当たり前の幸せを

紅蓮の焔

文字の大きさ
上 下
97 / 263
二章 無意味の象徴

92話 『畏怖』

しおりを挟む
 ──バドルドとナツミが展望台へ向かう十数分前、バドルドは山の中を鼻を鳴らしながら駆け抜けていた

「はっ、やっ──!?」

『アマリシャベラナイホウガイイ。シタヲカムゾ』

 孫に注意を促すかのように随所から優しさの滲み出るバドルドの言葉は、風切り音によってほとんどナツミの耳には届いていなかった

「──バドルドさんはっ、あの人がどこにいるかっ、分かるのっ……!?」

 バドルドの背に乗って首元の毛に掴まり、なんとか声を出す事のできたナツミは顔を前に向けた
 風が強く、引っ張られる髪が羽ばたき音を立てて会話を阻害する

 バドルドは少しだけ顔を向けたが何も言わずにただ黙って前だけを見る事に専念し始めた

 変化があるのか無いのか分からない木々の間を大人何人かほどある巨躯は白い風となり、木々にざわめきだけを残して行く

 答えを返してくれないバドルドに、ナツミはもう言葉すら掛けようとも考えなくなってくる。それが、目に映るまでは──……

「おかっ──!?」

 ふと、緑と茶しか無い山の中での配色にそれ以外の違和感があった左へと視線を向けた
 瞬間だった。しかし、見間違えるはずもない。何せ、そこに倒れ伏すのは見知った顔。十二年も共に暮らして、その間ほとんどずっと一緒にいた存在なのだから

「とっ、止めてっ! 止まってっ! 戻って!」

 しかし白い風は止む事なく進み続け、振り向いた時に見えたのは緑の葉と茶色い木肌だけの変化があるのか無いのか分からない光景のみだった

 やっぱり、まだあそこにあったんだ、と口に出しかけたナツミは瞼をしばしば叩きながら唇を引き上げる事に専念する他に思い浮かばなかった

 しかし幸か不幸か、自然と力が入る拳に気を取られたバドルドが止まらなければ眼前の右から飛んできた斬撃に首が根こそぎ飛ばされていただろう

 その斬撃の発生源を探るため、右に首を──、

 人がいた。二人。先程までバドルドが走っていた方向へと進もうとしている男と子供が。その二人を見やり、小さな呻きが漏れる

「わふゅ──っ」

 バドルドに似つかわしくないその声に反応を示したのは男の方だった。まず第一に驚きのあまりに足が浮き、第二に目を点に。そして最後の段階になるとただただ感嘆の声を漏らし、バドルドを見詰めて棒立ちしていた

「うわぁ……。──あっ、えっ、何このオオカミ? 犬? いや、もっと大きいし……虎? にしては顔が出過ぎてて……え? これ、逃げないと危険じゃない? 大変じゃない!?」

 彼は少女の手を掴んで走ろうとする。しかし、バドルドはその背を見詰めて追いかけようとはしていない。それどころか肩を、全身を上下させてこれまでの落ち着いた行動を裏切るような浅い呼吸を淡々と繰り返していた

「逃げよう……!」

 走ろうとはしたが微動だにしない少女をその場から動かす事が出来ず、バランスを崩して背中から落ちる男。そんなコントのワンシーンが繰り広げられているにも関わらず短い間隔で浅く息をするバドルドの頭の上に上がり、ナツミはその光景を見た

「ぁ……、あの人……。知ってる……」

 それを耳元で聞いていたバドルドだけが彼女の呟きを拾い上げ、思考を車よりも高速で回転させる

『アノ、オトコ、ヲ……ミタ、ノカ……?』

 しかし、閉められた喉奥から絞り出された声は弱々しく、今までの威勢すら掻き消えてしまい彼の巨躯を一変させるほどのものになっていた

「う、うん……。だってあの人、ちょっと前まで一緒にいたから……」

『ナニモ、サレテ、イナイカ……?』

「う、ん。だいじょーぶ」

『コノバカラ、ハヤクハナレタイ。──シッカリトツカマッテイテクレルトアリがタイ』

「わ、かった……」

 小さく頷くと、彼女はその頭から這うように背に下りて再び首元の毛を両手で掴んで体を密着させる

 瞬間、咆哮が響き渡った

「おっ──?」

「ッ──!!」

 大きく口を開け、目の前にいる敵に向けて放たれた咆哮は、しかしながら近場の木々を二、三本へし折ったにも関わらず二人して未だ健在だ

『バケモノメ……!』

「あの人、たしか──」

 ナツミが言葉を続けるよりも先に焦りを覚えた低い声が我先にと口から飛び出すと同時に手を叩く乾いた音が辺りに高く響き渡る

「ちょ! ちょっと待った! 攻撃なんてしないからっ! ねっ!? だから助けてほしいなぁ……なんて思ったり!?」

 顔の前で叩かれ、あせあせと立てた人さし指を振りつつもう片手で頬を伝う汗を拭う正座する男の目も当てられない哀れな姿に、いつしかバドルドの呼吸も元に戻っていた

 だから──、と彼が口にするまでの話のことだ

「──だから、この子だけは見逃しちゃくれませんかね? お願いします。まだ、小さいし、女の子だし……。だから、ボクなら別に喰うなり殺すなり好きにどうぞ。けれど、この子だけは逃がしてください。おねがい」

 万夫不当の決意が宿った双眸には己が全ての負の感情を押し込めるほどの強い義侠心が男の媚びへつらう表情に被さる仮面のように貼り付き、土下座と言う全面的な降伏を示す動作へと持ち込ませていた

 ──しかし、格好いい事を言っているのはここまでだった

「──この場合はお腹を見せた方が良いのかな? いやっ、せめて最後の人間の矜持を──っ!」

「何を言ってるのか分かんないけど、たぶん、最後のって言わない方がカッコよかった」

 バドルドの背に乗るナツミにも突っ込まれ、男と共にいる少女ですらこれまでの出来事に無表情を貫いていたにも関わらず少し眉をひそめて不機嫌を表す始末だ

『ワカッタ。……イマスグ、タチサルトイイ』

「ほっ、本当ですか!? いやぁ、良かった良かった! ──って、え? えっ、今、え? う、そ……だろ……? オオカミが、喋った……??」

 顔を上げ、代わりに肩を落として片眉を上げると引き攣った笑みが男の口から零れてしまう。そんな男を一瞥し、再びバドルドを睨んでくるのは少女だ

 しかし、低く唸り声を上げてみせると男が飛び起きてブンブンと勢い良く首を縦に振り立ち上がる

「い、行こ!? ほ、ほら! ボク達は元々、展望台を目指してたんじゃないか! だからここで立ち止まっていても意味が無いよ! ねっ!? ほら、だから行こ行こ!」

 矢継ぎ早に次々と言葉を並べ立てていく男を見上げて、それから両手を前に組み親指を動かしながら冷たい瞳に思わくを宿して小さく頷くと彼の手に引かれてその場から足早に遠ざかって行った

 ──最後に、盛大に何かを踏んでこけた男が悲痛の叫びを上げてしまうと言うちょっとした事が起こったのだが、彼女はこける事はなかったので一安心だ。──と言う風な顔で唇を尖らせて下手な鼻唄を歌いながら去って行く後ろ姿が、バドルド達はどこか痛々しく感じていた

『──イコウ』

 それだけを口にして首元の毛をナツミが掴むのを待つとその場から全力で疾走する。ひたすらに、ただひたすらに。小さな人物を目指して
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

はぁ?とりあえず寝てていい?

夕凪
ファンタジー
嫌いな両親と同級生から逃げて、アメリカ留学をした帰り道。帰国中の飛行機が事故を起こし、日本の女子高生だった私は墜落死した。特に未練もなかったが、強いて言えば、大好きなもふもふと一緒に暮らしたかった。しかし何故か、剣と魔法の異世界で、貴族の子として転生していた。しかも男の子で。今世の両親はとてもやさしくいい人たちで、さらには前世にはいなかった兄弟がいた。せっかくだから思いっきり、もふもふと戯れたい!惰眠を貪りたい!のんびり自由に生きたい!そう思っていたが、5歳の時に行われる判定の儀という、魔法属性を調べた日を境に、幸せな日常が崩れ去っていった・・・。その後、名を変え別の人物として、相棒のもふもふと共に旅に出る。相棒のもふもふであるズィーリオスの為の旅が、次第に自分自身の未来に深く関わっていき、仲間と共に逃れられない運命の荒波に飲み込まれていく。 ※第二章は全体的に説明回が多いです。 <<<小説家になろうにて先行投稿しています>>>

愛想を尽かした女と尽かされた男

火野村志紀
恋愛
※全16話となります。 「そうですか。今まであなたに尽くしていた私は側妃扱いで、急に湧いて出てきた彼女が正妃だと? どうぞ、お好きになさって。その代わり私も好きにしますので」

空間魔法って実は凄いんです

真理亜
ファンタジー
伯爵令嬢のカリナは10歳の誕生日に実の父親から勘当される。後継者には浮気相手の継母の娘ダリヤが指名された。そして家に置いて欲しければ使用人として働けと言われ、屋根裏部屋に押し込まれた。普通のご令嬢ならここで絶望に打ちひしがれるところだが、カリナは違った。「その言葉を待ってました!」実の母マリナから託された伯爵家の財産。その金庫の鍵はカリナの身に不幸が訪れた時。まさに今がその瞬間。虐待される前にスタコラサッサと逃げ出します。あとは野となれ山となれ。空間魔法を駆使して冒険者として生きていくので何も問題ありません。婚約者のイアンのことだけが気掛かりだけど、私の事は死んだ者と思って忘れて下さい。しばらくは恋愛してる暇なんかないと思ってたら、成り行きで隣国の王子様を助けちゃったら、なぜか懐かれました。しかも元婚約者のイアンがまだ私の事を探してるって? いやこれどーなっちゃうの!?

伯爵家の次男に転生しましたが、10歳で当主になってしまいました

竹桜
ファンタジー
 自動運転の試験車両に轢かれて、死んでしまった主人公は異世界のランガン伯爵家の次男に転生した。  転生後の生活は順調そのものだった。  だが、プライドだけ高い兄が愚かな行為をしてしまった。  その結果、主人公の両親は当主の座を追われ、主人公が10歳で当主になってしまった。  これは10歳で当主になってしまった者の物語だ。

若妻の穴を堪能する夫の話

かめのこたろう
現代文学
内容は題名の通りです。

【短編】冤罪が判明した令嬢は

砂礫レキ
ファンタジー
王太子エルシドの婚約者として有名な公爵令嬢ジュスティーヌ。彼女はある日王太子の姉シルヴィアに冤罪で陥れられた。彼女と二人きりのお茶会、その密室空間の中でシルヴィアは突然フォークで自らを傷つけたのだ。そしてそれをジュスティーヌにやられたと大騒ぎした。ろくな調査もされず自白を強要されたジュスティーヌは実家に幽閉されることになった。彼女を公爵家の恥晒しと憎む父によって地下牢に監禁され暴行を受ける日々。しかしそれは二年後終わりを告げる、第一王女シルヴィアが嘘だと自白したのだ。けれど彼女はジュスティーヌがそれを知る頃には亡くなっていた。王家は醜聞を上書きする為再度ジュスティーヌを王太子の婚約者へ強引に戻す。 そして一年後、王太子とジュスティーヌの結婚式が盛大に行われた。

ボロ雑巾な伯爵夫人、やっと『家族』を手に入れました。~旦那様から棄てられて、ギブ&テイクでハートフルな共同生活を始めます2~

野菜ばたけ@既刊5冊📚好評発売中!
ファンタジー
 第二夫人に最愛の旦那様も息子も奪われ、挙句の果てに家から追い出された伯爵夫人・フィーリアは、なけなしの餞別だけを持って大雨の中を歩き続けていたところ、とある男の子たちに出会う。  言葉汚く直情的で、だけど決してフィーリアを無視したりはしない、ディーダ。  喋り方こそ柔らかいが、その実どこか冷めた毒舌家である、ノイン。    12、3歳ほどに見える彼らとひょんな事から共同生活を始めた彼女は、人々の優しさに触れて少しずつ自身の居場所を確立していく。 ==== ●本作は「ボロ雑巾な伯爵夫人、旦那様から棄てられて、ギブ&テイクでハートフルな共同生活を始めます。」からの続き作品です。  前作では、二人との出会い~同居を描いています。  順番に読んでくださる方は、目次下にリンクを張っておりますので、そちらからお入りください。  ※アプリで閲覧くださっている方は、タイトルで検索いただけますと表示されます。

義妹の嫌がらせで、子持ち男性と結婚する羽目になりました。義理の娘に嫌われることも覚悟していましたが、本当の家族を手に入れることができました。

石河 翠
ファンタジー
義母と義妹の嫌がらせにより、子持ち男性の元に嫁ぐことになった主人公。夫になる男性は、前妻が残した一人娘を可愛がっており、新しい子どもはいらないのだという。 実家を出ても、自分は家族を持つことなどできない。そう思っていた主人公だが、娘思いの男性と素直になれないわがままな義理の娘に好感を持ち、少しずつ距離を縮めていく。 そんなある日、死んだはずの前妻が屋敷に現れ、主人公を追い出そうとしてきた。前妻いわく、血の繋がった母親の方が、継母よりも価値があるのだという。主人公が言葉に詰まったその時……。 血の繋がらない母と娘が家族になるまでのお話。 この作品は、小説家になろうおよびエブリスタにも投稿しております。 扉絵は、管澤捻さまに描いていただきました。

処理中です...