善良なる山羊より、親愛なる悪党どもへ

秋澤えで

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3 選択と天秤

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 順風満帆な人生と言って、概ね差し支えなかった。忙しくも充実した日々、タスクを熟していく達成感。社会人としてメインストリームから外れることなくやってこれていたと思う。
 しかし今俺は平日の昼間、小さな喫茶店のカウンターの中に立っていた。

 テオドールという男の殺人現場を見てから1か月。うちで働けと脅迫されてから3週間。元々はバーだったという店はすでにその面影などなく改装されており、落ち着いた色調のレトロな喫茶店へと生まれ変わっている。
 そして俺も無職から「喫茶店カプラ」のマスターへの就職を果たした。なお、オープンして1週間、訪れた客はテオドールを除けば1人だけだ。

 穏やかで暖かな日差しが窓から降り注ぐ。カウンターの中で過ごす平日は、ひどくゆったりと時間が流れていた。この1か月の怒涛の変化と比べると時が止まっていると言ってもいい。
 働くか、死ぬかの2択を迫られた俺は、何もかもを諦めて男の下で働くことを選んだ。

 そこからの男は早かった。その場でどこかへ電話し、バーの外構の改装の依頼、必要な書類の手配、その他事務手続きの指示をし、それから1週間後には引っ越し業者を伴ってアパートに襲来した。チャイムが鳴らされ、モニターに胡散臭い笑顔の男がいても俺はもう驚かなかった。


「お店の方の準備が整ってきたから迎えに来たよ」
「……引っ越しするとまでは聞いていません」
「言ってなかったかい? 店舗の2階は居住スペースになっているからそっちに住むと良い」
「拒否することは?」
「拒否しても構わない。だがその場合、もうそうしないうちにここの土地を買い取り、アパートの解体をさせてもらう。おそらく今、自分の意思で転居した方が君も私も手間が少なくて済む」


 どうする、と聞くようにテオドールは眉を上げた。相変わらず選択肢が選択肢の体を成していない。何をしようと結果は変わらないということだけははっきりとしている。
 俺が諦めのため息を吐くと、それを返事と捉えたようでテオドールは笑って引っ越し業者に指示を出した。


「喫茶店で働く、と言っていましたが、飲食店での職務経験はありませんよ」
「知ってる。だがそう肩肘張らなくいい。なんとでもなるさ」
「資格とかも持っていませんし」
「最低限の資格は他の部下が持っているから、籍さえ置いていることにしておけば何の問題もない。不安かい? でも君が選んだ未来だ」


 引っ越し業者に任せ、テオドールの運転する車で件の喫茶店へと向かっていた。俺の質問の何がおかしいのかクスクスと笑う。


「選んだ未来も何も、働くか死ぬかの2択なら誰だって働くことを選ぶでしょう。選択の意味がない」
「いいや、君は選んだんだ」
「命と比べれば、」
「死ぬよりひどいことされる可能性もあるだろう?」


 灰色の目が試すようにじろりと見下ろす。


「するんですか?」
「そう捉えるかは君の価値観によるさ」


 愉快そうに笑う男に舌打ちをする。男がアクセルを踏むとあたりの景色はみるみる変わっていき、間もなく自分が訪れたことのない街並へと差し掛かっていた。


「そもそもなぜ、俺を雇おうなんて思ったんですか」
「あれ言ってなかったっけ。君が可愛かったからだけど。……ああ、その顔はこの理由に納得がいっていない顔だね」
「三十路の男のどこが可愛いのかかけらも理解できないもので」


 人から可愛いなどという評価を受けたのはきっと20年以上前が最後だろう。童顔であるという認識はあるがそれでも可愛いと呼ばれる部類ではない。取引先に可愛がられることはあれど、それは決して顔の造形によるものではない。


「そうだね……見ず知らずの人間を助けようとする善良さとか、一生懸命になると周りが全然見えてないところとか、それにうん。なにより私を見上げた時の怯えた顔が可愛かった」


 自分で聞いておいて、これほどまでに聞かなければよかったと思ったことが今まであっただろうか。機嫌よく指折り数えるテオドールに怖気が走る。


「この前話した時の警戒していたのも威嚇する子猫みたいで可愛かったし、自分の無力さにある程度気づいた諦めの顔とかも良かったし」
「……気色が悪い」
「そういう心底嫌そうな顔もすごく可愛いよ」


 この理解できない美的センスを持つイカれた男の下で働くのと、殺されるの、どちらがマシか真剣に考えるべきだったかもしれない。
 もはや顔も見られたくなくて両手で顔を覆った。


「まあ君とっても良かったじゃないか。君の顔が可愛かったおかげで命拾いしたのだから」
「……顔が気に入らなければ殺してたんですか」
「そりゃあね。あの時君がスマホのライトをつけていなければ殺していただろう。危うくもったいないことをするところだった」


 淡々とした声にぞっとするがそれも今更だ。俺の顔、あるいは男の美的センスに感謝した方がいいのかもしれない。


「でもまあ見た目だけじゃないよ。いろいろ調べさせてもらって、シンプルに仕事ができる子だなとも思ってたし。カフェで話した時も怯えてはいたけど、命乞いしたりとか周囲を巻き込もうともしなかったのも良かった」
「そりゃどうも」
「今だって私に怯えているのにわざわざ話しかけて距離感を図ろうとしてる。健気で強かだ」
「怯えてません」
「嘘はあまり得意ではないようだね。可愛くて善良で、小生意気で嘘が下手。ますます私好みだ。良い拾い物をした。これも神のお導きだろう」


 返す言葉もなく口を噤んだ。もう目的地に着くまで口を開くまい、と心に決めるとともに、目的地までどれだけかかるか先に聞いておけばよかったと後悔した。




「ハイネくん、そろそろ起きてくれるかい?」
「……!?」


 肩をゆすられハッとする。覚醒しきらない頭で目の前で微笑む男を見た。


「君、警戒している割には本当図太いよね。殺人犯の隣で熟睡するなんて」
「……は?」
「もう着いているよ。それに君の部屋への荷物の搬入も終わった。せっかく寝ているところ申し訳ないけど、この後私はまだ仕事があってね」


 泡を食って車から降りるとそこは「カプラ」という店の前で、空は赤く染まっていた。


「寝て……?」
「寝ていたね、ぐっすり。可愛かったから良いけど」


 時間と場所を確認しようとポケットの中のスマホを探ると、見計らったかのように俺のスマホといくつかの鍵が差し出される。


「なん、」
「寝起きは頭働かないタイプなんだね。私の連絡先、登録しておいたから何かあったら電話して。あとお店や部屋の鍵。営業方法については君に任せるよ。雇用契約書とかはまた今度持っていくか、郵送で送るから」
「……パスワード」
「指紋認証で開けたよ」


 うまく頭が働かないが、どうやらここが今日から俺の住処兼職場らしいことは把握した。
 スマホがスワイプされ、およそ使っていない電話帳の中に「Theodor Serpent」という名前が表示された。


「……なんて読む」
「テオドール・セルパン。テオで良い」
「……セルパンさん」
「違う。テオ」
「セ、」
「違う」


 殺人犯に愛称で呼ぶように強要されている。名前など実のところどうでも良いのだが、僅かばかりの嫌がらせを込めて抵抗する。今までの反応からおそらく、この程度で殺すほど機嫌を損ねることはないだろうと想定して。


「言っただろう? 君と仲良くしたいんだハイネ」
「……仲良くなれる余地があると?」
「君だって早死にしたくはないだろう? ある程度歩み寄ってほしい」
「すぐ殺人を仄めかすような人間と仲良くなれる気がしませんね」
「それは君の姿勢次第さ」
「テオドール」


 不意をつくように名前を呼んでやると、男は一瞬動きを止めた。


「これで満足ですか? 仕事があるのでしょう。もう行ってください。店の方は好きにやります。文句があれば言ってください」
「……君、やっぱり頭良いよね。うん。気長に楽しむことにするよ」
「じゃ、」
「でも及第点には届かないかな」


 男の手からスマホと鍵を奪って店に向かおうと背を向けると、肩を掴まれ無理やり振り向かされる。


「次に会う時はテオって呼べるように。宿題だからね」
「さあ、善処はします」
「日本人の言う“善処する”は“しない”って意味だと知っているよ」


 男は眉を下げて困ったように微笑んだ。まだ機嫌を損ねてはいないようだと確認して鼻で笑ったとき、胸倉を掴まれた。
 ざっと音を立てるように血の気が引く。どこで言葉を間違えた、表情を読み間違えたと原因を探し回る。だが自身の失態を見つけるよりも先に「殺される」という数秒先の未来に頭を支配された。


「やっぱり君は、怯える顔が一等可愛いね」


 思わず両目を瞑ると唇に痛みが走る。何をされたのかと目を開けると。男の顔が離れていくところだった。


「…………は?」
「今日はこれくらいにしてあげる。抵抗も結構。せいぜいチキンレースを頑張ってみると良い」


 微笑み、唇を舐める男に呆然としていると、男は地味な街並みに似合わない外車に乗り込みあっという間に姿を消した。


「……は?」


 気が付けば夜の帳が降りてきていて、何も考えずふらふらと喫茶店の中へと逃げ込んだ。カランコロン、と呑気な音を聞き流して手近な椅子に腰かけ、項垂れた。
 現実逃避するようにスマホに触るが、先ほど最後に開いた画面、男の連絡先と名前が表示され反射的に電源を落とした。

 状況が飲み込めず、ため息すらつけない。
 自分の仕事の時間になるまで俺を起こさない優しさはあるのに、会話の中に当然のように生殺与奪の権を握っていることを振りかざす。

 仲良くしたいなどと迂遠なことを嘯くくせに、囲われる以外の選択肢の一切を奪う。
 圧倒的優位な立場にいるくせに、ファーストネームで呼ばれたいなどと強請る。


「なんだ、あいつ」


 年上からは可愛がられる質だ。どうすれば相手が喜ぶかはよく知っているしそれを熟すこともできる。こちらも取り入る気で接しているのだ。気に入られても当然だとしか思わない。
 ここまで見て見ぬふりをしてきた。考えたところで常に秤にかけられているのは自分の命。反対側の器に何を乗せられたとしても命より重いことなどない。だがここに来て、命の反対側に乗せられているものの正体が見えてしまった。

 日常だとか、仕事だとか、そういったものももちろん乗っているだろう。だがそれ以上に受け入れがたいものが乗せられている。むしろ男が求めているものは“それ”なのだろう。


「なんで命と貞操を天秤に掛けなきゃいけないんだよ……!」


 口にするととんでもなく馬鹿馬鹿しいが、口に出すと真に迫って来て吐き気がした。
 むしろ途中から気づいてはいた。気づいてはいたがそれでも死ぬよりかはマシだろうと思ってここまで流されてきたし、諦めてきた。
 だが現状の俺は社会で生きるためのあらゆるものを剥奪された状態だ。職や所属を失ったことによる社会的信用、経済的自立の消失。アパートを追われたことによる居住地の消失。その代替品として職も住処を与えられたがそれはあくまでも与えられたものであり、完全にテオドールという反社会勢力と思しき男に囲われている。

 もはやすでに外堀は埋め終わっていて、逃げ道などない。
 逃げることは可能だが、即日捕まる気しかしない。
 少しずつ自分の置かれている現状を理解し始め、深く深くため息を吐いた。
 テオドールは言った。あくまでもこれは“チキンレース”なのだと。
 抵抗してぎりぎりまで粘り貞操を守るか、抵抗の方法を間違えてどこかのタイミングで殺されるか。
 要するに貞操と命の両方を守ることはできないし、間違えたら死ぬし、遅かれ早かれ手籠めにされる。


「最悪か……!」


 カウンターに手を打ち付けるがワックスを塗られたばかりの真新しい一枚板の天板はびくともしない。
 すでに逃げ出したいが、逃げた時点で殺されそうな気がする。あれは何度も俺に「頭が良い」と言った。おそらく単純に逃げ出そうとしたり命乞いをしたり縋りついた場合、機嫌を損ね殺されかねない。
 手籠めにされないために気に入られたくないが、気に入られなくなったらおそらく殺される。
今後俺が生き残るためには、ある程度気に入られつつ、それでも手は出されないという絶妙な距離感をとる必要がある。
 つまり小悪魔ムーブであの男を翻弄し続ければいいのだ。
 自分の頭が叩き出した答えを消し飛ばすようにカウンターに頭を打ち付けた。
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