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16 カモ
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暗い路地を、スマホを片手に走り抜ける。地図が示すセーフハウスは現在地から歩いて10分と表示されていた。人目につかない道を選んで走ったとしても、おそらくそれくらいで到着できるだろう。目的地ができた分、希望はできたが、囮としてカデンツォ兄弟を置いてきてしまったことは重たく胸にのしかかった。いや、それだけではなく、ただの一般人だと信じてきたユウゴが結局テオドールの仲間であったという事実を飲み込み切れないままでいた。俺は結局どこまでも、テオドールが用意した箱庭の中で生かされてきたのだろうか。
「ハイネ!」
「……トーマさん!?」
低い声に呼び止められ、踏鞴を踏む。路地を抜けた先、少しだけ広い道路に寄せられていた黒い車がパッシングした。
「追われてるのか? 相変わらず不運だな。乗れ!」
「でも」
「構やしねえよ、乗れ」
なぜここにいるのか、と思うが、今までのテオドールとの関係性を鑑みれば、カデンツォ兄弟ともどもトーマもまたテオドールに呼び出だされたのだろうと納得する。車に乗り込むと染み付いたような煙草の匂いがした。
「どうしてトーマさんがここに?」
「テオドールから招集されたんだよ。お前が危ねえから保護しろって」
俺は別にあいつの部下でもなんでもねえのに、とぶつくさ言いながら人気のない道を走り続ける。
俺は手に持ったままのスマホを見ながら、口内が張り付くように乾くのを感じていた。
「トーマさん」
「どうした? 追手でも見えたか」
「……今、どこへ向かってるんですか? 」
「どこって、安全なところだ」
「テオドールから、セーフハウスの場所は指示されなかったんですか?」
現在地を示す地図上の青い丸は、セーフハウスから離れていっていた。
「…………良いか、ハイネ。ヤクザ者を信用しちゃあいけねえ。ヤクザがカタギに親切にするのは裏がある」
「……俺はカモだったってことですか」
「いいや? お前のことは心から、不憫で不運な奴だって思ってる。だがうちはあくまでも組織だ。俺の上に組長がいる。組長の意思が組の意思で、組の意思が俺の意思だ。……岩路透真個人が何を思っていても関係ねえ」
淡々としかし彼らしからぬどこか上滑りするような話し方をしながらトーマはアクセルを踏んだ。
「俺を連れて行って、どうするんですか」
「……これはただの独り言だが、お前の持ってる紙袋を回収して、お前の身柄を保護。紙袋は最初からうちに来る予定のものだったとして、お前の身柄自体はテオドールに引き渡して恩を売る。危機的状況を救ってやった、てな」
「っていうのはトーマさんの考えですね。しかも即席の。文脈を少し変えるだけでいくらでも言い様ができます。“テオドールの部下が薬を持って逃走。この件をもってテオドールを強請る”とか。それか俺自身が人質にならないなら“組”にとって俺は生きてるだけで邪魔でしょう」
「……お前の命くらいなら、俺がかばうさ」
「あなたの意思は組の意思じゃない。そう言ったばかりでしょう。本当に庇う気があるなら薬物は置いていくので俺を車から降ろしてください」
トーマは煙草の煙でも吐くようにため息を吐いた。
「うちをテオドールのとこよりマシとは思えないか? 俺たちはああも惨たらしく易々と人を殺したりしねえ。仁義も道理もある。お前のことを性的に求めることもない」
「ヤクザ者を信用しちゃいけないんじゃないですか」
「……そりゃそうだ。まあ大人しくしててくれ。もうお前にできることはない」
流れていく車窓から眺める景色は暗く、ほとんど明かりもない。
「大人しく、してなかったら?」
「お前が痛い思いをする」
痛いのは、嫌だろう?
視線も合わさずトーマは囁くように言った。信号が赤に変わる。歩行者も車もない交差点で、車は律儀に停止した。
「ハイネ、ドアノブから手を離せ。今なら見なかったことにしてやれる」
顔は正面を向いているのに、ノブに手を掛けた俺を咎めた。
「トーマさん、そのままこちらを見ないフリをしていてください。そうすれば俺は今夜トーマさんの車には乗ってなかったってことにしてあげます」
「……ハイネ、お前が俺のことを信用してくれるのは嬉しい。だがあまりに楽観視が過ぎる」
トーマは右手を懐に入れた。
「トーマさん、それを出さないでください。今なら見なかったことにできます」
「駄目だ、ハイネ」
「……残念です」
俺はノブから手を離し、トーマに倣うように前方を見た。灯りのほとんどない暗い道に赤信号が煌々と光っている。
「トーマさん、この赤信号少し長いと思いませんか?」
「は?」
トーマが信号を注視した瞬間、後部座席の窓ガラスがけたたましい音を立てて砕けた。その隙にシートベルトを外し車外へと転がり出る。そして俺と入れ替わるように車外にいたテオドールが助手席へと乗り込んだ。
「手前ぇ……!」
「やあ元気そうだね、トーマ。おっとハザードランプをつけておこう。まあ他に車なんていないだろうけど」
淡々とハザードランプをつけたテオドールの右手には拳銃が握られ、それはトーマのこめかみに突きつけられていた。
「すまないハイネ。来るが随分と遅くなってしまった。怖かっただろう」
「暗闇から走ってくるあんたの姿をバックミラーで見た時は相当怖かったですよ」
「そこは格好良かったって言って欲しかったなあ。ほら、ヒーローは遅れてやってくるっていうだろう?」
「たぶんそういうタイプのヒーローは返り血を浴びてない状態で来ると思う」
少なくとも、血塗れで隣の男に銃口を突きつけるテオドールはどう見てもヴィラン側だ。
「うーんじゃあダークヒーローかな。日本だと好まれるって聞いてる。君も今の私は十分ヒロイックだと思うだろう、トーマ」
「……テオドール」
「君のことはとても気に入っていたのに、残念だ」
喘ぐように名前を呼んだトーマにテオドールは淡々と返す。気に入っていた、などと言う言葉がひどく軽薄に聞こえた。トーマはため息とともに懐から手を出し、何も持っていないことを示すよう両手を上げた。
「ねえ、君のところのボスはクスリが嫌いだったと思うのだけど」
「親父はクスリは嫌いでも金は大好きでね。……使いようによってはシノギになると思ったんだろう」
「なるほど、愛らしいほど浅はかだ。新しいシノギなど欲をかいたせいで君のボスは何もかもを失うことになる。仕事も、居場所も、ファミリーも」
「テオドール」
「わかっているよ。可愛いハイネの我儘だ。聞いてあげよう」
テオドールは流れるような動作でこめかみに突きつけていた銃口を下ろすとそのままトーマの腿を撃ち抜いた。
「ぐうっ……!」
「ハイネの前だ。これくらいにしてあげよう。君もわかるだろう? ハイネのような善良な人間は、相手がどんな救いようのない生き物だって慈悲を抱いてしまうんだ。どうか彼に感謝して」
「……どうするつもりだ」
「そうだね、掃除かな。君のボスはもう私のビジネスパートナーではなくなってしまったし、そうなればもう君たちは邪魔なだけだからね。そう、なんというんだっけ。一族郎党皆殺し? うちの部下の好きな言葉なんだ。死んでしまえばすべてごはんだからね」
「てめえ……!」
「トーマ、今夜はここで一人膝を抱えていると良い。夜が明ければ、何もかも終わっているよ。君が、何もしなければ、君は夜明けを迎えることができる」
ぞっとするような声だった。見逃してやる、と言外に言いつつ、それを守らなければ簡単に命を吹き消すと告げている。
「ボスが愚かだとファミリーが苦労する。かわいそうに。さて、君は路頭に迷ったら私のもとにでも来るといい。手駒はいくらあっても困らないのだから」
脂汗を流すトーマの頬を一撫ですると、それ以上何も言わずあっさりと車を降りた。その足取りはいつも通りで、今まさに暴力を振りかざし人を脅してきた人間には見えなかった。いやよく考えればそれこそいつも通りだということなのだろうが。
「ハイネ、車の陰にでもしゃがんでて」
「え、」
「まだ終わってないよ。君が嫌いそうな展開だ。君に見せたくない、聞かせたくない。いい子だから耳を塞いで目を瞑っていてくれないか。私が君に触れるまで、何も見ず、聞かず、待っていてくれ」
テオドールからは血と咽るような煙の匂いがした。恐る恐る、車の側でしゃがみこむ。灯りがなく、彼がどんな顔をしているかわからなかった。
離れていく足音の持ち主はわかっている。風の音と荒い車内に残されたトーマの荒い息が妙に大きく聞こえた。そしてそれからすぐに、激しい発砲音がそこら中からした。ぐ、と身を縮め、彼に言われた通り耳を塞ぎ、瞼をきつく閉じた。耳を塞いでも、遮れない音。瞼越しに時折見える光。まるでドラマか映画の中だ、と心の中で呟いても、欠片も心は晴れなかった。物語の最後は大団円だ。けれどこの夜が明けたところで、そんなものが待っているとは到底思えなかった。きっと今夜は、多くのものが失われる夜だ。
何も見ず、聞かずにいられることは、幸せなことなのだろう。いやに響く自分の心音だけを聞いていた。
俺が身を縮こまらせている間、トーマは動かなかった。テオドールは彼から銃を奪うことはしなかったし、彼が撃たれたのは片足だけだった。今、テオドールが相手をしているのがトーマの所属している組なのか、それとも最初に薬物を持っていた男の仲間なのか判然としないが、トーマは彼らに加勢することも、テオドールを追うこともなかった。彼には反撃の手段が残されていた。それこそ車の陰に無様に蹲る俺を人質にとることもなかった。
今トーマが、何を思い、車内で一人項垂れているのか、俺にはわからなかった。
それからどれだけ時間がたったかわからない。ふと、肩を叩かれた。
「……テオドール、終わったか?」
「ん、まあね。こちらが無勢だというのに、逃げ出したよ」
ゆっくりと瞼を開けると、そこにはテオドールがいた。何も変わらない、いつも通りの彼だ。ただ暗闇に慣れたせいで、見たくないものまで見える。
「ハイネ、見なくていい。さあもう行こう。今はとにかく、安全な場所へ」
俺の視界を遮るように前に立った。咽るような匂いに嗅ぎ覚えあって、硝煙とは花火によく似ているのだと初めて知った。
「トーマ、私たちはもう行くよ。一晩大人しく、これからのことを考えると良い」
雑にそう言葉を投げかけると、テオドールは振り向くことなく歩き出した。
ここは、花火を見た帰り道と似ていた。非現実は現実の地続きだ。硝煙の匂いも、爆発するような音も、乾いた血も、非日常の残滓のようにまとわりつく。
「テオドール、ユウゴやルドルフは……!」
「大丈夫。さっきルドルフの携帯から連絡があったよ。二人とも無事だ。とりあえず逃げおおせたらしい。合流するように言ってある」
「良かった……」
ユウゴの言葉からは争うことを好んだり、自信があるようには聞こえなかった。ただ話しているだけなら、本当に普通の青年だ。思い出せばいろいろと思うところはあるが、ひとまずは無事を喜びたい。
「……トーマさんは、これから、」
「とりあえず生きてはいる。これからの身の振り方は君の知るところではないだろう。まあ今回組が瓦解することで無職となるが、彼も大人だ。それなりにやっていくさ。ところでハイネ、諸悪の根源たるクスリは?」
テオドールに促され、紙袋を渡す。長時間俺が抱きかかえていたせいで紙袋はしわくちゃになっていた。テオドールがひょいとそれを受け取るとようやく重荷を下ろせたような感覚に安堵した。
「ハ、こんなもの店に置いて逃げてしまえばよかったんだ」
「パニックになってて……」
「怪我は……なさそうだけど、服の下の問題ない?」
「何も。発砲はされましたが、当たらなかったので」
「ふうん、どんな奴だった? 顔は覚えてる?」
「あんまり覚えてませんが、ユウゴがワゴンではねました」
「そう、戦うのは好きじゃないと言うのに、思い切りが良いなあの子は」
暗闇の中で、テオドールがうっそりと笑った。そこで初めて、テオドールが駆けつけてから一度たりとも笑っていなかったことに気づいた。声色は平時のように淡々としているが、常に浮かべられている微笑みは消えうせている。
「テオドール、どこか怪我を?」
「……私の心配をしてくれるのかい?」
本気で驚いているらしい声色に、ぐ、と押し黙った。ユウゴ、ルドルフ、トーマの心配をして、そのうえで自分は除外されていて当然という感覚を持っていたことに、ティースプーン一杯程度の罪悪感が湧いた。
「心配、しないわけないでしょう」
普段はこの男には皮肉や嫌味ばかり吐いているせいで、うまく言葉が選べない。ようやく出た言葉も、得も言われぬ違和感に襲われる。
「今回の件は、完全に俺の不注意で、あなたたちをまきこみました」
「君が悪いわけじゃない。悪いのはジャンキーだ」
「それでも、俺が電車でうたた寝しなければ、持っていた荷物を抱えていれば取り違えることもなかった」
「でももし、私が君を攫ってカプラに囲い込まなければ、こんな夜が君に訪れることはなかった」
どこか不自然さを感じてテオドールを見上げた。
「……そういう、根本的な否定は好きじゃありません」
「そうは思わなかったかい?」
「少なくとも、今回の件に関しては」
いつも鬱陶しいほど俺の顔を見ているのに、灰色の目は俺を映すことなくただ前だけを見ていた。
「ハイネ!」
「……トーマさん!?」
低い声に呼び止められ、踏鞴を踏む。路地を抜けた先、少しだけ広い道路に寄せられていた黒い車がパッシングした。
「追われてるのか? 相変わらず不運だな。乗れ!」
「でも」
「構やしねえよ、乗れ」
なぜここにいるのか、と思うが、今までのテオドールとの関係性を鑑みれば、カデンツォ兄弟ともどもトーマもまたテオドールに呼び出だされたのだろうと納得する。車に乗り込むと染み付いたような煙草の匂いがした。
「どうしてトーマさんがここに?」
「テオドールから招集されたんだよ。お前が危ねえから保護しろって」
俺は別にあいつの部下でもなんでもねえのに、とぶつくさ言いながら人気のない道を走り続ける。
俺は手に持ったままのスマホを見ながら、口内が張り付くように乾くのを感じていた。
「トーマさん」
「どうした? 追手でも見えたか」
「……今、どこへ向かってるんですか? 」
「どこって、安全なところだ」
「テオドールから、セーフハウスの場所は指示されなかったんですか?」
現在地を示す地図上の青い丸は、セーフハウスから離れていっていた。
「…………良いか、ハイネ。ヤクザ者を信用しちゃあいけねえ。ヤクザがカタギに親切にするのは裏がある」
「……俺はカモだったってことですか」
「いいや? お前のことは心から、不憫で不運な奴だって思ってる。だがうちはあくまでも組織だ。俺の上に組長がいる。組長の意思が組の意思で、組の意思が俺の意思だ。……岩路透真個人が何を思っていても関係ねえ」
淡々としかし彼らしからぬどこか上滑りするような話し方をしながらトーマはアクセルを踏んだ。
「俺を連れて行って、どうするんですか」
「……これはただの独り言だが、お前の持ってる紙袋を回収して、お前の身柄を保護。紙袋は最初からうちに来る予定のものだったとして、お前の身柄自体はテオドールに引き渡して恩を売る。危機的状況を救ってやった、てな」
「っていうのはトーマさんの考えですね。しかも即席の。文脈を少し変えるだけでいくらでも言い様ができます。“テオドールの部下が薬を持って逃走。この件をもってテオドールを強請る”とか。それか俺自身が人質にならないなら“組”にとって俺は生きてるだけで邪魔でしょう」
「……お前の命くらいなら、俺がかばうさ」
「あなたの意思は組の意思じゃない。そう言ったばかりでしょう。本当に庇う気があるなら薬物は置いていくので俺を車から降ろしてください」
トーマは煙草の煙でも吐くようにため息を吐いた。
「うちをテオドールのとこよりマシとは思えないか? 俺たちはああも惨たらしく易々と人を殺したりしねえ。仁義も道理もある。お前のことを性的に求めることもない」
「ヤクザ者を信用しちゃいけないんじゃないですか」
「……そりゃそうだ。まあ大人しくしててくれ。もうお前にできることはない」
流れていく車窓から眺める景色は暗く、ほとんど明かりもない。
「大人しく、してなかったら?」
「お前が痛い思いをする」
痛いのは、嫌だろう?
視線も合わさずトーマは囁くように言った。信号が赤に変わる。歩行者も車もない交差点で、車は律儀に停止した。
「ハイネ、ドアノブから手を離せ。今なら見なかったことにしてやれる」
顔は正面を向いているのに、ノブに手を掛けた俺を咎めた。
「トーマさん、そのままこちらを見ないフリをしていてください。そうすれば俺は今夜トーマさんの車には乗ってなかったってことにしてあげます」
「……ハイネ、お前が俺のことを信用してくれるのは嬉しい。だがあまりに楽観視が過ぎる」
トーマは右手を懐に入れた。
「トーマさん、それを出さないでください。今なら見なかったことにできます」
「駄目だ、ハイネ」
「……残念です」
俺はノブから手を離し、トーマに倣うように前方を見た。灯りのほとんどない暗い道に赤信号が煌々と光っている。
「トーマさん、この赤信号少し長いと思いませんか?」
「は?」
トーマが信号を注視した瞬間、後部座席の窓ガラスがけたたましい音を立てて砕けた。その隙にシートベルトを外し車外へと転がり出る。そして俺と入れ替わるように車外にいたテオドールが助手席へと乗り込んだ。
「手前ぇ……!」
「やあ元気そうだね、トーマ。おっとハザードランプをつけておこう。まあ他に車なんていないだろうけど」
淡々とハザードランプをつけたテオドールの右手には拳銃が握られ、それはトーマのこめかみに突きつけられていた。
「すまないハイネ。来るが随分と遅くなってしまった。怖かっただろう」
「暗闇から走ってくるあんたの姿をバックミラーで見た時は相当怖かったですよ」
「そこは格好良かったって言って欲しかったなあ。ほら、ヒーローは遅れてやってくるっていうだろう?」
「たぶんそういうタイプのヒーローは返り血を浴びてない状態で来ると思う」
少なくとも、血塗れで隣の男に銃口を突きつけるテオドールはどう見てもヴィラン側だ。
「うーんじゃあダークヒーローかな。日本だと好まれるって聞いてる。君も今の私は十分ヒロイックだと思うだろう、トーマ」
「……テオドール」
「君のことはとても気に入っていたのに、残念だ」
喘ぐように名前を呼んだトーマにテオドールは淡々と返す。気に入っていた、などと言う言葉がひどく軽薄に聞こえた。トーマはため息とともに懐から手を出し、何も持っていないことを示すよう両手を上げた。
「ねえ、君のところのボスはクスリが嫌いだったと思うのだけど」
「親父はクスリは嫌いでも金は大好きでね。……使いようによってはシノギになると思ったんだろう」
「なるほど、愛らしいほど浅はかだ。新しいシノギなど欲をかいたせいで君のボスは何もかもを失うことになる。仕事も、居場所も、ファミリーも」
「テオドール」
「わかっているよ。可愛いハイネの我儘だ。聞いてあげよう」
テオドールは流れるような動作でこめかみに突きつけていた銃口を下ろすとそのままトーマの腿を撃ち抜いた。
「ぐうっ……!」
「ハイネの前だ。これくらいにしてあげよう。君もわかるだろう? ハイネのような善良な人間は、相手がどんな救いようのない生き物だって慈悲を抱いてしまうんだ。どうか彼に感謝して」
「……どうするつもりだ」
「そうだね、掃除かな。君のボスはもう私のビジネスパートナーではなくなってしまったし、そうなればもう君たちは邪魔なだけだからね。そう、なんというんだっけ。一族郎党皆殺し? うちの部下の好きな言葉なんだ。死んでしまえばすべてごはんだからね」
「てめえ……!」
「トーマ、今夜はここで一人膝を抱えていると良い。夜が明ければ、何もかも終わっているよ。君が、何もしなければ、君は夜明けを迎えることができる」
ぞっとするような声だった。見逃してやる、と言外に言いつつ、それを守らなければ簡単に命を吹き消すと告げている。
「ボスが愚かだとファミリーが苦労する。かわいそうに。さて、君は路頭に迷ったら私のもとにでも来るといい。手駒はいくらあっても困らないのだから」
脂汗を流すトーマの頬を一撫ですると、それ以上何も言わずあっさりと車を降りた。その足取りはいつも通りで、今まさに暴力を振りかざし人を脅してきた人間には見えなかった。いやよく考えればそれこそいつも通りだということなのだろうが。
「ハイネ、車の陰にでもしゃがんでて」
「え、」
「まだ終わってないよ。君が嫌いそうな展開だ。君に見せたくない、聞かせたくない。いい子だから耳を塞いで目を瞑っていてくれないか。私が君に触れるまで、何も見ず、聞かず、待っていてくれ」
テオドールからは血と咽るような煙の匂いがした。恐る恐る、車の側でしゃがみこむ。灯りがなく、彼がどんな顔をしているかわからなかった。
離れていく足音の持ち主はわかっている。風の音と荒い車内に残されたトーマの荒い息が妙に大きく聞こえた。そしてそれからすぐに、激しい発砲音がそこら中からした。ぐ、と身を縮め、彼に言われた通り耳を塞ぎ、瞼をきつく閉じた。耳を塞いでも、遮れない音。瞼越しに時折見える光。まるでドラマか映画の中だ、と心の中で呟いても、欠片も心は晴れなかった。物語の最後は大団円だ。けれどこの夜が明けたところで、そんなものが待っているとは到底思えなかった。きっと今夜は、多くのものが失われる夜だ。
何も見ず、聞かずにいられることは、幸せなことなのだろう。いやに響く自分の心音だけを聞いていた。
俺が身を縮こまらせている間、トーマは動かなかった。テオドールは彼から銃を奪うことはしなかったし、彼が撃たれたのは片足だけだった。今、テオドールが相手をしているのがトーマの所属している組なのか、それとも最初に薬物を持っていた男の仲間なのか判然としないが、トーマは彼らに加勢することも、テオドールを追うこともなかった。彼には反撃の手段が残されていた。それこそ車の陰に無様に蹲る俺を人質にとることもなかった。
今トーマが、何を思い、車内で一人項垂れているのか、俺にはわからなかった。
それからどれだけ時間がたったかわからない。ふと、肩を叩かれた。
「……テオドール、終わったか?」
「ん、まあね。こちらが無勢だというのに、逃げ出したよ」
ゆっくりと瞼を開けると、そこにはテオドールがいた。何も変わらない、いつも通りの彼だ。ただ暗闇に慣れたせいで、見たくないものまで見える。
「ハイネ、見なくていい。さあもう行こう。今はとにかく、安全な場所へ」
俺の視界を遮るように前に立った。咽るような匂いに嗅ぎ覚えあって、硝煙とは花火によく似ているのだと初めて知った。
「トーマ、私たちはもう行くよ。一晩大人しく、これからのことを考えると良い」
雑にそう言葉を投げかけると、テオドールは振り向くことなく歩き出した。
ここは、花火を見た帰り道と似ていた。非現実は現実の地続きだ。硝煙の匂いも、爆発するような音も、乾いた血も、非日常の残滓のようにまとわりつく。
「テオドール、ユウゴやルドルフは……!」
「大丈夫。さっきルドルフの携帯から連絡があったよ。二人とも無事だ。とりあえず逃げおおせたらしい。合流するように言ってある」
「良かった……」
ユウゴの言葉からは争うことを好んだり、自信があるようには聞こえなかった。ただ話しているだけなら、本当に普通の青年だ。思い出せばいろいろと思うところはあるが、ひとまずは無事を喜びたい。
「……トーマさんは、これから、」
「とりあえず生きてはいる。これからの身の振り方は君の知るところではないだろう。まあ今回組が瓦解することで無職となるが、彼も大人だ。それなりにやっていくさ。ところでハイネ、諸悪の根源たるクスリは?」
テオドールに促され、紙袋を渡す。長時間俺が抱きかかえていたせいで紙袋はしわくちゃになっていた。テオドールがひょいとそれを受け取るとようやく重荷を下ろせたような感覚に安堵した。
「ハ、こんなもの店に置いて逃げてしまえばよかったんだ」
「パニックになってて……」
「怪我は……なさそうだけど、服の下の問題ない?」
「何も。発砲はされましたが、当たらなかったので」
「ふうん、どんな奴だった? 顔は覚えてる?」
「あんまり覚えてませんが、ユウゴがワゴンではねました」
「そう、戦うのは好きじゃないと言うのに、思い切りが良いなあの子は」
暗闇の中で、テオドールがうっそりと笑った。そこで初めて、テオドールが駆けつけてから一度たりとも笑っていなかったことに気づいた。声色は平時のように淡々としているが、常に浮かべられている微笑みは消えうせている。
「テオドール、どこか怪我を?」
「……私の心配をしてくれるのかい?」
本気で驚いているらしい声色に、ぐ、と押し黙った。ユウゴ、ルドルフ、トーマの心配をして、そのうえで自分は除外されていて当然という感覚を持っていたことに、ティースプーン一杯程度の罪悪感が湧いた。
「心配、しないわけないでしょう」
普段はこの男には皮肉や嫌味ばかり吐いているせいで、うまく言葉が選べない。ようやく出た言葉も、得も言われぬ違和感に襲われる。
「今回の件は、完全に俺の不注意で、あなたたちをまきこみました」
「君が悪いわけじゃない。悪いのはジャンキーだ」
「それでも、俺が電車でうたた寝しなければ、持っていた荷物を抱えていれば取り違えることもなかった」
「でももし、私が君を攫ってカプラに囲い込まなければ、こんな夜が君に訪れることはなかった」
どこか不自然さを感じてテオドールを見上げた。
「……そういう、根本的な否定は好きじゃありません」
「そうは思わなかったかい?」
「少なくとも、今回の件に関しては」
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長谷川陽向は “お見合い大学” と呼ばれる大学費用を稼ぐために、
ひと夏の契約でリゾートにやってきた。
最初は反りが合わず、すれ違いが多かったはずなのに、
気が付けば同じように東京から来ていた同じ年の矢野光に恋をしていた。
そして彼は自分の事を “ポンコツのα” と呼んだ。
***前作品とは完全に切り離したお話ですが、
世界が被っていますので、所々に前作品の登場人物の名前が出てきます。***
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