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1 麗しきは山羊の主人
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知る人ぞ知る、小さな喫茶店。もとはバーだったが改装され、今は紅茶をメインで扱っているらしい。らしい、というのも私は前身を知らないからだ。静かで落ち着いた素敵なお店。毎週末の金曜日、仕事終わりに何とか立ち寄る。本当はもっと通いたいけれど、就職3年目事務職女子に、そこまでの金銭的余裕はない。紅茶1杯で普段の一食分の値段がしてしまうし、ケーキや焼き菓子を付けると1,000円は超える。間違いなくチェーンのコーヒーショップやカフェの方が安上がりで、写真映えもする。それでもどうしても通いたいと思ってしまうのは、他に目当てがあるからだ。
からんころん、と少し低いベルの音がすると心が弾む。アンティーク調の家具に出迎えられると都会の喧騒や日常生活から切り離され、まるで外国にでも来た気分になる。
「いらっしゃい」
少し低い愛想のいい声に、心が躍って自然と笑顔になる。
「今日は何にします?」
「ええと、ハーブティーでおすすめとかありますか?」
「おや、いつもはアールグレイを飲まれているのに、珍しい」
週に1度来るだけなのに覚えていてくれたのか、と胸がきゅんとする。
「好きなのはアールグレイなんですけど、ハーブティーにもチャレンジしてみようかなって」
「ではルイボスにしましょうか。ハーブティーの中でも飲みやすい。ブレンドの仕方も色々ありますが、ルイボスをベースにしておけば楽しみやすいと思いますよ」
「じゃあ次来た時は、ぜひ別のものも」
なけなしの勇気を振り絞って、そう口にするとマスターはへらりと微笑んだ。
迷いない手つきでガラスのポットと茶葉を用意する彼をほれぼれと見つめる。
童顔で大人しそうに見えるがやや吊り目で生真面目そうな顔つき。線は細く見えるがかっちりとした袖から伸びる手は大きく骨ばっている。何より流れるような動きでてきぱきと準備をしつつも、口元は微かに弧をえがいていて、この仕事が好きなのだろうとうかがえる。30前後で自分より年上だと思うが、どこか可愛いと思ってしまう。
私がこのカフェに来るのはいつも週末の夜、閉店まで1時間を切った時間。あまり歓迎されない客だとは思うが、彼は一度だって嫌な顔をしたことはない。何より他に客がいないおかげで週末の夜を彼と二人で過ごすことができるのだ。それだけで私は一週間頑張ることができる。
少しでも彼の記憶に残りたくて、何度も同じものを頼んでいた。そして今回はいつもとは違うものを。さらに次回来た時また話をするためのささやかな口実を添えて。我ながら慎ましい、いや臆病なアプローチだとは思う。けれど私たちはただの客と店員で、お互い名前すら知らない。
今日こそ名前を聞きたい、と思いながらカウンターのテーブルの下で祈るように両手を握った。
会社のトイレで化粧直しもしたし、可愛いピアスに付け替えた。少しでも自分が魅力的に見えるようにと、魔法という名の自己暗示はばっちりだ。
けれど今日、いつもと違うのは、カウンターの端に見知らぬ男性が座っていることだ。
お店の最奥、カウンターの端。いつ来てもそこの席には“reserve”というシルバーのプレートが置かれていた。いつかに、この閉店間際に来る予約客がいるのか、と聞いたときにマスターは少し困った顔をした。
「このお店のオーナーが突然来ることがあるんです。その席が彼のお気に入りで。誰かが座っていると不機嫌になってしまうから、専用席にしているんですよ」
今カウンターの上に“reserve”のプレートはない。
視線に気づかれないように視界の端でうかがう。グレーの髪の壮年の男性だ。彫りが深く鼻が高い日本人離れした顔付きだ。マスターよりも年上に見え、着ているスーツも詳しくない私にもわかるくらい質の良いものだ。彼がオーナーであるとすれば納得の風貌ではある。つい、とポケットから懐中時計を取り出し時間を確認する姿はまるで洋画のワンシーンのようだった。無意識のうちに左手首の腕時計を確認する。閉店まで1時間を切っていた。
「お待たせしました。ルイボスティーです」
「ありがとうございます」
透明なガラスのポットにはハッとするような赤色の紅茶が揺れる。香りはあまり強くない。
「ルイボスティーは南アフリカが産地です。皮膚炎や花粉症の他にもいろいろ効用があります。カフェインフリーなので、寝る前にもおすすめですよ」
そっとポットからティーカップに注いでマットに戻すと、すっと伸びてきた手がポットにティーコジーをかぶせた。カウンターを挟んだ距離だからこそできるのだろうが、彼のこのしぐさがとても好きで、ついその手を目で追ってしまう。紅茶が冷めないように、という気遣いなのだろうが、カウンターを超えて伸ばされる手にどぎまぎとしてしまう。少なくとも、他の喫茶店でこうも恭しくティータイムの世話をされたことはない。
通えば通うほど夢中になる。
ルイボスティーに口をつけるとさわやかな香りが鼻に抜ける。渋みはほとんどなく、口当たりもまろやかで、飲みやすい。彼の言う通り、きっとハーブティー初心者に向いているのだろう。
ゆったりと紅茶がしみわたるのを感じていると、カウンターに小さなお皿を出された。お皿の上には型抜きクッキーがいくつか並んでいる。
「あ、えっとこちらは、」
「サービスです。新しいメニューを考えていて試作にはなりますが。よかったら感想を聞かせてもらえますか」
「ありがとうございます……!」
紅茶のおかげだけではなく、体温が上がる。みっともなく顔が上気してはいないかと、心を落ち着かせながらクッキーをつまんだ。型抜きクッキーは動物を象っていて、つまみ上げたそれはデフォルメされたうさぎの顔だった。あまりの可愛さに思わず唇を噛む。このお店のシックな雰囲気にはあまりに合わない。合わないのだが、マスターのどこか可愛らしい笑みを見たあとだとそれがひどく彼に似合っている気がした。食べるのがもったいなくて、耳から少しずつかじっていく。
「どうぞ」
小さく声がかけられてカウンターの端にいた男性、オーナーと思しき紳士の前にもクッキーが置かれた。
「君、こんなもの作ってたの」
「あいにくと、お客さんがあまりいなくて暇なもので」
「そう、ダージリンくれるかい?」
深く低い声にゆったりとした話し方は、どこか会社の重役を思わせる。私とは関係がないのに聞いているだけで緊張で背筋が伸びた。しかしオーナーと話すマスターはどこかぞんざいで、笑顔も口角を微かに上げて見せるだけだ。雇用主に対する態度としては気安い気がした。仲が悪いのか、それとも特別仲が良いのか、と視線でうかがうとオーナーと目があった。そこでオーナーが灰色の目をしていることに初めて気が付いた。
「君は、よくここへ来るの?」
「っは、はい。週末に、よく」
目が合っているのに一瞬、自分に話しかけられていると気づくのが遅れた。それほどまでに、このオーナーと話すのが不似合いな気がしたのだ。数年前の就活の面接の感覚がまざまざと思い出される。
「若い女性にはもっと華やかなお店の方が好まれると思っていたけど、どうかな」
「いえ、ここのお店は落ち着きもあって、雰囲気がとても素敵です」
「そう? さっき勝手に聞いちゃったけど、アールグレイが好きなの?」
「ええ、」
「ほかに何が好き?」
軽やかに質問が飛んでくる。圧迫感のある雰囲気に反して意外と会話が好きなのかもしれない。
「紅茶はアールグレイばかり飲んでいたのであまり詳しくありませんが、今日頂いたルイボスティーもすごくおいしいです。それに前に食べたチーズケーキも美味しくて」
「ほかにも、好きなものがあるんじゃない?」
にこにこと朗らかな笑みを浮かべながら、答えを促すように首を傾ける。他に、と要求され今まで通って口にしてきた記憶を漁ろうとして、紳士はぐっと私に顔を寄せた。
「ほら、彼とか」
「かれ、」
一拍おいて何を言われたか理解して硬直した。カッと顔が熱くなる。初対面でバレてしまうほどわかりやすかっただろうか。ともすれば当の本人である彼にも私の気持ちがばれてしまっているのではないだろうか。
にんまりと、おかしそうに弧を描く紳士の口元から目が離せない。
「こら」
まるでシャッターでも降ろすように、私と紳士の間にメニュー表が置かれた。置いたのはもちろん、紳士のためにダージリンを用意していたマスターだ。
「うちのオーナーが、申し訳ありません。何か失礼なことは申し上げませんでしたか?」
聞こえてしまったのではないかと気が気ではなかったが、どうやら彼の耳には届いていなかったらしく一人胸をなでおろす。メニュー表の向こうでオーナーはクスクスとおかしそうに笑っていた。
「君も失礼だな。私がこんな可憐なお嬢さんに無礼を働くわけがないだろう?」
「あんたにそういった類の信頼はありません」
オーナーは酷いなあ、と嘯くが変わらず機嫌よさそうにカウンターに置かれたダージリンのティーカップを手に取った。
少しだけ冷めたルイボスティーを飲みながらちらりとマスターを盗み見る。いつもにこやかなマスターだが、オーナーに対しては少しツンと澄ましている。きっと相手が違えばクールに見えるのだろうが、相手が壮年の上司となるとどこか拗ねた子供のようにすら見えてくる。今日は二人きりでないことに少しだけがっかりしていたが、普段とは違う彼の様子が見られて、心の中でオーナーに手を合わせた。
しかし先ほどオーナーに何を目当てに通っているか言い当てられてしまい、どうにも居心地が悪かった。片思いを誰かに知られるのはこんなにも気まずかったのかと学生以降味わうことのなかった感覚に苛まれる。
心中身もだえている間にもティーカップの中身もうさぎのクッキーも減っていき、退店しない理由も減っていく。今日の目標はマスターに名前を聞くことだったが、もう話の糸口すら見当たらない。
「ねえ、この前あげたネックレスは着けてくれないのかい?」
「……ああ、あれですか。趣味が悪いので無理です」
「ひどいなあ。君のために作ったのに」
決して大きな声というわけではないが、静かな店内で交わされる会話はすべて漏れ聞こえてしまう。オーナーとマスターの会話は軽妙で、マスターの対応はつっけんどんなのに、そこにある種の気安さや親しさを感じてしまう。今日はもうなんだか勇気も何もかもでない気がして、カップに残っていたルイボスティーを飲み干した。閉店までまだ30分はあるが、これ以上いてもオーナーとマスターの仲のよさそうな会話を傍観することしかできないだろう。
「いつもゆっくりしてもらってるのに、今日はオーナーがうるさくてすみません」
「いえ、とんでもありません。また来ますね。あとクッキーありがとうございました。可愛くておいしかったです」
「本当ですか。良かったら持って帰ってください。静かな時間を提供できなかったお詫びです」
下を向いていた気分が、彼と話しているだけで簡単に上向きになる。よくある店主と客の定型文とは違う、今私に話しかけてくれているのだという事実だけで、しぼんでいた気持ちは持ち直して、なけなしの勇気を振り絞る。
「あの、お詫びとかは全然、大丈夫なので、その、マスターのお名前を伺いたいです……!」
鏡を見る間でもなく、顔が紅潮しているのがわかった。そしておそらく目の前の彼もそれに気づいているはずだ。丸い目が見開かれると一層顔が幼く見えた。それから気が抜けたようにへらりと笑う。その笑顔でただの客としての一線を越えてしまったという緊張が一気に解ける。
「私の名前なんかがお詫びになるかもわかりませんが、そんなことでよければ、」
「悪いね、お嬢さん。申し訳ないけど、この子に名乗るための名前はあげてないんだ」
オーナーはマスターの言葉を一刀両断するように遮った。人の言葉を拭い去るように覆い被せてきたにも拘わらず、その声は先ほど話した時と全く変化がなかった。落ち着き払った厚みのある声なのに、有無を言わせない力強さ。
「この子はこの喫茶店のマスター。それだけ。名乗るための名前なんてないんだ」
「せっかく通ってくれる数少ないお客さんだったのに」
何も言わず走り去ってしまった名前も知らない常連の女の子を見送って、入り口に“closed”の札を提げた。
「別に繁盛しなくて構わない。どうせこの店はカモフラージュでしかないのだから」
手元のダージリンティーを啜ると半笑いで「60点」と呟く。
「お湯を入れたあと、蒸らすのが長すぎるようだ。少々渋い」
「どうせカモフラージュなら出すお茶も適当でよくないですか」
「良くないな。少なくとも私の好みに淹れてもらいたい」
ふてぶてしく言うと残りの紅茶を一息に煽った。それを見届けて空のティーカップを奪いシンクで洗う。
「大体なんですか、さっきの。名乗るための名前はあげてない、なんて。気色の悪い。俺の名前は俺のものですし、俺が名乗るのも勝手でしょう」
「それでも、私の言葉を遮ってまで名乗ろうとしなかったじゃないか、ハイネ」
灰音という苗字はこの男が口にするとまるで異国の名前のように響く。不快感を隠そうともせず舌打ちするが、気にした様子もない。
「君、色恋営業得意なタイプだよね。前職でもそうやって誑し込んでたのかい? さっきのお嬢さんだって君に惚れ込んでいたから通っていたように見える」
「人聞きの悪い。俺は何もしていないし、知りませんよ」
「敢えて勘違いを誘発するのは得意なようだが、嘘を吐くのは苦手なようだね。さっきの私とお嬢さんとの会話だって聞こえていないはずがないだろう?」
これ以上話していても都合が悪くだけだろうと思い、顔を顰めて食器を洗うのに専念する。
流水の音の合間から、余っていたうさぎ型のクッキーを咀嚼する音が聞こえる。可愛らし過ぎるクッキーは半ば嫌がらせのつもりだったのだが、テオドールは変わらぬ表情で機嫌よく食べていた。
「人を誑かすのも大概にしておいてくれ」
「誑かしているつもりはないのなら、気をつけようもありませんね」
「可愛い顔をして、君はなかなかどうして手がかかる」
テオドールが椅子から立ち上がったのが視界の端に見えたため、持っていた食器を置いてカウンターの奥へ逃げようとした。しかしカウンター越しに伸びてきた長い腕は、遠慮なくループタイを引っ張る。踏鞴を踏むとおかしそうに喉の奥で笑われ、舌打ちをした。
「ああ、行儀の悪い口だ」
「すぐに手が出るあなたよりマシでは?」
「ハイネ」
あ、と思うより先にタイを掴んでいた手が襟元を掴みなおして力任せに引き寄せられる。とっさに距離を取ることもできないまま強引に口づけられた。戯れのように何度も唇を重ねられるのが腹立たしくて、再度重ねられる唇に噛みつく。微かな血の味と甘いクッキーの味がした。
「君は本当に、可愛くないのが可愛いね。もう少し私に可愛がられたいとは思わないのかい」
「はは、ごめんですね」
「長生きできないよ?」
血の滲んだ薄い唇が弧を描く。淡々とした言葉に怯んだのを見逃すわけもなく、テオドールは俺の唇に噛みついた。
3か月前、俺はこの男が人を殺すところを見た。
からんころん、と少し低いベルの音がすると心が弾む。アンティーク調の家具に出迎えられると都会の喧騒や日常生活から切り離され、まるで外国にでも来た気分になる。
「いらっしゃい」
少し低い愛想のいい声に、心が躍って自然と笑顔になる。
「今日は何にします?」
「ええと、ハーブティーでおすすめとかありますか?」
「おや、いつもはアールグレイを飲まれているのに、珍しい」
週に1度来るだけなのに覚えていてくれたのか、と胸がきゅんとする。
「好きなのはアールグレイなんですけど、ハーブティーにもチャレンジしてみようかなって」
「ではルイボスにしましょうか。ハーブティーの中でも飲みやすい。ブレンドの仕方も色々ありますが、ルイボスをベースにしておけば楽しみやすいと思いますよ」
「じゃあ次来た時は、ぜひ別のものも」
なけなしの勇気を振り絞って、そう口にするとマスターはへらりと微笑んだ。
迷いない手つきでガラスのポットと茶葉を用意する彼をほれぼれと見つめる。
童顔で大人しそうに見えるがやや吊り目で生真面目そうな顔つき。線は細く見えるがかっちりとした袖から伸びる手は大きく骨ばっている。何より流れるような動きでてきぱきと準備をしつつも、口元は微かに弧をえがいていて、この仕事が好きなのだろうとうかがえる。30前後で自分より年上だと思うが、どこか可愛いと思ってしまう。
私がこのカフェに来るのはいつも週末の夜、閉店まで1時間を切った時間。あまり歓迎されない客だとは思うが、彼は一度だって嫌な顔をしたことはない。何より他に客がいないおかげで週末の夜を彼と二人で過ごすことができるのだ。それだけで私は一週間頑張ることができる。
少しでも彼の記憶に残りたくて、何度も同じものを頼んでいた。そして今回はいつもとは違うものを。さらに次回来た時また話をするためのささやかな口実を添えて。我ながら慎ましい、いや臆病なアプローチだとは思う。けれど私たちはただの客と店員で、お互い名前すら知らない。
今日こそ名前を聞きたい、と思いながらカウンターのテーブルの下で祈るように両手を握った。
会社のトイレで化粧直しもしたし、可愛いピアスに付け替えた。少しでも自分が魅力的に見えるようにと、魔法という名の自己暗示はばっちりだ。
けれど今日、いつもと違うのは、カウンターの端に見知らぬ男性が座っていることだ。
お店の最奥、カウンターの端。いつ来てもそこの席には“reserve”というシルバーのプレートが置かれていた。いつかに、この閉店間際に来る予約客がいるのか、と聞いたときにマスターは少し困った顔をした。
「このお店のオーナーが突然来ることがあるんです。その席が彼のお気に入りで。誰かが座っていると不機嫌になってしまうから、専用席にしているんですよ」
今カウンターの上に“reserve”のプレートはない。
視線に気づかれないように視界の端でうかがう。グレーの髪の壮年の男性だ。彫りが深く鼻が高い日本人離れした顔付きだ。マスターよりも年上に見え、着ているスーツも詳しくない私にもわかるくらい質の良いものだ。彼がオーナーであるとすれば納得の風貌ではある。つい、とポケットから懐中時計を取り出し時間を確認する姿はまるで洋画のワンシーンのようだった。無意識のうちに左手首の腕時計を確認する。閉店まで1時間を切っていた。
「お待たせしました。ルイボスティーです」
「ありがとうございます」
透明なガラスのポットにはハッとするような赤色の紅茶が揺れる。香りはあまり強くない。
「ルイボスティーは南アフリカが産地です。皮膚炎や花粉症の他にもいろいろ効用があります。カフェインフリーなので、寝る前にもおすすめですよ」
そっとポットからティーカップに注いでマットに戻すと、すっと伸びてきた手がポットにティーコジーをかぶせた。カウンターを挟んだ距離だからこそできるのだろうが、彼のこのしぐさがとても好きで、ついその手を目で追ってしまう。紅茶が冷めないように、という気遣いなのだろうが、カウンターを超えて伸ばされる手にどぎまぎとしてしまう。少なくとも、他の喫茶店でこうも恭しくティータイムの世話をされたことはない。
通えば通うほど夢中になる。
ルイボスティーに口をつけるとさわやかな香りが鼻に抜ける。渋みはほとんどなく、口当たりもまろやかで、飲みやすい。彼の言う通り、きっとハーブティー初心者に向いているのだろう。
ゆったりと紅茶がしみわたるのを感じていると、カウンターに小さなお皿を出された。お皿の上には型抜きクッキーがいくつか並んでいる。
「あ、えっとこちらは、」
「サービスです。新しいメニューを考えていて試作にはなりますが。よかったら感想を聞かせてもらえますか」
「ありがとうございます……!」
紅茶のおかげだけではなく、体温が上がる。みっともなく顔が上気してはいないかと、心を落ち着かせながらクッキーをつまんだ。型抜きクッキーは動物を象っていて、つまみ上げたそれはデフォルメされたうさぎの顔だった。あまりの可愛さに思わず唇を噛む。このお店のシックな雰囲気にはあまりに合わない。合わないのだが、マスターのどこか可愛らしい笑みを見たあとだとそれがひどく彼に似合っている気がした。食べるのがもったいなくて、耳から少しずつかじっていく。
「どうぞ」
小さく声がかけられてカウンターの端にいた男性、オーナーと思しき紳士の前にもクッキーが置かれた。
「君、こんなもの作ってたの」
「あいにくと、お客さんがあまりいなくて暇なもので」
「そう、ダージリンくれるかい?」
深く低い声にゆったりとした話し方は、どこか会社の重役を思わせる。私とは関係がないのに聞いているだけで緊張で背筋が伸びた。しかしオーナーと話すマスターはどこかぞんざいで、笑顔も口角を微かに上げて見せるだけだ。雇用主に対する態度としては気安い気がした。仲が悪いのか、それとも特別仲が良いのか、と視線でうかがうとオーナーと目があった。そこでオーナーが灰色の目をしていることに初めて気が付いた。
「君は、よくここへ来るの?」
「っは、はい。週末に、よく」
目が合っているのに一瞬、自分に話しかけられていると気づくのが遅れた。それほどまでに、このオーナーと話すのが不似合いな気がしたのだ。数年前の就活の面接の感覚がまざまざと思い出される。
「若い女性にはもっと華やかなお店の方が好まれると思っていたけど、どうかな」
「いえ、ここのお店は落ち着きもあって、雰囲気がとても素敵です」
「そう? さっき勝手に聞いちゃったけど、アールグレイが好きなの?」
「ええ、」
「ほかに何が好き?」
軽やかに質問が飛んでくる。圧迫感のある雰囲気に反して意外と会話が好きなのかもしれない。
「紅茶はアールグレイばかり飲んでいたのであまり詳しくありませんが、今日頂いたルイボスティーもすごくおいしいです。それに前に食べたチーズケーキも美味しくて」
「ほかにも、好きなものがあるんじゃない?」
にこにこと朗らかな笑みを浮かべながら、答えを促すように首を傾ける。他に、と要求され今まで通って口にしてきた記憶を漁ろうとして、紳士はぐっと私に顔を寄せた。
「ほら、彼とか」
「かれ、」
一拍おいて何を言われたか理解して硬直した。カッと顔が熱くなる。初対面でバレてしまうほどわかりやすかっただろうか。ともすれば当の本人である彼にも私の気持ちがばれてしまっているのではないだろうか。
にんまりと、おかしそうに弧を描く紳士の口元から目が離せない。
「こら」
まるでシャッターでも降ろすように、私と紳士の間にメニュー表が置かれた。置いたのはもちろん、紳士のためにダージリンを用意していたマスターだ。
「うちのオーナーが、申し訳ありません。何か失礼なことは申し上げませんでしたか?」
聞こえてしまったのではないかと気が気ではなかったが、どうやら彼の耳には届いていなかったらしく一人胸をなでおろす。メニュー表の向こうでオーナーはクスクスとおかしそうに笑っていた。
「君も失礼だな。私がこんな可憐なお嬢さんに無礼を働くわけがないだろう?」
「あんたにそういった類の信頼はありません」
オーナーは酷いなあ、と嘯くが変わらず機嫌よさそうにカウンターに置かれたダージリンのティーカップを手に取った。
少しだけ冷めたルイボスティーを飲みながらちらりとマスターを盗み見る。いつもにこやかなマスターだが、オーナーに対しては少しツンと澄ましている。きっと相手が違えばクールに見えるのだろうが、相手が壮年の上司となるとどこか拗ねた子供のようにすら見えてくる。今日は二人きりでないことに少しだけがっかりしていたが、普段とは違う彼の様子が見られて、心の中でオーナーに手を合わせた。
しかし先ほどオーナーに何を目当てに通っているか言い当てられてしまい、どうにも居心地が悪かった。片思いを誰かに知られるのはこんなにも気まずかったのかと学生以降味わうことのなかった感覚に苛まれる。
心中身もだえている間にもティーカップの中身もうさぎのクッキーも減っていき、退店しない理由も減っていく。今日の目標はマスターに名前を聞くことだったが、もう話の糸口すら見当たらない。
「ねえ、この前あげたネックレスは着けてくれないのかい?」
「……ああ、あれですか。趣味が悪いので無理です」
「ひどいなあ。君のために作ったのに」
決して大きな声というわけではないが、静かな店内で交わされる会話はすべて漏れ聞こえてしまう。オーナーとマスターの会話は軽妙で、マスターの対応はつっけんどんなのに、そこにある種の気安さや親しさを感じてしまう。今日はもうなんだか勇気も何もかもでない気がして、カップに残っていたルイボスティーを飲み干した。閉店までまだ30分はあるが、これ以上いてもオーナーとマスターの仲のよさそうな会話を傍観することしかできないだろう。
「いつもゆっくりしてもらってるのに、今日はオーナーがうるさくてすみません」
「いえ、とんでもありません。また来ますね。あとクッキーありがとうございました。可愛くておいしかったです」
「本当ですか。良かったら持って帰ってください。静かな時間を提供できなかったお詫びです」
下を向いていた気分が、彼と話しているだけで簡単に上向きになる。よくある店主と客の定型文とは違う、今私に話しかけてくれているのだという事実だけで、しぼんでいた気持ちは持ち直して、なけなしの勇気を振り絞る。
「あの、お詫びとかは全然、大丈夫なので、その、マスターのお名前を伺いたいです……!」
鏡を見る間でもなく、顔が紅潮しているのがわかった。そしておそらく目の前の彼もそれに気づいているはずだ。丸い目が見開かれると一層顔が幼く見えた。それから気が抜けたようにへらりと笑う。その笑顔でただの客としての一線を越えてしまったという緊張が一気に解ける。
「私の名前なんかがお詫びになるかもわかりませんが、そんなことでよければ、」
「悪いね、お嬢さん。申し訳ないけど、この子に名乗るための名前はあげてないんだ」
オーナーはマスターの言葉を一刀両断するように遮った。人の言葉を拭い去るように覆い被せてきたにも拘わらず、その声は先ほど話した時と全く変化がなかった。落ち着き払った厚みのある声なのに、有無を言わせない力強さ。
「この子はこの喫茶店のマスター。それだけ。名乗るための名前なんてないんだ」
「せっかく通ってくれる数少ないお客さんだったのに」
何も言わず走り去ってしまった名前も知らない常連の女の子を見送って、入り口に“closed”の札を提げた。
「別に繁盛しなくて構わない。どうせこの店はカモフラージュでしかないのだから」
手元のダージリンティーを啜ると半笑いで「60点」と呟く。
「お湯を入れたあと、蒸らすのが長すぎるようだ。少々渋い」
「どうせカモフラージュなら出すお茶も適当でよくないですか」
「良くないな。少なくとも私の好みに淹れてもらいたい」
ふてぶてしく言うと残りの紅茶を一息に煽った。それを見届けて空のティーカップを奪いシンクで洗う。
「大体なんですか、さっきの。名乗るための名前はあげてない、なんて。気色の悪い。俺の名前は俺のものですし、俺が名乗るのも勝手でしょう」
「それでも、私の言葉を遮ってまで名乗ろうとしなかったじゃないか、ハイネ」
灰音という苗字はこの男が口にするとまるで異国の名前のように響く。不快感を隠そうともせず舌打ちするが、気にした様子もない。
「君、色恋営業得意なタイプだよね。前職でもそうやって誑し込んでたのかい? さっきのお嬢さんだって君に惚れ込んでいたから通っていたように見える」
「人聞きの悪い。俺は何もしていないし、知りませんよ」
「敢えて勘違いを誘発するのは得意なようだが、嘘を吐くのは苦手なようだね。さっきの私とお嬢さんとの会話だって聞こえていないはずがないだろう?」
これ以上話していても都合が悪くだけだろうと思い、顔を顰めて食器を洗うのに専念する。
流水の音の合間から、余っていたうさぎ型のクッキーを咀嚼する音が聞こえる。可愛らし過ぎるクッキーは半ば嫌がらせのつもりだったのだが、テオドールは変わらぬ表情で機嫌よく食べていた。
「人を誑かすのも大概にしておいてくれ」
「誑かしているつもりはないのなら、気をつけようもありませんね」
「可愛い顔をして、君はなかなかどうして手がかかる」
テオドールが椅子から立ち上がったのが視界の端に見えたため、持っていた食器を置いてカウンターの奥へ逃げようとした。しかしカウンター越しに伸びてきた長い腕は、遠慮なくループタイを引っ張る。踏鞴を踏むとおかしそうに喉の奥で笑われ、舌打ちをした。
「ああ、行儀の悪い口だ」
「すぐに手が出るあなたよりマシでは?」
「ハイネ」
あ、と思うより先にタイを掴んでいた手が襟元を掴みなおして力任せに引き寄せられる。とっさに距離を取ることもできないまま強引に口づけられた。戯れのように何度も唇を重ねられるのが腹立たしくて、再度重ねられる唇に噛みつく。微かな血の味と甘いクッキーの味がした。
「君は本当に、可愛くないのが可愛いね。もう少し私に可愛がられたいとは思わないのかい」
「はは、ごめんですね」
「長生きできないよ?」
血の滲んだ薄い唇が弧を描く。淡々とした言葉に怯んだのを見逃すわけもなく、テオドールは俺の唇に噛みついた。
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