれを見て顔をしかめた。
それから数秒ほど遅れて異変を察知した名無しは大きく目を見開く。
「くそっ……」
悪態をつく名無しは先程投げた銃を拾おうと手を伸ばし──その瞬間に後ろを振り返ったるんちゃんが、あ、とその湿った瞳に驚きを灯す。
「──博士」
──彼女がそう呼んだのは『全身から触手を生やした巨大な腐りかけの犬』に似た化物であった。
『博士』と呼ばれたその化物は、犬の顔に付いた一つ目をるんちゃんへ向ける。
目があった。
涙を目から溢れさせるるんちゃんと、その化物を敵視するエミリと名無し。
果たしてどちらが正しい反応なのか、それすら見つからないままに、彼らは遭遇した。
※※※
「…………」
彼女は鬱陶しそうに中空に浮かぶモニターに目をやった。
うんざりするほど聞いたその声を聞きながら、彼女は玉座にも似た椅子に深く座り込んだ。
──その椅子は氷で出来上がり、周囲には見事に彫られた氷の彫像達がこれでもかというくらいその果てしなく広い部屋の中数え切れんばかりに造られていた。
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ただし、その氷像達の怒りや絶望、苦痛の表情を、その氷像達の悲痛な姿を度外視すればだが。
「──それで? 何が言いたいわけ?」
モニターに映る彼女の言葉を遮り、その本質を問い質した栗毛の少女。
氷の彫像達に囲まれた少女は、女の顔を睨みつける。
そんな少女の態度に、にこにこと愛想をその顔に貼り付けた女は何気ない顔で答える。
「私が言いたいのは一つ。──あなたに戦争を仕掛けます」
顔色一つ変えず、モニターの向こうで女は答えた。
その言葉を正気かどうか疑い、馬鹿にするように目を眇めた。
「へえ? あなた、この世界が今どうなってるか分かっているんですか?」
「ええ、分かっていますよ」
その言葉を聞き、少女は眉間にシワを寄せる。
「かわいい顔が台無しですよ」
「分かっているのなら、そんな事をしてどうなるか分からないのですか?」
「戦争を起こして、あなたに勝つ」
「勝てるとでも?」
「ええ、その為にあなたを起こしたんですから」
一つ、少女はため息をついた。
「人間が滅ぶ可能性があるのよ?」
「ええ、そうですね? それがどうかしましたか?」
少女がその言葉を聞いた直後、周囲が白い霧に包まれ始めた。
それに少女の姿が覆い隠され、モニターに映る女は小さく口元を歪ませた。
「……その言葉を、忘れないように」
霧の向こうで赤く目を光らせた少女がそう言うと、モニターはノイズ音を鳴らしながら掻き消えてしまう。
叫び声。それは、甲高く狂おしい程の怒りの体現であった。
霧の向こうで少女が喚き散らすと同時に部屋のあちこちに氷柱が弾け飛ぶ。
無数のそれらは壁や床、あらゆる物に突き刺さり、挙げ句には氷像を壊し続けた。
ガシャァンと高い音を立てて崩れ去る氷像が多い中、それが止んだ時、いくつかの氷像が残る。
そして、その中の一つ──細身の中年男性の氷像の指先に氷柱が掠めていた。
小さく削られたそこからはじわっと血が滲み出したが、周囲の温度差により即座に凍りつき、ついぞ彼女はそれに気がつくことはなかった。
やがて、ひとしきり叫び終わると、霧で姿の見えぬ彼女はこう言った。
「ああ……実に忌々しい」
霧の向こうで、彼女はぶつくさとくぐもった声で怒りに満ちた言葉を吐き続ける。
「どうやってあの女に愛の存在を知らしめてくれようか」
ひと呼吸置いた。
「いえ……怒りが少々混じったようですね」
その一言の後、すぅ、と霧が晴れていく。
そこに残ったのは、崩れた数々の氷像による破片のみ。壁や床など、建物には一切被害が及んではいなかった。それらをぐるりと見渡した後、彼女はもう一度息をつく。
「気を保たなければ……」
彼女はそう言って、再び目を閉じた。
すぅ、すぅ、と。深い寝息がその静けさに溶け込み、それはまるで、時間が止まったかのようだった。
※※※
そこは、広大な雪原の上。
「行きますよ」
るんちゃんが、電磁バリアの前で意気消沈した顔で拳銃を構える。
銃声。そうして何も無い空間に穴が空き、銃口からビー玉のようなものが吐き出された。
それを掌に落とし、見下ろす。
「視認、保存、解析開始……」
それらを背後から眺める二人。
「できました。今、一時的に無効化します」
「ああ、そうしてくれ」と名無し。
るんちゃんの全身に、青い光が走る。
それは規則的に並び、顔や手、あらゆる所へとその光は広がり、それは空気中に伝播し始める。
──瞬間、強い光が一帯を覆った。
それが晴れた時、三人の目の前ではバリアに穴が開いていた。
「行きましょう」
るんちゃんの掛け声と共に三人はバリアの中へと入って行った。
[あとがき]
では、これからは一月に一度更新にしたいと思います。
六章でまた一区切りがつくとは思うので、ひとまず伏線を上手く回収していきたいです。
今年中には終わるように頑張ります。
最後までお付き合い頂ければ幸いです。
執筆時間は増えているのに……スランプですかね。頑張ります。
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●本作は「ボロ雑巾な伯爵夫人、旦那様から棄てられて、ギブ&テイクでハートフルな共同生活を始めます。」からの続き作品です。
前作では、二人との出会い~同居を描いています。
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