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高等部編
照魔境の問い
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きんと凍るような寒さに手をこすり合わせた。口からは絶えず白い息が零れ落ち、隣を歩く蓮様を見れば息を吐き続けて口から白い塊を立ち上らせていた。
「ふふ、楽しいですか、それ。」
「それなりにはな。白い火炎放射、みたいな。」
火なんてとても出ねぇけど、彼がふう、と一際大きく息を吐けばぶわりと白が吹き出し、そして冷たい空気にかき消えた。例のごとく藤本教諭に捕まり雑用を頼まれ、蓮様と二人で授業に必要な資料を腕に抱えて教室に向かう。教室入ってしまえば暖房が入っていて温かいのだが廊下はそうもいかない。わずかに空いた扉の隙間から暖かい空気が流れ出て頬を撫でた。
短い正月休みが終わり、学校での日常が戻ってきた。相も変わらず笑顔を振りまき、ほどほどに勉強する。唯一変わったことと言えば、今まで内心目の敵にしていた桃宮への視線くらいだろうか。まれに見かける翡翠との姿も今ではどこか微笑ましい。10年以上もの間胸に止まり続けていた悩みがごっそりと去っていったのだ、言葉には表しがたい感傷に襲われる。
「そういえばよ。最近青柳とか黄師原とかあんまり見ねぇよな。」
「会長はまあ学年も違いますし、合わなくてもおかしくないと思いますが、青柳はクラスも近いのに、おかしいですね。」
先輩で教室のある階も違う黄師原と合わないのはさしておかしくはない。しかし僕らはD組、青柳はB組で教室は同じ階にあるため廊下で会うことは少なくない。なにより見かければすぐに青柳は絡みに来るのだ。にもかかわらず、最近話すどころか姿さえも見かけていない。あれだけ毛嫌いしている蓮様が気に掛けるほどなのだから、よほどだ。
「あれ……?」
ふと思う。そういえば最後に緑橋に会ったのは果たしていつだっただろうか。黄師原、青柳、緑橋、この三人はやたらと遭遇しており、避けて通るくらいであったのにここのところ一切顔を合わせていない。それどころか最後に会ったのがいつなのかすら危うい。もちろん、用があるわけではない。しかしどこか不自然ではないだろうか。今までは桃宮とのかかわりを一切断ち切るためにゲームに関連するキャラクターである彼らを避けていた。だが桃宮が対象を翡翠に絞っているような今、わざわざ彼らを避ける理由はない。
「まああいつらがいないのは清々するがな。いちいち絡んできて面倒だ。」
「蓮様から見ればそうでしょうが……。まあ青柳についてはたぶん日和に聞けばわかりそうですね。」
「あいつらなんか仲良いもんなー。」
少しだけ唇を尖らせるのは馬の合わない青柳と日和がつるんでいるのが気に食わないのだろう。もっともそれを口に出すことはない。友人であろうと交友関係にいちいち口を挟むほど野暮ではないのだろう。
日和の交友範囲は広い。それは馬の合わない青柳であったり、教員である紫崎であったり、今まで僕らが忌避してきた桃宮であったり。持ち前の明るさとコミュニケーション能力の高さで誰にでも馴染んでみせる。そしてそれはきっと僕たちも同じだ。僕に至っては、最初疑心暗鬼になり日和を脅すようなことさえしていたがあっさりとそれは水に流され、今や数少ない気の置けない間柄である人の一人である。彼女には人をたらしこむ才能のようなものがあるのだろう。
「涼、眠いのか?」
「え、いえ別に……。眠そうに見えました?」
「いや……何というか足元おぼつかないし、あと目ぇ閉じかけてたぞ。」
ぺたぺたと顔を触るがよくわからない。ただ温かいはずの顔まで風にあたり冷えていていたずらに擦る。
「眠いわけじゃないんですけど……。」
「冬眠か?」
「冬眠にしては少し遅いですよ。」
年末ごろから身体がおかしい。その認識はあった。ただ心当たりがない。症状もめまい程度で他に問題はない。大事をとって病院にも行ってみたがどこも問題はなかった。よく食べよく動きよく寝る、この上なく健康的な生活を送っているし、怪我も病気もしていない。
だが年を越してもめまいは治らなかった。今蓮様の言った眠そう、というのはめまいの兆しなのかもしれない。もしかしたら寒いからかもしれないと気休めに言い聞かせるが、ただこれ以上何か症状がでないことを祈ることしかできない。
「そうだな。冬眠なら冬の初めに寝て、春になったら起きるもんな。」
「ええ。暖かくなってから起きてくるのでしょう。周りに食べ物の木の実などができてから。熊も栗鼠も、蛙も。」
「ああ、特に今年は暖冬だからな、」
朗らかに笑う彼の顔が、大きくぶれた。
「起きるのは、ちょうど今頃だろ?」
足元が崩れるような感覚と共に、景色が暗転した。
******
「うっ……、」
すう、と水面から顔を出すように意識が浮上する。鼻につく消毒液の匂いに身体を起こせば、何度か世話になった保健室であることに気が付いた。重い布団を退け、床に揃えておいてあるスリッパに足を差し入れた。
「なんで、ここに……?」
うまく働かない頭で直前にあったことを思い出す。教諭に頼まれて、資料を運んでいた。廊下を蓮様と二人で歩いていた。いつものようにのんびりと話していた。そして何の前触れもなく、視界が暗転した。
そこでやっと状況を把握した。なぜ意識を失ったのかは分からないが、その予兆がない様子は普段のめまいにもよく似ている。今までは意識を失うことはなく、暗転した後も意識を持ったままで数秒もすれば視界が戻っていた。いい加減、これではまずい。めまいだけと甘く見ていたが、こうして保健室に運ばれるような事態があるなど、とても放ってはおけない。もっと詳しく検査をしてもらった方が良いかもしれない。自分の身すらまともに保てないのに、御側付など勤まらないだろう。不甲斐なさにぐっと、歯をかみしめた。
「まったく、情けない……。」
「何が?」
唐突に掛けられた言葉にバッと振り向き一歩距離を取った。突然立ち上がったため頭がグラグラと揺れ、足が少しもつれた。それを目の前の桃宮天音は、気遣わし気に見ていた。すぐそばに人がいることにすら、声をかけるまで察知できないなど、本当に僕は参っているらしい。午後の柔らかな日差しが、桃宮の背にする窓から差し込む。麗らかな風景のはずなのに、僕の内側はひどく荒れていた。バクバクと心臓が大きな音を立てて脈打つ。
「ごめんね。おどろせちゃって……。」
「……いえ、僕が勝手に驚いただけですから。ところで、桃宮さんはなぜここに?」
異様なほどに静かな部屋の中彼女は微笑んだ。
「涼くんに教えなきゃいけないことがあったから、貴方が起きるのをここで待ってたの。」
「教えること……なんですか?」
暑くはないのに、ジワリと汗がにじむ。きっと僕は本当にひどい顔をしているだろう。しかし目の前の彼女は涼しい顔でまるで気にした風もない。今、僕は彼女に対して嫌悪感を抱いてはいない。以前のように、蓮様が無意味に巻き込まれるような可能性は限りなく0に近く、むしろなんだかんだ兄である翡翠とうまくやっているようにも見えるため好意的と言っても過言ではない。それにも関わらず、僕の脚は勝手に後ずさろうとしていた。顔を背けようとしていた。嫌悪感でも、忌避感でもなく、僕の本能が、彼女から逃げようとしていた。上がる息に激しく打たれる脈拍、口が乾き胸が詰まる。これは紛れもない”危機感”だった。
なぜ僕は今、なんてことのない一人の少女に、危機感を覚えているのだろうか。
「前からずっと思ってたの。いつかは涼くんに言おうと思ってた。でもね、翡翠くんといるようになって、それは私が言うべきことじゃないなって思ったの。」
「…………?」
何が言いたいのか、指示語が多すぎてわからない。要領を得ないのは彼女の癖か、わざとか。
「それでもね、私はやっぱり言わなきゃならないの。」
涼し気、というよりも静かに、穏やかに、この世界のヒロインは笑って見せた。それは思わず僕さえも見とれてしまうほどで、なるほどこれが一般生徒が色眼鏡なしに見ている彼女なのか、と場違いにもそう思わずにはいられなかった。
「涼くんは、白樺くんが大切?」
「大切、です。彼は僕にとって、かけがえのない存在です。」
「どうして?」
「え、」
「どうして、大切なの?」
その質問は、幾度となく問いかけられたものとよく似ていた。
『でもさ、お嬢ちゃんは何でお側付になりたいと思ったの?』
『……どうして。涼ちゃんは、お側付になりたいと思ったの?』
『たった一度会っただけの人間の為にそこまでしたいと思う?』
なぜ僕は、彼のことを守りたいと、大切だと思ったのか。
いつから僕は、彼のことを大切だと思っていたのか。
「大切な、主人だからです。」
絞り出したそれが、答えになっていないことは重々承知だった。しかし、彼女はそれを咎めるでもなく、ただ微笑んだ。
「それは本当?」
「……ええ、事実です。」
「……じゃあ私は、一つだけ答えを教えてあげなくちゃ。」
自然と下がっていた視線が彼女の顔まで上がる。なんでもないように柔らかい笑みを浮かべる彼女は誰がどう見ても美しかった。しかし思わずにはいられなかった。
「……あなたは、誰ですか……?」
「それは私が涼くんに教えることじゃないの。」
考える間もなく口から零れ落ちた疑問を彼女はあっさりと叩き落とす。
グラグラと揺れる頭は煮立っていた。しかし同時に微かに冷静な部分も存在していた。その冷静な部分が、確かな危機感を持っていた。
「私が教えるのは一つだけ。それからヒントを少しあげる。」
「……すいません、もう出て行ってください。起きたばかりで、少し混乱してるんです。桃宮さんのお話を聞く、余裕が今の僕にはありません。」
「涼くんはもう答えを知ってるわ。」
美しい笑顔を浮かべたまま、光を背負った少女はまるでなにも聞こえなかったように言葉を紡ぎだす。
「貴方と私は似ているの。」
スラリとした白魚のような、理想的な指折り数える。
「きれいな笑顔、優し気な物腰、人から褒められるような態度、他の人の憧れを背負う、整った顔、珍しい髪色、それから、」
桃色の双眸がスッとこちらを射すくめる。
「人に対する依存や執着。」
ひゅっ、と喉がか細い音を鳴らした。汗がつうと流れ、一刻も早くここから出ていきたくなる。そんな僕を見ていてか否か、彼女はころころとまた、鈴の音を鳴らすような声で笑った。
「必死なの。貴方も私も生きるのに。」
「何をっ……、」
「必死でしょう?私も貴方も。」
耳を塞いでしまいたいのに、塞げない。踵を返したいのに、足が動かない。
乾いた口は、否定の言葉さえ紡げない。
「他人はね、自分自身を映す鏡なの。他人がいて初めて、私は私になれる。貴方は貴方になれる。」
ほのかな色に彩られた唇が愛らしく弧を描く。
「みんな・・・がいて初めて、私は『桃宮天音』になれる。」
言われずともわかった。彼女の言う『みんな』は、攻略キャラクターの面々のことだ。
「それから涼くん。白樺蓮がいて初めて、貴女は『赤霧涼』になれる。」
ほら、同じでしょう?そういって控えめに笑い声をあげる彼女に、息がうまくできなくなる。
「これが私が涼くんに教えなくちゃいけなかったこと。答えの一つで、貴女へのヒント。」
「ヒン、ト……、」
「それじゃあもう一回聞くね。」
桃宮天音は、誰よりもヒロインに相応しい顔で笑った。
「どうして涼くんは、白樺くんが大切なの?」
まるで魔法が解けるように軽くなった身体を半ば反射のように動かし、彼女の問いに答えることなく保健室から飛び出した。
胸の底に沈めていた思いたちがガタガタと音をたて始めた。
ここしばらく聞いてなかったはずの声が、身体の奥から聞こえてきた。
「本当は気づいてるんだろう?」
「ふふ、楽しいですか、それ。」
「それなりにはな。白い火炎放射、みたいな。」
火なんてとても出ねぇけど、彼がふう、と一際大きく息を吐けばぶわりと白が吹き出し、そして冷たい空気にかき消えた。例のごとく藤本教諭に捕まり雑用を頼まれ、蓮様と二人で授業に必要な資料を腕に抱えて教室に向かう。教室入ってしまえば暖房が入っていて温かいのだが廊下はそうもいかない。わずかに空いた扉の隙間から暖かい空気が流れ出て頬を撫でた。
短い正月休みが終わり、学校での日常が戻ってきた。相も変わらず笑顔を振りまき、ほどほどに勉強する。唯一変わったことと言えば、今まで内心目の敵にしていた桃宮への視線くらいだろうか。まれに見かける翡翠との姿も今ではどこか微笑ましい。10年以上もの間胸に止まり続けていた悩みがごっそりと去っていったのだ、言葉には表しがたい感傷に襲われる。
「そういえばよ。最近青柳とか黄師原とかあんまり見ねぇよな。」
「会長はまあ学年も違いますし、合わなくてもおかしくないと思いますが、青柳はクラスも近いのに、おかしいですね。」
先輩で教室のある階も違う黄師原と合わないのはさしておかしくはない。しかし僕らはD組、青柳はB組で教室は同じ階にあるため廊下で会うことは少なくない。なにより見かければすぐに青柳は絡みに来るのだ。にもかかわらず、最近話すどころか姿さえも見かけていない。あれだけ毛嫌いしている蓮様が気に掛けるほどなのだから、よほどだ。
「あれ……?」
ふと思う。そういえば最後に緑橋に会ったのは果たしていつだっただろうか。黄師原、青柳、緑橋、この三人はやたらと遭遇しており、避けて通るくらいであったのにここのところ一切顔を合わせていない。それどころか最後に会ったのがいつなのかすら危うい。もちろん、用があるわけではない。しかしどこか不自然ではないだろうか。今までは桃宮とのかかわりを一切断ち切るためにゲームに関連するキャラクターである彼らを避けていた。だが桃宮が対象を翡翠に絞っているような今、わざわざ彼らを避ける理由はない。
「まああいつらがいないのは清々するがな。いちいち絡んできて面倒だ。」
「蓮様から見ればそうでしょうが……。まあ青柳についてはたぶん日和に聞けばわかりそうですね。」
「あいつらなんか仲良いもんなー。」
少しだけ唇を尖らせるのは馬の合わない青柳と日和がつるんでいるのが気に食わないのだろう。もっともそれを口に出すことはない。友人であろうと交友関係にいちいち口を挟むほど野暮ではないのだろう。
日和の交友範囲は広い。それは馬の合わない青柳であったり、教員である紫崎であったり、今まで僕らが忌避してきた桃宮であったり。持ち前の明るさとコミュニケーション能力の高さで誰にでも馴染んでみせる。そしてそれはきっと僕たちも同じだ。僕に至っては、最初疑心暗鬼になり日和を脅すようなことさえしていたがあっさりとそれは水に流され、今や数少ない気の置けない間柄である人の一人である。彼女には人をたらしこむ才能のようなものがあるのだろう。
「涼、眠いのか?」
「え、いえ別に……。眠そうに見えました?」
「いや……何というか足元おぼつかないし、あと目ぇ閉じかけてたぞ。」
ぺたぺたと顔を触るがよくわからない。ただ温かいはずの顔まで風にあたり冷えていていたずらに擦る。
「眠いわけじゃないんですけど……。」
「冬眠か?」
「冬眠にしては少し遅いですよ。」
年末ごろから身体がおかしい。その認識はあった。ただ心当たりがない。症状もめまい程度で他に問題はない。大事をとって病院にも行ってみたがどこも問題はなかった。よく食べよく動きよく寝る、この上なく健康的な生活を送っているし、怪我も病気もしていない。
だが年を越してもめまいは治らなかった。今蓮様の言った眠そう、というのはめまいの兆しなのかもしれない。もしかしたら寒いからかもしれないと気休めに言い聞かせるが、ただこれ以上何か症状がでないことを祈ることしかできない。
「そうだな。冬眠なら冬の初めに寝て、春になったら起きるもんな。」
「ええ。暖かくなってから起きてくるのでしょう。周りに食べ物の木の実などができてから。熊も栗鼠も、蛙も。」
「ああ、特に今年は暖冬だからな、」
朗らかに笑う彼の顔が、大きくぶれた。
「起きるのは、ちょうど今頃だろ?」
足元が崩れるような感覚と共に、景色が暗転した。
******
「うっ……、」
すう、と水面から顔を出すように意識が浮上する。鼻につく消毒液の匂いに身体を起こせば、何度か世話になった保健室であることに気が付いた。重い布団を退け、床に揃えておいてあるスリッパに足を差し入れた。
「なんで、ここに……?」
うまく働かない頭で直前にあったことを思い出す。教諭に頼まれて、資料を運んでいた。廊下を蓮様と二人で歩いていた。いつものようにのんびりと話していた。そして何の前触れもなく、視界が暗転した。
そこでやっと状況を把握した。なぜ意識を失ったのかは分からないが、その予兆がない様子は普段のめまいにもよく似ている。今までは意識を失うことはなく、暗転した後も意識を持ったままで数秒もすれば視界が戻っていた。いい加減、これではまずい。めまいだけと甘く見ていたが、こうして保健室に運ばれるような事態があるなど、とても放ってはおけない。もっと詳しく検査をしてもらった方が良いかもしれない。自分の身すらまともに保てないのに、御側付など勤まらないだろう。不甲斐なさにぐっと、歯をかみしめた。
「まったく、情けない……。」
「何が?」
唐突に掛けられた言葉にバッと振り向き一歩距離を取った。突然立ち上がったため頭がグラグラと揺れ、足が少しもつれた。それを目の前の桃宮天音は、気遣わし気に見ていた。すぐそばに人がいることにすら、声をかけるまで察知できないなど、本当に僕は参っているらしい。午後の柔らかな日差しが、桃宮の背にする窓から差し込む。麗らかな風景のはずなのに、僕の内側はひどく荒れていた。バクバクと心臓が大きな音を立てて脈打つ。
「ごめんね。おどろせちゃって……。」
「……いえ、僕が勝手に驚いただけですから。ところで、桃宮さんはなぜここに?」
異様なほどに静かな部屋の中彼女は微笑んだ。
「涼くんに教えなきゃいけないことがあったから、貴方が起きるのをここで待ってたの。」
「教えること……なんですか?」
暑くはないのに、ジワリと汗がにじむ。きっと僕は本当にひどい顔をしているだろう。しかし目の前の彼女は涼しい顔でまるで気にした風もない。今、僕は彼女に対して嫌悪感を抱いてはいない。以前のように、蓮様が無意味に巻き込まれるような可能性は限りなく0に近く、むしろなんだかんだ兄である翡翠とうまくやっているようにも見えるため好意的と言っても過言ではない。それにも関わらず、僕の脚は勝手に後ずさろうとしていた。顔を背けようとしていた。嫌悪感でも、忌避感でもなく、僕の本能が、彼女から逃げようとしていた。上がる息に激しく打たれる脈拍、口が乾き胸が詰まる。これは紛れもない”危機感”だった。
なぜ僕は今、なんてことのない一人の少女に、危機感を覚えているのだろうか。
「前からずっと思ってたの。いつかは涼くんに言おうと思ってた。でもね、翡翠くんといるようになって、それは私が言うべきことじゃないなって思ったの。」
「…………?」
何が言いたいのか、指示語が多すぎてわからない。要領を得ないのは彼女の癖か、わざとか。
「それでもね、私はやっぱり言わなきゃならないの。」
涼し気、というよりも静かに、穏やかに、この世界のヒロインは笑って見せた。それは思わず僕さえも見とれてしまうほどで、なるほどこれが一般生徒が色眼鏡なしに見ている彼女なのか、と場違いにもそう思わずにはいられなかった。
「涼くんは、白樺くんが大切?」
「大切、です。彼は僕にとって、かけがえのない存在です。」
「どうして?」
「え、」
「どうして、大切なの?」
その質問は、幾度となく問いかけられたものとよく似ていた。
『でもさ、お嬢ちゃんは何でお側付になりたいと思ったの?』
『……どうして。涼ちゃんは、お側付になりたいと思ったの?』
『たった一度会っただけの人間の為にそこまでしたいと思う?』
なぜ僕は、彼のことを守りたいと、大切だと思ったのか。
いつから僕は、彼のことを大切だと思っていたのか。
「大切な、主人だからです。」
絞り出したそれが、答えになっていないことは重々承知だった。しかし、彼女はそれを咎めるでもなく、ただ微笑んだ。
「それは本当?」
「……ええ、事実です。」
「……じゃあ私は、一つだけ答えを教えてあげなくちゃ。」
自然と下がっていた視線が彼女の顔まで上がる。なんでもないように柔らかい笑みを浮かべる彼女は誰がどう見ても美しかった。しかし思わずにはいられなかった。
「……あなたは、誰ですか……?」
「それは私が涼くんに教えることじゃないの。」
考える間もなく口から零れ落ちた疑問を彼女はあっさりと叩き落とす。
グラグラと揺れる頭は煮立っていた。しかし同時に微かに冷静な部分も存在していた。その冷静な部分が、確かな危機感を持っていた。
「私が教えるのは一つだけ。それからヒントを少しあげる。」
「……すいません、もう出て行ってください。起きたばかりで、少し混乱してるんです。桃宮さんのお話を聞く、余裕が今の僕にはありません。」
「涼くんはもう答えを知ってるわ。」
美しい笑顔を浮かべたまま、光を背負った少女はまるでなにも聞こえなかったように言葉を紡ぎだす。
「貴方と私は似ているの。」
スラリとした白魚のような、理想的な指折り数える。
「きれいな笑顔、優し気な物腰、人から褒められるような態度、他の人の憧れを背負う、整った顔、珍しい髪色、それから、」
桃色の双眸がスッとこちらを射すくめる。
「人に対する依存や執着。」
ひゅっ、と喉がか細い音を鳴らした。汗がつうと流れ、一刻も早くここから出ていきたくなる。そんな僕を見ていてか否か、彼女はころころとまた、鈴の音を鳴らすような声で笑った。
「必死なの。貴方も私も生きるのに。」
「何をっ……、」
「必死でしょう?私も貴方も。」
耳を塞いでしまいたいのに、塞げない。踵を返したいのに、足が動かない。
乾いた口は、否定の言葉さえ紡げない。
「他人はね、自分自身を映す鏡なの。他人がいて初めて、私は私になれる。貴方は貴方になれる。」
ほのかな色に彩られた唇が愛らしく弧を描く。
「みんな・・・がいて初めて、私は『桃宮天音』になれる。」
言われずともわかった。彼女の言う『みんな』は、攻略キャラクターの面々のことだ。
「それから涼くん。白樺蓮がいて初めて、貴女は『赤霧涼』になれる。」
ほら、同じでしょう?そういって控えめに笑い声をあげる彼女に、息がうまくできなくなる。
「これが私が涼くんに教えなくちゃいけなかったこと。答えの一つで、貴女へのヒント。」
「ヒン、ト……、」
「それじゃあもう一回聞くね。」
桃宮天音は、誰よりもヒロインに相応しい顔で笑った。
「どうして涼くんは、白樺くんが大切なの?」
まるで魔法が解けるように軽くなった身体を半ば反射のように動かし、彼女の問いに答えることなく保健室から飛び出した。
胸の底に沈めていた思いたちがガタガタと音をたて始めた。
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