胡蝶の夢

秋澤えで

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番外編・後日談

海底臘月、花運びの蜜蜂2

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 あの小生意気な少女が、こんな風に俺に笑いかけるはずがない。



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 ブラックコーヒーとカフェラテ。ハニーマスタードチキンのサンドイッチとスモークサーモンとチーズのサンドイッチ。
 大通りから一本入ったガラス張りの喫茶店に、俺たちはいた。警戒させることのないように、通りから中が見える窓際の席。彼女は居心地を悪そうにするでもなく、ごく自然に俺の前に座っていた。



 「お久しぶりです、黄師原会長」


 先に口を開いたのは彼女の方だった。声は、記憶の中にあるものと変わらない。けれどかつてのような作り笑顔ではなかった。


 「ああ、まさか現実で会うとは思わなかった」
 「ふふ、結構いますよ。蓮さんも八雲も、日和も翡翠も神楽さんも、全部覚えていました」


 は、と息をつく。そんなにもあの”夢”を共有していた人間がいたのかと。一方の俺はこれまで一度も同じ”夢”を見ていた人間に会っていない。だからこそ、あの夢を奇妙な夢と思いつつも、所詮は夢だと思っていた。しかし名前を聞いてはっとする。


 「赤羽蓮も覚えてたのか……!」


 澄ました顔をした細身の少年が脳裏に浮かぶ。今まで何度も会社の関係で顔を合わせていたというのに、奴にそう言った素振りはまるで見せなかった。ただ奴を詰ったところで「聞かなかったのはお前だ」だの「なぜわざわざ俺から言いに行かなければならない」などと顔色一つ変えずに言われるのがオチだ。俺に対する態度だけは、現実でも”夢”の中でも一切変化しない。


 「その様子だと蓮さんにはもう会っていたんですね。彼から会長の話を聞いたことはありませんでしたが」


 舌打ちしたくなるのを抑え込みながら歯噛みする。どういうつもりなのか、そんなのは本人に確認するまでもない。


 「それから、俺はもうあの高校の”黄師原会長”じゃない」


 何を言われているかわからない、というようにゆっくり数回瞬きをしたあと、思い立ったように彼女は笑った。なるほど、なるほど、と納得するように自分の顎をなぞる。


 「では金髪が素敵なお兄さん。あなたの名前を教えていただけますか?」


 記憶の中の彼女とは相違がある。けれど言葉選びはあの小生意気な赤い少女のものだと苦笑した。


 「俺は黄ノ崎煌太郎。今大学1年だ」


 やっぱり色からは逃げられないんですね、と彼女が言う。おそらく、既に会った赤羽や”黒海八雲”、”赤霧翡翠”のことを指しているのだろう。そしてさらに言えば皆”夢”と違うのは苗字だけだ。


 「山岡先輩はまだ煌太郎さんの近くにいるんですか?」


 思わず身体が硬直した。注文したコーヒーを口に含んでいなくてよかったと心底思う。再開してものの数分で名前で呼ばれると誰が思うだろうか。しかしながら勘違いできるほど俺の頭はお花畑ではない。おそらく彼女はこちらで会った人間には皆名前で呼んでいるのだろう。その証拠に彼女は”黒海八雲”のことをごく自然に八雲と呼んだ。おそらくこちらと”あちら”を区別するため、また聞きなれない苗字よりかは名前の方が呼びやすいからだろう。跳ね上がった心臓を何とか落ち着かせる。


 「あ、ああ、鉄司は今も俺の傍にいる。大学まで一緒だ。今日もお前に会う少し前まで一緒だった。ついでに言えばあいつは今も”山岡鉄司”だし、成長期も高校で終わったからあの頃の見た目のままだ」
 「では、」
 「でもあいつは何も覚えてない。まっさらなここで生きる山岡鉄司だ。”黄師原煌太郎”のことも、”赤霧涼”のことも知らない」


 何度か鎌をかけたことがあった。けれどあいつには全く記憶のある素振りがなかった。それどころか、俺に疲れているのかと心配する始末。結局俺の中であいつは何も覚えてないという結論が出された。


 「寂しいと思わないでもないが、それども困ることは何もない。あいつは今もあちらでも変わらず山岡鉄司だからな」
 「相変わらず、仲良しですね」


 仲良し、確かにあちらと比べれば大分健全ではある。あの時は浮きまくっていた傲岸不遜な”俺”に宛がわれた哀れな生贄だったが、今の俺はそんな”俺”を反面教師にしてきたのだ。ブレーキ役も他者とのつなぎ役も必要ない。鉄司は気が付いたらなんの違和感もなく俺の傍にいた。


 「それで、アー、俺にも聞きたいことがある」
 「なんです?」


 言葉を選びながら口の中で質問を転がす。彼女は何も言わず俺の言葉を待っていた。いや、自分から話してくれればそれに越したことはない。だがそれでも、あの時の再現のように、やり直しのように、俺は彼女に聞きたいことがあった。


 「……今のお前は、なんていうんだ。俺は君のことをなんと呼べばいい」


 結局うまい言葉もスマートな物言いもできず、ただ聞くことしかできなかった。
 彼女の赤い目が丸くなる。


 『敬意を持ったうえで聞く。苗字だけでいい、教えてくれ』


 きっと彼女も思い出しているだろう。さんざん無礼な振る舞いをした末、俺は彼女の名前を聞きたかった。けれど結局それに答えたのは白樺蓮だった。そのうえ彼女のことを自分の妹といい、苗字すらあの時は知ることができなかった。
 あの日の挽回がしたかったが、中学時代の”俺”とさして変わらない。まともに顔が見られず、つい目を逸らしてしまった。


 「……今の私は、白鷺涼といいます。わかるとは思いますが、私と翡翠はあの時の蓮さんと丸々カラーリングが逆になっています。私のことは涼と呼んでください」


 白鷺涼。
 聞いた名前を飲み込むように、口の中で反すうした。今の彼女にはとても似合う名前だった。


 「涼」
 「なんです?」


 初めて口にした名前は、柔らかく引っかかりのない音だった。なんてことなく素直に返事をする彼女はとてつもなく新鮮だ。嫌味もなければ小馬鹿にしたような賢しさもない。

 そして彼女の顔を見て、あの頃の彼女との違いにふと気づいた。


 「……今の君は、随分と控えめだな。自信がないのか?」


 いつだって背筋を伸ばして、胸を張って、肩で風をきって歩いていた。誰の言葉も跳ねのけ、自分の信じるものだけを信じて、自分の大切なものを守っていた。
 明確に、彼女は動揺した。小さく息を飲み、肩をかすかにふるわせる。早く返事をしなくては焦るように視線が動き、唇を言葉を探して戦慄く。

 以前の赤霧涼は、こんな顔をしなかった。


 「すまない、話したくないなら話さなくていい。ただ意外に思っただけで、深い意味はない。気分を害したなら謝ろう」
 「あ、謝る必要なんてありません! その、事実ですから……」


 誤魔化しでも社交辞令でもない。かつての彼女よりずっと不器用な白鷺涼は一片も飾っていなければ、自信と信念で武装してもいなかった。
 戸惑うように、彼女は視線を泳がせた。

 もう俺はこれ以上聞くつもりはなかったし、余計な詮索をするつもりはなかった。それは何か重要なものではなかったし、他人を不愉快にさせてまで聞くことではなかった。

 けれど彼女は、何か言いたげに唇を震わせていた。この顔は話してしまいたいと思っている顔だ。


 「……君も意外に思ったんじゃないか? あの傲岸不遜で唯我独尊な黄師原煌太郎が意地を張ってなくておとなしくて、そのうえ自分からストレートに謝ろうとするなんて。別人だとでも思っただろう」
 「自分でそこまで言いますか……。いえ、まあ確かに思いました。私の中のあなたは、もっとこう、良くも悪くも頭が固いというか、とても真面目な人なので。『俺は悪くない』と自信満々に言い出しそうな」
 「まったく間違ってないな。黄師原煌太郎なら間違いなくそう言っただろうさ。少なくとも俺は悪くない、って。そう言いながら本当に自分が悪くなかったか、だなんて反芻するんだ」

 改めて他人の口から”俺”の評価を聞くと思わず苦笑いするしかない。

 幼いころの俺は傲岸不遜な勘違いばかりの糞餓鬼だった。
 そして白樺蓮と会ったあとの”俺”は少しだけ正義感や正しさについて考えるようになった糞餓鬼だった。
 高校生になってからの”俺”は自分の正義を手に余らせながらなんとか抱えていた、くそ真面目だった。
 間違ってはいないが、決して万人から見た正しさではない。そんな不器用な奴だった。


 「あちらの”俺”は俺にとっての反面教師だった。なんて馬鹿な奴なんだ、なんて痛々しい奴なんだって、俯瞰しながら見ていたよ。だから俺はあの”俺”とはほとんど別人だ。見た目はまったくそのままに育ったがな」
 「あの”黄師原会長”が反面教師……」


 そんなことがあるのか、と言わんばかりの表情に口元が緩む。


 「そうだ。あれは決して俺の理想ではなかった。けれどあれはもしかしたらなるかもしれなかった俺の姿だ。もし子供頃からあの”俺”を見ていなかったら、口ばかりで実力の伴わないろくでなしになっていたかもしれない」


 どれもこれも、所詮は想像に過ぎない。けれどあれは間違いなくあったかもしれない俺の姿だ。あの”俺”と今の俺のスペックや環境はほぼ同じ。違うところといえば、”俺”の姿を客観的に見ていたことくらい。そしてそれは俺にとってとても大きなことだった。


 「君からしたら今の俺は”黄師原”とは別人かもしれない。でもあれは俺の一側面なんだろう。不都合の多い側面だからこそ、それを意識的に直して生きてきた。だが切り捨てたわけではない」


 ”黄師原煌太郎”は全く持って不合理な奴だった。
 考えが浅く、物事の本質を理解せず、表面上のことにしか目がいかない。融通が利かず、理解を深く自分の中に落とし込むことができない。画一的であることが最上であり、唯一の正義だと思っていた。そしてそれを振りかざす。そのうえそれが正しくないかもしれないという疑いを持ちながらも、振りかざすのをやめて省みるだけの勇気もなかった。
 馬鹿な奴だった。
 だが愛すべき馬鹿だった。


 「すべてが悪いわけじゃなかった。実直すぎて不器用な奴だったんだ。だから俺は”黄師原煌太郎”のことを全否定したりしない。黄ノ崎煌太郎も”黄師原煌太郎”も、どちらも俺だ。どちらかになる必要も、どちらかを否定する必要もない」


 そこまで話して、自分語りが過ぎたかと思い皿の上のサンドイッチに齧り付いた。ちらりと涼の方を見ると彼女は俺の方をじっと見ていた。急になんとも居心地が悪くなる。


 「……煌太郎さんは、」
 「うん?」
 「今の私を見て、白鷺涼を見てがっかりしませんでしたか?」


 ヘラり、と彼女を笑った。
 その顔にはありありと”卑屈”さがにじみ出ていた。
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