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三十六話「精霊の泉」
しおりを挟む森をさまよい歩き茂みを抜けると、急に視界が開けた。
美しい泉の周りに色とりどりの可憐な花が咲き、泉が夕日を反射しキラキラと輝いていた。
「綺麗……」
自然と言葉が漏れた。
そういえば喉がカラカラだった、水も食料も持たずに森に入るとか、われながら無謀すぎる。兄上と再会できたら、また叱られてしまう。
地面に膝をつき泉の水をすくう。
夏なのに泉の水はとても冷たかった。
泉の底に何か見えた気がして、目を凝らす。
泉の底からなにかが浮上してきた。それは手のひらぐらいの大きさで、アルファベットの「B」の文字によく似ていた。
文字をすくい取ろうと手を伸ばす。文字はボクの手に触れると消えていった。
文字がボクの中に溶けていったような、不思議な感覚に襲われる。
「ベオーク……」
頭の中に言葉が浮かび、それを声に出していた。
「ここに人が来るとは、珍しいですね」
人の気配に気付き、振り返る。
「あなたは……?」
一目で精霊だとわかる、腰よりも長い銀色の髪、紫色の大きな瞳。
中性的な容姿に、幼い顔立ち、目鼻立ちの整った美麗な顔、白のローブを身につけたその精霊は、高潔なまでに清らかなオーラを放っていた。
この方が、ヴォルフリック兄上のお祖父様のラグ様だろうか?
ヴォルフリック兄上とはあまり似ていない。
ヴォルフリック兄上の目は切れ長で、彫りが深く、ギリシャ彫刻のように整った顔立ちをしている。
精霊は瞳が大きく、鼻と口が小さく、愛らしい顔をしている。
そして若い。ヴォルフリック兄上のお祖父様なら、少なくとも六十歳は越えているはず。目の前にいる精霊は十五、十六歳にしか見えない。
精霊は人より長く生きると聞く、目の前にいる精霊も、見た目よりずっと年を重ねているのかも?
「わたしはこの森に住む精霊」
やっぱり精霊だったんだ。
「精霊様、先程は民が精霊の森に不敬をはたらき、申し訳ありませんでした!」
ボクは立ち上がり、深く頭を下げた。
「不敬?」
「この地の民が精霊の森を開拓しようと、森の外に集まったことです。未遂とはいえこの地を守る精霊様の住む森を、傷つけようとしたことは重罪。シュタイン領の侯爵として謝罪いたします!」
「それで謝罪に?」
「民は貧しさからしたこと、民をそこまで追い込んだ罪はボクにあります。罰するのなら、ボクを罰してください」
貧しい民に責任はない。この地の領主として責めはボクが負う。
「顔を上げてください」
頭の上から聞こえてくる精霊様の声は、とても穏やかだった。
「あなたがこの地にやってきたのは今日の昼、いくらあなたが民を思っていても、この地に来たばかりでは何もできません。あなたを責めることはできません」
顔をあげると精霊様の暖かなほほ笑みが目に入った。それはとても麗しい笑顔だった。
「精霊様はボクが今日侯爵領に来たことをご存じなのですか?」
「これでもこの地を守る精霊ですから」
精霊様がふわりと笑う。とても気品のある笑顔だった。
「この地の侯爵に封じられたばかりなのに、民のしたことに責任を感じ謝罪に来るとは、あなたはとても責任感が強く思いやりのある性格なのですね」
「そうでしょうか」
ボクはまだまだ侯爵としても、人としても未熟だ。周りの人に支えてもらってやっと立っている。
「ボクは未熟で、ボクにできることなど大してありません」
今もヴォルフリック兄上の忠告を聞かず森に入り、迷子になっている。
「ボクが侯爵としてできることは、シュタイン領の代表として精霊様に謝り、この度の不始末の責任をとることぐらいです」
ボクにもっと力があれば、民の憂いを払ってあげられるのに。
「気高く立派で汚れがない魂を持っている」
精霊様がボクの目をまっすぐに見た。
「……少しだけあの人に似ていますね」
精霊様が小さな声で言った。
「えっ……?」
あの人って?
「ルーン文字に気に入られるわけです」
「ルーン文字?」
ファンタジー漫画や小説に出てくるので、聞いたことはある。詳しくは知らないけど。
「あなたが先ほど泉で拾った文字のことです」
泉の底からから浮かんできたアルファベットの「B」に似た文字。確か読み方は「べオーク」
「あの文字はべオーク、意味は白樺もしくは白樺の枝」
精霊様がボクの手に触れる、ボクの手が熱を持つ。精霊様が手を離すと、ボクの手のひらに一本の枝があった。
「その白樺の枝をあなたに差し上げます」
そう言い残し、精霊様は踵を返した。
「待ってください精霊様!」
追いかけたいが、足が地面に縫い付けられたみたいで動かない。
「民がこの地を開拓しようとしたことは、あなたのやさしさに免じ不問に付します」
よかった、精霊様が許してくださった。
「ありがとうございます!」
「その白樺の枝は、北の荒野に植えると良いでしょう」
精霊様が振り返り、ボクの握る白樺の枝を指差す。
「精霊様!」
深い霧が立ち込め、精霊様は霧の中に消えていった。
精霊様が消えると、ボクの体が動くようになった。
聞けなかった。
精霊様がヴォルフリック兄上のお祖父様なのかどうか。
ヴォルフリック兄上と精霊様の顔は似ていない。
でも精霊様に間近で顔をのぞき込まれた時、精霊様のアメジストの瞳と、兄上の紫水晶の瞳の輝きが、同じだと感じた。
精霊様も兄上もやさしくて穏やかな目をしている。
目の形とか大きさは全然違う、だけど精霊様に見つめられたとき、兄上に見つめられた時と同じように、暖かい気持ちになった。
やはりあの方が、ヴォルフリック兄上のお祖父様のラグ様……なのだろうか?
◇◇◇◇◇
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