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12 隙
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「まあ今日はもうこれで解散で良いな。今日はもう駄目な日だ」」
「俺が疫病神に憑かれているがばかりに、すみません」
「申し訳ないとか思ってないだろお前。まああるだろ、こういう今日はもう何しても駄目な日、みたいなの。こういう時は引き際が大事だ」
「ええ、残念ですが、俺も帰ることにします」
電車の時間を調べようとスマホをタップするとトーマは俺の手元を凝視していた。
「あの……?」
「……電車で帰るのか? いや、確かにあの店は駅近だが……」
眉間に皺を寄せ逡巡すると、ぱっと自分のスマホを取り出してどこかへ電話を掛け出した。
「おい、俺だ。今ハイネと一緒だ。迎えに来い。場所は――」
一方的に捲し立てるように話すとあっさりと電話を切る。部下に迎えを頼んだのだろう。もし俺があの態度で上司から迎えを頼まれたら人事に相談待ったなしだが、上下関係の厳しそうなヤクザの世界ではああいったコミュニケーションが日常茶飯事なのかもしれない。
「迎えを来させたからちょっと待ってろ。送らせる」
「……え、いや、俺の?」
「お前のだ」
トーマに迎えが来るのであれば自分は先に電車で帰ろうと思っていたのだが、まさか先ほどの一方的な命令の原因が自分だとは思わなかった。彼の部下もいったい何をやらされているのかと困惑するに違いなかった。
「俺は普通に電車で帰る」
「俺も電車で帰れますよ」
「駄目だ。嫌な予感がする。こういう勘ってのは馬鹿にできねえ。今日のお前はあまりに運が悪い。このまま帰らせてさっきみたいな妙な輩に絡まれたり、通り魔にでも遭われたらたまらん」
あまりに論理的でない主張だというのに自信に満ちた表情で断言されてしまうと、否定の言葉がすぐには思い浮かず唖然としてしまった。シックスセンス、あるいは虫の知らせというやつなのだろうが、俺にはその感覚こそピンとこなかった。だがアルコールの入った頭では「まあそんなこともあるだろう」で納得できてしまった。
「小一時間もすれば迎えが来る。それまで大人しく待っていろ」
人もまばらな駅のロータリーをトーマと二人で並んで眺めていた。なんの偶然か、他にロータリーで人を待つ車はいない。誰も俺たちに近づかないのは皆他人に構ってられるほど暇でないからか、トーマが恐ろしいからなのかはわからない。隣から流れてくる紫煙が鼻を擽った。
「トーマさんって、ヤクザなんですか?」
「どうした急に。ヤクザ以外の何か見えたか。指定暴力団?」
「いえ、ただの雑談です。トーマさんといい、テオドールといい、ルドルフといい、危なそうなのはわかるんですが、どういった人たちなのかあまりわからないので」
トーマは一般人が思い描くようなヤクザだ。高そうなスーツを着て、厳めしい顔には古い傷がある。ガタイも良ければ人を恫喝するのにちょうど良さそうな低い声もあり、いかにもヤクザ然としている。先の居酒屋でトーマが連れていた男たちもそうだ。
だがテオドールたちは違う。テオドールは何をしたか、それすら知らなければごくありふれた穏やかな紳士にしか見えない。ルドルフに至っては行き過ぎなほど友好的で少しも後ろ暗さを感じさせない。それこそ、俺ですら本人の口から食の嗜好について聞いていなければ、彼が食人鬼などとは信じなかっただろう。少なくとも、彼らは一般人の思い描くような反社会的勢力には見えない。
「ほお? テオドールには聞いたか?」
「答えてくれませんでしたよ。色々聞いたらもう戻れなくなるからって」
「そうか! そんなことを……引き返させる気がわずかでもあったとは」
トーマはなぜか一通り呵々と笑い、心底おかしいと言わんばかりに頷いた。
「なら俺が勝手に言うわけにはいかないな。それが奴のなけなしの善性だとしたら、それを台無しにしようとは思わん」
「鼻で笑えるレベルの善性ですね」
それが善のつもりなのか、あるいは他の何かなのかはわからない。だがここまで人振り回しておいて、その程度の何かで善を名乗るのなど片腹痛い。
「それでも、人の心のない傍若無人な暴君の思いやりなんだろう。一般人への解像度の低さがいっそほほえましい。いや、あの怪物にほほえましいなんて言葉をくれてやる日が来るとは」
反社でありながらこちらのことを憐れんでくれる人だと思ったのに、“ほほえましさ”などというもののせいで、イカレ男擁護派となろうとするトーマに憤然とする。
「微笑ましかろうが、懸命だろうが俺がそれに応えてやる義理はありません」
「そりゃそうだ。お前は立派な大人で意思も感情もある。拒否する権利もあれば逃げ出す権利もある。それを行使するかどうかは別として」
トーマの言葉にぐうと黙り込む。彼の言う通りだ。権利があれども、行使することができない。実際俺は一度逃げ出した前科がある。そしてあっさりと捕まり、挙句温情で咎められることすらなかった。二度目はないとくぎを刺されたうえで。
どこか遠くで救急車のサイレンの音が聞こえた。近づき音程が変わる奇妙なそれに耳を傾けながら口を開く。
「俺、一回逃げ出して、速攻捕まったんです。電車乗り継いで、終点の駅でネカフェに泊まって、人ごみに紛れて電車にまた乗ろうとしたら、待ち構えていました」
「なるほど。踏み込んでこないあたりが奴らしい」
「もし俺が、なんでもするから逃がしてほしいって頼んだら、トーマさんは協力してくれますか?」
隣に立つトーマを見上げる。まっすぐ日本人にしては色素が薄めの瞳を見据えると彼は口の端だけで笑った。
「……なんでも、なあ。随分な博打屋だ。なんでもベットできると?」
「なんでもベットするに値するかと」
「ヤクザからヤクザに乗り換えたところで、ろくなことにはならんだろ」
あ、と思う間もなく胸倉を掴まれ、厳つい顔が目の前に迫っていた。
「人を誑かすのが得意と見えるが、相手は選べよ小童」
「トーマさんを誑かせるとは思っていませんよ」
「傾城のふりをするのは結構。だがお前は自分で選択して戦うことのできる大人で、一端の男だろ」
眉を寄せたまま低い声で身体の芯を揺さぶるように喋るトーマ。その瞳から視線を逸らすことなく真っ向から迎える。怒っているわけではない。それほどの感情は乗っていない。そこにあるのは年少者を叱る、あるいは諭す色だった。
ややあって、トーマはぱっとシャツの襟から手を離す。わずかに皺の寄ったシャツを直すとため息を吐かれた。
「お前、怖いもの知らずか? その度胸には関心するが、もう少しばかり警戒心を持ってくれ」
「トーマさんから加害の意思が感じられなかったので」
「自分の感覚を過信するな……加害の雰囲気なしに加害するサイコパスをいるんだぞ……」
「あなたは違うでしょう?」
笑顔を向ければ苦々しくため息をついた。
「……お前のそれはわざとか?」
「さて。トーマさんのご都合がよろしいように取っていただければ」
「……お前のことを少々見くびっていたのは謝ろう」
「やだな、ただの雑談ですよ」
そう口角を上げるだけの笑みを浮かべたとき、ちょうどロータリーに黒い車が進入した。明確な意思を持った動きに視線を奪われる。同じようにトーマが目で追うことからあれは件の車なのだろう。真っ黒い車はいかにもヤクザ然としている。
だが車から降りてきた男を見て自分の想定が間違っていたことを知る。
「ハイネ」
「……てっきりトーマさんが帰るついでに送ってもらう、みたいなのを想像してたんですが、どうしてあの傍若無人の怪物がここに?」
「さっき呼んだ。今日のお前は厄日だ。とっととあいつに任せちまった方がいいと思ってな」
「勘弁してください」
「どうせ事故るなら一人で電車に乗ってる時じゃなくて、あいつ巻き添えにした方が幾分かすっきりするだろ」
何よりあいつは殺しても死ななそうだ、と付け加えたトーマに乾いた笑いだけ返しておく。それだけは間違いない。
颯爽と車を近づくと左手で俺の肩を掴み抱き寄せようとするため、できうる限りの力でその甲をひっぱたく。
「連絡ありがとう。だが今日は元の職場の飲み会と聞いていたけれど、なぜトーマが?」
「たまたま出くわしただけだ。持って帰ってやれ」
「そう? まあそういうことにしておこうか」
雑な説明が腑に落ちない様子でテオドールは鼻を鳴らした。けれどそれ以上を追求することもなく、俺を助手席へと押し込んだ。どういう説明があったのか、俺は良く知らない。けれどテオドールはトーマが一言三言話すと軽く手を振ってから運転席へとついた。
流れ出す車窓からトーマに手を振ると、緩慢に振り返され。口パクで何かを言われたが周囲の暗さを理由にわからなかったふりをした。
「おかえり」
「迎え、ありがとうございます」
ただいまなどと言うのが癪で礼だけ言って目を逸らす。車通りの少ない夜道を滑るように走っていく。前方の赤信号がいやに目についた。
「今夜は前勤めてた会社の人と飲みに行くんじゃなかったのかい?」
「元同期たちと飲んでましたよ。その後でトーマさんに誘われたんです」
「それで、ほいほいついていってしまったのか」
珍しくとげのある言葉選びに車窓から視線を外す。眉を顰めて運転席のテオドールを見ると、まっすぐ前を向いていて、口元は常の通り微かに笑みを浮かべている。
「……どういう感情なんです、それ」
「どんな感情だと思う?」
「わからないから聞いてる」
どこか試すような物言いに呆れながらため息を吐いた。こちらを威圧したいわけでもなければ言葉遊びをしたいわけにも見えない。平坦な声色と静かな笑みはいつもどおりなのにどこか違和感があった。しかしイカレ男の思考回路など考えたところで無駄だろうと、早々に推測を放棄する。
「なんと言えばいいのだろう。私の思っていることを、君に正しく伝えられる気がしない」
「じゃあ大丈夫です」
ばっさりと会話を終わらせると、笑みを浮かべていた口がとうとうへの字になった。
あからさまに機嫌を悪くしたテオドールに唇を噛む。そうしないと笑ってしまいそうだった。飄々としたこの男が、簡単に笑みを忘れるのが珍しい。
じ、と横顔を見ているとわざとらしく咳ばらいをした。
「ハイネは、私にはまだ怯えたり警戒したりするのに、たった一度、数分会っただけのトーマからの誘いには乗るのだな、と思って。……奴だって君の嫌いな反社だぞ」
唇を噛んだまま目を見開いた。拗ねているのか、この男は。
「あなたは俺に実害を与えましたが、トーマさんはそうでないので。マシューって人が殺されたときも、トーマさんがフォローしてくれてましたし」
「確かにそれはそうだが……」
への字になった口を観察する。よくよく見れば下唇微かに出ている。いい年してこの男は唇を尖らせて拗ねるのか。悩まし気に寄せられた眉間の皺に対して口元はまるで機嫌を損ねた女児のようだ。
「……私とは飲んでくれたことないのに」
「要するに、俺がトーマさんに懐いてて嫉妬した、と」
なんだそれ、と鼻で笑うと面白くなさそうに口を開く。
「君は、私のだ。私が捕まえて、私が囲った。なのに君は私じゃなくてトーマに懐く。奴だって私と同じなのに」
「そういうとこですよ。俺をまるで拾った犬猫のように。トーマさんは俺のことを“一端の男”って言ってくれましたよ」
文脈はともかくとして、と心の中で付け加える。苦虫を噛みつぶしたような顔に気をよくした。この男を遣り込めるには俺だけでなく他の人間も使えるのかとほくそ笑む。
「大体俺はあんたのものではありませんし、今の俺を見て自分のものにできていると思ってるなら勘違いです」
「わかってるさ。それに君のことを愛玩動物のようにも思っていない」
「じゃあ俺をいったいなんだと思ってるんです?」
車通りの少ない夜の道、テオドールは無言で路肩に車を寄せた。アルコールの入った頭で疑問符を浮かべ、テオドールを見る。そして余計な口実を与えた自分の失言に気が付いた。
わざとらしいほど目線を合わせなかった灰色の瞳が目の前にあった。たじろぐのを見越したように大きな左手が座席に置いたままだった俺の右手を覆い被せるように握った。
「私が君を、どう思っているか。口にしたら君は応えてくれるのかい?」
「い――」
間髪入れず「いいえ」と答えようとすると、無理やり口をふさがれた。焦点が合わない距離にテオドールの顔があって、彼は微かに目を細めて笑った。何が起きているのか理解する前に顔が離されて、塞がれていた口がリップ音と共に解放される。
「……っはぁ!?」
「ああ……良い顔をするね、可愛らしい」
肉食獣が舌なめずりするように、薄い唇の間から舌が覗いた。呆然とする俺をそのままにテオドールはハザードランプを消し再び車を走らせた。
「え、あ、は」
「なんだか落ち着いたよ。言いたいことは言えたし、良い思いもさせてもらった。……こら、ハイネ。危ないから走行中に扉を開けようとしないでくれ」
「何すんだ! 何自分だけすっきりした顔してんだ!」
「いや、どうせ答えを待ったところで否定しか出てこないのはわかっているからね。君にまだ好かれてない自覚はあるが、さすがにあまり拒否されると傷つく。だからその口を塞いだだけ。隙だらけで助かるよ」
すっかり機嫌を良くしたテオドールに殺意が湧く。
「気色悪い! 死ね!」
「ふ、ははは、素直だなあ可愛らしい。驚愕、嫌悪、焦り、混乱。いずれにせよそそるよ」
「くたばれイカレ野郎!」
当初と比べ一転してき機嫌を良くしたテオドールは鼻歌でも歌いそうなほどだった。その横っ面を引っ叩いてやりたいが、俺だってこの男の心中したいわけではない。歯噛みしながら二度と隙を見せてたまるかと決意した。
「俺が疫病神に憑かれているがばかりに、すみません」
「申し訳ないとか思ってないだろお前。まああるだろ、こういう今日はもう何しても駄目な日、みたいなの。こういう時は引き際が大事だ」
「ええ、残念ですが、俺も帰ることにします」
電車の時間を調べようとスマホをタップするとトーマは俺の手元を凝視していた。
「あの……?」
「……電車で帰るのか? いや、確かにあの店は駅近だが……」
眉間に皺を寄せ逡巡すると、ぱっと自分のスマホを取り出してどこかへ電話を掛け出した。
「おい、俺だ。今ハイネと一緒だ。迎えに来い。場所は――」
一方的に捲し立てるように話すとあっさりと電話を切る。部下に迎えを頼んだのだろう。もし俺があの態度で上司から迎えを頼まれたら人事に相談待ったなしだが、上下関係の厳しそうなヤクザの世界ではああいったコミュニケーションが日常茶飯事なのかもしれない。
「迎えを来させたからちょっと待ってろ。送らせる」
「……え、いや、俺の?」
「お前のだ」
トーマに迎えが来るのであれば自分は先に電車で帰ろうと思っていたのだが、まさか先ほどの一方的な命令の原因が自分だとは思わなかった。彼の部下もいったい何をやらされているのかと困惑するに違いなかった。
「俺は普通に電車で帰る」
「俺も電車で帰れますよ」
「駄目だ。嫌な予感がする。こういう勘ってのは馬鹿にできねえ。今日のお前はあまりに運が悪い。このまま帰らせてさっきみたいな妙な輩に絡まれたり、通り魔にでも遭われたらたまらん」
あまりに論理的でない主張だというのに自信に満ちた表情で断言されてしまうと、否定の言葉がすぐには思い浮かず唖然としてしまった。シックスセンス、あるいは虫の知らせというやつなのだろうが、俺にはその感覚こそピンとこなかった。だがアルコールの入った頭では「まあそんなこともあるだろう」で納得できてしまった。
「小一時間もすれば迎えが来る。それまで大人しく待っていろ」
人もまばらな駅のロータリーをトーマと二人で並んで眺めていた。なんの偶然か、他にロータリーで人を待つ車はいない。誰も俺たちに近づかないのは皆他人に構ってられるほど暇でないからか、トーマが恐ろしいからなのかはわからない。隣から流れてくる紫煙が鼻を擽った。
「トーマさんって、ヤクザなんですか?」
「どうした急に。ヤクザ以外の何か見えたか。指定暴力団?」
「いえ、ただの雑談です。トーマさんといい、テオドールといい、ルドルフといい、危なそうなのはわかるんですが、どういった人たちなのかあまりわからないので」
トーマは一般人が思い描くようなヤクザだ。高そうなスーツを着て、厳めしい顔には古い傷がある。ガタイも良ければ人を恫喝するのにちょうど良さそうな低い声もあり、いかにもヤクザ然としている。先の居酒屋でトーマが連れていた男たちもそうだ。
だがテオドールたちは違う。テオドールは何をしたか、それすら知らなければごくありふれた穏やかな紳士にしか見えない。ルドルフに至っては行き過ぎなほど友好的で少しも後ろ暗さを感じさせない。それこそ、俺ですら本人の口から食の嗜好について聞いていなければ、彼が食人鬼などとは信じなかっただろう。少なくとも、彼らは一般人の思い描くような反社会的勢力には見えない。
「ほお? テオドールには聞いたか?」
「答えてくれませんでしたよ。色々聞いたらもう戻れなくなるからって」
「そうか! そんなことを……引き返させる気がわずかでもあったとは」
トーマはなぜか一通り呵々と笑い、心底おかしいと言わんばかりに頷いた。
「なら俺が勝手に言うわけにはいかないな。それが奴のなけなしの善性だとしたら、それを台無しにしようとは思わん」
「鼻で笑えるレベルの善性ですね」
それが善のつもりなのか、あるいは他の何かなのかはわからない。だがここまで人振り回しておいて、その程度の何かで善を名乗るのなど片腹痛い。
「それでも、人の心のない傍若無人な暴君の思いやりなんだろう。一般人への解像度の低さがいっそほほえましい。いや、あの怪物にほほえましいなんて言葉をくれてやる日が来るとは」
反社でありながらこちらのことを憐れんでくれる人だと思ったのに、“ほほえましさ”などというもののせいで、イカレ男擁護派となろうとするトーマに憤然とする。
「微笑ましかろうが、懸命だろうが俺がそれに応えてやる義理はありません」
「そりゃそうだ。お前は立派な大人で意思も感情もある。拒否する権利もあれば逃げ出す権利もある。それを行使するかどうかは別として」
トーマの言葉にぐうと黙り込む。彼の言う通りだ。権利があれども、行使することができない。実際俺は一度逃げ出した前科がある。そしてあっさりと捕まり、挙句温情で咎められることすらなかった。二度目はないとくぎを刺されたうえで。
どこか遠くで救急車のサイレンの音が聞こえた。近づき音程が変わる奇妙なそれに耳を傾けながら口を開く。
「俺、一回逃げ出して、速攻捕まったんです。電車乗り継いで、終点の駅でネカフェに泊まって、人ごみに紛れて電車にまた乗ろうとしたら、待ち構えていました」
「なるほど。踏み込んでこないあたりが奴らしい」
「もし俺が、なんでもするから逃がしてほしいって頼んだら、トーマさんは協力してくれますか?」
隣に立つトーマを見上げる。まっすぐ日本人にしては色素が薄めの瞳を見据えると彼は口の端だけで笑った。
「……なんでも、なあ。随分な博打屋だ。なんでもベットできると?」
「なんでもベットするに値するかと」
「ヤクザからヤクザに乗り換えたところで、ろくなことにはならんだろ」
あ、と思う間もなく胸倉を掴まれ、厳つい顔が目の前に迫っていた。
「人を誑かすのが得意と見えるが、相手は選べよ小童」
「トーマさんを誑かせるとは思っていませんよ」
「傾城のふりをするのは結構。だがお前は自分で選択して戦うことのできる大人で、一端の男だろ」
眉を寄せたまま低い声で身体の芯を揺さぶるように喋るトーマ。その瞳から視線を逸らすことなく真っ向から迎える。怒っているわけではない。それほどの感情は乗っていない。そこにあるのは年少者を叱る、あるいは諭す色だった。
ややあって、トーマはぱっとシャツの襟から手を離す。わずかに皺の寄ったシャツを直すとため息を吐かれた。
「お前、怖いもの知らずか? その度胸には関心するが、もう少しばかり警戒心を持ってくれ」
「トーマさんから加害の意思が感じられなかったので」
「自分の感覚を過信するな……加害の雰囲気なしに加害するサイコパスをいるんだぞ……」
「あなたは違うでしょう?」
笑顔を向ければ苦々しくため息をついた。
「……お前のそれはわざとか?」
「さて。トーマさんのご都合がよろしいように取っていただければ」
「……お前のことを少々見くびっていたのは謝ろう」
「やだな、ただの雑談ですよ」
そう口角を上げるだけの笑みを浮かべたとき、ちょうどロータリーに黒い車が進入した。明確な意思を持った動きに視線を奪われる。同じようにトーマが目で追うことからあれは件の車なのだろう。真っ黒い車はいかにもヤクザ然としている。
だが車から降りてきた男を見て自分の想定が間違っていたことを知る。
「ハイネ」
「……てっきりトーマさんが帰るついでに送ってもらう、みたいなのを想像してたんですが、どうしてあの傍若無人の怪物がここに?」
「さっき呼んだ。今日のお前は厄日だ。とっととあいつに任せちまった方がいいと思ってな」
「勘弁してください」
「どうせ事故るなら一人で電車に乗ってる時じゃなくて、あいつ巻き添えにした方が幾分かすっきりするだろ」
何よりあいつは殺しても死ななそうだ、と付け加えたトーマに乾いた笑いだけ返しておく。それだけは間違いない。
颯爽と車を近づくと左手で俺の肩を掴み抱き寄せようとするため、できうる限りの力でその甲をひっぱたく。
「連絡ありがとう。だが今日は元の職場の飲み会と聞いていたけれど、なぜトーマが?」
「たまたま出くわしただけだ。持って帰ってやれ」
「そう? まあそういうことにしておこうか」
雑な説明が腑に落ちない様子でテオドールは鼻を鳴らした。けれどそれ以上を追求することもなく、俺を助手席へと押し込んだ。どういう説明があったのか、俺は良く知らない。けれどテオドールはトーマが一言三言話すと軽く手を振ってから運転席へとついた。
流れ出す車窓からトーマに手を振ると、緩慢に振り返され。口パクで何かを言われたが周囲の暗さを理由にわからなかったふりをした。
「おかえり」
「迎え、ありがとうございます」
ただいまなどと言うのが癪で礼だけ言って目を逸らす。車通りの少ない夜道を滑るように走っていく。前方の赤信号がいやに目についた。
「今夜は前勤めてた会社の人と飲みに行くんじゃなかったのかい?」
「元同期たちと飲んでましたよ。その後でトーマさんに誘われたんです」
「それで、ほいほいついていってしまったのか」
珍しくとげのある言葉選びに車窓から視線を外す。眉を顰めて運転席のテオドールを見ると、まっすぐ前を向いていて、口元は常の通り微かに笑みを浮かべている。
「……どういう感情なんです、それ」
「どんな感情だと思う?」
「わからないから聞いてる」
どこか試すような物言いに呆れながらため息を吐いた。こちらを威圧したいわけでもなければ言葉遊びをしたいわけにも見えない。平坦な声色と静かな笑みはいつもどおりなのにどこか違和感があった。しかしイカレ男の思考回路など考えたところで無駄だろうと、早々に推測を放棄する。
「なんと言えばいいのだろう。私の思っていることを、君に正しく伝えられる気がしない」
「じゃあ大丈夫です」
ばっさりと会話を終わらせると、笑みを浮かべていた口がとうとうへの字になった。
あからさまに機嫌を悪くしたテオドールに唇を噛む。そうしないと笑ってしまいそうだった。飄々としたこの男が、簡単に笑みを忘れるのが珍しい。
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唇を噛んだまま目を見開いた。拗ねているのか、この男は。
「あなたは俺に実害を与えましたが、トーマさんはそうでないので。マシューって人が殺されたときも、トーマさんがフォローしてくれてましたし」
「確かにそれはそうだが……」
への字になった口を観察する。よくよく見れば下唇微かに出ている。いい年してこの男は唇を尖らせて拗ねるのか。悩まし気に寄せられた眉間の皺に対して口元はまるで機嫌を損ねた女児のようだ。
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「要するに、俺がトーマさんに懐いてて嫉妬した、と」
なんだそれ、と鼻で笑うと面白くなさそうに口を開く。
「君は、私のだ。私が捕まえて、私が囲った。なのに君は私じゃなくてトーマに懐く。奴だって私と同じなのに」
「そういうとこですよ。俺をまるで拾った犬猫のように。トーマさんは俺のことを“一端の男”って言ってくれましたよ」
文脈はともかくとして、と心の中で付け加える。苦虫を噛みつぶしたような顔に気をよくした。この男を遣り込めるには俺だけでなく他の人間も使えるのかとほくそ笑む。
「大体俺はあんたのものではありませんし、今の俺を見て自分のものにできていると思ってるなら勘違いです」
「わかってるさ。それに君のことを愛玩動物のようにも思っていない」
「じゃあ俺をいったいなんだと思ってるんです?」
車通りの少ない夜の道、テオドールは無言で路肩に車を寄せた。アルコールの入った頭で疑問符を浮かべ、テオドールを見る。そして余計な口実を与えた自分の失言に気が付いた。
わざとらしいほど目線を合わせなかった灰色の瞳が目の前にあった。たじろぐのを見越したように大きな左手が座席に置いたままだった俺の右手を覆い被せるように握った。
「私が君を、どう思っているか。口にしたら君は応えてくれるのかい?」
「い――」
間髪入れず「いいえ」と答えようとすると、無理やり口をふさがれた。焦点が合わない距離にテオドールの顔があって、彼は微かに目を細めて笑った。何が起きているのか理解する前に顔が離されて、塞がれていた口がリップ音と共に解放される。
「……っはぁ!?」
「ああ……良い顔をするね、可愛らしい」
肉食獣が舌なめずりするように、薄い唇の間から舌が覗いた。呆然とする俺をそのままにテオドールはハザードランプを消し再び車を走らせた。
「え、あ、は」
「なんだか落ち着いたよ。言いたいことは言えたし、良い思いもさせてもらった。……こら、ハイネ。危ないから走行中に扉を開けようとしないでくれ」
「何すんだ! 何自分だけすっきりした顔してんだ!」
「いや、どうせ答えを待ったところで否定しか出てこないのはわかっているからね。君にまだ好かれてない自覚はあるが、さすがにあまり拒否されると傷つく。だからその口を塞いだだけ。隙だらけで助かるよ」
すっかり機嫌を良くしたテオドールに殺意が湧く。
「気色悪い! 死ね!」
「ふ、ははは、素直だなあ可愛らしい。驚愕、嫌悪、焦り、混乱。いずれにせよそそるよ」
「くたばれイカレ野郎!」
当初と比べ一転してき機嫌を良くしたテオドールは鼻歌でも歌いそうなほどだった。その横っ面を引っ叩いてやりたいが、俺だってこの男の心中したいわけではない。歯噛みしながら二度と隙を見せてたまるかと決意した。
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