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#39-1暴かれるものは空を割るもの

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<カリス>



 カリスは目を見開いたまま固まっていた。
 床に飛び散ったワインと、ワイン瓶の破片。それらが倒れたデルタの頭部周辺に撒き散らされている。
 急転した状況に人形の思考が追いつかない。

 先ほどまでデルタの奇怪な演奏によって歓声に湧いていた酒場はひどく静まり返っていた。
 一拍置いて気を取り直した山賊たちが、うつ伏せに倒れたデルタを取り囲む。

「あーあー。よりによって中身の入ったワイン瓶で殴りやがった」
「みろ、頭部の皮膚が切れてやがる。酒が入っちまっちゃ、もう駄目だ。すぐにおっ死ぬぞ」
「もったいねえなあ。こいつ変わった芸風で面白かったのによお」

 顔をしかめた山賊の頭領ライノルドが目を向けたのは依然、手を差し出したままカリスを見下ろすクサビエという男だった。

「クサビエだったか? アンタら、デル坊にずいぶんな大金を貰ってるそうじゃねえか。監視はまあ、そりゃそうだが場の取りなしの意味合いもあっただろうによ。それでこの仕打ちじゃあ、ちょいと道理が通らねえんじゃねえか?」

 苦言を呈されたクサビエは微動だにせず、反応すらしない。

「おい聞いてんのか」
「お頭。こいつ妙ですぜ」
「あん? なんだこりゃ」

 山賊たちが棒立ちしたクサビエを覗き込む。
 デルタが倒れ伏した状況に思考が止まっていたカリスもまた、目の前で立ち尽くす男の異変にようやく気がついた。
 切れ長の三白眼は先程までの黒い瞳孔ではない。まるで瞳の色を覆い隠すように紫水晶の光が渦巻いている。

『やれやれ。この監視者とやらが何者かの術中に嵌まっていることを我輩がわざわざ教えてやろうと出向いてやったというのに。我輩の話を聞かぬから』

 小さな死霊アンデッドの頭上で首を振りながらカリスにだけ念話を送るのは【賭しきもの】である。
 先ほど娼婦に遮られる直前、この竜はなにごとかをデルタに伝えようとしていたが、このことを忠告するつもりだったのだろう。

 魔術で操られているのか、洗脳されているのか。魔術は騎士団の人形の性能的に分野でないカリスには分からない。ともかくクサビエという男が正気でないのは事実である。

 視線を戻せば、デルタはいまだ倒れ伏したままだった。なんとか起き上がろうとしているようだが、ぐらつく黒い癖毛の頭はごとりと音を立てて床に落ちた。

 デルタは竜である。
 たとえ傷口から酒が入ったとて、放っておいてもおのずと再生するだろう。
 しかし。

 ――デルタ。

 カリスはクサビエを無視する形で腰をあげた。
 一瞬、かすかにクサビエによる命令が思考をよぎったが、不思議なほど自然に頭から抜け落ちていく。

 ひとりでにカリスの足が踏み出した、その時。

『おのれ……』

 地を這うような声が頭の中を反響する。
 ぎりぎりと脳を鷲掴みされたような激痛にカリスは、たたらを踏んだ。
 記憶しない人形でも覚えのあるこの感覚はデルタの左目を刺した時と同一のものである。

『おのれ、おのれ、おのれ! 卵殻に増殖する寄生虫の分際で、よくも我物に無様を晒したな!』

 激昂する声がカリスの脳を縦横無尽に揺さぶった。
 足に力が入らない。
 ブレた視界の中、頭を抱えてへたり込む。

『どこまで我を失望させる気か。やはりは駄目だ。滅ぶに値する。進歩なき愚鈍な虫どもよ、我が怒りに触れた愚を思い知るがいい!』

 絶叫する声とともに、耳の奥でカチリと鍵を開ける音が響き渡った。

 ――壁だ。灰色の壁が目の前に見える。灰色の石が積まれた壁には数えきれないほど真っ赤な引っ掻き傷が残されていた。
 その視界の端で自身の小さな両手が震えている。やわい五指の先端は血で染まっていた。つぶれた指先をかまうことなく壁に爪を立てていく。

 胸が押し潰されそうなほどの不快感、圧迫感、閉塞感。
 一秒たりともこの場にいたくなくて、けれども逃れられなくて。
 意味をなさない叫びが自身の口から迸る。

 やがて上から注がれる光で灰色の壁が塗りつぶされていく。天を仰ぐように視界が動いた先に、天井はなかった。四方が煙突のように高く伸びる壁は、その最終地点から黄金の光が降りそそいでいる。

 目映いその向こうに黒い点が見えた。
 点は粒となり、徐々に形を成していく。何かが上から落下しているのだと気づいた。

 そして黄金の光を引き裂くように降ってきたものは――ひとつの黒いパンだった。
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