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13 兄弟
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「なあ、このオレンジチーズケーキって、何でオレンジ風味にしてる?」
いくつかカウンターに並べたケーキを一つ食べてユウゴが聞いた。
「オレンジジュース」
「オレンジジュース!?」
「いや、小学生のとき調理実習でチーズケーキ作って、オレンジジュース入れてたから」
感嘆とも呆れともとれるため息を聞きながら一切れ食べる。まずくはないと思う。だがまあケーキ屋で売っているレベルではないとも思っている。
カプラは小さな喫茶店だ。オーナーであるテオドールからの指示はほぼなく、基本俺の独断で運営している。紅茶がメインではあるが、茶菓子もあった方がいいだろうと思い簡単なケーキや焼き菓子も出している。もともとお菓子作りは嫌いではない。だが所詮は素人だ。カプラに来る客も、お茶請けのクオリティを求めるというよりも人がいない静かな雰囲気を味わいに来ていると言っても過言ではない。
だが先日、スーパーでよく会う童顔の青年ユウゴが店に来た際、ガトーショコラを食べて微妙な顔をしたのだ。
「すまない、無礼なのは百も承知だが、……これ、どんなレシピ使ってる?」
一目でなるほど口に合わなかったらしいと把握した俺はユウゴにレシピを献上した。特段こだわりがあるわけではない。たまたま見かけたレシピがあって、それを作ることができて、悪くないと自分で思っていただけなのだ。改善の方法があるなら取り入れることになんの抵抗もない。
ガトーショコラはユウゴおすすめのレシピに変更となり、以来客からの評判も頗る良い。レシピは大事なのだなあとしみじみと思いつつ、その分他のお茶請けたちとの差が激しい状態になっていた。
その差を解消するため、今度はこちらからユウゴに頼み、試作品を含むお茶請けたちの品評会を開催することになった。カウンターで行われる品評会に、常連客が物珍しそうにちらちらと視線を投げかけていた。
「聞いたことがなかったけど、ユウゴは料理人か何かか?」
「いや、一時期はやってたが、調理師免許を取ってからは辞めた。今はなんでも屋みたいなことをしてる」
「わざわざ調理師免許取ってから辞めたのか。なんのためにとったんだ」
「単純に、資格取るのが趣味なんだよ。簡単に取れそうなやつは暇つぶしに取ってる。調理師も取れたからとった。ここみたいな緩い飲食店で雇われ店長2年やって、その仕事も終わったから今は別の仕事。料理自体はまあ、好きだから今もしてるってだけだ」
今はもう料理は仕事じゃなくて趣味だ、と言いながらクッキーをかじった。
「焼きすぎ」
「すまない」
「……使ってはないだろうが、これだけノリで作ってるとホットケーキミックス使ってるって言われても驚かねえ」
「さすがに使ってない。ホットケーキミックスで作ると全部ホットケーキみたいな味になることはわかってる」
家庭で消費するだけのケーキならホットケーキミックスで作っても別にいいのだろうが、複数種類ケーキ等を出している状態でホットケーキミックスを使ったらさすが客にもバレる。ホットケーキミックスは敵ではない。家庭の味方だ。だがTPOというものがある。
「小麦粉やバターにこだわりは?」
「何にもない。基本スーパーで買ってる」
「悪いとは言わないが、ベストではないんだろうな……」
ぼりぼりとクッキーを頬張るユウゴにヌワラエリアを差し出す。茶菓子はともかくとして、こちらはおいしい自信がある。ユウゴはものすごく丁寧に、こちらを傷つけない言葉を極力選んでくれている。初対面の剣幕がいまだ残っている分多少の罵倒は覚悟していたのだが、いちいちオブラートに包んでくれているうえ、こちらの反応も注視している。そういえばこの童顔な青年は自分よりも年上なのだと噛みしめた。
「もし嫌じゃなければ、ベーカリーとスイーツの専門展があるから行かないか? 場所は少し離れているが、一度にいろいろなメーカーの商品を見られるし、それを使ったスイーツも売ってる。素材選びから考えるならいい機会だと思うんだが」
「そんなのがあるのか、是非。どうせ一人で行ってもわからないだろうし、君の意見を聞きながら見たい」
「じゃあ決まりだ」
イベント名を聞き、その引き出しにしまってあったスマホで検索する。製菓材料だけではなく型や機器、オーブンや冷蔵庫まで展示しているらしかった。当日はちょうどカプラの定休日で、会場も他県で離れているが、駅近であるため特に問題はなさそうだった。
「付き合ってもらってすまない、助かる」
「問題ないさ。ハイネが行かなくても一人で行くつもりだったし。夕方から仕事だから、当日ここでアンタを車で拾って一緒に行って、現地解散でもいいか?」
「ああ、行きも帰りも電車のつもりだったから、行きだけでも助かる。頼めるか?」
「当然」
歯を見せて屈託なく笑うユウゴはやはり高校生くらいに見えるが、面倒見の良さはかつての職場の先輩を彷彿とさせた。
店を閉めてから居住スペースである2階へと上がる。当初は無理やり連れて来られてきた場所だったが、今では自分の住み慣れた場所になっている。一度椅子に座ったらスマホを開いて何もできなくなるのがわかりきっているため、部屋へ入って一直線にクローゼットへと向かう。最近は少しずつ暖かくなってきていて、そろそろ春物の準備をしなければならない。同時に最近出番が減って来たコート類も一度クリーニングに出してしまわなければ、と思い、各上着のポケットの中身を確認していく。ポケットティッシュやレシートが散見され、自分のずぼらさに辟易とした。毎回クローゼットへ仕舞うときに確認すればいいものの、この悪癖は子どものころから一向に改善されない。いや、洗濯する前に確認するという点においては成長があったと言えるかもしれない。
ふと、手を突っ込んだポケットの中から小さなビニールの小袋が出てきた。粉薬のように見えるそれに首をかしげる。最近は病院にも行っていないし、市販薬の粉薬を買った覚えもない。何よりパッケージもなしにポケットに入れるシチュエーションが思い出せなかった。
そのうち思い出すだろう、とテーブルの上に置いておいて、晩酌でもしようかと冷蔵庫から酎ハイを取り出してようやく思い出した。
「……これ、バーで会った男が押し付けてきた奴か」
思わず顔を顰める。
元同僚との飲み会の後、トーマと飲み直しに行ったショットバーで俺に絡んできた男。どこかマシューと似たような下世話さがある奴で、俺に「トぶぜ」などと宣ってこの小袋を握りこませてきた。そのままカウンターに置いてくればよかったところを、その日の俺はなぜかポケットにしまって出てきてしまった。そして今日までのその存在を忘れていたわけだが。
テーブルに座り、特に意味もなく机の上の小袋を少し遠ざける。
「………………」
無言で睨みつけたところで何かが変わるわけではない。どう処分したものかと頭を抱える。この薬が何なのかわからない。だがあのいかがわしい話し方から合法であるようにも思えなかった。ただごみ箱に捨ててしまって問題ないのか、それとも然るべき処分方法があるのか。これがなんの薬かすらわからないのだ。興奮させる作用があるのかもしれないし、あるいはあの男の言うことはただの誘い文句で実際は依存性のある非合法な薬物であるかもしれない。
であれば餅は餅屋。とりあえずテオドールに押し付けてしまうのが最も手っ取り早く片付けられるだろう。事情を知っているトーマでもありだが、トーマに頼むのは気が引ける。その分テオドールには遠慮が要らないので使えるタイミングで使っておきたい。
テオドールに電話してしまおう、とスマホを手に取って、ふと逡巡する。
この薬を受け取ってしまってからどれだけ経ったか。確か1か月ほど前だ。もしこの薬が非合法な薬物であった場合、俺はその非合法薬物を1か月間所持していたことになる。覚せい剤などは所持するだけで刑事罰の対象ではなかっただろうか。おそらくテオドールはなんでもなさげに引き取ってくれるだろう。だがそれの処理を代償に何か要求してきたりしないだろうか。いやその要求がお願い程度のものだったとしても、なぜ早く相談しなかったのかと小言を言われるのは請け合いだ。間違いなく奴は俺を叱ってくる。叱る、という行為は完全に上下関係が明らかなもので、それをするときのテオドールは酷くいきいきとしていて、端的に言ってむかつく。言っていることが間違っていないだけに、むかつく。
今から電話したらきっと叱られる。まるで子供のような逃避思考だが、いい年して叱られるのは堪えるし、あの男から上から目線で何か言われるのが耐えがたい。
「……報告するなら、もっと自分が有利になれる条件付きで」
画面に出ていたテオドールの連絡先を閉じた。この判断は身を守るためなのだ。テオドールから何を要求されるかわからない。ならばあちらの弱みと引き換え、もしくはこちらの優位性を提示できるような状況で処理したかった。
忌々しい小袋は悩んだ末に本棚にしまわれた本の裏側に突っ込んだ。何もないとは思うが、金庫に入れておいても逆に怪しい気がして選んだ苦肉の策だ。
今度ユウゴと材料の買い出しに行くならレシピ等も聞いておこう。おいしいお菓子を作ってテオドールに食べさせつつ、この小袋の件も相談するのはどうだろうか。その程度で誤魔化されてくれるかわからないが、「お菓子程度で機嫌を取ろうとしてくる俺」のことはおそらく可愛いと思うだろう。小言は少なくて済むはずだ。
そうしよう、と切り替えて片づけを進めていたら、ふとテオドールが自分のことを可愛いと思うのは当然のことと見積もっていた自分の思考回路に項垂れた。
当日、店の前に現れた見覚えのあるワゴン車からユウゴが手を振った。
「来てもらって悪い、助かる」
「いいさ、荷物が増える帰りこそ送れなくてすまん」
そわそわしながらワゴンに乗り込むとユウゴは静かに車を発進させた。人の車に乗せてもらうとどこか落ち着かない。数回テオドールの運転する車に乗ったが、あれは毎度連行されているだけで落ち着かないとかそういうレベルの問題ではないため別だ。いつもより高い視界で街を見下ろしていると。オーディオから流れる曲に聞き覚えがあった。
「これ、なんか聞いたことあるけど、なんの曲だ?」
「ああ、椿姫の『乾杯』。オペラ、見たことあるか」
「ない。そんなおしゃれなもの。俺が知ってるくらいだから、何かドラマとかで使われたとかだろうな」
オーケストラと伸びやかな歌声を聞きながら慄く。本当にCMかドラマか映画で聞いたことがあるというレベルだ。教養のなさが露呈して身の置き場がない。少なくとも今までの取引先の中で、こういうお堅いタイプの音楽鑑賞が好きな相手がいなかったため、特に勉強してこなかった。
「つまらなかったら他のに替えてもいいが、今載せてるCDはこういうタイプばっかだ」
グローブボックスを指さされ開けてみると、ことごとくジャケットに日本語がない。おしゃれなフォントのアルファベットが踊っている。そもそも英語ですらないもの多い。
黙って入れば美青年、口を開けばヤンキー、料理はプロ、音楽の趣味はクラシックとは、もはや彼の人格はギャップで構成されていると言っても過言ではない。何か一つくらいわかる者はないかと手にとっては矯めつ眇めつ確認する。そしてようやく聞いたことがあるものを見つけた。
「これなら、これならわかる。『Time to say goodbye』」
「あー確かに有名だな」
映画に使われていたため聞いたことがある。そして歌詞が聞き取れたのはこのタイトル部分だけだ。
聞くか、と問われ断る。別に今流れている『椿姫』に不満があるわけじゃない。聞いたことがあるレベル感で言えば『Time to say goodbye』もどっこいどっこいだ。他のものも手に取ってじっと見ていると、日本語でも英語でもないが、読み取れるタイトルがいくつかあった。
「イタリアの曲が好きなのか?」
「読めたか。読めないかと思った」
「『O sole mio』と『Santa Lucia』は読める。中学の授業で歌った」
「アンタのその“学校で習った”ってさらっと出てくるあたり、真面目な子供だったんだろうな」
「覚えてないか?」
「さあ? オペラだとかイタリアの歌謡曲だとかは親の趣味だ。子どもの頃よく聞いてたから、流れてると落ち着く」
教養のありそうな家庭だ。しかもこの顔の造形から、両親も美男美女なのだろう。そしておそらく彼の弟も。
「上流階級の家庭のお生まれ……?」
「ぶっふ! なんだそれ! 全然!」
ゲラゲラと美しい顔を歪ませ笑うユウゴは確かにお上品とは言い難い。ふうん、と中身のない返事をしながらも改めてユウゴについて自分が知っていることが少ないことに気が付く。
名前はユウゴ。苗字は教えられていない。4人家族で、今は弟と二人暮らし。弟は身体が大きい。飲食店で働いてた経験があり、調理師免許を持っている他、諸々の資格を持っていて、資格を取るのが趣味。今の仕事はなんでも屋。童顔低身長であることがコンプレックスでそこに触れられたり舐められるとヤンキーのような切れ方をする。音楽の趣味がお上品。
もともとは近所のスーパーでよく会う他人で、何となく話をするようになって、喫茶店にも来てくれるようになった客だ。相手のことを知る機会があまりないうえ、社会人ともなると自分から相手のプライベートに突っ込んでいくようなことはしない。
「上流階級とかでは全く。田舎の森の中で暮らしてたよ。しいて言うなら敬虔なクリスチャンの家だった。俺は正直、キリストとか神様とかあんまりだけど。信仰で腹は膨れねえし、神様に助けてもらった覚えもねえしな。助けてくれるなら拝むけど」
「雑。親御さんに十字架で殴られそうだ」
「アンタもクリスチャンへの解像度が雑」
ユウゴは軽く笑い飛ばすが、変に踏み込むとこういうことがあるから笑えない。雑談の時は宗教、政治、野球の話題をタブーとするのは常識だ。ユウゴは気にしていないタイプだからよかったが、これでもし俺がクリスチャンだったら盛大な事故になる。
「田舎だし、敬虔な信者だしで、娯楽が制限されてたってのはあるだろうな。街に出たらロックだってジャズだってあった。遊びも、文化も、食ももっといろいろあった。あの生活を慎ましい清貧さだって言うなら、ある意味“擦れてない“って思われるかもな」
「食も結構制限されてたのか」
「んーまあ? 牛は村を出てから初めて食ったな。こんな旨い肉があるのかって感動した。めっちゃ旨い。やわらかいし、臭くないし、一頭からたくさん肉が取れるし、内臓も旨い」
きらきらした目で牛のおいしさを語るユウゴはどこか微笑ましい。彼のかつての生活が少しだけ想像できた。抑圧された制限された生活、家を出てあらゆる自由を手に入れたのだろう。だがその一方で家や家族を嫌っているわけでもなく、家族の話をするときは穏やかだ。不自由だが、愛されて育った自覚がある。
「そんなに肉が好きだったか。前にサラリーマンにぶつかられて道に落とした食材が悉く野菜だったから、肉は食べないのかと思った」
「よく覚えてるな。俺は肉が好きなんだけど、弟は牛、豚、鶏どれも駄目なんだ。身体もでかいから大食漢なんだがとにかくどれも食わん。その代わり野菜をめっちゃ食う。まあまあ健康的なんだろうが、買い出しがいちいち業務用の量になる」
いつも両手いっぱいに袋を持っているのはそれのせいか、と喉で笑う。ぶつぶつ言いながらも弟のために日々買い出しをしているのだから、可愛くて仕方がないのだろう。確かこの大きなワゴンも、身体の大きな弟が乗るから、という理由だったはずだ。
「弟大好きだな」
「そりゃな。唯一の家族だ。大事に決まってる」
さらっとすでに両親が他界しているという事実を開示され口を噤んだ。初めて話したときも思ったが、ユウゴはこちらが思っている以上におしゃべりだ。なんでもないように彼が口にしてしまうため、デリケートな話題なのに避けようがない。
オーディオからはどこか聞き覚えのある曲が流れ出した。
いくつかカウンターに並べたケーキを一つ食べてユウゴが聞いた。
「オレンジジュース」
「オレンジジュース!?」
「いや、小学生のとき調理実習でチーズケーキ作って、オレンジジュース入れてたから」
感嘆とも呆れともとれるため息を聞きながら一切れ食べる。まずくはないと思う。だがまあケーキ屋で売っているレベルではないとも思っている。
カプラは小さな喫茶店だ。オーナーであるテオドールからの指示はほぼなく、基本俺の独断で運営している。紅茶がメインではあるが、茶菓子もあった方がいいだろうと思い簡単なケーキや焼き菓子も出している。もともとお菓子作りは嫌いではない。だが所詮は素人だ。カプラに来る客も、お茶請けのクオリティを求めるというよりも人がいない静かな雰囲気を味わいに来ていると言っても過言ではない。
だが先日、スーパーでよく会う童顔の青年ユウゴが店に来た際、ガトーショコラを食べて微妙な顔をしたのだ。
「すまない、無礼なのは百も承知だが、……これ、どんなレシピ使ってる?」
一目でなるほど口に合わなかったらしいと把握した俺はユウゴにレシピを献上した。特段こだわりがあるわけではない。たまたま見かけたレシピがあって、それを作ることができて、悪くないと自分で思っていただけなのだ。改善の方法があるなら取り入れることになんの抵抗もない。
ガトーショコラはユウゴおすすめのレシピに変更となり、以来客からの評判も頗る良い。レシピは大事なのだなあとしみじみと思いつつ、その分他のお茶請けたちとの差が激しい状態になっていた。
その差を解消するため、今度はこちらからユウゴに頼み、試作品を含むお茶請けたちの品評会を開催することになった。カウンターで行われる品評会に、常連客が物珍しそうにちらちらと視線を投げかけていた。
「聞いたことがなかったけど、ユウゴは料理人か何かか?」
「いや、一時期はやってたが、調理師免許を取ってからは辞めた。今はなんでも屋みたいなことをしてる」
「わざわざ調理師免許取ってから辞めたのか。なんのためにとったんだ」
「単純に、資格取るのが趣味なんだよ。簡単に取れそうなやつは暇つぶしに取ってる。調理師も取れたからとった。ここみたいな緩い飲食店で雇われ店長2年やって、その仕事も終わったから今は別の仕事。料理自体はまあ、好きだから今もしてるってだけだ」
今はもう料理は仕事じゃなくて趣味だ、と言いながらクッキーをかじった。
「焼きすぎ」
「すまない」
「……使ってはないだろうが、これだけノリで作ってるとホットケーキミックス使ってるって言われても驚かねえ」
「さすがに使ってない。ホットケーキミックスで作ると全部ホットケーキみたいな味になることはわかってる」
家庭で消費するだけのケーキならホットケーキミックスで作っても別にいいのだろうが、複数種類ケーキ等を出している状態でホットケーキミックスを使ったらさすが客にもバレる。ホットケーキミックスは敵ではない。家庭の味方だ。だがTPOというものがある。
「小麦粉やバターにこだわりは?」
「何にもない。基本スーパーで買ってる」
「悪いとは言わないが、ベストではないんだろうな……」
ぼりぼりとクッキーを頬張るユウゴにヌワラエリアを差し出す。茶菓子はともかくとして、こちらはおいしい自信がある。ユウゴはものすごく丁寧に、こちらを傷つけない言葉を極力選んでくれている。初対面の剣幕がいまだ残っている分多少の罵倒は覚悟していたのだが、いちいちオブラートに包んでくれているうえ、こちらの反応も注視している。そういえばこの童顔な青年は自分よりも年上なのだと噛みしめた。
「もし嫌じゃなければ、ベーカリーとスイーツの専門展があるから行かないか? 場所は少し離れているが、一度にいろいろなメーカーの商品を見られるし、それを使ったスイーツも売ってる。素材選びから考えるならいい機会だと思うんだが」
「そんなのがあるのか、是非。どうせ一人で行ってもわからないだろうし、君の意見を聞きながら見たい」
「じゃあ決まりだ」
イベント名を聞き、その引き出しにしまってあったスマホで検索する。製菓材料だけではなく型や機器、オーブンや冷蔵庫まで展示しているらしかった。当日はちょうどカプラの定休日で、会場も他県で離れているが、駅近であるため特に問題はなさそうだった。
「付き合ってもらってすまない、助かる」
「問題ないさ。ハイネが行かなくても一人で行くつもりだったし。夕方から仕事だから、当日ここでアンタを車で拾って一緒に行って、現地解散でもいいか?」
「ああ、行きも帰りも電車のつもりだったから、行きだけでも助かる。頼めるか?」
「当然」
歯を見せて屈託なく笑うユウゴはやはり高校生くらいに見えるが、面倒見の良さはかつての職場の先輩を彷彿とさせた。
店を閉めてから居住スペースである2階へと上がる。当初は無理やり連れて来られてきた場所だったが、今では自分の住み慣れた場所になっている。一度椅子に座ったらスマホを開いて何もできなくなるのがわかりきっているため、部屋へ入って一直線にクローゼットへと向かう。最近は少しずつ暖かくなってきていて、そろそろ春物の準備をしなければならない。同時に最近出番が減って来たコート類も一度クリーニングに出してしまわなければ、と思い、各上着のポケットの中身を確認していく。ポケットティッシュやレシートが散見され、自分のずぼらさに辟易とした。毎回クローゼットへ仕舞うときに確認すればいいものの、この悪癖は子どものころから一向に改善されない。いや、洗濯する前に確認するという点においては成長があったと言えるかもしれない。
ふと、手を突っ込んだポケットの中から小さなビニールの小袋が出てきた。粉薬のように見えるそれに首をかしげる。最近は病院にも行っていないし、市販薬の粉薬を買った覚えもない。何よりパッケージもなしにポケットに入れるシチュエーションが思い出せなかった。
そのうち思い出すだろう、とテーブルの上に置いておいて、晩酌でもしようかと冷蔵庫から酎ハイを取り出してようやく思い出した。
「……これ、バーで会った男が押し付けてきた奴か」
思わず顔を顰める。
元同僚との飲み会の後、トーマと飲み直しに行ったショットバーで俺に絡んできた男。どこかマシューと似たような下世話さがある奴で、俺に「トぶぜ」などと宣ってこの小袋を握りこませてきた。そのままカウンターに置いてくればよかったところを、その日の俺はなぜかポケットにしまって出てきてしまった。そして今日までのその存在を忘れていたわけだが。
テーブルに座り、特に意味もなく机の上の小袋を少し遠ざける。
「………………」
無言で睨みつけたところで何かが変わるわけではない。どう処分したものかと頭を抱える。この薬が何なのかわからない。だがあのいかがわしい話し方から合法であるようにも思えなかった。ただごみ箱に捨ててしまって問題ないのか、それとも然るべき処分方法があるのか。これがなんの薬かすらわからないのだ。興奮させる作用があるのかもしれないし、あるいはあの男の言うことはただの誘い文句で実際は依存性のある非合法な薬物であるかもしれない。
であれば餅は餅屋。とりあえずテオドールに押し付けてしまうのが最も手っ取り早く片付けられるだろう。事情を知っているトーマでもありだが、トーマに頼むのは気が引ける。その分テオドールには遠慮が要らないので使えるタイミングで使っておきたい。
テオドールに電話してしまおう、とスマホを手に取って、ふと逡巡する。
この薬を受け取ってしまってからどれだけ経ったか。確か1か月ほど前だ。もしこの薬が非合法な薬物であった場合、俺はその非合法薬物を1か月間所持していたことになる。覚せい剤などは所持するだけで刑事罰の対象ではなかっただろうか。おそらくテオドールはなんでもなさげに引き取ってくれるだろう。だがそれの処理を代償に何か要求してきたりしないだろうか。いやその要求がお願い程度のものだったとしても、なぜ早く相談しなかったのかと小言を言われるのは請け合いだ。間違いなく奴は俺を叱ってくる。叱る、という行為は完全に上下関係が明らかなもので、それをするときのテオドールは酷くいきいきとしていて、端的に言ってむかつく。言っていることが間違っていないだけに、むかつく。
今から電話したらきっと叱られる。まるで子供のような逃避思考だが、いい年して叱られるのは堪えるし、あの男から上から目線で何か言われるのが耐えがたい。
「……報告するなら、もっと自分が有利になれる条件付きで」
画面に出ていたテオドールの連絡先を閉じた。この判断は身を守るためなのだ。テオドールから何を要求されるかわからない。ならばあちらの弱みと引き換え、もしくはこちらの優位性を提示できるような状況で処理したかった。
忌々しい小袋は悩んだ末に本棚にしまわれた本の裏側に突っ込んだ。何もないとは思うが、金庫に入れておいても逆に怪しい気がして選んだ苦肉の策だ。
今度ユウゴと材料の買い出しに行くならレシピ等も聞いておこう。おいしいお菓子を作ってテオドールに食べさせつつ、この小袋の件も相談するのはどうだろうか。その程度で誤魔化されてくれるかわからないが、「お菓子程度で機嫌を取ろうとしてくる俺」のことはおそらく可愛いと思うだろう。小言は少なくて済むはずだ。
そうしよう、と切り替えて片づけを進めていたら、ふとテオドールが自分のことを可愛いと思うのは当然のことと見積もっていた自分の思考回路に項垂れた。
当日、店の前に現れた見覚えのあるワゴン車からユウゴが手を振った。
「来てもらって悪い、助かる」
「いいさ、荷物が増える帰りこそ送れなくてすまん」
そわそわしながらワゴンに乗り込むとユウゴは静かに車を発進させた。人の車に乗せてもらうとどこか落ち着かない。数回テオドールの運転する車に乗ったが、あれは毎度連行されているだけで落ち着かないとかそういうレベルの問題ではないため別だ。いつもより高い視界で街を見下ろしていると。オーディオから流れる曲に聞き覚えがあった。
「これ、なんか聞いたことあるけど、なんの曲だ?」
「ああ、椿姫の『乾杯』。オペラ、見たことあるか」
「ない。そんなおしゃれなもの。俺が知ってるくらいだから、何かドラマとかで使われたとかだろうな」
オーケストラと伸びやかな歌声を聞きながら慄く。本当にCMかドラマか映画で聞いたことがあるというレベルだ。教養のなさが露呈して身の置き場がない。少なくとも今までの取引先の中で、こういうお堅いタイプの音楽鑑賞が好きな相手がいなかったため、特に勉強してこなかった。
「つまらなかったら他のに替えてもいいが、今載せてるCDはこういうタイプばっかだ」
グローブボックスを指さされ開けてみると、ことごとくジャケットに日本語がない。おしゃれなフォントのアルファベットが踊っている。そもそも英語ですらないもの多い。
黙って入れば美青年、口を開けばヤンキー、料理はプロ、音楽の趣味はクラシックとは、もはや彼の人格はギャップで構成されていると言っても過言ではない。何か一つくらいわかる者はないかと手にとっては矯めつ眇めつ確認する。そしてようやく聞いたことがあるものを見つけた。
「これなら、これならわかる。『Time to say goodbye』」
「あー確かに有名だな」
映画に使われていたため聞いたことがある。そして歌詞が聞き取れたのはこのタイトル部分だけだ。
聞くか、と問われ断る。別に今流れている『椿姫』に不満があるわけじゃない。聞いたことがあるレベル感で言えば『Time to say goodbye』もどっこいどっこいだ。他のものも手に取ってじっと見ていると、日本語でも英語でもないが、読み取れるタイトルがいくつかあった。
「イタリアの曲が好きなのか?」
「読めたか。読めないかと思った」
「『O sole mio』と『Santa Lucia』は読める。中学の授業で歌った」
「アンタのその“学校で習った”ってさらっと出てくるあたり、真面目な子供だったんだろうな」
「覚えてないか?」
「さあ? オペラだとかイタリアの歌謡曲だとかは親の趣味だ。子どもの頃よく聞いてたから、流れてると落ち着く」
教養のありそうな家庭だ。しかもこの顔の造形から、両親も美男美女なのだろう。そしておそらく彼の弟も。
「上流階級の家庭のお生まれ……?」
「ぶっふ! なんだそれ! 全然!」
ゲラゲラと美しい顔を歪ませ笑うユウゴは確かにお上品とは言い難い。ふうん、と中身のない返事をしながらも改めてユウゴについて自分が知っていることが少ないことに気が付く。
名前はユウゴ。苗字は教えられていない。4人家族で、今は弟と二人暮らし。弟は身体が大きい。飲食店で働いてた経験があり、調理師免許を持っている他、諸々の資格を持っていて、資格を取るのが趣味。今の仕事はなんでも屋。童顔低身長であることがコンプレックスでそこに触れられたり舐められるとヤンキーのような切れ方をする。音楽の趣味がお上品。
もともとは近所のスーパーでよく会う他人で、何となく話をするようになって、喫茶店にも来てくれるようになった客だ。相手のことを知る機会があまりないうえ、社会人ともなると自分から相手のプライベートに突っ込んでいくようなことはしない。
「上流階級とかでは全く。田舎の森の中で暮らしてたよ。しいて言うなら敬虔なクリスチャンの家だった。俺は正直、キリストとか神様とかあんまりだけど。信仰で腹は膨れねえし、神様に助けてもらった覚えもねえしな。助けてくれるなら拝むけど」
「雑。親御さんに十字架で殴られそうだ」
「アンタもクリスチャンへの解像度が雑」
ユウゴは軽く笑い飛ばすが、変に踏み込むとこういうことがあるから笑えない。雑談の時は宗教、政治、野球の話題をタブーとするのは常識だ。ユウゴは気にしていないタイプだからよかったが、これでもし俺がクリスチャンだったら盛大な事故になる。
「田舎だし、敬虔な信者だしで、娯楽が制限されてたってのはあるだろうな。街に出たらロックだってジャズだってあった。遊びも、文化も、食ももっといろいろあった。あの生活を慎ましい清貧さだって言うなら、ある意味“擦れてない“って思われるかもな」
「食も結構制限されてたのか」
「んーまあ? 牛は村を出てから初めて食ったな。こんな旨い肉があるのかって感動した。めっちゃ旨い。やわらかいし、臭くないし、一頭からたくさん肉が取れるし、内臓も旨い」
きらきらした目で牛のおいしさを語るユウゴはどこか微笑ましい。彼のかつての生活が少しだけ想像できた。抑圧された制限された生活、家を出てあらゆる自由を手に入れたのだろう。だがその一方で家や家族を嫌っているわけでもなく、家族の話をするときは穏やかだ。不自由だが、愛されて育った自覚がある。
「そんなに肉が好きだったか。前にサラリーマンにぶつかられて道に落とした食材が悉く野菜だったから、肉は食べないのかと思った」
「よく覚えてるな。俺は肉が好きなんだけど、弟は牛、豚、鶏どれも駄目なんだ。身体もでかいから大食漢なんだがとにかくどれも食わん。その代わり野菜をめっちゃ食う。まあまあ健康的なんだろうが、買い出しがいちいち業務用の量になる」
いつも両手いっぱいに袋を持っているのはそれのせいか、と喉で笑う。ぶつぶつ言いながらも弟のために日々買い出しをしているのだから、可愛くて仕方がないのだろう。確かこの大きなワゴンも、身体の大きな弟が乗るから、という理由だったはずだ。
「弟大好きだな」
「そりゃな。唯一の家族だ。大事に決まってる」
さらっとすでに両親が他界しているという事実を開示され口を噤んだ。初めて話したときも思ったが、ユウゴはこちらが思っている以上におしゃべりだ。なんでもないように彼が口にしてしまうため、デリケートな話題なのに避けようがない。
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いつかコントローラーを投げ出して
せんぷう
BL
オメガバース。世界で男女以外に、アルファ・ベータ・オメガと性別が枝分かれした世界で新たにもう一つの性が発見された。
世界的にはレアなオメガ、アルファ以上の神に選別されたと言われる特異種。
バランサー。
アルファ、ベータ、オメガになるかを自らの意思で選択でき、バランサーの状態ならどのようなフェロモンですら影響を受けない、むしろ自身のフェロモンにより周囲を調伏できる最強の性別。
これは、バランサーであることを隠した少年の少し不運で不思議な出会いの物語。
裏社会のトップにして最強のアルファ攻め
×
最強種バランサーであることをそれとなく隠して生活する兄弟想いな受け
※オメガバース特殊設定、追加性別有り
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たまにはゆっくり、歩きませんか?
隠岐 旅雨
BL
大手IT企業でシステムエンジニアとして働く榊(さかき)は、一時的に都内本社から埼玉県にある支社のプロジェクトへの応援増員として参加することになった。その最初の通勤の電車の中で、つり革につかまって半分眠った状態のままの男子高校生が倒れ込んでくるのを何とか支え抱きとめる。
よく見ると高校生は自分の出身高校の後輩であることがわかり、また翌日の同時刻にもたまたま同じ電車で遭遇したことから、日々の通勤通学をともにすることになる。
世間話をともにするくらいの仲ではあったが、徐々に互いの距離は縮まっていき、週末には映画を観に行く約束をする。が……
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素直じゃない人
うりぼう
BL
平社員×会長の孫
社会人同士
年下攻め
ある日突然異動を命じられた昭仁。
異動先は社内でも特に厳しいと言われている会長の孫である千草の補佐。
厳しいだけならまだしも、千草には『男が好き』という噂があり、次の犠牲者の昭仁も好奇の目で見られるようになる。
しかし一緒に働いてみると噂とは違う千草に昭仁は戸惑うばかり。
そんなある日、うっかりあられもない姿を千草に見られてしまった事から二人の関係が始まり……
というMLものです。
えろは少なめ。
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Endless Summer Night ~終わらない夏~
樹木緑
BL
ボーイズラブ・オメガバース "愛し合ったあの日々は、終わりのない夏の夜の様だった”
長谷川陽向は “お見合い大学” と呼ばれる大学費用を稼ぐために、
ひと夏の契約でリゾートにやってきた。
最初は反りが合わず、すれ違いが多かったはずなのに、
気が付けば同じように東京から来ていた同じ年の矢野光に恋をしていた。
そして彼は自分の事を “ポンコツのα” と呼んだ。
***前作品とは完全に切り離したお話ですが、
世界が被っていますので、所々に前作品の登場人物の名前が出てきます。***
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