青光る、願いの果てに

秋澤えで

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1 敗れし少年の歌

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 この世界は理不尽だ。誰に教えられるでもなく、それを知っていた。
 生まれつきの金持ちは、よほどのことがなければ没落せず、生まれつきの貧乏人はよほどのことがなければ成り上がれない。
 金というものは持っている者の元に集まり、貧乏人にはまるで近寄らない。この世界は理不尽だ。
 そしてこの理不尽な世界で生きぬくためには、自身が他人に対して理不尽にならなくてはならない。
 待っていても金は降ってこない。ならば奪うしかないのが自明の理だ。

 「おっとごめんよ」
 「ったく気を付けろガキ!」

 ぶつかって軽く謝り、不自然じゃない程度に小走りで走り去る。大通りから一本入ったら全力疾走だ。どうもこの世の理不尽さにあまり出会ったことがない男らしく、こちらに疑いの視線を向けることも自身の手持ちを確認する様子も見せなかった。幸福な男なのだろう。ならばこの俺に幸福を少し馬鹿あり分けてやってもばちもあたりはしないんじゃないだろうか。
 懐に財布を仕舞い込み、日の暮れ始めた路地裏を急ぐ。不自然じゃない程度の小銭を取り出しポケットに詰めなおした。店じまい間際のパン屋に顔を出すと少しだけ迷惑そうな顔をされた。

 「おっちゃんロールパン4つ頂戴。あとハムの切れ端」
 「……それは綺麗な金か、アンブレ」
 「金に綺麗も汚いもないだろ。百歩譲って怪しい金でもおっちゃんの懐に入ったらそれはパンで儲けた綺麗な金だ」
 「屁理屈ばっか達者になりやがって……碌な大人になれんぞ」
 「そうでもなきゃ大人すらなれないかもしれないだろ」

 そう宣うと眉間に皺が余計深くなった。ため息を深く吐いて、パンの入った紙袋を寄越す。

 「ありがとう。……このハム切れ端じゃないけどいいのか?」
 「痛んでんだよ。腹でも壊して改心しろ」

 それだけ言うと店終いだと言わんばかりに追い払われる。
 パン屋の親父は俺や貧乏人が来ると嫌そうな顔をする。曰くそういう奴が来ると店の品格に関わると。高級店でもないのに品格も何もあるかと言いたくなるがそこは黙っておく。
 親父はぶっきらぼうだが優しい。パン4つ分の金しか出していないのにパンは5つ入っているし、ハムは切れ端ではなく欠けていない。金がなくても店の前を通りかかると残飯処理だと言ってパンの耳や少し硬くなったパンをくれる。
 迷惑だが、無碍にはできないと考える親父は、根が善人だ。
 パンを持って家路を急ぐと少し先に見慣れたくもない胸糞悪い面が見えた。
 逡巡して、持っていたパンを物陰に隠す。

 この世界は理不尽だ。
 理不尽な世界で生きるためには他人に理不尽にするしかない。
 その分自身もまた、他人に理不尽に扱われるものだ。
 何事も、ある程度のところでのあきらめが肝心だ。

 「ぐえっ」

 だから理不尽で特に理由の暴力に抵抗するのも、ほどほどでいい。

 一通り殴られ、靴先がめり込んだ腹を撫でながら立ち上がると、日はすっかりと落ち、細い月が空に浮かんでいた。ポケットの中の小銭は奪われたものの、服の中に隠していた財布は何とか死守した。安堵しながら物陰にあるパンの袋をとって来る。気が付くのが遅ければきっとこのパンもぐしゃぐしゃにされていただろう。今日の夕飯と明日の朝食は守られた。
 口の端に滲んだ血を拭い、服の泥を払って落とす。

 早く帰らないといけない。
 家族がお腹を空かせて待っているから。


 何者かによってはるか前に打ち捨てられた掘っ立て小屋が俺の家だ。

 「お帰りお兄ちゃん!」
 「ただいまペルラ。何もなかったか?」
 「大丈夫だよ。誰も来なかった」

 嬉しそうに俺にまとわりつくペルラの頭を撫でた。

 「今日はパンを買って来たぞ。それにおっちゃんがハムをくれた」
 「やった! お兄ちゃんありがとう! お仕事お疲れ様!」

 妹のペルラが俺の唯一の家族で守るべきものだ。血が繋がっているわけではないが、この何の助けもない小汚い街の隅で、俺たちは二人で暮らしている。幼いペルラは一人じゃ生きていけないし、俺はペルラの存在が生きる理由になっている。

 「ああ、もっと頑張ってお金を溜めてるから、いつかちゃんとした家に住もうな! 温かくて安全な家に」
 「うん、でもお兄ちゃん無理しないでね」

 心配そうにぺルラは俺の頬を撫でた。痛みに顔をゆがめる。大したことないと思っていたが、彼女から見ても腫れているのはわかるらしい。

 「大丈夫だ、何も心配はいらない。だから泣くな」

 ペルラの青い大きな目から一滴だけ堪えきれず涙がこぼれた。
 ああしまった、と思う間もなく涙は一粒の宝石に変わった。
 硬い音を立てて石は床を転がる。

 「ご、ごめんさい!」
 「大丈夫、これは二人だけの秘密だ。誰も見てない」

 ペルラは奇妙な体質だ。彼女が涙を流すと、液体は間髪入れず宝石へと変わり転がり落ちる。
 原因はわからない。ただ彼女と初めて会ったときも宝石の涙を流していた。家系的なものなのかもしれないが、手掛かりなどないし、宝石の涙を流す人間なんて他では聞いたことがない。
 けれど俺にとってそれは些細なことだ。
 ペルラの涙が宝石に変わろうが氷に変わろうが、彼女が大事な妹だということに変わりはない。
 落ちた宝石をそっと部屋の隅に追いやった。
 きっと売れば高値が付くだろう。けれど孤児で掏りの俺が宝石を持っていたら怪しまれる。良くて盗品の扱い。最悪ペルラの存在がばれたら攫われたりするかもしれない。

 「大丈夫だ。心配しなくていい。いつかきっと満たされるから」
 「お兄ちゃん……」
 「ペルラは何もしなくていい。元気でいてくれれば」

 小さな体を抱きしめると、俺よりもはるかに細くて骨ばっていた。
 金持ちになることは望まない。贅の限りを尽くしたいなんて思わない。 
 健康に生きられるだけの食べ物と、身を守ることのできる家がほしい。
 理不尽な世界でも、自身が理不尽を振りかざしたとしても、ただ生きていたかった。

 この世界を生きるのに必要なのは、食べ物と安全な家、そして生きる糧となる家族だ。
 それ以上、望みはしない。


 だからそれは唐突なことだった。

 「私、もっと幸せになりたいの」

 そう笑うペルラの隣には見たこともないような上等な服を着た男。

 「男爵様はね、私を娘にしてくれるんだって」
 「ペル、ラ」
 「お腹いっぱいご飯が食べられてね、綺麗なお洋服も着れるの。温かいところで寝られるし、誰かにひどいことされる心配もないんだって」

 家に帰ってきて俺を出迎えたのは妹と知らない男。
 それもその男は貴族で、ペルラを養女にしたいという。
 そしてペルラもまた、それを望んでいる。

 「アンベルくん。ペルラからは話を聞いてるよ。彼女の兄役なんだそうだね」
 「なんだ、なんなんだ、あんた」
 「失礼。私はマウロ・アルジェント。男爵位を賜ってる。……私には子供がいなくてね。ぜひ娘が欲しかったんだ」
 「それは、ペルラじゃなくてもいいだろ!」

 顔色一つ変えることなく、無表情のままペルラが欲しいと宣った貴族に頭が沸騰する。
 まるでそこにあったから、ちょうどよかったから、とでも言うように、俺の唯一の家族を奪われてたまるか。

 「お兄ちゃん」
 「ペルラ! お前も知らない奴と話しちゃだめだってあれほど、」
 「男爵様はね、私を助けてくれたの」
 「助けてくれたって、」
 「乱暴な怖い人たちにね、たまたま泣いてるところを見られちゃったの」

 ひゅっと喉の奥から乾いた音がした。
 理不尽な男たち、暴力の塊、殴る蹴る以外に自分を表現する能力を持たない奴ら。
 そんな奴らにペルラの秘密を知られてしまった。頭に上っていた血が一気に引いた。

 「攫われそうになってたところをね、男爵様が来て追い払ってくれたの」

 ステッキを振り回してすごくかっこよかった。そう笑うペルラになんと言っていいかわからず、ただ馬鹿みたいに口を開けていた。

 ペルラの身が危険にさらされているとき、俺は何も知らず何もできなかった。
 妹は兄が守るもの。
 それなのにペルラを助けたのは見ず知らずのお貴族様だ。

 「不逞な輩だがただのごろつきだからね。少し突いたらすっかりおとなしくなった」
 「…………」
 「けれどおとなしくなったからと言って、何も解決していないことは、君もわかるね」

 黙れと、言われずともわかっていると怒鳴ろうとして、何も言えなかった。
 今のペルラに、これからの彼女のためにすべきことを考えた。

 「アンブレ。君から彼女を無理やり奪うことはしたくない。あくまで穏便にいきたいんだ」
 「……穏便」
 「ああ、私は子供が欲しい。そして子供を養うだけの権力も財力もある。そしてペルラには保護してくれる大人もおらず、安全な家もない。彼女の体質が他人に知られた以上、この街で暮らしていくことは現実的じゃない。もちろん、彼女と一緒に暮らしていた君の身もそうだ」

 淡々と、けれど小馬鹿にした様子もなく貴族は話す。

 「私が彼女の保護者となろう。苗字を与え、男爵家の娘という立場を与える。健康を保つのに必要な食べ物を与え、相応しい着るものを与え、安全な屋敷での暮らしを与える。貴族としての教養はもちろん、彼女が望むならできる限り私はそれを提供しよう」
 「……それで?」
 「君についても一定の生活を約束しよう。住む場所と先立つものを与え、生活していくだけに足る仕事も紹介する。……ただ君とペルラが兄妹で、一緒に路地で暮らしていたということを吹聴したりしないのであれば」

 孤児のペルラが男爵令嬢になる。それも薄汚い掘っ立て小屋で暮らしていた事実をきれいさっぱり消し去って。
 掏りの俺がまっとうな平民になれる。奪い奪われる生活ではなく、働いて対価を得るような立派な人間に。
 全く持って大盤振舞だ。

 「ペルラ、」
 「なあに?」
 「この男爵の娘になりたいか?」

 震えそうになる声を、腹に力を入れながらなんとか抑えた。

 「うん。男爵様は優しいし、何でもくれるって。私はお腹いっぱい食べたいし、寒い思いはしたくない。お姫様みたいになれるんだって」
 「そうか、」
「お兄ちゃんだって、ここから離れればきっともう、殴られなくて済むようになる」

 自分の不甲斐なさに唇を噛み締めた。
 なんて情けないことか。ペルラを守っているつもりでいたが、それは結局自己満足だった。
 俺は彼女の生活も、身体も、心も守れてなどいない。

 「ペルラ、一つだけ約束してくれ」
 「うん」

 不甲斐なさに、怒りに震える手でペルラの手を握る。

 「きっと男爵家の娘になれば、なんだって叶う。ひもじい思いもしなくて済む。それはきっと幸せだろう」
 「そうだね」
 「俺の知らないところでもいい。幸せになっていてくれ。……でももし、辛くなったら、どうにも逃げ出したくなったら言ってくれ。どこにいても迎えに行くから」
 「お兄ちゃん」
 「口に出して願え。必ず迎えに行く。そのときは、俺はお前を守れるくらいになってるから。……今度こそ、ペルラが生活できるようにするから」
 「……うん」

 ボタボタと床に涙が零れ落ちる。そのすぐ隣にいくつもの小さな宝石が転がった。
 もう泣くなとは言わなかった。

 「答えは決まったね」

 存外にも律義に俺たちが泣き止むのを待っていた男爵を睨みつける。鼻を啜って胸倉を掴んだ。

 「必ずペルラを守れ。変な奴らに近寄らせるな。娘にしていい。でもペルラのことを、宝石を生む道具として扱ったら許さない」
 「当然だよ。私は娘が欲しいだけだ。金の卵を産むガチョウに縋るほど落ちぶれてはいないよ。約束しよう。彼女を守り、実の娘のように慈しみ育てることを」

 男爵は口の端をゆがめるようにして笑った。
 腹立たしい。この男が、それ以上になんの力も持たない自分が。
 この世界は理不尽だ。
 人を守るのに必要なのは心や絵空事じゃない。現に今ある権力や財力だ。

 男爵から手を離し俺は項垂れた俺に、ペルラは遠慮がちに抱き着いた。
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