当たり前の幸せを

紅蓮の焔

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三章 炎は時に激しく、時に儚く、時に普遍して燃える

124話 『見えたのは黒い影だった』

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 ──その日は、向かいに引っ越して来た二人の父娘おやこと少しばかりの会話に花を咲かせて幕を閉じた。コオロギは、本人曰く、部屋でずっと寝ていたらしい。
 レイはあの後、結局何をして遊ぶのか決められず、レイカに呆れられてしまったが、それでも仲良く遊んだ事には変わりない。……やはりテレビゲームになってしまったのは、現代っ子の特徴だ。

 その日の夜。
 湯気が際立つ湯船に浸かり、レイは天井を見上げていた。

 そこには、濡れた天井しかない。けれどレイはじっと見つめていた。暇なのかと問われれば、恐らく肯定を取るだろう。しかし、それが天井を見上げる理由なのかと聞かれれば否定するだろう。

 だとすればその理由は何なのか。それはレイ自身にも答えは出せていなかったが、強いて言うなら『哀愁』が一番近い位置にある。

 なんとなく、ただなんとなくの悲しさがレイを襲うのだ。

 腕を持ち上げると、ちゃぷんっと音が鳴り、右腕が水面の静止も押し切って湯船から出る。ざっぷん、と大きな音を立ててお湯が腕を諦めて湯船へと帰って行った。

 腕の先を見詰めて、レイは溜息を吐いた。

 伸ばした掌は何も掴むことはなく、温かな手の感触も今はもう無い。それを記憶の奥底から引っ張り出して、掻き集めて、それを握り締めても靄が全てを持って逃げてしまう。
 ──もう思い出す事もできないあったはずの温もりを求めて、レイの指が靄を再度掴む。

「……おねえ、ちゃん」

 ふと漏れたのは記憶にこびりつく赤く濡れた笑顔を浮かべる少女への愛称。腕がそっと下り、湯船の中に消えていくのと同時に、レイの右目から涙が溢れる。

 その悲しみを拭い去るように手で掬った湯煎を顔にかけて誤魔化すが、全部を誤魔化すことはできずに右目からはやはり涙が流れたままだ。
 それでもレイは、何度も何度も何度でも顔にお湯をかける。

 それを繰り返すこと数分、レイはふとその手を止めた。そしてゆっくりと振り向き入り口の方へと目を向ける。物音だ。動きを止め、静かになった風呂場の前──脱衣所にて、その影は動く。

 その動きはまるで、心配するように左右を伺ったり深呼吸をしたり。そんな動きに見えて、レイは鋭く目を細める。

「……誰か、いるの?」

「あっ、レイくん!?」

 まだ幼さの残った女性特有の高い声が響き、レイは首を捻った。

「レイカちゃん?」

「良かったぁ……もうっ! てっきりのぼせて倒れちゃったのかと思った!」

「あっ、こら! レイカちゃん! 何してるの!」

「な、なんにもぉっ!? してないけどぉぉっ? じゃ、じゃあね、レイくん! また後で!」

 どたどたと慌てた様子で影が遠ざかって行くのを見送りながら、レイは濡れた顔をそっと破顔させた。やがて、影が見えなくなってから、

「──うん。またね」

 レイは、嬉しそうに白濁した湯面に映る自分の顔を覗き込むように柔らかな面持ちで目を細める。
 その白い湯面にレイの顔が映ることはなかった。それを見て、レイは嘆息を吐く。

「……お姉ちゃんが生きてたら──」

 ──閉じた瞳の奥で、ぼやけた輪郭が確かに存在していた気がした。

 レイは立ち上がる。ぬるくなり始めた湯船から立ち上がって出ると、引き戸を開けて脱衣所へ。引き戸の右側、内角を挟んで隣に位置する曇った鏡に、重く耐えきれなくなった雫が一筋の線を描く。そこに映り込んだレイの横顔が、どこか悲しげに歪められていた。

 風呂場から出ると、足下には黄色い絨毛に彩られた足ふきマットがあり、左側には着替えを入れておく用の青い籠と、その奥の着ていたものを入れて置く黄色い籠の二つが揃えて置かれていた。
 青い籠に入っている着替えの上に置かれた折られたバスタオルを使って頭から順に、肩、腕、体、足へと、上から下へ拭いていく。──はずだったのだが、

 ぱさっ、と頭を拭き始めたバスタオルから突如として紙が落ちた音がした。レイは顔を拭いて足下を見たが何もなく、今度は自分の後ろを首を捻って見下ろした。そこには、確かに一枚の紙が四つ折りにされて落ちていた。

 それを見たレイは、一旦足まで拭いてからその紙を拾った。

「えっと……、走り書き、かな……? ちょっと読めないや」

 乱雑に書かれたその文字のようなものの羅列が、何を意味しているのかは分からなくとも、少なくとも誰が書いたかは検討がついている。
 だからレイは、服を着た後すぐに脱衣所を出て手紙のようなものを送り付けてきた彼女の下へと出向くため、脱衣所を出て行った。

 レイがドアを閉めたその脱衣所には、小さな鉛筆が転がっていた。

 ──今レイは、とあるドアの前に立っている。

 廊下の天井からは白い電球が取り付けられていて、その人工的な光源をチラッとだけ、覗くように見上げると、再び視線を眼前のドアに戻す。

 茶色く綺麗な木目が見えるドアだ。光沢を帯びたそのドアの銀色のドアノブに手をかけた所だ。

 そのドアの前で少し深呼吸をする。それから、片手で先程の紙を広げて再び見直す。やはり、書いてある内容は不鮮明だが、間違いない。この字はこれまでで幾度となく見てきた。──語弊があるかもしれない。正確には、彼女が書いた文字を幾度となく見た、と言うことだ。この走り書きを毎日見ているわけではない。決して。
 しかしやはり、その字を知っているからこそ、レイは問いたださなければならない。この手紙の真意を。

 ギィぃ……、と小さな、軋みを思わせる音が響いて、ドアが開いていく──……。

「あっ! レイくん!?」

 中から聞こえる少女の声に応えるように笑顔を作り、少しだけ開けたドアの隙間からひょっこりと顔を出す。

「この手紙、レイカちゃんだよね?」

 そうして走り書きの手紙を見せて確認を取る。

「うん! ……実はね、分かんない所があったからレイくんに聞こうとしたんだけど、さっきはネネさんに見つかっちゃって……」

 恥ずかしげにはにかんで、それを見たレイは顔を綻ばせて部屋に隙間に身を滑らせるようにして入っていく。

「ああ、それでお風呂場の所に来たんだ?」

「そうっ! そうなんだけど、……教えて、ちょーだい!」

「うん、いいよ」

「やたー!」

 両手を振り上げて歓喜するレイカに、苦笑して返すレイは、机の上の開かれた冊子を見て、「あれだね」と言ってそちらへと歩いて行く。

「わー! わーっ! み、見ちゃダメ!! あ、あと、ほんのちょっとで良いから待って!!」

 慌てふためいてレイとその冊子の間に滑り込んだレイカは、即座に消しゴムを手にして「にゃああああああ──ッ!」と叫びながら腕を全力で振り被った。

 レイからはレイカが何を消しているのかその背中で隠されていて全く見えないが、レイカは消しゴムで冊子を擦り続ける。

「ど、どうしたの……?」

「なっ、なんでもないよっ! ささっ! 教えて教えて!」

 消し終わったレイカは、すぐに振り返って「にははー」と誤魔化すように笑っているが、少なくともレイは怪訝そうにその冊子を目を細めて見ていた。
 しかし、それも途端に忘れたようにニコッと笑って見せると、テーブルの前に座るレイカの横から、その冊子を覗き込むようにして問いかける。

「……それで、どれが分からないのかな?」

「えっとねー……。そうそう、これこれ!」

「国語……。えーっと、『吉田さんの敬語の使い方は間違っています。間違っている箇所に印を打ち、隣に書き直してください』……ああ、これはね……」

 ゆっくりと、丁寧に教える声が、深夜の一時近くに差し掛かった所でネネが再び乱入して来て、レイカは慌てふためいてレイの後ろに隠れると言った一悶着があったが、レイが宥めたことにより、レイカも渋々と言った様子で隠れるのをやめた。

 その後はすぐに寝床に着くことになった。
 カーテン越しの月明かりに照らされたレイは、どろりと左目の奥で疼く何かに、深い深い眠りへと誘われた。

 ※※※

「……眠れないのかい?」

 同時刻、向かいの家の一室で、彼女は枕を抱き締めてその部屋の入り口に、どこか警戒するように顎を引いて立っていた。
 廊下の逆光に照らされた少女に気づいて、敷布団から上体を起こしたのはその父親だ。

「一緒に寝る……?」

 どこか配慮の念が篭った言葉に、少女は小さく頷いて部屋に足を踏み入れると、開けていたドアを閉めて、小走りで父親の下へと走って行く。父親はそれを止めることもなく、少女が入りやすいように掛け布団を開けると、そこへ少女がしゃがみこんでから父親の顔の隣に枕を置いて、寄り添うように寝転がった。

「おやすみ──……」

 ……──にや。

 小さく、誰にも聞こえないような声でそう呟いて少女を安心させるように頭を撫でる優しい手つきに、少女は猫のように首を伸ばして、しかしすぐに父親の隣で寝息を立て始める。

 それを見届けてから、父親も重たい瞼に身を任せて、寝息を立て始めた。

 寄り添うように眠る二人は、少し寂しげに、しかし幸せそうに、安らかな一時が二人が眠り込んだ後の部屋を支配した。
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