善良なる山羊より、親愛なる悪党どもへ

秋澤えで

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 紙袋を投げだすこともできないまま、まとまらない思考を巡らせる。
 電車の中で隣に座った男は、薬物の売人か何かだった。そして不用心にも、その薬物を簡素な紙袋に入れた挙句電車の中で足元に置いた。そしてその売人は電車を降りるときに薬物の入った紙袋と間違えて、小麦粉の入った俺の紙袋を持って電車から降りた。


「そんなポンコツなことあるか……!?」


 男が取り違えに気づくのがいつかわからない。電車から降りてすぐ気づくのか、どこかへ拠点へ帰ってから気づくのか、はたまた取引するまで気づかないか。そして紙袋に入っている粉が小麦粉だと気づくと同時に、俺の名前や店の住所が書かれた配送届の写しの存在に気づくだろう。当然、その場所に自分が持っていくはずだった薬物があると想像するに違いない。つまり気づいてからの行動はおそらく、カプラまで訪れて俺を殺し、薬物を奪還する。

 血の気が引く代わりに滝のような汗が流れた。
 もし電車から降りてすぐに気づいていたとしたら、もうこの店に向かっているに違いない。ブラインドを下ろした窓の隙間から夕日が差している。そして一瞬、その夕日が何かに遮られた。ガラスの扉を誰かが開けようとしている。ガタガタと何度も乱暴に取手をゆする。「Closed」の札が頼りなく揺れた。

 とりあえず居留守でいいのか、と願いながら息を止めて身体を小さくした。逃げ出したい、が中にいると知られる方が恐ろしかった。まだ店に帰ってきていないと思ってくれれば、ひとまず俺は最寄り駅まで逃げることができる。荷物さえ駅員に預けてしまえば俺が追われることはない。何も知らず、ただ駅員に荷物を預けただけの一般人だ。それに駅員もそう長く拾得物を保管したりはしないうえに、怪しいとわかればすぐに警察へ通報するだろう。

 だが俺の願い虚しく、上着のポケットに入れていたスマートフォンから着信を知らせる電子音が流れ出した。
 俺が裏口へ走り出すと同時にガラスの扉が叩き割られた。飛び散るガラスが夕日を反射させて光る。その中から現れた男は躊躇なく店の中へと駆け込んできた。


「畜生……っ」


 このタイミングで電話を掛けてくる空気の読めない奴は誰かと、走りながらスマートフォンを取り出す。画面にはテオドールの名前。迷いなく応答のボタンを押す。


「やあハイネ、君に」
「畜生! テオドール! 助けろ!」
「……ハイネ?」
「店襲われた、今逃げてる! 男一人! たぶん薬物関係!」
「すぐ行こう、それまで」
「すぐ来い!!」


 支離滅裂な言葉だったが、テオドールが理解するには十分だったらしい。電話を切って走り続ける。背後からは同じく走っている足音がしていた。振り向いて様子を見る余裕などはない。今更ながらさっさと最寄り駅か交番に行かなかったことを後悔する。裏口から逃げたせいで駅からも交番からも離れてしまった。店の裏はさびれた商店街や工場が多く、人通りもない。異常に気付いて通報してくれる者もいないだろう。大通りの方へ逃げれば夕方であることもあり人通りが多いが、その分無関係な一般人を巻き込むことになる。

 どうすべきか考えながら細い路地を駆け抜ける。少しでも攪乱しようと路地を選んでいるが、どんどん薄暗い方へ向かっているような気がした。紙袋を抱えたままだと走りづらい、と思ってからハッとする。少なくともこの紙袋を店に置いてくれば俺が一人で逃げる時間稼ぎには十分だったのではないだろうか。奴が欲しいのはこの紙袋の中の薬物だ。それが目の前にあるならば俺を殺すよりも中身の確認を優先するだろう。

 いや今この紙袋を投げだせば逃げ出す時間稼ぎにはなるのではないだろうか。もうこれを捨てて逃げよう、そう思ったとき、轟音と共に視界の端で火花が散った。


「……はっ」


 銃を見るのは何度目だろう。だがサイレンサーなしの銃声は初めて聞いた。考える間もなく走り出す。俺がこの紙袋を捨てたとしよう。中身は確かめたいだろう。だがもし中身の一部を俺が懐に入れていたら。それを考えれば紙袋を拾ってそのまま俺を殺すために追跡するだろう。調べるのは俺が死体になってからでも遅くはないのだ。

 今日はことごとく選択を間違えている気がする。
 再び轟音が鳴り、頭上で何かが跳ねる音がした。
 紙袋を抱えたまま振り向く。銃をこちらに向けた男が迫っていた。


「撃つなっ! 袋に当たったら中身をそこらにぶち撒くぞ!」


 一瞬男が動揺したのを確認してから再び走り出す。今ので牽制になったのかはわからない。だが事実だ。もし紙袋に銃弾があたり穴が開いたまま俺が走れば奴が取り戻したがっていう薬物の回収は困難になる。薬はグラム単位で売るもの。わずかな取りこぼしでも損害は大きい。

 暇つぶしであたりを散策していた分、一通り道はわかっている。だが同時になんの手立てもないことも自覚していた。今はとにかく逃げるしかない。だがどこかに逃げ込んだり人通りの多いところへ行けば無関係な人間が巻き込まれるだろう。そもそも俺すら今回は無関係なはずだ。ただただ不運にも荷物を取り違えられただけの男なのだから。

 今は鬼ごっこになっている。けれどもし奴に仲間がいたらどうだろう。走っている今でさえ、実は仲間のもとに誘導されているとしたら完全に詰んでいる。だがおそらく今回の荷物の取り違えはたった一人のミスから起こっている。ならばそのミスをしたのが今俺を追っている男で、他の仲間には伝えず自分一人で何とかしようとしている可能性もある。
 武器も戦う術もない俺にできることはただ逃げ続けること。あの恐ろしい男が俺を助けに来てくれるまで。

 俺がテオドールと話をしたのは襲撃直後。その時は店の側だったが、今ではかなり離れてしまっている。細い路地を縫うように逃げ回っている俺を奴が見つけてくれるかはわからない。けれど俺にできることは奴の気色悪いほどの嗅覚だけだった。かつて逃げ出した俺をあっさり見つけ出した日のように。
 まもなく工場地帯の大通りに差し掛かる。もう夜ということもあり、おそらく普段走っているトラックたちはいないだろう。その大通りは逃走を続けるにあたっては避けられない。そこを渡ってしまえば再び見通しの悪い路地が続く。

 もし俺が追う側だったとしたら、そこに仲間を配置する。見晴らしがよく、遮るもののない場所へ追い込める上、捕まえるなら車を置いておくこともできる。
 今のところ路地の先に車の明かりも人影も見えない。それがいないのか、それとも身を潜めているのか俺にはわからなかったし、わかったところで行動を変えられるわけでもなかった。


「っはぁ!」


 息を荒げながら道路へと飛び出す。いくつか街灯があるだけで他に明かりはない。心配していたトラックの姿もなく、微かに安堵しなら走り抜ける。背後から迫る足音は止まない。舞台が多少変わったとしても、この鬼ごっこをすることに変わりはない。しかし俺の安堵を吹き飛ばすように、止んだはずの銃声が再び響いた。思わず止まりそうになる足を叱咤して走り続ける。周囲で跳弾している様子はない。なぜ再び打ち始めたか、と思いすぐに思い当たる。比較的近くに仲間がいる場合だ。詳細を特定せず。仲間を呼んでいたとしたら、今の銃声は十分位置を知らせる合図になりえる。少なくとも、最初の路地で発砲していた時と比べれば。その時、すぐ近くで車のエンジン音がした。だが改めて振り返る余裕もなく、ただ駆け抜け再び路地へ紛れようとする。
 すると背後で何かがぶつかる鈍い音がした。


「は……?」


 思わず振り向くと、先ほどまで俺を追いかけていた男はアスファルトに倒れ伏し、そのすぐ傍らに大きなワゴン車が停まっていた。


「ハイネ! 無事か!?」
「ユ、ユウゴ……!?」


 真っ暗な車内から呼びかけられた声は、昼に別れたばかりの童顔の青年だった。


「なんで、いや今人を撥ねて……!?」
「良いんだよこいつは! 撥ねていい人間だ! ルドルフ!」


 助手席から降りてきたのは見慣れた大男だった。ルドルフは地面に落ちている人間に意識があるとわかると、その頭をアスファルトにたたきつけ、意識がなくなったことを確認すると笑みを浮かべた。


「——主の恵みに感謝を」


 ぞっとするほど静かな声で呟くとルドルフは男を担ぎ上げた。
 弟と二人天涯孤独、テオドールに拾われたイタリア生まれの兄弟、身体の大きな弟、牛豚鶏の肉を食べない偏食。
 人肉を喰わないとは言っていない。


「そういうことかよド畜生……!」
「っ悪かった、ハイネ! 言いたいことはわかる! 黙ってて悪かった!」


 車内から身体に見合わない大声が飛んでくる。助けられたことに礼を言えばいいのか、それとも騙していたことを罵倒すればいいのか、どんな顔をしていいのかわからないながら駆け寄った。


「ユウゴ、」
「ハイネ、言いたいことはあるだろうし、怒って良い、詰って良い。でも今は逃げろ。俺たちが囮になる」
「ハァ!?」
「いいか、この状況なら当然このワゴンでアンタを拾ったと思われるだろう。だからアンタは逃げろ。俺のスマホを持っていけ。地図を見ろ、ここにテオドールのセーフハウスがある。そこへ逃げろ。スマホをかざすと扉のロックも解除できる。俺らがテオドールが来るまでは絶対に扉を開けるなカーテンを閉めておいてくれ」
「ちょ、お前らも、」
「今まで悪かった。……この場で一般人はアンタだけだよ。逃げろ、ハイネ」
「ユウゴ!」
「俺は非戦闘員だし、ルドルフは完全肉弾戦。誰かを守る戦い方なんてできない。逃げろ、すぐにだ。片付いたら俺たちも行く。いいな」


 見慣れたはずの顔が、別人のようだった。静かだが、有無を言わせぬ声色に、俺は返事もできずスマホを受け取り、再び走り出した。どこからか車のエンジン音がする。暗かったはずの通りがいくつものライトで照らされた。
 俺はワゴン車から離れ、再び明かりの入らない路地へと紛れ込んだ。

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