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#14-1変化とパンツ
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<カリス>
ふと男に命令された内容を思い出す。
『これから君がやることは、うがい、手洗い、深呼吸、そして待つ。分かったかい?』
うがい、手洗い、深呼吸、待つ。
完全に忘れていた。命令の忘失など騎士団の人形にあるまじき事態である。命令は遂行しなければならない。
まっすぐ川岸へ泳ぎ、水面に膝のつく辺りでぱしゃぱしゃと命令遂行に励んでいると、やがて鳥とは違う羽ばたきを捕捉した。
首を引っ掴まれたように空を仰ぐ。
陽の傾いた空に、翼の生えた男のシルエットが現れていた。
相変わらず男の周囲だけが溢れんばかりの極彩色。まるで別の世界を刃で雑に切り取り、貼り付けたかのよう。
空は、こんなにも飴色だっただろうか。
日差しは、こんなにも針のごとく鋭かっただろうか。
鮮烈な色彩がカリスの眼球に突き刺さる。自身の意識も視線も、男とその周囲から外すことができない。
背後の空もそうだが、何より夕陽に包まれても尚負けない黒と赤のコントラストが焦げつきそうなほどカリスの網膜にこびりついた。
『やあやあ。思いの外ちゃんという事きいてるじゃないか。偉いぞ。素っ裸なことを除いては』
頭の中に直接響く不可思議な声音は、飛び立った時より幾分か浮ついていた。巨大な蝙蝠に似た翼を操り男がひらりと川辺に舞い降りると、カリスも引かれるようにして川をあがる。
そして全身ずぶ濡れのまま、野草の生い茂る川べりで男と対峙した。
自然と、自身の視線が男に吸い寄せられていくのを認識する。
夜闇を全身で背負いこんだような男。風が吹くと草原とともに黒衣がたなびいた。
風に煽られ、漆黒の癖毛が草木のざわめきとともに揺れる。くるりと巻いた毛先が軽やかに踊り、その下で真っ赤な瞳孔がカリスを見返した。
銀液を流していた左目に既に傷はない。だが右目のように瑞々しかったであろう真紅には薄墨色が混じり、その奥底から放つはずの光を完全に失っていた。傷は癒せても視力は戻らなかったのだと推測される。
褐色の厚い手が、どこか芝居がかった仕草でマントを払えば、ザクリと開いた切り傷のように血色の裏地が広がった。
男の一挙手一投足全てがカリスの視線を奪っていく。
眼球からもたらされる情報の洪水に、人形の頭は処理しきれないでいた。
だが、それでも問わねばならない。
男は人間なのか、竜なのか。その回答によって命令遂行の方針が変わる。
カリスは人形である。思考の処理より優先すべきは命令だ。
命令は遂行されなければならない。
「問う。お前は」
『ひとつ言いたいんだが』
両者に沈黙が降り、風が吹く。
被った。
であれば、黙って聞くのは人形であるカリスの方である。
すっと唇を閉ざしたカリスに男はぱちぱち瞬きすると何故か脱力するように苦笑した後、腕を組み、片方の手の平を円を描くようにくるりと空に向けた。
仕草がいちいち芝居がかっている。
カリスは夕陽を浴びて艶やかな金色を帯びる手の平を凝視した。
この手がどれほど熱く柔いのかを、カリスは知っている。
洞窟から連れ出される際、カリスはこの手に鼻と口を覆われ、抱えられていた。
頬にひたりと添う指先の感触と、鼻腔を仄かにくすぐる林檎に似た香り。腰に回された腕の温かさに、横腹を掴む手の平の力強さ。
触れた男の手がカリスの膚に強烈な記憶を植え付けていた。
この手を近づけられれば自然と引き寄せられるように見分してしまう。見ているとあの感触が蘇ってくるようだ。
形のよい手――だと推測される。
人形でさえそう判断するのだから、人から見れば美しい手なのだろう。
ただの男の手だとは理解している。だというのに人形には分からないだけで希少な宝石のように価値があるのではないかと疑問視してしまう自身に、カリスはすーっと首を傾げた。
手の平から男に視線を戻す。男は笑顔を浮かべたまま眉をハの字にしていた。
無言で手の平に視線を戻す。
この手は何かを指し示しているのだろうか。
空を仰いで確認する。灰色がかった空に野鳥の群れがよぎる。それだけだ。
視界を灰色から極彩色に戻せば、今度は空に向けていた手でポリポリと頬を掻いていた。
先ほどの動作には何か意図があったらしい。だが察することは人形のカリスにとって難易度の高いスキルだった。
『失礼。遮ってしまったね。お先に質問どうぞ』
再度同じように手を動かし器用に片側だけ眉尻を下げて笑う男に、どうやらあの動作は発言権をカリスに委ねる為のものだったのだと知る。
ならば始めから口頭で伝えれば正確に伝達されたというのに、何故この男は手の動作による意思表示をしたのか。人形の頭では永遠に解せない問題である。
「問う。お前は竜か、人間か。どちらだ」
『あ、そういえばそれさっきも言っていたね。どっちもだよ』
「あ?」
自然と妙な音が口から漏れ出ていた。
漸く実行できた問いに対し、提示された回答があまりにも不可解極まるもので、男の発した内容が上手く解せない。
『いやいや、ちょっと待ちたまえ。補足するからそんな自分の種族分類もまともに認識できない下等生物以下のカスかお前死ねみたいな声出さないでくれ』
漏れ出た一文字にどれほどの意味が集約されていたのだろうか。
カリスには分からない。
『まあ理解しがたいとは思うけどね。俺は竜と人間、どちらもと謂えるんだ。というのも今世は竜で生まれたんだけど前世は人間でね。現在の俺の思考も嗜好も志向も、ほぼ人間時代に培われたものなんだ』
「?」
『この通り、無意識に変身しちゃっても細部まで徹底した人間の体だ。これはちょっとやそっとの認識ではなし得ない。芯の髄まで人間としての意識がなければこうはならないのさ。とはいえ竜の魂ともいえる竜としての在り方だって備えているし、竜としての自覚も人間のそれと同じくらい俺の内にはある』
「……?」
『そもそも生物が分類される基準とは何か。認識か? 外見か? 生態か? いいや。答えはそう――遺伝子だ』
「…………?」
『すべての生物は遺伝子の差異が多いか小さいかでカテゴライズされる。それを踏まえて考えれば、竜でありながら遺伝子レベルで人間になれる俺は、どちらの条件も完璧に満たしている。だから結論を述べれば竜と人間どちらも、と謂えるだろう。分かったかい?』
「………………?」
『だよね。ワ~ッハッハッハ!』
何も言っていないのに男は高らかな笑いを上げている。発言内容もほぼ理解不能。
やはり人形の処理能力では限界があるのだろう。
ふと男に命令された内容を思い出す。
『これから君がやることは、うがい、手洗い、深呼吸、そして待つ。分かったかい?』
うがい、手洗い、深呼吸、待つ。
完全に忘れていた。命令の忘失など騎士団の人形にあるまじき事態である。命令は遂行しなければならない。
まっすぐ川岸へ泳ぎ、水面に膝のつく辺りでぱしゃぱしゃと命令遂行に励んでいると、やがて鳥とは違う羽ばたきを捕捉した。
首を引っ掴まれたように空を仰ぐ。
陽の傾いた空に、翼の生えた男のシルエットが現れていた。
相変わらず男の周囲だけが溢れんばかりの極彩色。まるで別の世界を刃で雑に切り取り、貼り付けたかのよう。
空は、こんなにも飴色だっただろうか。
日差しは、こんなにも針のごとく鋭かっただろうか。
鮮烈な色彩がカリスの眼球に突き刺さる。自身の意識も視線も、男とその周囲から外すことができない。
背後の空もそうだが、何より夕陽に包まれても尚負けない黒と赤のコントラストが焦げつきそうなほどカリスの網膜にこびりついた。
『やあやあ。思いの外ちゃんという事きいてるじゃないか。偉いぞ。素っ裸なことを除いては』
頭の中に直接響く不可思議な声音は、飛び立った時より幾分か浮ついていた。巨大な蝙蝠に似た翼を操り男がひらりと川辺に舞い降りると、カリスも引かれるようにして川をあがる。
そして全身ずぶ濡れのまま、野草の生い茂る川べりで男と対峙した。
自然と、自身の視線が男に吸い寄せられていくのを認識する。
夜闇を全身で背負いこんだような男。風が吹くと草原とともに黒衣がたなびいた。
風に煽られ、漆黒の癖毛が草木のざわめきとともに揺れる。くるりと巻いた毛先が軽やかに踊り、その下で真っ赤な瞳孔がカリスを見返した。
銀液を流していた左目に既に傷はない。だが右目のように瑞々しかったであろう真紅には薄墨色が混じり、その奥底から放つはずの光を完全に失っていた。傷は癒せても視力は戻らなかったのだと推測される。
褐色の厚い手が、どこか芝居がかった仕草でマントを払えば、ザクリと開いた切り傷のように血色の裏地が広がった。
男の一挙手一投足全てがカリスの視線を奪っていく。
眼球からもたらされる情報の洪水に、人形の頭は処理しきれないでいた。
だが、それでも問わねばならない。
男は人間なのか、竜なのか。その回答によって命令遂行の方針が変わる。
カリスは人形である。思考の処理より優先すべきは命令だ。
命令は遂行されなければならない。
「問う。お前は」
『ひとつ言いたいんだが』
両者に沈黙が降り、風が吹く。
被った。
であれば、黙って聞くのは人形であるカリスの方である。
すっと唇を閉ざしたカリスに男はぱちぱち瞬きすると何故か脱力するように苦笑した後、腕を組み、片方の手の平を円を描くようにくるりと空に向けた。
仕草がいちいち芝居がかっている。
カリスは夕陽を浴びて艶やかな金色を帯びる手の平を凝視した。
この手がどれほど熱く柔いのかを、カリスは知っている。
洞窟から連れ出される際、カリスはこの手に鼻と口を覆われ、抱えられていた。
頬にひたりと添う指先の感触と、鼻腔を仄かにくすぐる林檎に似た香り。腰に回された腕の温かさに、横腹を掴む手の平の力強さ。
触れた男の手がカリスの膚に強烈な記憶を植え付けていた。
この手を近づけられれば自然と引き寄せられるように見分してしまう。見ているとあの感触が蘇ってくるようだ。
形のよい手――だと推測される。
人形でさえそう判断するのだから、人から見れば美しい手なのだろう。
ただの男の手だとは理解している。だというのに人形には分からないだけで希少な宝石のように価値があるのではないかと疑問視してしまう自身に、カリスはすーっと首を傾げた。
手の平から男に視線を戻す。男は笑顔を浮かべたまま眉をハの字にしていた。
無言で手の平に視線を戻す。
この手は何かを指し示しているのだろうか。
空を仰いで確認する。灰色がかった空に野鳥の群れがよぎる。それだけだ。
視界を灰色から極彩色に戻せば、今度は空に向けていた手でポリポリと頬を掻いていた。
先ほどの動作には何か意図があったらしい。だが察することは人形のカリスにとって難易度の高いスキルだった。
『失礼。遮ってしまったね。お先に質問どうぞ』
再度同じように手を動かし器用に片側だけ眉尻を下げて笑う男に、どうやらあの動作は発言権をカリスに委ねる為のものだったのだと知る。
ならば始めから口頭で伝えれば正確に伝達されたというのに、何故この男は手の動作による意思表示をしたのか。人形の頭では永遠に解せない問題である。
「問う。お前は竜か、人間か。どちらだ」
『あ、そういえばそれさっきも言っていたね。どっちもだよ』
「あ?」
自然と妙な音が口から漏れ出ていた。
漸く実行できた問いに対し、提示された回答があまりにも不可解極まるもので、男の発した内容が上手く解せない。
『いやいや、ちょっと待ちたまえ。補足するからそんな自分の種族分類もまともに認識できない下等生物以下のカスかお前死ねみたいな声出さないでくれ』
漏れ出た一文字にどれほどの意味が集約されていたのだろうか。
カリスには分からない。
『まあ理解しがたいとは思うけどね。俺は竜と人間、どちらもと謂えるんだ。というのも今世は竜で生まれたんだけど前世は人間でね。現在の俺の思考も嗜好も志向も、ほぼ人間時代に培われたものなんだ』
「?」
『この通り、無意識に変身しちゃっても細部まで徹底した人間の体だ。これはちょっとやそっとの認識ではなし得ない。芯の髄まで人間としての意識がなければこうはならないのさ。とはいえ竜の魂ともいえる竜としての在り方だって備えているし、竜としての自覚も人間のそれと同じくらい俺の内にはある』
「……?」
『そもそも生物が分類される基準とは何か。認識か? 外見か? 生態か? いいや。答えはそう――遺伝子だ』
「…………?」
『すべての生物は遺伝子の差異が多いか小さいかでカテゴライズされる。それを踏まえて考えれば、竜でありながら遺伝子レベルで人間になれる俺は、どちらの条件も完璧に満たしている。だから結論を述べれば竜と人間どちらも、と謂えるだろう。分かったかい?』
「………………?」
『だよね。ワ~ッハッハッハ!』
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やはり人形の処理能力では限界があるのだろう。
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