当たり前の幸せを

紅蓮の焔

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四章 進む道の先に映るもの

210話 『ぼくのものだ』

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 ──だから、返して。

 自分の面の終わり。虚空を前に、自らの足下を目だけで見下ろし、告げる。
 そこにはレイを黙ってジッと見つめる彼女、メイリィの姿があった。

「なぁ~んで~かなあ~……」

 キャは、と鼻で笑いながら、メイリィは一歩、前へ踏み出してレイへと近づく。

「せっかくレイじゃどーにもならねーことをやってあげてるのになぁぁあああ?」

 挑発的なその態度も、声色も、レイは目を閉じて受け流す。
 それは心からの拒否であり、心からの拒絶だ。

 そして、自分でやらなくちゃいけないものも、何か、もう分かっているつもりだから。
 彼女の言葉には、耳を傾けない。惑わされない。話を聞かない。貸す耳などついさっき足下に叩きつけて踏み潰してやった。

 この体はぼくのものだ、誰がなんと言おうと。
 もし違うのなら、これまでのレイカちゃんや二弥ちゃん、ネネさんやコオロギさんとの出会いが、日々が、全てが自分のものでなくなってしまう気がして……。

 譲れない、渡さない。離すことなんてできない。

 もし、一度でも手放してしまえば、きっとぼくは……。

「……だから、返して」

 レイは舌唇を巻き込んで、すう、と鼻から息を吸う。
 それは、自分を取り戻すための戦いを始めるため、熱で浮いた覚悟を心の奥底に沈殿させて、目を閉じる。瞼の裏側に、たくさんの人々が映る。
 ミズキ、レイカ、ネネ、コオロギ、コーイチ、さくら、ミノリ、滝本、杉浦、東、吉田、萌葱。まるで記憶を遡るように、それぞれとの記憶が色づいて目に焼き付く。

「ワタシのでもあるんだけどぉ~? くすくす。レイってばおバカだね~。キャはハはッ」

 そんなレイを嘲るように、メイリィはまた一歩、踏み出して、境界の寸前まで迫る。
 その不敵な笑みにレイは生唾を喉の奥へと流し込んだ。

「返すも何も、ワタシ達で使ってる、『しぇあはうす』みたいなものなんだから」

「違う。この体は、このぼく。『石田レイ』のものだ。他の誰にも渡さない」

「安心しろよ~」

「……は?」

「ワタシがこの体を使っても、レイはレイ。何も変わらねえんだからなぁ~」

「…………」

「逆に、今のこの状況だとさぁ~……くすくす。レイが体を乗っ取ろうとしてるみたいだろ~? アハはははハはは!」

「…………」

「何か、言えよ~」

 パキ、と。

 どこからかガラスにひびが入ったような音がして、耳を突いた音に驚いたメイリィは意地悪く浮かべていた笑みを固くして「は?」と目を大きくした。

「……なに?」

 パキ、ピキッ。それは音を立てて、ひびが広がるような想像を脳裏に映し出させ、その原因を探るようにメイリィは左右前後ろ、終いには上下も確認する。
 見える範囲に異常はなく、唯一あるとすれば、足下に立つ彼女にしか見当たらない。

 彼女は、レイは、黙り込んで俯いていた。
 位置的に彼女の顔が見えてしまったメイリィは、その顔を見て顔色を変える。

 まるで、何かに縋るように、何かを失くしてしまうのを怖がるように、レイは目にうっすらと滲んだ涙を堪えるように、唇を引き結んだ。

 音は鳴り止まない。ガラスを少しずつ割っていくような、そんな破砕音が止まらない。

「ちょ、ま──ッ!」

 かしゃあん、と。壁が崩れ去った音と共に、メイリィは、自分の方へと歩いて来るレイの姿を捉える。境界を越えて、不気味な雰囲気を醸しながら、レイは俯いて、ぽつ、ぽつ、と、降り始めた雨のような足取りで近づいて来る。

 冷ややかで、寒気すら催させるその姿に、踏み込んでくる一歩に。
 それらに反応するように、メイリィも一歩、下がる。

「はは、は……」

 浮かぶ脂汗、引き攣る頬、映る瞳には、ゆっくりと、しかし確実に迫って来るレイの姿があって。瞬きが、一度だけその姿を瞳から消す。次に開かれた時、その姿は眼前にまで差し迫り──

「ッ!?」

「この体は、ぼくのだ。ぼくだけの。ぼくだけのぼくだけのぼくだけのぼくだけのぼくだけの……! 大切で大事で壊して壊せないただ一つのものだ……!」

 ぎりり、と歯を噛み合わせて、レイは引っ張り上げられるように腕をゆっくりと上げていった。伸ばした先は──掴んだのは、メイリィの首。

「──ッ!」

「──誰にも、渡さない……!」

 咄嗟に振り払ったメイリィは後ずさりながら自らの首に手を当てて項垂れながら咳き込む。しかし、苦しげに開かれた目には、自らにかかる陰がゆらりとその存在を誇張してきて。

「っ……」

 見上げるとそこには、表情の消えた死神が、凍えた瞳で自分を見つめて立っていた。

 無意識に後ろに下がると、ふと後ろから何者かに腕を絡め取られる。怯えたようにすぐ振り向けば、そこには薄気味悪い濁った悲鳴を上げ続ける人ならざる者──自らの手で殺した者達の姿があった。

「……なっ、せよ!」

 腕を掴むその腕を引き剥がそうと奮闘していると、今度は足を、腰を、肩を。全身を拘束し、彼らは目玉の無い瞳で、血の涙を流しながらメイリィを抱き着くようにして離さない。

「やメロやめろヤメロヤめろやメろヤめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろ! ワタシに触るな近づくなあああアアああアッ!」

 泣き叫び、怒号を飛ばし、罵倒を浴びせる。

「やめろやめろやめろ! 触るな! 殺すぞ! あーあーあーあーーッ! この雑魚が! アホカス! はげちゃびん! 汚らしくて卑しくて穢らわしい男が女が人間がああああああッ!」

 それでもそれは、力を緩めるような事はなく──

 悲鳴を上げ、泣き叫ぶメイリィの背後に、白いワンピースの少女が立った。
 全く同じ容姿の彼女と、メイリィとは、そもそもから違う。

 生まれた場所も、時期も、性格も、役割も、全部が違う。

 それはまだ十五年と無い短い人生の中で形成された人格の一つであり、その人となりの一面でもあった。けれども、ただの別人でもあった。
 レイは彼女の記憶を持たず、彼女の意思を知らず、意図を知らない。
 同じ体に存在する別個人。それが、彼女だ。

 ──だから、これは、自分のものを守るための、生き残り合戦だ。

「ぁ、ぐ──っ!」

 後ろからその首根っこを両手で掴み取り、涙を目に浮かべて振り向いたメイリィに、凍えるような、氷のように冷たい眼差しを向けて、そのまま体重をかけるように、その背にもたれ掛かるように、倒れるように、彼女を押し倒した。

 ふわっ、と。

 これまでメイリィを拘束していた異形の者達がその姿を揺らめかせ、消える。
 地面に顔を押し付けられ、その上に乗りかかるように同じように倒れたレイを、恨みがましく睨みつける。それは、これまでとは明らかに様相の異なる深く激しい怒りを湛えていて。

「──ァァあッ」

 首を絞められ、馬乗りにされるメイリィ。悲鳴にも罵倒にも怒号にもならない、言葉にする事すら叶わない掠れた声が、暴れる手足が、拘束を抜け出そうと必死でもがき足掻く。

「死ね」

 たった一言。それを皮切りに、レイは冷たく鋭く尖った右目で瞳で、暴れて泣き叫ぼうとするメイリィを見下ろして矢継ぎ早に言葉を突き刺していく。

「死ね。死ねしね死ね、死ね。何もかも無くなって、この世からもあの世からも消えて。死ね。もう二度とこの世に生まれて来るな。死ね。二度とぼくに関わるな死ねよこの体はぼくの、ぼくだけのものだ。早く死ね。お前のものじゃないお前は何者でもなくて生き物ですらない。死んでよ。寄生虫よりももっと酷い害虫以下のクソだ。死ね。世界からお前と言う要素だけを切り捨てろ。死ね、苦しんで死ね。息をするな動くな暴れるな。お前に居場所なんてないんだよぼくから出て行け。早く死ねよ。外で一人野垂れ死ね。人に笑われて死ね。この世で一番汚らしい所で死ねよ。ぼくが殺すよ君を殺す。お前の人生はここまでだ。死ぬしかないだろ。沢山の卑しさに塗れて死ね。この世で一番最悪な方法で殺してあげる。もう死んでもいいよ。全ての汚らしいものに汚されて逝け。もう生きてるかちなんて無いから。死ね。ぼく死ね。お前死ね。お前誰だよ。死ね。死ね死ね死ね。もう死ぬ? いつ死ぬ? 今死ぬ? 死んだ? 早く死ねよ。なあ、死ね。しーねー。ゴミ虫だろーが。キャは……。早く死ね、死ねよ。永遠の苦しみを味わい続けながら死ね。──まだ生きてる。しぶといな」

 もう朧げな、儚げな、弱々しい、けれども確かな怒りを湛えた右目で、彼女は今まさに自らを手に掛けている死神──レイを、睨み付けた。
 目に浮かぶ涙は流れるものとなり、口から吐かれる喘ぎも、もうほとんど出ない。あれほど暴れていた手足も今は弱く、ただ地面を掻くのみ。

 そのほんの少しだけ残った命の灯火を激しく燃やし、掠れた声で、無理やり告げた。

「絶対、に。死、なね、ぇ……」

 それだけを告げると、彼女はその灯火を消し去った。
 後に残ったレイは、動かなくなった彼女を眺め、胸の内でストンと何かが下りたような、強張っていた体がほろけたような、そんな安心感を得たのだった。

 ※※※

「──あ、目が覚めたですよ」

 目を開いたカエデは、自分を覗き込むその影に眉をひそめた。

「精霊さん……?」

「……おはようです」

 辺りを目だけで確認したカエデは、気絶する前と後に、さほど差は無く感じて余計に顔のシワを増やした。その表情を見て、ミズキはため息を吐く。

「あなたに危害を加えて、レイくんが二度と動かなくなるのは嫌ですから。あなたの事もそれと同じくらい嫌いですが。理由は知りませんけれども」

「────」

 起き上がり見れば、体中に受けた傷が無くなっていた。化物としての力か、はたまた精霊としての彼女達の力か。けれど、まあ、恐らく後者だろうな、と。そう結論付けたカエデは一つ息を吐く。

「介抱して下さりありがとうございました」

「……一つ、聞いていいです?」

「はい?」

「……あなたは、レイくんのなんですか?」

「……彼女の?」

「レイくんが、女の子だという事も知っているようですし……。一体、どこまで……」

「彼女とはただの知り合いですよ。まだ、と付け加えますが」

 気持ちを立て直したのか、彼女は立ち上がり、周囲を見渡した。
 そこには一人も、動く者はいない。ただ、今は敵対もできない状況で。

「……精霊さん」

「はいです」

「私と、協力しませんか?」

「……はい?」

 それは、主のいない従者への、共犯者となるための誘いだった。





[あとがき]
 次回は7月28日です。
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