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あの夜から、俺とテオドールの関係は明確に変わった。客観的事実としての立ち位置が変わったわけではない。相変わらず俺はテオドールに捕まった一般人だし、テオドールは俺を飼殺す殺人鬼だ。だが俺はもうテオドールの掌の上で右往左往するペットではない。カウンターの奥から、右往左往する殺人鬼を眺める立場だ。
「ハイネ、これ君に似合うと思うんだ」
「ハイネ、先日出張で行った先で君のことを思い出してお土産を、」
「ハイネ、実はいいワインが手に入ってね」
俺から好かれたい殺人鬼はせっせと機嫌取りをするようになっていた。「手を尽くすのはお前の方だ」と伝えたのは俺自身だ。だがこうも素直に言うことを聞くようになるとは思っていなかった。あれほど常に上位からこちらを見下ろすような透かした態度は鳴りを潜め、気の抜けるベルの音ともに扉を開けてはどこかおっかなびっくりといった様子で会いに来る。客がいれば大人しくカウンターの隅で紅茶を飲み、ただこちらを眺めている。客がいなければこちらにあれやこれやと話かけてくるが、それでもカウンターの中に入ってきたり、いつまでも長居することはない。話している最中の表情は相変わらず飄々とした笑顔が張り付いているが、それでも扉を開けた時の顔を見れば溜飲も下がる。
いつまでその殊勝な態度が続くかわからないが、少なくともこの状態は限りなくお互いの立場が対等に近いのではないだろうか。殺されたくない俺と、蔑みの眼差しを受けたくないテオドール。決して俺が優位になったわけではない。おそらく調子に乗ればすぐに足元をすくわれるだろう。
そして手を尽くせと焚き付けたのが俺なれば、それなりの成功経験を与えなければならない。俺が許せるぎりぎりの範囲かつ、テオドールが不毛と思わない程度のものを。
「赤? 白?」
「赤だ。ボルドーの、」
「俺、赤ワイン苦手なんですよ」
嫌がらせでも嘘でもない事実をなんでもなく告げると、笑顔は崩れないが微かに動揺したのが見て取れた。失敗した、がっかりした、決まりが悪い、視線や肩に入った力からにじみ出るそれを一通り見てからカウンターの端へ座るように促す。
「すまない、好みも聞かずに勝手に、」
「あんたの勝手は今に始まったことじゃない。最初から今に至るまでの常でしょう」
「……アー、いや、そうだね。これは持ち帰ることにするよ。次は白を持ってくる」
「この後仕事は?」
「特に予定はないが、」
「車を運転する予定は?」
「なくそうと思えばその予定は無くせる」
「そう、ちょっと待っててください」
テオドールを一人店に残したまま2階の居住スペースへと上がり、必要なものをもって再び店へと戻る。姿を見せる前にテオドールの顔を覗き見るのは忘れない。店内には誰もいないため貼り付けたような笑顔はない。だが大人しく待っている間もどこかそわそわとしている。それは居心地が悪いだとか、店に一人残されたからとかそういった類のものでないのは明らかだった。
「おかえりハイネ」
「そのワインはあんたが消費してください」
「いいのかい? ここではアルコールを扱ってはいないだろう?」
「まあ本来持ち込みなんていうのはあり得ませんが、あんたはオーナーですから良いんじゃないですか? 他にお客さんもいないことですし」
カプラはあくまでカフェで、アルコールを飲むことを前提としていないため、2階から私物の栓抜きとワイングラスを持ってきた。
「もちろん無理強いはしませんが。俺の顔を見ながら飲むのが嫌ならどうぞお持ち帰りを」
「君ね、」
「俺の可愛い顔、好きでしょう?」
顎を上げて笑えば、どこか悔しそうに口を噤んだテオドールは突然こちらへ右手を伸ばした。反射的に栓抜きを持ったままの左手を突き出し誤魔化そうとするが、大きすぎる手は栓抜きを無視して俺の手首をがっちりと掴んだ。
「そうだね、君の可愛い顔が好きだよ」
「離してもらえますか。うちの店、おさわりとかやってないんで。そういうのがよければ他のお店へどうぞ。お出口あちらです。足元気を付けて」
「君のいない他の店には興味がないよ。君に会いに来ているのだから」
「調子に乗らないでください、気色悪い」
「調子に乗る君が可愛くてね」
にや、と口の端で笑って見上げるテオドールに笑い返す。左手の力を抜けば握っていた栓抜きはあっさりと落ち、カウンターの上を跳ねてから床へと転がった。
「ハイネ、」
「拾って。あんたが俺の手を握ったせいで落ちました」
拾って、と繰り返すと喉の奥で笑いながらテオドールは手首を解放し、おとなしく床に落ちた栓抜きを拾い上げた。
「我儘な子だ」
「そっくりそのままお返ししますよ。次このようなことがあれば今度はワイングラスであんたの頭を叩き割ります」
「それを今しなかったということが、君の善性の証左だよ」
せっかく割るならワイングラスではなくボトルで叩き割ると宣言すればよかったと舌打ちしながらグラスをカウンターへ置いてさっと身を引いた。あの悪魔のような手が届かないように。
「注いではくれないのかい?」
「俺の機嫌を損ねておいてこれ以上のサービスが受けられるとでも? ご自分のことを図々しいと思ったことは?」
「図々しく生きた方が何かと都合がいいからね」
テオドールはそれ以上ごねることなく、手際よく栓を抜いて手酌し始める。それなりに対応はしてやったのだからもう十分だろうと彼を横目で見てカウンター内の片づけを再開した。
洗ったカップやソーサーを棚に戻し、表に出していた紅茶の缶をしまい込む。視線もやらず黙々と作業をする俺に機嫌の良さそうな声が飛んでくる。
「ここの生活には慣れたかい? 困っていることは?」
「それなりに慣れました。困っていることはありませんが、何かあれば連絡します」
「お店は繁盛してる? 繁盛しなくてもいいのだけれど」
「繁盛と言うほどではありませんが、常連のお客さんはいますよ」
「君は楽しく過ごせている?」
手に持っていたカップの底がソーサーにぶつかり、音を立てる。
楽しくは、おそらく過ごせているだろう。楽しく、というよりも慣れや惰性かもしれないが、“楽しく”という言葉を否定するほどの怒りや虚しさはなかった。
「それなり、には。犯罪に巻き込まれない限りですが」
ノルマを気にせずのんびりできて、自分の好きなものに囲まれながらレシピ本を眺める昼下りは確かに楽しいものだった。いつ犯罪者が訪れてもおかしくないという緊張感を差し引いたとしても。少なくとも、彼が訪れる頻度を思えば可愛いものだ。
「……なら、良かった」
「ええ、ですので二度と俺の周りで殺人、傷害、またそれに準ずる事象を起こさないでください」
「善処するよ」
ボトルの中のワインはみるみる減っていくが、テオドールに酔っているような雰囲気は感じられない。人種の問題なのかテオドール個人の体質なのかはわからないが、羨ましい限りだ。
「……テオドールって何者なんですか?」
「何者、っていうと?」
「犯罪者なのはわかりますけど、やくざとかマフィアとか?」
「どうしてそんなことを?」
「興味本位です。ルドルフはあんたのことをボスと呼んでいたので」
「相変わらずおしゃべりだなぁ、あの子は」
ただ「ボス」は英語圏では社長を指すからあまり理由にならないね、とテオドールは少し困ったように笑い、空になったグラスにワインを注いだ。
「あの子はなんて言ってた?」
「ボスは片付けの時によく自分を呼ぶ、ボスは死体を食べない」
「はっはははは! あの子は本当におしゃべりだ。迂闊と言うべきか警戒心がないというか……。ハイネ、君は人喰いのルドルフが怖いかい?」
「……怖くないと言ったら嘘になりますが、あんたよりはましです」
揶揄うように覗き込んでくる灰色の目を横目で見ながら砂時計を箱へとしまう。
目の前で死体を作り放置した男と、その死体を方法はどうあれ片付けてくれた男なら後者の方に親しみを感じるのは当然だろう。
「なるほど。報告に来たルドルフが君のことを話していたよ。善良な人だと。どうやら君に懐いたらしい。食人の性のためあの子は疎まれてばかりだった。だがその分、とても愛情深い」
「テオドールも、人喰いである彼を認めて、懐かせたんですか?」
「どうにも人聞きが悪い。私は確かに認めたが、懐かせるためではなかった。庇護者たる両親が殺され、頼る先もない兄弟に手を差し伸べただけさ。庇護を与え、居場所を与える。善き大人として当然のことだろう」
「あんたにそういった常識的な善性が備わっているとは知りませんでした」
「企業の社会的責任さ」
喉の奥で笑うテオドールに胡乱げな眼差しを送る。事の次第の詳細を俺はまるで知らない。一側面から見たところで全容など見えはしない。身寄りのない子供の受け皿になったのは事実なのだろう。ただ相手が相手なだけに、そもそも両親が殺されたとうのもテオドールの策略であったのではないだろうか、という疑いさえ芽生えてくる。普段の行いの悪さ故だ。
「あの子はイタリアの小さな村に住んでいた。小さなコミュニティだからこそ隠しきれなかったのだろう。食人の疑いで両親は私刑に遭い殺害された。そして子供たちも疑われていた。いずれにせよ、ルドルフたちは生まれ育った村に住み続けることはできなかったんだ。……さて」
気が付けばテオドールの手元にワインボトルは空になっていた。ペースの速さに舌を巻く。空になったボトルとグラスを回収しようと手を伸ばすと、また手首を掴まれる。何をするんだという意味を込めて睨むが、テオドールが動揺することもない。
「ルドルフにつられて私も昔話をしてしまったよ。それからハイネ、私が何者か、という質問に答えるのは控えさせてもらうよ」
「ここまで話しておいてどうしてそこを渋るんですか」
要するに欧州のヤクザ、マフィアなのだろう、と内心結論を出しながら、惰性の社交辞令のような質問を気もなく投げる。
「私が何者か、何をしているかを君が知ったら、もう戻れなくなるから」
逃がすつもりがあったのかと鼻で笑おうとしたのを押さえつけるように、灰色の目は静かに見上げた。
「私のものになっていないうちに、君を危険に晒すようなことはしたくない」
「……っ」
「君が私に身を任せてくれるなら、私のすべてを君に伝えるし、この世の悪意すべてから君のことを守るよ」
貼り付けられていた笑顔はなく、真剣そのものの表情と声色に言葉を失った。皮肉や罵倒はいくらでも思いつくのに、どれも口にするのは不似合いな気がして、舌に乗せることができなかった。何も言えず、身じろぐこともできず、ただ灰色の目を見つめ返した。瞳に映る自分の情けない顔を見る前に、厚い瞼に覆われた。
手の甲に薄い唇が触れるのをただ呆けたように眺めていた。
「でもきっと、君にはまだ早いだろうから」
「早いも遅いも、あんたに身を任せるだろう日は永遠に来ないので、あんたのすべてを知ることもないでしょう。さっさと手を離せ」
「つれないね」
「あんたが何者かといった詳細についてはもう結構です。ただの雑談ですから」
「気長に待つさ。それなりの長期戦になることは覚悟しているよ」
手を振り払えば思いのほか抵抗なく離れた。触れていた場所に痺れるような違和感がある。手の甲をあからさまに拭おうとしたが、あまりにも幼稚で笑われそうな気もして、何もせずに手を引っ込めた。
気が付けば壁にかけた時計の針が7時を回っていた。結局最後の1時間、他に客が来なかったため実質テオドールの貸し切りとなってしまった。「Closed」の札を掛けてカウンターへと戻ると、彼もかけていたコートを着るところだった。本当に、大人しく帰るらしい。
「ハイネ、明日カプラは定休日だと思うんだけど、時間はあるかい?」
「あんたのための時間はありませんね」
すげなく言うとあからさまに傷つきました、という顔をしていた。仕返しのつもりだが、そのわざとらしい表情から見るに、あまり堪えていないらしい。
「君をディナーに誘えたらと思っていたんだが」
「明日は前の会社の同期と飲みに行くので」
カウンターの中を片付け、なんでもないようにそう言った。
「そっか、残念だがまたにするとしよう」
何か言われるのではないかと、警戒していた分拍子抜けした。
会社を辞めさせることで、俺から職、居場所、人間関係のことごとくを奪っていったテオドールが、今になって元の会社の人間と関わることについて良く思いはしないだろう、と考えていた。だが俺の予想に反して、テオドールはなんの反応も示さなかった。その代わり、彼の様子を注視していた俺にウインクをする。
「私が止めると思った?」
「……不満の一つでも言うかと」
「言わないよ。君からコミュニティを奪ったのは悪いと思っているし、間違いだとも思っているよ。だから君が多少そのコミュニティと関係を復旧しようとしているなら私はきっと止めるべきじゃない。それに、君はその程度じゃここから出ていかないとも思ってる」
「……復職したいと思ってるかもしれないじゃないですか」
「ははは、君は責任感があるからね。成り行きとはいえ、自分の店になったこのカプラをそのままにして失踪するようなことはしないだろう?」
余裕綽々でそう言うテオドールにちょっとむっとする。わかったように言われるのは腹が立つ上、その内容が正鵠を射ている分余計癇に障る。本意ではなかったし強制されたことではあるが、それでも今店長としてこの店を切り盛りしているのだから、放り出すという選択肢はない。
「止めてほしかったの、ハイネ」
「寝言は寝て言ってください。あんたが何もしなさそうなので安心しました」
大きな手がふいに頬を撫でて反射的にテオドールの顔を見る。灰色の両目が細められ、舌が薄い唇を舐めた。
「敢えて何もしなくても、私は君のことをまだ縛れてる」
耳にまとわりつく言葉に歯噛みして、手を叩き落した。上手になれたつもりでいても、気を抜けばすぐにひっくり返される。隠したつもりの恐怖心を見透かしたように、テオドールは触れる。
「本当に、隙だらけで可愛いなあ」
「黙れ」
「ディナーはまた今度誘うよ」
ひらひらと機嫌よく手を振りながら出て行くテオドールに舌打ちし、外へ出た瞬間勢いよく扉を閉め施錠する。少しでも嫌味に感じてくれていれば嬉しいが、きっと気にも留めていないことだろう。独り相撲のような気がしてどっと疲労感に襲われた。
テオドールが座っていたカウンターを片付けようと近づいたとき、空のボトルの下に小さな紙が置かれていることに気づいた。ごみかと思い拾い上げるとそれは小さなメモで、筆記体でメッセージ書かれていた。どうしたものかと思いつつ、頭を掻きむしる。
「本当、なんなんだあいつ……」
ゴミ箱へ捨てるのも憚られ、仕方なくカウンターの奥にある引き出しへと放った。
「ハイネ、これ君に似合うと思うんだ」
「ハイネ、先日出張で行った先で君のことを思い出してお土産を、」
「ハイネ、実はいいワインが手に入ってね」
俺から好かれたい殺人鬼はせっせと機嫌取りをするようになっていた。「手を尽くすのはお前の方だ」と伝えたのは俺自身だ。だがこうも素直に言うことを聞くようになるとは思っていなかった。あれほど常に上位からこちらを見下ろすような透かした態度は鳴りを潜め、気の抜けるベルの音ともに扉を開けてはどこかおっかなびっくりといった様子で会いに来る。客がいれば大人しくカウンターの隅で紅茶を飲み、ただこちらを眺めている。客がいなければこちらにあれやこれやと話かけてくるが、それでもカウンターの中に入ってきたり、いつまでも長居することはない。話している最中の表情は相変わらず飄々とした笑顔が張り付いているが、それでも扉を開けた時の顔を見れば溜飲も下がる。
いつまでその殊勝な態度が続くかわからないが、少なくともこの状態は限りなくお互いの立場が対等に近いのではないだろうか。殺されたくない俺と、蔑みの眼差しを受けたくないテオドール。決して俺が優位になったわけではない。おそらく調子に乗ればすぐに足元をすくわれるだろう。
そして手を尽くせと焚き付けたのが俺なれば、それなりの成功経験を与えなければならない。俺が許せるぎりぎりの範囲かつ、テオドールが不毛と思わない程度のものを。
「赤? 白?」
「赤だ。ボルドーの、」
「俺、赤ワイン苦手なんですよ」
嫌がらせでも嘘でもない事実をなんでもなく告げると、笑顔は崩れないが微かに動揺したのが見て取れた。失敗した、がっかりした、決まりが悪い、視線や肩に入った力からにじみ出るそれを一通り見てからカウンターの端へ座るように促す。
「すまない、好みも聞かずに勝手に、」
「あんたの勝手は今に始まったことじゃない。最初から今に至るまでの常でしょう」
「……アー、いや、そうだね。これは持ち帰ることにするよ。次は白を持ってくる」
「この後仕事は?」
「特に予定はないが、」
「車を運転する予定は?」
「なくそうと思えばその予定は無くせる」
「そう、ちょっと待っててください」
テオドールを一人店に残したまま2階の居住スペースへと上がり、必要なものをもって再び店へと戻る。姿を見せる前にテオドールの顔を覗き見るのは忘れない。店内には誰もいないため貼り付けたような笑顔はない。だが大人しく待っている間もどこかそわそわとしている。それは居心地が悪いだとか、店に一人残されたからとかそういった類のものでないのは明らかだった。
「おかえりハイネ」
「そのワインはあんたが消費してください」
「いいのかい? ここではアルコールを扱ってはいないだろう?」
「まあ本来持ち込みなんていうのはあり得ませんが、あんたはオーナーですから良いんじゃないですか? 他にお客さんもいないことですし」
カプラはあくまでカフェで、アルコールを飲むことを前提としていないため、2階から私物の栓抜きとワイングラスを持ってきた。
「もちろん無理強いはしませんが。俺の顔を見ながら飲むのが嫌ならどうぞお持ち帰りを」
「君ね、」
「俺の可愛い顔、好きでしょう?」
顎を上げて笑えば、どこか悔しそうに口を噤んだテオドールは突然こちらへ右手を伸ばした。反射的に栓抜きを持ったままの左手を突き出し誤魔化そうとするが、大きすぎる手は栓抜きを無視して俺の手首をがっちりと掴んだ。
「そうだね、君の可愛い顔が好きだよ」
「離してもらえますか。うちの店、おさわりとかやってないんで。そういうのがよければ他のお店へどうぞ。お出口あちらです。足元気を付けて」
「君のいない他の店には興味がないよ。君に会いに来ているのだから」
「調子に乗らないでください、気色悪い」
「調子に乗る君が可愛くてね」
にや、と口の端で笑って見上げるテオドールに笑い返す。左手の力を抜けば握っていた栓抜きはあっさりと落ち、カウンターの上を跳ねてから床へと転がった。
「ハイネ、」
「拾って。あんたが俺の手を握ったせいで落ちました」
拾って、と繰り返すと喉の奥で笑いながらテオドールは手首を解放し、おとなしく床に落ちた栓抜きを拾い上げた。
「我儘な子だ」
「そっくりそのままお返ししますよ。次このようなことがあれば今度はワイングラスであんたの頭を叩き割ります」
「それを今しなかったということが、君の善性の証左だよ」
せっかく割るならワイングラスではなくボトルで叩き割ると宣言すればよかったと舌打ちしながらグラスをカウンターへ置いてさっと身を引いた。あの悪魔のような手が届かないように。
「注いではくれないのかい?」
「俺の機嫌を損ねておいてこれ以上のサービスが受けられるとでも? ご自分のことを図々しいと思ったことは?」
「図々しく生きた方が何かと都合がいいからね」
テオドールはそれ以上ごねることなく、手際よく栓を抜いて手酌し始める。それなりに対応はしてやったのだからもう十分だろうと彼を横目で見てカウンター内の片づけを再開した。
洗ったカップやソーサーを棚に戻し、表に出していた紅茶の缶をしまい込む。視線もやらず黙々と作業をする俺に機嫌の良さそうな声が飛んでくる。
「ここの生活には慣れたかい? 困っていることは?」
「それなりに慣れました。困っていることはありませんが、何かあれば連絡します」
「お店は繁盛してる? 繁盛しなくてもいいのだけれど」
「繁盛と言うほどではありませんが、常連のお客さんはいますよ」
「君は楽しく過ごせている?」
手に持っていたカップの底がソーサーにぶつかり、音を立てる。
楽しくは、おそらく過ごせているだろう。楽しく、というよりも慣れや惰性かもしれないが、“楽しく”という言葉を否定するほどの怒りや虚しさはなかった。
「それなり、には。犯罪に巻き込まれない限りですが」
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「……なら、良かった」
「ええ、ですので二度と俺の周りで殺人、傷害、またそれに準ずる事象を起こさないでください」
「善処するよ」
ボトルの中のワインはみるみる減っていくが、テオドールに酔っているような雰囲気は感じられない。人種の問題なのかテオドール個人の体質なのかはわからないが、羨ましい限りだ。
「……テオドールって何者なんですか?」
「何者、っていうと?」
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「どうしてそんなことを?」
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「……怖くないと言ったら嘘になりますが、あんたよりはましです」
揶揄うように覗き込んでくる灰色の目を横目で見ながら砂時計を箱へとしまう。
目の前で死体を作り放置した男と、その死体を方法はどうあれ片付けてくれた男なら後者の方に親しみを感じるのは当然だろう。
「なるほど。報告に来たルドルフが君のことを話していたよ。善良な人だと。どうやら君に懐いたらしい。食人の性のためあの子は疎まれてばかりだった。だがその分、とても愛情深い」
「テオドールも、人喰いである彼を認めて、懐かせたんですか?」
「どうにも人聞きが悪い。私は確かに認めたが、懐かせるためではなかった。庇護者たる両親が殺され、頼る先もない兄弟に手を差し伸べただけさ。庇護を与え、居場所を与える。善き大人として当然のことだろう」
「あんたにそういった常識的な善性が備わっているとは知りませんでした」
「企業の社会的責任さ」
喉の奥で笑うテオドールに胡乱げな眼差しを送る。事の次第の詳細を俺はまるで知らない。一側面から見たところで全容など見えはしない。身寄りのない子供の受け皿になったのは事実なのだろう。ただ相手が相手なだけに、そもそも両親が殺されたとうのもテオドールの策略であったのではないだろうか、という疑いさえ芽生えてくる。普段の行いの悪さ故だ。
「あの子はイタリアの小さな村に住んでいた。小さなコミュニティだからこそ隠しきれなかったのだろう。食人の疑いで両親は私刑に遭い殺害された。そして子供たちも疑われていた。いずれにせよ、ルドルフたちは生まれ育った村に住み続けることはできなかったんだ。……さて」
気が付けばテオドールの手元にワインボトルは空になっていた。ペースの速さに舌を巻く。空になったボトルとグラスを回収しようと手を伸ばすと、また手首を掴まれる。何をするんだという意味を込めて睨むが、テオドールが動揺することもない。
「ルドルフにつられて私も昔話をしてしまったよ。それからハイネ、私が何者か、という質問に答えるのは控えさせてもらうよ」
「ここまで話しておいてどうしてそこを渋るんですか」
要するに欧州のヤクザ、マフィアなのだろう、と内心結論を出しながら、惰性の社交辞令のような質問を気もなく投げる。
「私が何者か、何をしているかを君が知ったら、もう戻れなくなるから」
逃がすつもりがあったのかと鼻で笑おうとしたのを押さえつけるように、灰色の目は静かに見上げた。
「私のものになっていないうちに、君を危険に晒すようなことはしたくない」
「……っ」
「君が私に身を任せてくれるなら、私のすべてを君に伝えるし、この世の悪意すべてから君のことを守るよ」
貼り付けられていた笑顔はなく、真剣そのものの表情と声色に言葉を失った。皮肉や罵倒はいくらでも思いつくのに、どれも口にするのは不似合いな気がして、舌に乗せることができなかった。何も言えず、身じろぐこともできず、ただ灰色の目を見つめ返した。瞳に映る自分の情けない顔を見る前に、厚い瞼に覆われた。
手の甲に薄い唇が触れるのをただ呆けたように眺めていた。
「でもきっと、君にはまだ早いだろうから」
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「つれないね」
「あんたが何者かといった詳細についてはもう結構です。ただの雑談ですから」
「気長に待つさ。それなりの長期戦になることは覚悟しているよ」
手を振り払えば思いのほか抵抗なく離れた。触れていた場所に痺れるような違和感がある。手の甲をあからさまに拭おうとしたが、あまりにも幼稚で笑われそうな気もして、何もせずに手を引っ込めた。
気が付けば壁にかけた時計の針が7時を回っていた。結局最後の1時間、他に客が来なかったため実質テオドールの貸し切りとなってしまった。「Closed」の札を掛けてカウンターへと戻ると、彼もかけていたコートを着るところだった。本当に、大人しく帰るらしい。
「ハイネ、明日カプラは定休日だと思うんだけど、時間はあるかい?」
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「そっか、残念だがまたにするとしよう」
何か言われるのではないかと、警戒していた分拍子抜けした。
会社を辞めさせることで、俺から職、居場所、人間関係のことごとくを奪っていったテオドールが、今になって元の会社の人間と関わることについて良く思いはしないだろう、と考えていた。だが俺の予想に反して、テオドールはなんの反応も示さなかった。その代わり、彼の様子を注視していた俺にウインクをする。
「私が止めると思った?」
「……不満の一つでも言うかと」
「言わないよ。君からコミュニティを奪ったのは悪いと思っているし、間違いだとも思っているよ。だから君が多少そのコミュニティと関係を復旧しようとしているなら私はきっと止めるべきじゃない。それに、君はその程度じゃここから出ていかないとも思ってる」
「……復職したいと思ってるかもしれないじゃないですか」
「ははは、君は責任感があるからね。成り行きとはいえ、自分の店になったこのカプラをそのままにして失踪するようなことはしないだろう?」
余裕綽々でそう言うテオドールにちょっとむっとする。わかったように言われるのは腹が立つ上、その内容が正鵠を射ている分余計癇に障る。本意ではなかったし強制されたことではあるが、それでも今店長としてこの店を切り盛りしているのだから、放り出すという選択肢はない。
「止めてほしかったの、ハイネ」
「寝言は寝て言ってください。あんたが何もしなさそうなので安心しました」
大きな手がふいに頬を撫でて反射的にテオドールの顔を見る。灰色の両目が細められ、舌が薄い唇を舐めた。
「敢えて何もしなくても、私は君のことをまだ縛れてる」
耳にまとわりつく言葉に歯噛みして、手を叩き落した。上手になれたつもりでいても、気を抜けばすぐにひっくり返される。隠したつもりの恐怖心を見透かしたように、テオドールは触れる。
「本当に、隙だらけで可愛いなあ」
「黙れ」
「ディナーはまた今度誘うよ」
ひらひらと機嫌よく手を振りながら出て行くテオドールに舌打ちし、外へ出た瞬間勢いよく扉を閉め施錠する。少しでも嫌味に感じてくれていれば嬉しいが、きっと気にも留めていないことだろう。独り相撲のような気がしてどっと疲労感に襲われた。
テオドールが座っていたカウンターを片付けようと近づいたとき、空のボトルの下に小さな紙が置かれていることに気づいた。ごみかと思い拾い上げるとそれは小さなメモで、筆記体でメッセージ書かれていた。どうしたものかと思いつつ、頭を掻きむしる。
「本当、なんなんだあいつ……」
ゴミ箱へ捨てるのも憚られ、仕方なくカウンターの奥にある引き出しへと放った。
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大手IT企業でシステムエンジニアとして働く榊(さかき)は、一時的に都内本社から埼玉県にある支社のプロジェクトへの応援増員として参加することになった。その最初の通勤の電車の中で、つり革につかまって半分眠った状態のままの男子高校生が倒れ込んでくるのを何とか支え抱きとめる。
よく見ると高校生は自分の出身高校の後輩であることがわかり、また翌日の同時刻にもたまたま同じ電車で遭遇したことから、日々の通勤通学をともにすることになる。
世間話をともにするくらいの仲ではあったが、徐々に互いの距離は縮まっていき、週末には映画を観に行く約束をする。が……
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素直じゃない人
うりぼう
BL
平社員×会長の孫
社会人同士
年下攻め
ある日突然異動を命じられた昭仁。
異動先は社内でも特に厳しいと言われている会長の孫である千草の補佐。
厳しいだけならまだしも、千草には『男が好き』という噂があり、次の犠牲者の昭仁も好奇の目で見られるようになる。
しかし一緒に働いてみると噂とは違う千草に昭仁は戸惑うばかり。
そんなある日、うっかりあられもない姿を千草に見られてしまった事から二人の関係が始まり……
というMLものです。
えろは少なめ。
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Endless Summer Night ~終わらない夏~
樹木緑
BL
ボーイズラブ・オメガバース "愛し合ったあの日々は、終わりのない夏の夜の様だった”
長谷川陽向は “お見合い大学” と呼ばれる大学費用を稼ぐために、
ひと夏の契約でリゾートにやってきた。
最初は反りが合わず、すれ違いが多かったはずなのに、
気が付けば同じように東京から来ていた同じ年の矢野光に恋をしていた。
そして彼は自分の事を “ポンコツのα” と呼んだ。
***前作品とは完全に切り離したお話ですが、
世界が被っていますので、所々に前作品の登場人物の名前が出てきます。***
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