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第3話
しおりを挟む「おはようございまーす」
「お! 柚希ちゃんいいところに!」
派遣事務所のドアを開けると、社長が満面の笑みで迎えてくれた。
「……どうしたんですか?」
「ジャ~ン、新しいお仕事です!」
朝からテンションが高い社長に引きつつ、柚希は目の前に差し出された一枚の紙を受け取った。
それは新しいクライアントに関する資料をまとめたもので、クライアントの住所や連絡先はもちろん、要望や注意点なんかが細かく載っている。
病院でよく見るカルテみたいなものだ。
「先方が柚希ちゃんの仕事ぶりを聞いて、是非お願いしたいって」
「わたしの、ですか?」
自分の仕事が評価されるのは素直に嬉しい。柚希はぱぁっと顔を輝かせた。
渡された資料には『大庭』という名前と都心にある高そうなマンション名が記載されている。しかも31階。
(うわぁ……なんか物凄くお金持ちっぽいんですけど……)
「それで急なんだけど、今日の午前中に入ってる現場が終わったら、午後から向かってくれるかい?」
「はい!」
柚希は元気よく答えると、すぐさま仕事の準備に取り掛かった。
基本的に現場へはユニフォームを着てバイクで通う。
ユニフォームといっても、背中に社名である『スマイル』をモチーフにしたロゴが入った白いポロシャツとジーンズが主で、人によってはその上からエプロンを着たりするらしい。
柚希はまだ経験したことがないけれど、先輩方の中にはクライアントの要望のひとつに、レースのエプロン着用というものがあったと聞いたことがある。
いつものように私物の赤いキャップを被り直した柚希は、恐る恐る真新しいエントランスへと足を踏み入れた。
「えーと、31階の大庭さんは……」
慣れない手つきでオートロックのボタンを押しながら、柚希はもう一度部屋番号を確認する。
何事も最初が肝心だ。
柚希がそう気合いを入れ直したとき、電子板のスピーカーの向こうで無愛想な男性の声がしたと思ったら、いきなりエントランスのロックが解除された。
どうやら上まで上がって来いと言うことだろう。
「あれ……?」
(いまの声、どっかで聞いたことがあるような……)
柚希は首を傾げながらマンションの中へ入っていった。
「っ?!!」
玄関のチャイムを押して、社名を名乗ったところまでは良かった。
だが玄関のドアを開けた人物の姿を見たとき、柚希は冗談ではなく心臓が止まりそうになった。
「な、なんで…………」
「よう、来たな」
そう言って自分の目の前でニヤリと笑ったのは、MAINSの染井翔太その人だったのだ。
これは後から聞かされたのだが、大庭という名前は翔太の母方の名前だったらしく、マンションの契約や郵送物の宛名なんかに使っているらしい。
「……でも、これはナシでしょ…………」
自分が置かれている状況がいまだに信じられない。
柚希は持ってきた掃除用具をセットしながら、思わずため息をついた。
逃げ出したりはしないものの、せめて心の準備くらいしたかった。
最初の衝撃から呆然と立ち尽くした柚希を我に返らせたのは、かろうじて残っていた仕事への責任と、翔太の身体越しに見えた室内の様子があまりにもひどかったからだ。
まるで引っ越した直後のようなリビングは、口の開いた無数のダンボールがフローリングの床の上に散らばり、いろんな場所に書類や台本といった冊子物が無造作に積みあがっている。
おそらく翔太が日常的に使っている場所だけがある程度片付いており、部屋の中なのにけもの道のようになっているのだろう。
それにしても、いったいどうしたらここまで汚くなるのか。
柚希がどこから片付けようかと、室内を見渡したときだった。
「ちょっ……」
いつのまにか自分の後ろにいた翔太が、柚希の被っていたキャップを取り上げてしまった。そしてそのまま自分が被ってしまう。
「な、何するんですか!」
思わず取り返そうと伸ばした柚希の手を翔太があっさり捕まえると、空いている方の手で柚希の頭をぐしゃぐしゃとかき回す。
突然の出来事に再び固まってしまった柚希を見ながら、翔太が耳元でささやいた。
「……俺の前で帽子は禁止な」
「っ!!!?」
ついでにふっと息を吹きかけられ、真っ赤になった柚希はびくっとして耳を押さえた。
「これは、終わるまで没収」
そう言いながら上機嫌で笑っている翔太の様子に、柚希は動揺を隠せない。
(い、いま、何が起こったの……)
柚希は先ほどまで掴まれていた手を握り締めながら、とにかく落ち着こうと深呼吸を繰り返す。
なぜ自分がこんなに翔太にドキドキしているのか、柚希はそれだけが信じられなかった。
お掃除開始。
なんとか気を取り直した柚希は、まずあちこちに散らばったダンボールをどうにかしようと動き始めた。
これさえ片付けてしまえば、だいぶ使える場所が増えそうだ。
テキパキと荷物を詰め替えたり、ダンボールを潰したりしていた柚希は、ふと気になって後ろを振り返った。
「……なんでいちいちついてくるんですか」
文字通り、作業を始めてからずっと自分の後ろをついてまわっている翔太に、柚希は顔をしかめた。
「俺はこれでもアイドルだからな。もしなんかマズイものでも見られたり、持ち出されたりしたら、俺の仕事に関わるだろ」
もっともな言い分だが、このサービスを契約する際に、そういったことを一切しないという宣誓文を渡されているハズだ。もちろん、柚希の署名もちゃんと入っている。
それでも不安だったら契約しなきゃいいのに、と柚希はついムッとしてしまった。
「そんなことしません! それに、見られて困るものがあるなら、先に片付けておいてください!」
「あのなぁ、それが出来ねぇからあんたを呼んでるんだろ」
「う……」
「まぁとにかく、なんか見たとしても忘れろ。俺が困るってことは、潤也も困るってことだからな」
「え……?」
「ほら、手ぇ止まってるぞ」
「わかってます!」
(…………いま、潤也も困るって言ってた……。もしかして、あたしが潤也のファンだって、知ってる?)
柚希は翔太の言葉を不思議に思いながらも、せっせと手を動かした。
出来ることならば一刻も早く仕事を終わらせて、この部屋から逃げ出したかった。
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