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異界より来せり蕎麦 【蕎麦】 《2000字》
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私は麺が好きだ。パスタもラーメンもうどんも好きだ。だがその中でも群を抜いてそばが好きだ。愛していると言っても過言ではない。鼻に抜ける香ばしい匂い、ちょうどいい太さ、つるつるとした喉ごし。どれをとっても最高と言わざるを得ない。そばにもいろいろと食べ方があるが、その中でも私の一押しはざるそばだ。薬味は葱、海苔、生姜、、少しの山葵、これだけでいい。
駅前大通りから一本入った通り、そこに小さいながらも繁盛しているうどん屋、蓬莱庵がある。なかなか気に入っていて、職場から近いためもあってもう二年ほど通っている。
だが、私には気になっている奴がいる。もっとも、気になっている、というのは色気のあるものではない。むしろ真逆だ。
その男は中年、瘦せ型、蓬莱庵には週5で通う。私と同じくサラリーマンらしい風体から、おそらく職場が近く昼食をとりに来ていると見た。注文するものは比較的バラバラ、そばも食べる、うどんも食べる。麺に止まらず、かつ丼や親子丼などの丼ものも食べている。それだけなら私がその男に注目することはなかっただろう。だが奴は、週に一度、まるで自分への褒美かのように、金曜日の昼、あるものを頼む。
最初は別に気にも留めなかった。だがたまたまその男の近くの席に案内されたとき、聞いたのだ。
「カレーそば一つ。」
私は耳を疑った。
カレーそば、とは何か。
普通に考えれば、カレーうどんのそばバージョンなのだろう。だがしかし、ソバにカレーを掛けるのか。
茫然としていれば、粛々と運ばれてくるカレーそばなるもの。
たてたメニュー表の陰からちらりとそれを食べる男を見る。茶色のカレーが見える。パッと見はカレーうどんだ。だが男が箸をその中につぷりと沈め、本体たる麺を掴み上げたとき、私は絶望した。
そばである。まごうことなき、そばである。
何食わぬ顔でカレーそばを啜る男。
あれは一体どうなっているのだ。そばのアイデンティティと呼べるあの香しい匂いは、つるつるとした喉ごしは、ストイックさを感じさせるあの細さは、果たしてどうなってしまっているのだろうか。
当然、私はメニュー表を見直した。だが目を皿のようにして「カレーそば」の字を探すがそれはどこにもない。
私は困惑すると同時に、ハッとした。
もしかしたら「カレーそば」というものは「天抜き」のような存在なのかもしれない。
「天抜き」とは天ぷらそばからそばを抜いたものだ。最初は麺処に来て何を、と思っていたが、知れば知るほど奥が深い。天抜き十年と言う言葉もある。10年でも店に通わなければ、そばなしの天ぷらそばを注文しにくいところから来ている。
もしかしたら、カレーそばもそういうものなのかもしれない。常連だけが頼むことのできる、特別メニュー、いや、幻の裏メニュー。
そう思うと途端にあの男が神々しく見えてきた。この蓬莱庵に通い詰めかれこれ10年、麺の道を究めた先達、仙人。ただのくたびれたサラリーマンの背中は百戦錬磨の戦士のよう。
「かしこまりました!カレーそば一つですね!」
笑顔で私にそういう店員さんを引き留めた私は普通だと思う。
カレーそばなど邪道、と思っていたが、あの先達の姿を見ていると急に凄まじい魅力を持って私に迫ってきたカレーそば。カレーそばの誘惑に屈するのに、そう時間はかからなかった。そして恐る恐るカレーそばを注文したところ、ひどくあっさりと頼めてしまった。
「え、いや、あのメニューにないんですけど、大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ?お客さんも関東の方ですか?」
「関東?いいえ、ここが地元です。」
「関東ではカレーそばが食べられてるみたいで、そちらからいらした方からの要望で、カレーそばを指定頂いたときだけお出ししているんです。」
あの男は仙人でも先達でも戦士でもなかった。
ただの関東出身のサラリーマンだった。
どこかがっかりしながらも、運ばれてきたカレーうどんに向き合う。あれほどの魅力を放っていたそれは、あの男の背中のようにくたびれて見えた。しかしながら、なんにせよ経験は経験。これを食べた後、ざるそばの素晴らしさを再認識すればいいのだ。これはそのためのスパイスでしかない。
七味一粒程度の期待だけを持ち、茶色のカレーと絡め、そばを掴み口へと運んだ。
たった一口、されど一口。その一口に全麺に激震が走った。
あの男は、仙人でも、先達でも、戦士でも、ましてサラリーマンでもなかったと、思い知った。
あの男は、異世界からの文化を運ぶ、異界の申し子だったのだ。
今、私はあの男と同じように、週に一度金曜日の昼、あの裏メニューを注文する。
「すいません、カレーそば一つ。」
駅前大通りから一本入った通り、そこに小さいながらも繁盛しているうどん屋、蓬莱庵がある。なかなか気に入っていて、職場から近いためもあってもう二年ほど通っている。
だが、私には気になっている奴がいる。もっとも、気になっている、というのは色気のあるものではない。むしろ真逆だ。
その男は中年、瘦せ型、蓬莱庵には週5で通う。私と同じくサラリーマンらしい風体から、おそらく職場が近く昼食をとりに来ていると見た。注文するものは比較的バラバラ、そばも食べる、うどんも食べる。麺に止まらず、かつ丼や親子丼などの丼ものも食べている。それだけなら私がその男に注目することはなかっただろう。だが奴は、週に一度、まるで自分への褒美かのように、金曜日の昼、あるものを頼む。
最初は別に気にも留めなかった。だがたまたまその男の近くの席に案内されたとき、聞いたのだ。
「カレーそば一つ。」
私は耳を疑った。
カレーそば、とは何か。
普通に考えれば、カレーうどんのそばバージョンなのだろう。だがしかし、ソバにカレーを掛けるのか。
茫然としていれば、粛々と運ばれてくるカレーそばなるもの。
たてたメニュー表の陰からちらりとそれを食べる男を見る。茶色のカレーが見える。パッと見はカレーうどんだ。だが男が箸をその中につぷりと沈め、本体たる麺を掴み上げたとき、私は絶望した。
そばである。まごうことなき、そばである。
何食わぬ顔でカレーそばを啜る男。
あれは一体どうなっているのだ。そばのアイデンティティと呼べるあの香しい匂いは、つるつるとした喉ごしは、ストイックさを感じさせるあの細さは、果たしてどうなってしまっているのだろうか。
当然、私はメニュー表を見直した。だが目を皿のようにして「カレーそば」の字を探すがそれはどこにもない。
私は困惑すると同時に、ハッとした。
もしかしたら「カレーそば」というものは「天抜き」のような存在なのかもしれない。
「天抜き」とは天ぷらそばからそばを抜いたものだ。最初は麺処に来て何を、と思っていたが、知れば知るほど奥が深い。天抜き十年と言う言葉もある。10年でも店に通わなければ、そばなしの天ぷらそばを注文しにくいところから来ている。
もしかしたら、カレーそばもそういうものなのかもしれない。常連だけが頼むことのできる、特別メニュー、いや、幻の裏メニュー。
そう思うと途端にあの男が神々しく見えてきた。この蓬莱庵に通い詰めかれこれ10年、麺の道を究めた先達、仙人。ただのくたびれたサラリーマンの背中は百戦錬磨の戦士のよう。
「かしこまりました!カレーそば一つですね!」
笑顔で私にそういう店員さんを引き留めた私は普通だと思う。
カレーそばなど邪道、と思っていたが、あの先達の姿を見ていると急に凄まじい魅力を持って私に迫ってきたカレーそば。カレーそばの誘惑に屈するのに、そう時間はかからなかった。そして恐る恐るカレーそばを注文したところ、ひどくあっさりと頼めてしまった。
「え、いや、あのメニューにないんですけど、大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ?お客さんも関東の方ですか?」
「関東?いいえ、ここが地元です。」
「関東ではカレーそばが食べられてるみたいで、そちらからいらした方からの要望で、カレーそばを指定頂いたときだけお出ししているんです。」
あの男は仙人でも先達でも戦士でもなかった。
ただの関東出身のサラリーマンだった。
どこかがっかりしながらも、運ばれてきたカレーうどんに向き合う。あれほどの魅力を放っていたそれは、あの男の背中のようにくたびれて見えた。しかしながら、なんにせよ経験は経験。これを食べた後、ざるそばの素晴らしさを再認識すればいいのだ。これはそのためのスパイスでしかない。
七味一粒程度の期待だけを持ち、茶色のカレーと絡め、そばを掴み口へと運んだ。
たった一口、されど一口。その一口に全麺に激震が走った。
あの男は、仙人でも、先達でも、戦士でも、ましてサラリーマンでもなかったと、思い知った。
あの男は、異世界からの文化を運ぶ、異界の申し子だったのだ。
今、私はあの男と同じように、週に一度金曜日の昼、あの裏メニューを注文する。
「すいません、カレーそば一つ。」
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