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第一章
第七節
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「……お邪魔します」
「どうぞ。誰もいないから気楽にして」
華那は自宅の玄関を開けて、雪弥を自宅に招き入れた。
雪弥は靴を脱いで綺麗に揃えると、式台を上がる。
式台はトチノキが使用されている。トチノキの独特の木目や艶めきや触り心地は最高で、華那は密かに気に入っていた。
その式台を上がった瞬間、ふわっと木の匂いを感じてハッとする。
華那の家は築十年の木造住宅だが、まだ木の香りは完全には消えていない。
しかし、木の香りにはとっくに慣れているので、普段は特に感じないのだが。
どうやら、今日はやけに鼻が敏感になっているようだ。
敏感になっているのは多分、久しぶりに雪弥が家に遊びに来て緊張しているからだろう。
華那と雪弥は今、木目が美しい廊下を歩いて華那の部屋に向かっているところだ。
「お父さんとお母さん、どっちもまだ仕事か?」
雪弥がそのように質問してきたので、華那は「うん」と頷いた。
「最近は二人とも遅いんだよね……。でも、雪弥が遊びに来る事はちゃんと言ってあるから安心して」
華那の両親は共働きで、特に父親は帰りが遅くなる事が多い。通常、母親は夕方には仕事を終えて帰ってくる。
だが、最近は仕事が忙しいらしく、帰りが遅くなる事が増えてきた。その為、華那がほとんどの家事を担当している。
「ありがとう。……それで、大輝先輩は部活か?」
「ううん、大学だよ。今は下宿で暮らしてて一緒に住んでないの」
「そうなのか!? 大輝先輩ってもう大学生なんだなぁ……!」
華那の二歳年上の兄── 瀬川大輝は、去年までは私立高校に通っていた(華那と雪弥は公立高校に通っている)。
だが、今年の春から地元を離れて県外の大学に通い始めた。
去年秋頃から交流が薄くなった雪弥には、大輝の進路の話をする機会がなかった。だから、今日初めて話す事になってしまった。
なんか……そんな事すらも喋ってなかったんだなぁ、私たち。
華那は湧き出てきた暗い気持ちを何とか胸の奥に押し込んで、
「そうだよ。早いよねー」
そう返して少しだけ微笑んだ。それから話を強引に変える。
「お父さんもお母さんも兄ちゃんもいないけど、猫たちはみんないるよ!」
「早く会いたいなぁ」
猫たちに会えるのが楽しみなのか、雪弥の目はキラキラと輝いている。
学校から華那の自宅に到着するまでの間、華那と雪弥はお喋りを楽しんでいた。
話題は、中学の頃に仲良くなったきっかけでもある戦闘系の少年漫画だ。
自分たちが好きなキャラクターや特に面白かった場面、そして今後の展開について話し合った。
雪弥は笑いながら、沢山喋った。雪弥の笑顔は学校で見せたものとは異なり、引きつっていなかったので、華那は少し安堵した。
もしかしたら、雪弥の笑顔を引きつらせてしまった何らかの出来事とは無関係である──共通の趣味の話をしていただけだったから、雪弥は自然に笑えたのだろうか。
雪弥は華那の部屋に着くとすぐに、自分の荷物を床に適当に並べて置いた。華那が学習机の近くに荷物を下ろしている時には既に、一匹の黒猫に話しかけていた。
華那の紺色のベッドの上で、ゆったりとくつろいでいる黒猫のシホに。
「シホ、久しぶり! 元気にしてたか?」
シホは、華那が小学三年の時に初めて迎え入れた大切な家族である。
艶やかな真っ黒の毛に透き通った黄色の瞳、そして人見知りだが懐くとよく甘えてくるのが、シホの特徴だ。
「……覚えてるかな?」
シホは、久しぶりに会う雪弥の事を忘れており、人見知りしてしまうのではないだろうか。
華那はそのように心配しているのだ。
しかし、シホは雪弥をチラリと見るとすぐにベッドから降りて、雪弥の足にすりよってきた。黒く長い尻尾を垂直にピンと立てている。
「おぉ! 覚えてる覚えてる!」
良かった、と雪弥は嬉しそうに微笑んだ。
雪弥がシホの喉を優しく撫でると、シホは目を細めながらごろごろと嬉しそうに鳴いた。
喜んでいる一人と一匹。その少し離れた場所でぽつんと一人。
飼い主そっちのけじゃん!
またもや、自分だけ蚊帳の外になってしまった状況をちょっぴり寂しく感じた。しかしそれと同時に、雪弥がシホを見て愛おしそうに微笑んでいる姿に安堵した。
雪弥、楽しそう。よかった……。
「ねぇ、雪弥。癒されてる?」
「ん? ……あぁ、癒されてる癒されてる」
雪弥は話しかけた華那を見向きもせずに、素っ気なくそう答えた。シホと戯れるのに随分と夢中になっている。
と、ふと思いついたように雪弥は口を開いた。
「あっ、そうだ! 癒されタイムが終了したら、テスト勉強しねぇとな」
──いっ、癒されタイム!
まさか、雪弥の口からそんなワードが出るとは思わなかった華那は驚いて目を丸くした。
「あのー……」
華那は口元を囲うように両手を当てながら、雪弥に呼びかけた。
「癒されタイムは後どのくらいで終わりそうですかねー?」
「えっと……、まだまだかかりそうでーす」
雪弥は華那に合わせて敬語でそう答えるや否や、「可愛い!」という言葉を漏らした。
シホの可愛さに興奮気味なのか、声が少し上ずっている。
雪弥の邪魔をしちゃいけない。よし! じゃあ、私は……、
「私は先に勉強始めとくね」
「いや、お前もシホに癒されたら? まだテスト一週間前だぞ。授業を真面目に受けてれば赤点取ることはまずないだろうしな」
「うん、そうだね。でも苦手科目が不安だからやっとく」
「偉いな」
「でしょ?」
「ああ、すげぇ偉いと思う」
……えっ!? 雪弥に褒められるとか超嬉しいんだけど! やばいっ!
華那はにやつく顔を抑えながら、学生鞄から勉強用具を取り出した。取り出したそれらをダークブラウンの丸テーブルの上に綺麗に並べていく。
そうして勉強の準備だけ終えたその時、華那のベッドの下から錆び猫が音を立てずに出てきた。
その錆び猫は、黒より茶色の毛の方が多く、瞳は透き通った黄色だ。
錆び猫は雪弥を警戒するようにチラチラと確認しながら、座っている華那の膝の上にどすんと乗った。
「何だ、びっくりした! そんな狭いところに隠れてたんだ!? 小夏、心配しなくても大丈夫だよ? 雪弥は私の友達だから」
華那は安心させようと小夏の背中をゆっくり撫でる。
それでも、まだ雪弥を恐れているのか、小夏は鋭い眼光を雪弥を向け続けていた。
錆び猫の小夏は、三番目に瀬川家の家族になった。
小夏、と命名したのは父親だ。去年の十一月に、父親が小夏を発見して連れて帰ってきたからだ。
最初は飼い主が見つかるまで保護する予定だったが、結局見つからずに飼う事になったのだ。
「俺が来たからずっと隠れてたんだよな? 怖がらせてしまってごめんな、小夏」
雪弥が申し訳なさそうな顔で小夏に謝罪した。
雪弥は、シホや二番目に瀬川家の家族になったぶち猫のコタロウとは何度も遊んだ事がある。
だが、去年、雪弥は華那の家に一度も遊びに来ていないので、小夏とは今日が初対面だ。
「そんなに気にしなくても大丈夫だよ。小夏は元野良猫で他の子たちより警戒心が強いから」
「なるほど、そうなのか……」
華那が今雪弥に言った通り、小夏は飼い猫三匹の中で最も警戒心が強かった。
一緒に暮らし始めてから約半年経った現在では、華那たち家族に対してようやく心を開いてくれたように思う。
と、雪弥が抱っこしていたシホをひと撫でしてから、グレーで木の葉柄のカーペットの上に優しく下ろした。
「小夏、初めまして」
それから、落ち着いた声音で小夏に挨拶する。腰を下ろしている状態で、小夏から目を逸らしている。
「華那、ちょっとおもちゃ借りてもいいか?」
雪弥にそう訊かれて、華那はすぐに微笑みつつ頷いた。
「うん、いいよ!」
雪弥は華那に猫じゃらしを借りると、不規則に動かし始めた。
緑色の蛇のような猫じゃらしに、勢いよく飛びついたのはシホだ。
小夏はというと、猫じゃらしで楽しそうに遊んでいるシホと雪弥を静かにじーっと見詰めている。
「いいよ、小夏。遊びたくなったらいつでも遊びに行っておいで」
華那は自分の膝の上に寝ている小夏を撫でながらそう言った。
すると、小夏は僅かに身体を動かした。尻尾を見れば、迷っているかのようにユラユラと左右に揺れている。
……これは多分、大丈夫かもな。
華那の予想通り、およそ十分後に、小夏は忍び足でシホと雪弥たちの方へ近寄っていった。
そしてついに、小夏は猫じゃらしに飛びついてシホと一緒にパワフルに遊び始めた。とても楽しそうだ。
えーっ!? 飼い主の私より雪弥の方があっという間に小夏との距離縮めてるじゃん! ズルい!!
華那は雪弥に嫉妬して不貞腐れながらも、数学の問題をちゃんと解き進めていた。
「どうぞ。誰もいないから気楽にして」
華那は自宅の玄関を開けて、雪弥を自宅に招き入れた。
雪弥は靴を脱いで綺麗に揃えると、式台を上がる。
式台はトチノキが使用されている。トチノキの独特の木目や艶めきや触り心地は最高で、華那は密かに気に入っていた。
その式台を上がった瞬間、ふわっと木の匂いを感じてハッとする。
華那の家は築十年の木造住宅だが、まだ木の香りは完全には消えていない。
しかし、木の香りにはとっくに慣れているので、普段は特に感じないのだが。
どうやら、今日はやけに鼻が敏感になっているようだ。
敏感になっているのは多分、久しぶりに雪弥が家に遊びに来て緊張しているからだろう。
華那と雪弥は今、木目が美しい廊下を歩いて華那の部屋に向かっているところだ。
「お父さんとお母さん、どっちもまだ仕事か?」
雪弥がそのように質問してきたので、華那は「うん」と頷いた。
「最近は二人とも遅いんだよね……。でも、雪弥が遊びに来る事はちゃんと言ってあるから安心して」
華那の両親は共働きで、特に父親は帰りが遅くなる事が多い。通常、母親は夕方には仕事を終えて帰ってくる。
だが、最近は仕事が忙しいらしく、帰りが遅くなる事が増えてきた。その為、華那がほとんどの家事を担当している。
「ありがとう。……それで、大輝先輩は部活か?」
「ううん、大学だよ。今は下宿で暮らしてて一緒に住んでないの」
「そうなのか!? 大輝先輩ってもう大学生なんだなぁ……!」
華那の二歳年上の兄── 瀬川大輝は、去年までは私立高校に通っていた(華那と雪弥は公立高校に通っている)。
だが、今年の春から地元を離れて県外の大学に通い始めた。
去年秋頃から交流が薄くなった雪弥には、大輝の進路の話をする機会がなかった。だから、今日初めて話す事になってしまった。
なんか……そんな事すらも喋ってなかったんだなぁ、私たち。
華那は湧き出てきた暗い気持ちを何とか胸の奥に押し込んで、
「そうだよ。早いよねー」
そう返して少しだけ微笑んだ。それから話を強引に変える。
「お父さんもお母さんも兄ちゃんもいないけど、猫たちはみんないるよ!」
「早く会いたいなぁ」
猫たちに会えるのが楽しみなのか、雪弥の目はキラキラと輝いている。
学校から華那の自宅に到着するまでの間、華那と雪弥はお喋りを楽しんでいた。
話題は、中学の頃に仲良くなったきっかけでもある戦闘系の少年漫画だ。
自分たちが好きなキャラクターや特に面白かった場面、そして今後の展開について話し合った。
雪弥は笑いながら、沢山喋った。雪弥の笑顔は学校で見せたものとは異なり、引きつっていなかったので、華那は少し安堵した。
もしかしたら、雪弥の笑顔を引きつらせてしまった何らかの出来事とは無関係である──共通の趣味の話をしていただけだったから、雪弥は自然に笑えたのだろうか。
雪弥は華那の部屋に着くとすぐに、自分の荷物を床に適当に並べて置いた。華那が学習机の近くに荷物を下ろしている時には既に、一匹の黒猫に話しかけていた。
華那の紺色のベッドの上で、ゆったりとくつろいでいる黒猫のシホに。
「シホ、久しぶり! 元気にしてたか?」
シホは、華那が小学三年の時に初めて迎え入れた大切な家族である。
艶やかな真っ黒の毛に透き通った黄色の瞳、そして人見知りだが懐くとよく甘えてくるのが、シホの特徴だ。
「……覚えてるかな?」
シホは、久しぶりに会う雪弥の事を忘れており、人見知りしてしまうのではないだろうか。
華那はそのように心配しているのだ。
しかし、シホは雪弥をチラリと見るとすぐにベッドから降りて、雪弥の足にすりよってきた。黒く長い尻尾を垂直にピンと立てている。
「おぉ! 覚えてる覚えてる!」
良かった、と雪弥は嬉しそうに微笑んだ。
雪弥がシホの喉を優しく撫でると、シホは目を細めながらごろごろと嬉しそうに鳴いた。
喜んでいる一人と一匹。その少し離れた場所でぽつんと一人。
飼い主そっちのけじゃん!
またもや、自分だけ蚊帳の外になってしまった状況をちょっぴり寂しく感じた。しかしそれと同時に、雪弥がシホを見て愛おしそうに微笑んでいる姿に安堵した。
雪弥、楽しそう。よかった……。
「ねぇ、雪弥。癒されてる?」
「ん? ……あぁ、癒されてる癒されてる」
雪弥は話しかけた華那を見向きもせずに、素っ気なくそう答えた。シホと戯れるのに随分と夢中になっている。
と、ふと思いついたように雪弥は口を開いた。
「あっ、そうだ! 癒されタイムが終了したら、テスト勉強しねぇとな」
──いっ、癒されタイム!
まさか、雪弥の口からそんなワードが出るとは思わなかった華那は驚いて目を丸くした。
「あのー……」
華那は口元を囲うように両手を当てながら、雪弥に呼びかけた。
「癒されタイムは後どのくらいで終わりそうですかねー?」
「えっと……、まだまだかかりそうでーす」
雪弥は華那に合わせて敬語でそう答えるや否や、「可愛い!」という言葉を漏らした。
シホの可愛さに興奮気味なのか、声が少し上ずっている。
雪弥の邪魔をしちゃいけない。よし! じゃあ、私は……、
「私は先に勉強始めとくね」
「いや、お前もシホに癒されたら? まだテスト一週間前だぞ。授業を真面目に受けてれば赤点取ることはまずないだろうしな」
「うん、そうだね。でも苦手科目が不安だからやっとく」
「偉いな」
「でしょ?」
「ああ、すげぇ偉いと思う」
……えっ!? 雪弥に褒められるとか超嬉しいんだけど! やばいっ!
華那はにやつく顔を抑えながら、学生鞄から勉強用具を取り出した。取り出したそれらをダークブラウンの丸テーブルの上に綺麗に並べていく。
そうして勉強の準備だけ終えたその時、華那のベッドの下から錆び猫が音を立てずに出てきた。
その錆び猫は、黒より茶色の毛の方が多く、瞳は透き通った黄色だ。
錆び猫は雪弥を警戒するようにチラチラと確認しながら、座っている華那の膝の上にどすんと乗った。
「何だ、びっくりした! そんな狭いところに隠れてたんだ!? 小夏、心配しなくても大丈夫だよ? 雪弥は私の友達だから」
華那は安心させようと小夏の背中をゆっくり撫でる。
それでも、まだ雪弥を恐れているのか、小夏は鋭い眼光を雪弥を向け続けていた。
錆び猫の小夏は、三番目に瀬川家の家族になった。
小夏、と命名したのは父親だ。去年の十一月に、父親が小夏を発見して連れて帰ってきたからだ。
最初は飼い主が見つかるまで保護する予定だったが、結局見つからずに飼う事になったのだ。
「俺が来たからずっと隠れてたんだよな? 怖がらせてしまってごめんな、小夏」
雪弥が申し訳なさそうな顔で小夏に謝罪した。
雪弥は、シホや二番目に瀬川家の家族になったぶち猫のコタロウとは何度も遊んだ事がある。
だが、去年、雪弥は華那の家に一度も遊びに来ていないので、小夏とは今日が初対面だ。
「そんなに気にしなくても大丈夫だよ。小夏は元野良猫で他の子たちより警戒心が強いから」
「なるほど、そうなのか……」
華那が今雪弥に言った通り、小夏は飼い猫三匹の中で最も警戒心が強かった。
一緒に暮らし始めてから約半年経った現在では、華那たち家族に対してようやく心を開いてくれたように思う。
と、雪弥が抱っこしていたシホをひと撫でしてから、グレーで木の葉柄のカーペットの上に優しく下ろした。
「小夏、初めまして」
それから、落ち着いた声音で小夏に挨拶する。腰を下ろしている状態で、小夏から目を逸らしている。
「華那、ちょっとおもちゃ借りてもいいか?」
雪弥にそう訊かれて、華那はすぐに微笑みつつ頷いた。
「うん、いいよ!」
雪弥は華那に猫じゃらしを借りると、不規則に動かし始めた。
緑色の蛇のような猫じゃらしに、勢いよく飛びついたのはシホだ。
小夏はというと、猫じゃらしで楽しそうに遊んでいるシホと雪弥を静かにじーっと見詰めている。
「いいよ、小夏。遊びたくなったらいつでも遊びに行っておいで」
華那は自分の膝の上に寝ている小夏を撫でながらそう言った。
すると、小夏は僅かに身体を動かした。尻尾を見れば、迷っているかのようにユラユラと左右に揺れている。
……これは多分、大丈夫かもな。
華那の予想通り、およそ十分後に、小夏は忍び足でシホと雪弥たちの方へ近寄っていった。
そしてついに、小夏は猫じゃらしに飛びついてシホと一緒にパワフルに遊び始めた。とても楽しそうだ。
えーっ!? 飼い主の私より雪弥の方があっという間に小夏との距離縮めてるじゃん! ズルい!!
華那は雪弥に嫉妬して不貞腐れながらも、数学の問題をちゃんと解き進めていた。
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