胡蝶の夢

秋澤えで

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高等部編

果たされた約束 2

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「涼、足痛くないか?」
「え?大丈夫ですよ。少し疲れやすいですけど。」


しばらくビルの中の店を見た後外へ出てぶらついていると唐突に問われた。どうやらヒールの高い靴を履いているためらしい。バランスがとりにくい上に、長いこと履いていたらきっと爪先も痛くなるだろう。世の女性方は大変だ、と全くの他人事だ。こうして半ば無理矢理にでも連れ出されない限り、こうも踵の高い靴を履くことはまずないだろう。


「……もしかして、今の日和からの受け売りですか?」
「うっ……なんでわかったんだ。」
「ヒールなんて履いたことだろう貴方が足のことをスマートに気遣えるとは思えません。」
「おう。前に日和と街まで出てきたときに、それなりに歩いたら涼の足のことも考えろって言われて……。」


想像通りの答えに呆れにも似た笑いが零れる。どこまでも日和頼みらしくおんぶにだっこだ。あの子もよく付き合うものだ、と思うがどうせ彼女もまた面白半分なのだろう。もっとも気遣われるほどやわな身体はしていないが、それも悪いものではない。踵がコンクリートを叩く音は高く響く。

歩き続けていると、どうやら街の中心に出たらしく視界が開け大きな広場に足を踏み入れた。たくさんの花壇やベンチ、丸い広場に沿うように移動販売のお店も点々と並んでいた。休みの日ということもあり広場内は多くの人が行き交い、先ほどの道よりもずっと混んでいた。


「街の中心部にこんな大きな広場があるんですね……。」
「な。とりあえず適当にベンチ座るか。」


自然に僕の手を引き広場の中へと入っていく。言葉の通りにたまたま開いていた木製のベンチにひょいと座らせられた。中央にある木に近づいたせいか金木犀の甘い香りが強く香る。毎年金木犀の香りが鼻を掠めると冬を実感する。


「蓮様は座らないんですか?」
「んー。なんか適当に買ってくるからここで待っててくれないか?たぶん二人でベンチから離れるともう座れないだろうから。」


なんか希望はあるか?と聞かれそれじゃあ甘いものを、と言うとまたか、と笑われる。だがきっと僕が何も言わなくても甘いものを買ってきただろう。もちろん、僕のものと自身のもの、両方に。足取り軽く店に向かう蓮様の背を見送り、場所取りに専念することにした。彼の言う通り、周りのベンチは全て埋まっており、たまたま座れたからよかったものの、いったん離れたらおそらくすぐにこの場所は座られてしまうだろう。一人で行かせるのは正直心配だったが、広場で人が多いとはいえここのベンチに座っていても僕からは彼の姿が見えるためにひとまず安堵した。満嘉一のことがあればすぐに駆けつけられる。幸いここは車両の進入が規制されているため不審者に撒かれるということはない。遠目に並ぶ店を眺めながら二人掛けのベンチのもう片側を死守していた。


「ねえ、おねえちゃん一人?」
「なあ聞いてる?君だよ君。」
「…………は、」


どこかではた迷惑なナンパをしている連中がいるな、と聞き流していると、唐突に片手を掴まれ目を丸くした。しかしそれは彼らにとって唐突ではなかったらしい。どうやら頭の弱そうなナンパをしていたやつらは僕に話しかけていたらしい。一瞬こいつら何考えてんだ、と思ったがよくよく考えれば今の僕は女の子の格好をしていたのだ。状況としては何らおかしくない。しかしおねえちゃん、と声を掛けられてこの僕がよもや振り向けるはずがない。ただ傍から見て女装男子に見えていないことはよくわかった。


「はって驚いた顔も可愛いねー。暇してるなら俺らと遊ばない?」
「可愛くありません。暇してません。あなた方とは遊びません。」


頭の弱そうなナンパをしていたやつらに目を向ければそのセリフに相応しい頭の弱そうな格好をしていた。二人してへらへらと軽薄な笑みを浮かべ耳にはいくつものピアスが付いており、いかにもと言ったところだろう。普通の女の子であれば委縮の一つでもするなり怯えるなりするだろうが、あいにく僕は見た目だけ女の子と言うだけで中身は決して御淑やかとは言い難い性格だ。掴まれた腕をにべもなく振り払う。喧嘩をするのは面倒だが大人しくついていってやるメリットはない。早々にお引き取り願いたいのだ。


「冷たいなー。こんなところに一人じゃ寂しいデショ?」
「生憎、連れを待っていますので。」
「あ、友達?良かったらその子も一緒にどう?退屈させないよ?」
「結構です。」


全くなびく素振りなどしていないのにいつまでも絡んでくる二人組にいい加減辟易としてきた。もう少し人が少なければ適当な路地にでも引きずり込んで潰すのだがここは人目がありすぎる。ここは一刻も早く蓮様に帰ってきてほしい。連れが男だとわかれば諦めもつくだろう。


「俺らじゃ嫌?他にも仲間いるからさ、紹介してあげるってのはどう?」
「そうそう、面食いっていうなら仕方ないし、俺らの友達にイケメンいるからさ。」


うわっ、内心引く。暗に人数で押すことも可能だとほのめかすあたり質が悪い。こんなのなら文化祭の時に桃宮に絡んでいたやつら等可愛いものだろう。夏祭りの時の奴らとどっこいどっこいな気がする。再び腕を掴まれたところで、男たちの後ろに見慣れた彼がいることに気が付く。そしてそのまま片手に持っていた防熱カップの中身を彼らの頭の上に躊躇なくぶちまけた。


「あっちぃっなんだ!?」
「おいコラてめぇ何すんだっ!」
「お、お帰りなさい……。」


脱色された頭が茶色に染まる。匂いからしてどうやらアツアツのココアを頭から彼らに飲ませてやったらしい。久しぶりに見る無表情な蓮様に場違いな言葉をかけてしまった。そして穏便にことを済ませようと努力した数分を一瞬にして無に帰してくださった。思わずため息が出る。怒り心頭、と言った風な二人組はただで帰ってはくれないだろう。同時に内心怒髪天を突いているであろう蓮様もただで済ます気はきっとない。


「勝手に俺のに触るな。とっとと失せろ屑。」
「はあっ?嘗めたこと言ってんじゃねぇぞ!」
「蓮様っ、」


静かに怒る蓮様の挑発に間髪入れず乗った片方が考えなしに拳を振り上げる。反射で彼らの間に身体を滑り込ませようとしたのに、他でもない主人によってベンチに逆戻りさせられる。彼は僕の身体を押した反動でそのまま肉薄し拳を難なく避け無防備な蟀谷に掌底を叩きこんだ。しかし急所は外したらしく、倒れるものの気を失いはしなかったらしい。


「涼、行こう。」
「あ、はいっ!」


慌てて倒れこんだ仲間を支えようとする男に目をくれることなく、蓮様は無様にベンチに座っていた僕の手を取り広場の出入り口へと走り出す。今でこそ騒ぎになっていないが僕らの側にいたあたりから静かにざわめきが広がり始めた。いるのかいないのか定かではないが、彼らのお仲間に追われると間違いなく面倒なことになるだろう。走りにくい靴のままできるだけ早く足を動かした。行きと同じように僕の少し目を行く背中を追う。


「せっかく甘いもの買ったのに、無駄になったな。もったいない。」
「ですね。でも、もう少し穏便にできなかったんですか?」
「無理。それに涼はその格好じゃ立ち回りにくいだろ。俺が、何とかしないと。」


走りながら苦言を呈すると全く悪びれた風もなくへへっと小さな笑い声が返ってきた。

なんとなく、少しだけ走る速度を上げてみると彼の横顔が見えた。控えめに上がった口角は確かに喜びを表した、微かに紅潮した頬もまた、きっと走っているせいじゃない。

ここまできて笑みの意味が分かった。

彼はあの日をやり直しているんだ。

誘拐されそうになったあの日、身代わりになった僕を無謀にも取り返しに来た。それでも敵わず、彼は最後助けを呼ぶために車から離れた。それを彼はひどく後悔して、無力な自身に歯噛みした。


やり直しているからこそ、それこそまともに相手をすれば鍛えている蓮様にとって赤子の手を捻るように勝てる相手を手加減して打ち、逃げたのだ。あの日、下手に応戦して逃げる機会を自ら捨てた自身を瞼の裏に見て。


『もうお前に怪我させない。次なんてないようにする。今までお前に守られてた、でも今度は俺がお前を守れるくらい強くなる。絶対、強くなる……!』


あの日涙を流し結ばれた約束は、今この時をもって果たされたのだ。

大して走ったわけでもないのに、息が上がる。

彼の『縛り』が消えた今、僕はどうすればいいのだろうか。

あの日からずっとわかっていた。彼の主人は無自覚に私を絶望の淵へと追い詰める。


僕はもう何も、考えたくはなくてただ彼の少し後ろで、ただ足を動かすことに集中した。



優しい彼はその実、誰よりも僕に残酷なのだ。
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